本質がどうこう

なんかこう、存在とか自分ってもんには、本質的な説明がつくんじゃないかなぁとか考えたりするが、多分古人が考えてそうなんでパス。カントさんとか、どっかその辺の哲学書を夏休みに読もう(仕事が増える増えるw)

何をするにしても、だからどうなんだぃって答えを出したくなる癖がある。本質的には……みたいな。最近は「とりあえず行動する」ってことの薄っぺらな感覚にも慣れて、向かい合えるように、あまり逃げないようになったけど
こう、なんですかな。何が言いたいのか自分でも分からないけどさ。自分は宗教に縁遠い気がする。言葉にできない違和感の解決を神に丸投げするよりは、哲学書でも首っ引きでみて、それらしい言葉で丸めて固めて呑み込む方が向いてそうだ
ある意味、哲学者はクライマーみたいなもんなのかもしれん。孤独に概念という岩壁に、言葉というハーケンを打ち込んで、ザイルをかけて一歩一歩登る
虫もとばぬ白夜の壁、その上に下界で役立つものは多分なーんもない。周りの人間が訝しんだり、不毛を嘲笑っても、その岩壁が気になって気になって仕方がないのだろう。
摩天楼の最上階で10万円の本革椅子に座る人間は呆れるのかもしれん。そんな壁に登らなくたって、人生楽しいじゃないか?とか

哲学が社会に寄与しているのは間違いないから、不適当な喩えかな?まぁいいや。よくわからん
いつか何らかの答えを出さなくてはならない。自分なりに(結果的に誰かの受け売りになろうとも)不十分ながら言葉を操る才と、それへの熱がある以上、使わないのはもったいなかろう。持っている才を使わないのは罪だと、「白い巨塔」の財前教授が言っていた