米軍機墜落事故で、自衛隊のヘリコプターはなぜ和枝さんたちを助けなかったのか

この事件のキモであり、いくら自衛隊に対して弁護したがる人たちでも、さすがにこれは許せないと思うのがこのエピソードでしょうか。「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」(<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会)では、このように書かれているようです。以下孫引用。
↓パパママ・バイバイ 横浜市緑区(現在の青葉区)の米軍機墜落事件<1977年>
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~t.a.arai/takashi/atugikiti/papamamabyebye.htm

3,自衛隊の救難ヘリコプターは 
 事件発生と同時に米軍から連絡を受けた自衛隊はすぐに救難ヘリコプターを厚木基地から緊急発進させ、事件発生の10分後には現地の上空に到着しました。
 しかし、救難ヘリは大やけどを負つて救助を求めている被災者を助ける事なく、墜落前にパラシュートで脱出し、はとんど無傷で地上に降りた2人の米軍パイロットを乗せて厚木基地に帰ってしまい、再び飛んでくることはしませんでした。

この件については、早乙女勝元さんの『パパママバイバイ』でも以下のように語られています。

(引用者注:事故の状況に関する現場の説明が入ったあと)
 現場に働いていた人たちは、そういっています。
 その人たちも、爆風ではねとばされたり、傷をうけたりしていましたが、外にいて見はらしがききましたので、とっさに難をさけられたのです。でも、自分のことはかまっていられません。火炎地獄の中から這い出してきた人は、一分一秒をあらそうのです。火ぶくれだらけの女の人を助けて、すぐさま、車で病院へ向おうとしたとき、路上に血だらけでたおれている男の子が……。
「両手両足はもとより、からだじゅうの皮がむけて、血のかたまりとおなじでした。もう声を出す力もないほどでした……」
 それが、小さなヤス君だったのです。
 そのとき頭上には、ぶるんぶるんとエンジンのうなりをひびかせて、一機のヘリコプターが飛びまわっていました。海上自衛隊の救難ヘリでした。
 いちはやく情報を知って、火ぶくれ血みどろの人たちを助けにきてくれたものとばかり、だれしも思いました。重傷の人たちの手当は、早ければ早いほどよいのです。どんなケガでもそうですが、とくにジェット燃料によるやけどは、皮膚だけではなく、筋肉まで焼いてしまいますから、その治療には、はじめの五、六時間がとても大事なのです。それにしても、事故のおきたとたんに、救助のヘリコプターがやってきたのは、ちょっと、手ぎわがよすぎるというものです。
 やがて、このヘリコプターが、だれの命令で、なんのためにやってきたのかがあきらかになりました。
 救助は救助でも、自衛隊のヘリが助けたのは、パラシュートを引きずって、ゆったり歩いてきた二人のアメリカ兵だったのです。
「サンキュー」
 よくきてくれた、といわんばかりです。
 アメリカ兵を乗せたヘリは、地べたにうずくまっている火ぶくれの人や、まだ燃えさかる樹木や人家にはおかまいなしに、ワッサワッサとプロペラを回転させ、またたくまに空高く舞いあがって、消えてしまいました。

「燃えさかる樹木や人家」の火を消すことは救難ヘリには難しいと思うんですが。
まず、この件に関して早乙女さんは次のように書いています。P27。

 納得できぬといえば、墜落機のアメリカ兵にも、それはあてはまります。二人の兵士が、パラシュートで地上についたとたんに、自衛隊機がかけつけてきたことを考えますと、兵士たちと、基地との無線連絡は、かなり前からとれていたはず。それだけのゆとりがあったとすれば、ジェット機からの脱出があまりにも早すぎた、といえそうです。

事実の確認は難しいですが、この事件に関してもう少し事実と思われることを紹介しながら書かれている著作『米軍機墜落事故』(河口栄二・朝日新聞社)では、自衛隊機の到着が早かった理由について、以下のように述べています。P9。

