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あこがれのベクトル

2017-12-16 100点満点の授業があるという幻想

100点満点の授業があるという幻想[校内研修・研究]


公開授業における検討会においては,色々と陥りがちな問題があります。

その中の一つが,「100点満点の授業があるという幻想」です。

授業というのは,複雑な事象であり,見る人によってそれぞれ解釈が違いますから,万人が納得する100点満点の授業なんてそもそも存在しないのです。

また,その授業の背景にはその学級を構成するメンバーがおり,その学級の学びの文脈があるわけです。それを,突然やってきて1時間だけしか観察しない人間にその背景も文脈も理解することはなかなかできないのです。

ところが,授業公開の検討会では,あたかも100点満点の授業が存在するかのように「この授業の課題」「この授業の改善点」が検討されます。それも,それが10月であっても,5月であってもです。

仮に100点満点の授業があったとしても(前段からありえないと主張していますが),5月にそれを求めるのはナンセンスです。なぜならば,その授業はその学級の学びの成長の1過程に過ぎないからです。その公開された授業は,学級の4月から3月にかけての成長物語における5月の章の一コマです。仮に3月の授業が100点であるとすると,5月は60点や70点でいいのではないでしょうか。授業はうまくいくこともあって,うまくいかないこともあっていいのです。もちろん,そのうまくいかないことは,その学級の5月の課題ですので,それを成長の糧としていけばいいのです。
ところが,その課題を,その学級の5月における課題として捉えて検討されている会というのは決して多くないように思われます。たとえその授業が5月に行われていても,10月に行われていても,3月に行われていても,「100点の授業」があることを前提として検討がされているのではないでしょうか。
「う〜む,100点じゃないような〜」,「ここが足りない」「ここが甘い」って。

なぜこうなるのでしょうか?
私は,授業者側にも問題があると思うのです。
授業者も「100点の授業」があるという幻想をもち,1発勝負でそれをしようとしてしまうからです。

でも,そうしちゃうんですよね。これは,卵が先か,鶏が先かの問題。

公開授業は,1発勝負ではありません。
1年間1000時間ある授業の中の1時間であり,日々の授業の中に埋め込まれた1時間です。1年間の成長ベクトルの1点でしかありません。
それにもかかわらず,私たち教師は,その公開授業を日常から取り出し特別なものに仕立ててしまいます。
だからこそ,100点満点の授業が存在すると幻想してしまうのです。

公開授業は,あくまで日常にあるものです。そして検討会は,その学級のその地点での,その学級の学びの様子について検討していくものなのです。

2017-11-04

3連休 2日目が終わりました

3連休2日目が終わりました。
1日目は,実家の母も誘い家族で魚沼まで石川雲蝶の仕事(作品と言っていいのかと思ったので,仕事と表現しました)を見に行きました。
前回見たのは何年前だったのか忘れましたが,2回目です。
前回のことを聞くと次男は覚えていたないので3年くらいは経っているのでしょうか。
ちなみに,長男は「忘れるわけないじゃん。あんなにすごいの」と言っていました。
我が家は石川雲蝶ファンなので,永林寺1時間,西福寺開山堂1時間半とたっぷり堪能してきました。
年少の3男もとても楽しそうに見ていました。



さて,2日目。
今日は引きこもり
洗濯機2回戦,家中にルンバをかけ,そしてそれ以外はPCの前に座っていると言う過ごし方でした。
息子たちと遊んであげたいけど,それができないもどかしさ。

休みの日は,すっきり休みたいです。
思いっきり,息子たちと遊んであげたいです。

なんで休みの日まで仕事をしてしまうのだろう・・・。情けない気持ちがいっぱいです。

2017-07-22 日本の「学校」という箱

日本の「学校」は文科省が提示するカリキュラムで進められています。
そのカリキュラムは柔軟性が保障されていますが,現場レベルで考えると,どの学校も同じような時間,学習内容,システムで運営されています。
その中でも私立は独自性を出しているとこはありますが,公立学校プラスαという感じ。
もちろん,全国をみればかなりの独自性を持って運営されているところはあります。
でも,各市町村レベルでというとそれはまれで,全国にある学校数の何百分の1という割合ではないでしょうか。

学校の運営を同じにすることで,国民に均一的に教育が施され,力量形成の場,階層転化の可能性が保障されてきました。また,国力という視点でもそれが強みとなってきました。
これは戦後の国民の生活,日本の国力を支えてきた要因の一つです。


