芥川龍之介「桃太郎」に関する話の続き

↓前のテキストは以下のところにあります
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030724#p2
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030730#p1
ということで、芥川龍之介の「桃太郎」の件で、中国の賢人(章炳麟氏)と芥川の対話の記憶に関する元テキストを読んでみる。いやぁ、しかしこれも当たってみるだけの価値があるテキストでした。
何がって、芥川龍之介がその人の言にびっくりした理由は「桃太郎にそういった見方(侵略者・桃太郎)があるのか! さすが革命家の考えることは違う!」みたいなプロレタリア根性とは少し違う、要するに『特派員・芥川龍之介』(副題・中国でなにを視たのか、関口安義著・毎日新聞社刊行)の著者の人や、天声人語の人の解釈は、明らかな誤読か、あるいは故意の誤誘導(読者に間違った印象を与える、というイメージ操作)だった、ということです。
まず、元テキストを前後も含めて多めに引用してみます。初出は「僻見」というタイトルで「女性改造」という雑誌に1929年(大正13年)3月号から9月号に掲載されたもののうち、「岩見重太郎」という章の中の一節です。以下引用(新かなに直しました)


 岩見重太郎の軽蔑できぬ所以はあらゆる架空の人物の軽蔑できぬ所以である。架空の人物という意味は伝説的人物を指すばかりではない。俗に芸術家と称えられる近代的伝説製造業者の作った架空の人物をも加えるのである。カイゼル・ウィルヘルムを軽蔑するのはよい。が、一穂のともしびのもとに錬金の書を読むファウストを軽蔑するのは誤りである。ファウストの書いた借金証文などはどこの図書館にもあったことはない。しかしファウストは今日もなおベルリンのカフェの一隅にビールを飲んでいるのである。ロイド・ジョージを軽蔑するのはよい。が、三人の妖婆の前に運命を尋ねるマクベスを軽蔑するのは誤りである。マクベスの帯びた短刀などはどこの博物館にもあったことはない。しかしマクベスは相変わらずロンドンのクラブの一室に葉巻をくゆらせているのである。彼らは過去の人物はもちろん、現在の人物よりも油断はならぬ。いや彼らは彼らを造った天才よりも長命である。耶蘇紀元三千年の欧羅巴はイブセンの大名をも忘却するであろう。けれども勇敢なるピィア・ギュントはやはり黎明の峡湾を見下ろしているのに違いない。現に古怪なる寒山拾得薄暮の山巒をさまよっている。が、彼らを造った天才は----豊干の乗った虎の足跡も天台山の落葉の中にはとうの昔に消えているであろう。
 僕は上海のフランス町に章太炎先生を訪問した時、剥製の鰐をぶら下げた書斎に先生と日支の関係を論じた。その時先生の言った言葉は未だに僕の耳に鳴り渡っている。----「予の最も嫌悪する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本国民にも多少の反感を抱かざるを得ない」先生はまことに賢人である。僕はたびたび外国人の山県公爵を嘲笑し、葛飾北斎を賞揚し、渋澤子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだ如何なる日本通もわが章太炎先生のように、桃から生まれた桃太郎へ一矢を加えるのを聞いたことはない。のみならずこの先生の一矢はあらゆる日本通の雄弁よりもはるかに真理を含んでいる。桃太郎もやはり長命であろう。もし長命であるとすれば、暮色蒼茫たる鬼が島の渚に寂しい鬼の五六匹、隠れ蓑や隠れ笠のあった祖国の昔を嘆ずるものも----しかし僕は日本政府の植民政策を論ずる前に岩見重太郎を論じなければならぬ。
まず重要なことは、芥川龍之介は「僻見」の「岩見重太郎」の章で読者に何を伝えたかったか、という考察です。それは実に明解で、「物語化されることによるキャラクターの、ある種の「力」の獲得について」です。多分どこの図書館でも芥川龍之介の全集は置いてあると思うし、その中に「僻見」というエッセイは収録されていると思うので、一度読まれることをおすすめします。
さて、ここで俺の考えを述べますと、芥川龍之介は多分「最も嫌悪する日本人は桃太郎だ」という章炳麟(章太炎先生)の言葉に「虚をつかれた」というのは多分本当だと思います。しかしそれは、侵略者・桃太郎という章炳麟の視点のユニークさではなく、虚構の人物である桃太郎が、章炳麟にとって「嫌悪の対象になっている」という、虚構(物語)の力に対してだ、というのは、前後の文脈からも、また芥川龍之介の文学に対する思想・姿勢からも明白でしょう。少なくとも、芥川龍之介がどんな作家であるか理解している、まぁそうだな、普通の文系大学生の教養過程レベル以上の教育を受けている人間なら。
そこらへんを少しサポートしますと、まず芥川の文学的基盤を支える二本の足は、「芸術至上主義(虚構は現実より価値がある、という姿勢)」と「諧謔趣味(ニヒリズムに通じる「世俗的なもの」の滑稽化)」です。それにさらに彼を大地に立たせるもうひとつの支点として、古今東西の「物語」に対する愛と蘊蓄と教養が、ゴジラのような巨大な尻尾のように存在しているわけですね。
彼が「軍国主義」や「ブルジョア的思想」のようなものを小説の中で取り扱う場合、その方法はたとえばプロレタリア文学のように、対象物に対する率直な「批判」ではありません。芥川龍之介はそれを揶揄し、風刺し、矮小化します(ネット的にいうと「ネタ化」する、という感じでしょうか)。
したがって、彼が桃太郎を「侵略者」として物語を作る際に、語りの柱となるのは「物語「桃太郎」による軍国主義批判」ではなく「軍国主義的な視点からの「桃太郎」という話の再構成」という、物語をテーマより上においたものとするのは当然のことだと思います。
つくづく、天声人語の人(小池民男氏)は、「なぜ」ということをあまり考えることのない人なんだな、と思いました。
↓『助六』でなぜ登場人物が罵倒するかについての歌舞伎的テーマを知らず(あまり考えず)、
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030630#p1
森鴎外最後の一句」ではなぜ著者が登場人物にそのようなことを言わせたのかの全体が見えず(あまり考えず)、
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030723#p1
今回は芥川龍之介がどんな作家的姿勢を持っている人で、なぜ「桃太郎」を侵略者として書いてみたかが読めず(あまり考えず)、世俗的事件(罵倒によって殺された人、12歳の少年少女がからんでいる事件、昭和の日制定)と元テキストを無理矢理こじつけて我田引水かつ恣意的な引用で元テキスト製作者の意図をぐしゃぐしゃにする。故意にそのようなことをやっているのだとしたら、俺にはマス・メディアのイメージ・ダウンにしか見えないのでやめたほうがいいのでは、と思うし、無意識にやっているのだとしたら、俺にはただの馬鹿にしか見えないのでもう少し本の読みかたを学習したらと思うだけでしょうか(いやまぁ、本は読んでると思いますけどね)。
はなはだ不本意ながら、これは以下の日記に続きます。
 
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030817#p4