 この墜落を、偶然付近を飛行中に目撃した海兵隊のヘリコプター・スペース14の操縦士は厚木管制塔に、RF4B六一一機が墜落し、乗員が脱出したことを通報した。連絡を受けた厚木管制塔は海上自衛隊のヘリコプターを現場に向けるよう指示した。墜落から約二十分後、二人のパイロットは海上自衛隊の捜索救難ヘリコプターによって救助された。だが、そのパイロットの脱出時間は、あまりにも早すぎたのではないかと、のちに大きな非難の的になっていった。

パイロットの脱出時間は、あまりにも早すぎた」のかもしれませんが、基地(厚木管制塔)に連絡をしたのは別の航空機(海兵隊のヘリコプター)だったようです。早乙女さんの著作発表時(1979年3月)には不明だったことが、河口栄二さんの著作が出た時点(1981年9月)では分かるようになったことがあるかな、とも思いました。
また、自衛隊機が事故発生後どのくらいの時間で来たのか、についても一部違いがあるみたいです。「事件発生の10分後には現地の上空に到着しました」と、「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」(<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会)は書いているみたいですが、土志田(林和枝)さんの遺稿集『あふれる愛に』では、以下のように書かれています。P23。

 ファントム機のパイロット二人は墜落前に緊急脱出。地上の騒ぎとは対照的にパラシュートでゆっくりと空から降りてきた。降下場所は荏田町から三キロほど離れた緑区鴨志田町。
 地上に降り立った二人は、ほとんどケガらしいケガもなく、約二十分後に海上自衛隊のヘリコプターに収容され、厚木基地に運ばれた。五人の重傷者を出すという大惨事のさなか、自衛隊が活躍したのは、実にこの二人のパイロットの救助だけだったのである。

自衛隊機が到着したのが「10分後」で、アメリカ兵を救出したのが「20分後」という感じでしょうか。
ちょっと興味を持って、自衛隊機のスペックと距離などを見てみました。救助に使われたヘリは、以下のものだということは分かっています。
↓シコルスキーS-62J『らいちょう』のスペック
http://homepage1.nifty.com/KWAT/list/jmsdf/s-62m.htm

最大速度 167km/h(外部搭載なし)
巡航速度 150km/h

厚木基地(MapFanウェブ)
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.27.12.3N35.27.15.9&ZM=5
緑区(現・青葉区)鴨志田町(MapFanウェブ)
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.30.29.5N35.33.30.2&ZM=5
微妙
厚木基地から事故現場、というかアメリカ兵が降下したところまでの距離は、だいたい10キロぐらい。シコルスキーS-62Jの最高速度だと、10分で27キロ(巡航速度だと25キロ)行けるので、着けなくはないと思いますが。
さて、自衛隊機が到着するまでの10〜20分の間、現場の人たちは何をしていたでしょうか。119番に電話して、救急車の到着を待っていた、とか思っていたら大間違いで(それだったらたしかに、場所によっては自衛隊機の到着のほうが早かったかも)、もう大至急、救急車なんて頼りにしないで、現場から直でそこにあった車で、救急病院に怪我(火傷)をした人たちを運んでいます。これは俺も知ってびっくりしたことなんで、みんなも驚いてください。まず、『あふれる愛に』から引用します。P14-16。

 林さん宅からおよそ四百五十メートル離れたところに、造園会社の事務所がある。この会社に奥さんとともに勤めていた川村春雄さんは、このとき事務所の二階で打ち合わせをしていた。
 そこへ、すさまじい爆発音がとどろいた。つづいて階下で、
「飛行機が落ちたぞーっ!」
 と叫ぶ声を聞き、川村さんは窓にかけよった。そして、林さん宅から黒煙とともに火柱が三十メートルもあがるのを見た。
 事務所から林さん宅までは、走って五分たらずである。すぐさま駆けつけた川村さんは、家の前の畑の中に、和枝さん、早苗さん(引用者注:和枝さんの義妹です)、そして裕一郎くんと康弘くんの四人が立っているのを見つけた。
 和枝さんを見たとき、川村さんには最初、それが男なのか女なのか見分けがつかなかった。和枝さんの顔も手足も、火傷と血でどす黒くなっていたからである。髪はパーマをかけたように焼けちぢれ、上着は燃え落ちて下着姿だった。
 救急車を待つ時間はなかった。早苗さんと子供たちの方は、つづいて駆けつけた人たちにまかせ、川村さんは和枝さんの救助にあたった。
 まず、一緒に来た奥さんの前かけをかりて、和枝さんの体をくるんだ。そして、同じく駆けつけていた、近くの東急建設小黒作業所員の車に乗せようと、足首をつかんで持ち上げた。そのとたんにズルッと皮膚がむけた。それほどひどい火傷だった----。
 病院へ向かう車の中で、和枝さんは、やけどの痛みにうめくながらも、付き添っていた川村さんに何度も子供たちの安否をたずねた。