しかし今,同じにすることの歪みが随分と生じてきているのではないでしょうか。
一人一人は違うという個性を大切にすると言いながら,
同じ時間,同じカリキュラムで学校生活は進められ,
本人の意思とは関係なく集められた数十名(もしくは数人)のメンバーと1〜2年間(もしくは9年間!),同じ教室で7〜8時間生活を共にし,そして同調・協働が求められる。


その場,そのメンバーがどうしても自分に合わないと感じれば,大人は自分のポジションを変えることができます。
職場を変えることができるし,付き合いを見直すことができるし,引っ越すことできます。
一方,子どもにはそれがなかなかできません。
学校を変えることなんてできないし,学校に行かないという選択肢はなかなか選べません(もちろん不登校の子たちもたくさんいて,不登校という選択は保障されていますが,学校に行くことが善とされているなかで苦しみながらの選択です)。学校を変えれば,メンバーは変わりますが,学校生活のペースはほぼ変わりありません。
子どもが学校に行くことに違和感をもち,不安をもち,辛さを感じたとしても,多くの大人は学校に行くことを進めます。学校は不登校の子がいた場合,「登校復帰」を最善とする方針を立てます。
もちろん,その子が安心感をもてるように学校・学級を変えるということは重要だし,それが教師の大切な仕事だと思います。しかし,どの子にも居心地が良い場というのは保障できるのでしょうか?
普通学校の時間,学習内容,大人数の中で過ごす・・・・
こういうシステム自体に辛さを感じる子たちは決して少なくないのではないでしょうか?
大人の姿をみれば,いかに多様な場が必要だということや,多様な場があることでそれぞれの能力を活かせるということがわかります。


「同じさ」で生活が進み,「同じさ」が求められる日本の学校。
この生活リズムに合わないという子にとって,なんて学校という「箱」は息苦しいのだろうか。


あの子,あの子・・・のことを思うとつくづく感じます。
そして,自分自身,学校に不適合を起こしているということを感じ,日々過ごしています。
子どもにも,自分の場を変える,選択するチャンスが保障される世の中にしたいなあとつくづく思います。
この学校という枠組みの中で「改善」していくことは重要だし,その効果は否定しません。
しかし,学校という「箱」という枠組み自体をどうして行くのかを考えることが学校で起きている課題の解決に近くのではないでしょうか。
色々な「箱」が用意され,その「箱」を選べるようになることを願います。

2017-01-28 多忙とエンドユーザー

学習発表会も終わり,職場では一つ重荷が解けた。
学習発表会では,総合的な学習の時間で行った米作りについて発表した。
前半は,1年間の米作りの説明,後半は米作りの群読である。
群読した詩は,子どもたちが作った。
この群読をするにあたり,12月にK先生をお招きしミニ校内研修会を開催した。
学年の先生だけでなく,他の学年の先生方にも参加を呼びかけ10名超で行うことができた。
参加者からの評判も良く,開催してよかったと思う。

次は6年生を送る会に向けての準備だ。それが終わると学年末事務がある。あっという間に年度が終了する。この慌ただしさの中で真っ当な教育活動を行うことができるのであろうか。
チーム学校,アクティブ・ラーニング英語学習,…日常の業務でもやっとこさの中,矢継ぎ早に要請される教育改革。
いじめの問題が注目されているが,目の回るような日常の中でじっくりと子どもたちと向き合うということが難しい。
結局は,多忙がこの問題の解決を難しくさせている。
しかし,行政は教員研修の強化で解決を図ろうとする。
まあ,このような対応の仕組みは今までもされてきたことで,行政もこうせざるを得ないということもあるんだろうけど。

この現場の忙しさは,本当にエンドユーザーである子どもたちに益を与えているであろうか。

2016-12-15

SII2016での発表が終わった.

発表内容は,edutabの低学年におけるユーザビリティ評価である.

データを取ったのは,2015年の夏.
スタートから考えれば1年半に及ぶ研究だ.
データを日本語の論文にした.
その後,日本語から英語に.これをしたのが夏.8月上旬に投稿.
査読結果が返ってきて,それを修正したのが,9月.
12月に入り,急いでスライド作成.
そして12月14日の発表.

これまでこの発表に向けて相当な労力を費やしたのだなあ.
発表では,自分の英語力のなさを痛感.
とても恥ずかしく,悔しい思いをした.

英語力をあげたいなあと思う.
この経験をモチベーションにしたい.

時間の使い方を考える必要がある.

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