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愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

2003-06-30 暑かった

朝日新聞「天声人語」の引用批判

毎度毎度のことながら。過去の「天声人語」に対する俺の意見は、以下のところなど。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030531#p1

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030409#p1

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030408#p1

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030329#p2(重要)

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030214#p3

で、朝日新聞朝刊・2003年6月30日より。

・「ここな溝(どぶ)板野郎の、だれ味噌野郎の、出し殻(がら)野郎の、蕎麦(そば)かす野郎め、引こみアがらねへか」。歌舞伎「助六(すけろく)由縁(ゆかりの)江戸桜(えどざくら)」に出てくる助六のせりふである。このおなじみの演目には多彩な悪態語が登場する。かつて日本語には実に豊富な悪態語があった。

・『かがやく日本語の悪態』(草思社)でこのせりふを引いた詩人の川崎洋さんは、こう考える。「差別語は人を殺傷する忌まわしい悪態語だ。しかし、ユーモアのセンスから生まれた言葉遊びの悪態は文化である」。

・このごろ悪態文化の衰微を感じる。互いに向き合って悪態をつきあう光景などめったにお目にかからない。せいぜい一言捨てぜりふを吐く程度で、後が続かないことが多い。言葉でけんかをする能力が衰えてきたのではないか。

・マナーの悪さを注意されて暴行に及ぶ。23歳の青年が死亡した東京・八王子の事件のような無残なことが起きるたびに思う。口で注意されたら、まず口でやり返さないのはなぜか。どうして問答無用の暴力に走ってしまうのか。いまの言葉でいえば、あまりにキレやすい。

・口げんかで事態が収まるとは限らない。しかし、悪態をつきあって気が済むこともあるだろう。たとえいまの日本語の悪態語が少々貧弱すぎるとしても。

・川崎さんが引用した茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」はこう始まる。「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな」。そして「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と締めくくる。ぱさぱさに乾いた世の中で、こころに響く「悪態」である。

まず、この「おなじみの演目」に関しての説明が必要かも知れないので、ちょっとやっておきます。なんで助六がそのような罵倒をしたのか、という理由とか。この天声人語では、『かがやく日本語の悪態』はなぜか草思社刊行になってますが、今年の6月に新潮文庫になってます。それの119ページより引用。

助六、実は曾我五郎という武士で、義父曾我祐信が紛失した宝刀、友切丸を探すため、夜ごと吉原に現れては喧嘩を吹きかけ、相手に刀を抜かせていたのでした。この筋書きに、白酒売りの姿をした助六の兄、十郎と、貧しい身なりにやつした母の満江が加わります。二人とも喧嘩に明け暮れる助六に意見をしにやってきたのですが、助六から真実を告げられます。この後意休(引用者注:悪役)に罵倒されますが助六が我慢していると、図に乗った意休が香炉台の足を曾我兄弟に見立てて切ります。このとき抜いた刀を友切丸と見届け、意休を討ち果たして刀を取り戻します。

曾我兄弟が吉原で敵を捜すという筋立てがそもそも馬鹿馬鹿しいんですが、それはまぁ歌舞伎だからしょうがない。しかし実は意休も助六も、「口で注意されたら、まず口でやり返さない」んですよね。お互い相手の罵倒を我慢してるの。それに対して天声人語書いてる人は「なぜか」とか思わないんでしょうか。それから、助六の罵倒は、実は忠・孝という目的が背後にあるわけで、単なる「罵倒としての罵倒」なわけではない。さらに、その罵倒に対して口でやり返されたら、相手の刀を確かめることができないので、挑発という目的が明白な罵倒なわけ。だから、理屈で言うと「マナーの悪さを注意」して「暴行に及」ばれた「23歳の青年」は、助六が望んでいた目的を果たしたわけです(その青年が助六と同じ目的を持っていたとはとても思えないし、相手より喧嘩が弱かったのも違ってますが)。要するに、例に挙げてある「事件」と、「言葉遊びの悪態」における助六の引用とをからめて何かを語るのは、もう何もかもがメチャクチャだ、ってことです。

『かがやく日本語の悪態』という本そのものは単純に、日本語の悪態表現の多様さを語っていて、楽しいうえ勉強になる本ではありますが、実際に起こった事件に対して「このごろ悪態文化の衰微を感じる」ということを語るなら、事件そのものも、引用されているテキストもあまり適切なものとは思えませんでした。

あともう一つ、非常に重要なことを。引用されている茨木のり子さんの詩なんですが、

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

の「ばかもの」ってのは、「読者に対する罵倒」ではなくて(天声人語だけ読むとそう見えてしまうんですが)、「感受性が鈍ってきた自分に対する罵倒」なんですね。川崎洋さんの本に掲載された元テキストを読んでびっくりしました。以下、まるまる詩を引用してみます。

自分の感受性くらい    茨木のり子


ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを

暮しのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

これ、「ぱさぱさに乾いた世の中で、こころに響く「悪態」」じゃないでしょ。「こころに響く「自虐」」ですか。少なくとも助六のように、他人に対する罵倒という意味を持った「悪態」ではありません。

ということで、今回も「新聞では「○○は××と言っている」と言っているが、それは本当なのか」というネタでした。もう、少しでも怪しいところがあって調べてみると、それがことごとく「本当はそうは言っていない」という事実に行き当たるというのは、驚きです。俺にネタを提供するために新聞記事というのは存在しているですか。

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