『米軍機墜落事故』(河口栄二・朝日新聞社)では、事故直後については以下のように書かれています。P10。

 青葉台病院に最初に運び込まれたのは、椎葉悦子、ついで林裕一郎、康弘兄弟、林早苗の純であった。いずれも事故現場から五十メートルほどのところで宅地造成工事をしていた東急建設小黒作業所の社員が運転する車によってである。林早苗は義姉の林和枝とともにまず、国道二四六号に面している永楽整形外科病院に運ばれたが、この病院には医師一人と看護婦二人しかいなくて、とても重傷患者二人を同時に診られる状態ではない。とりあえず早苗だけが青葉台病院に移された。しかし診察を受けた和枝の熱傷は医師の予想をはるかに越えるひどいもので、結局和枝も手に負えないと判断され、応急処置のすえ救急車で昭和大学藤が丘病院に転送されることになった。

続いて、P22。

 和枝は逃げるとき、二メートル下の畑に一気に飛び降りたので、左腕をつき、骨折した。上半身の衣服はなく、スカートも燃え、下着だけのかっこうになっていた。裕一郎と康弘は駆けつけた武内清の車で青葉台病院に、和枝は橋爪茂利雄の車で、早苗は樋口義人の車で、それぞれ運ばれていった。

東急建設小黒作業所の社員のかたはとてもいい人です(多分)。建設会社の現場の人なら、動かせる車も持っていただろうし(1970年代後半の車の普及率はよく知らないですが)、救急病院に関する知識も当然、現場の事故ということがあるので頭の中に入っていたことでしょう。
そんなわけで、自衛隊のヘリが現場に到着した際には、はっきり言って救援すべき民間人(怪我している人)がいない状況だったんじゃないかと。
また、少しやっかいなことに「自衛隊法」というものもありまして。
自衛隊
http://www.houko.com/00/01/S29/165.HTM

災害派遣)第83条 都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を長官又はその指定する者に要請することができる。
2 長官又はその指定する者は、前項の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。ただし、天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。
3 庁舎、営舎その他の防衛庁の施設又はこれらの近傍に火災その他の災害が発生した場合においては、部隊等の長は、部隊等を派遣することができる。
4 第1項の要請の手続は、政令で定める。

この「要請することができる」という部分の解釈が微妙なんですが、なんか阪神大震災以前は「要請がないと動けない」的に解釈されてたかもしれません(これは推測なので本当のところは不明。もう少し判断の材料が欲しいところです)。救難の要請が出ていたのは、自衛隊機が現場に向かった時点ではパイロットだけだったということで、いささか杓子定規的な判断もあったのかも。
さらに悪い状況としては、1979年1977年当時の横浜市長は、当時の社会党委員長を兼任するその年の11月に社会党委員長兼任となる革新系の飛鳥田一雄さん。「自衛隊は存在そのものが悪」なんて言っていそうな人が、果たして自衛隊に救難要請を的確なタイミングで出せたでしょうか(出したとしても数時間後とか)。
飛鳥田一雄ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%9B%84
俺が当時、自衛隊の幹部クラスで、「要請を待たないで、部隊等を派遣することができる」ような立場の人間だったとして、革新系市長のこわさを知っており、なおかつ嫌な性格の人間だったとしたら、現場で死にそうな人を見かけたとしても、要請なしで助けるかどうかは微妙です。助けられなかったら絶対革新系市長から「自衛隊のせいで殺された」と言われるに決まっているからです。石原慎太郎都知事が首長である今の東京だったら絶対、「なぜ助けなかった」と逆方向で激怒されるのは目に見えているので、アメリカ兵なんか放っておけ、という指令を出すと思いますけどね。

次に続きます。
(三番もあるんだよ)