2005-06-11
■[拾いもの]「正義の人」になってはいけない
今日は、他の人が書いたテキストで共感を得たものを置いてみます。
今日は今シーズン二度目の台風上陸の影響で未明ごろから凄まじい風と雨が吹き荒れていたのだけれども、「脱ダム」の長野県は幸いにも、前回に引き続き今回の台風でもさしたる大規模水害は起きなかったようだ。康夫ちゃんはさぞかしホッとしているだろう。
でも「脱ダム」に反対し、「県民の命を守るのが政治の責任だ」と声高に叫ぶ県議会議員は逆説的なのだけれども「水害が起きてほしい。出来れば大規模な惨事になって欲しい」と願っていたのではないだろうか。いや、きっとそう思っていたと思う。
「J.P.サルトル−A.カミュ論争」で、共産主義に傾倒していくサルトルの「革命」に異議を唱えるカミュが「強制収容所」の問題を追及したのだが、それに対してサルトルは、共産主義と聞けばすぐに鬼の首を取ったように「強制収容所」を持ち出すカミュは本当は心の底では「強制収容所」の存在を喜んでいるのではないか、自説の正しさがそれによって証明されたその喜びに打ち震えて隠し切れないといったように得意げに「強制収容所」の問題について語る、そういうのは下品だ、と斬って捨てていたのを、こんな時僕は思い出してしまう。
例えば「小泉の構造改革では日本経済は破綻しかねない」と反対している人たちは、言っていることとは裏腹にあらゆる経済指標の悪化に小躍りしているだろうし、教育問題にことのほか口を出したがる人たちは、少年による凶悪事件の頻発を待望するだろうし、自分の子供を交通事故で無くした親が、悪質ドライバーの問題を告発する時でさえ、これは公然と言うのは本当に憚られるのだけれども、多分彼らは自分たちの子供の起きたようなことが他にも多く起きて欲しいと願っている。
当たり前のことなのだが、「不正」を告発するにはまず「不正」が存在しなければならない。ありもしない「不正」を糾弾することは出来ないからだ。だからこそ「不正」を告発しようとする人たちは「不正」を待望するようになる。これは多分必然的なメカニズムだと僕は思う。僕たちは「不正」に依存せずに「正義」の側に立つことが出来ない。
もちろんサルトルは何も「不正」を告発することなんて「偽善」に過ぎないのだからそもそも無意味だなどということを言ったのではない。「不正」に依存せずに「正義」の資格を得られると信じ込み、得意げになって「不正」を言い立てるその態度を「下品」だと言ったのだ。
大切なことは「正義の人」にならないことなのだと、僕は思う。
「正義」の人はそうであればあるほど必然的に「不正」に汚染されている。そして「不正」があってはならないことである以上、それを待望する声高な「正義」は出来うる限り無いほうがいい。最も理想的なのは「正義」の告発なしで、誰も知らないうちに「不正」が消滅しているというかたちではないだろうか。もちろん現実的にはそういうことは難しい。だからこそ「不正」を「不正」と認識し、告発する「正義」はなくてはならないものなのかもしれない。でも「正義」というのはそもそも不健康で下品なものだ、しかもそれが声高であればあるほど、という認識はやっぱり持っておきたい、と僕は思う。
と、ここまで書いてきてなんなのだが、どっかで似たような話をウェブ上で読んだ気がする。
それが何処なのか、ちょっと思い出せないので、もし似た話を見かけたらメールでも下さい。でもそうなると僕も無意識のうちに「パクリ」をやっていることになるのだろうか。うーん。
(太字は引用者=俺)
実は、引用元のサイト(ブログ)は今はどこに行ってしまったのか不明です。もしご存じのかたがいましたら教えてください。(追記・さっそく教えていただいて、リンクも張り直しました。ありがとうございます)
こういうデッド・テキストは、俺の手元に残しているテキストの半分ぐらいになってます。いい言葉が、当然のことながら多いです。



当該ブログは、ここにありました。
Dead Letter Blog
http://deadletter.hmc5.com/blog/
引用のテキストは、旧サイトの方で読めました。
http://deadletter.hmc5.com/diary/index.htm
7/16(Tue)「サーバ移転と台風の日」
http://www.tatsuru.com/diary/tomorrow/tm0205.html
ここでごらんになれます。「5月8日 上野千鶴子・小倉千加子の『ザ・フェミニズム』を読む。」という書き出しのところです。
他にも似たような言及があったかもしれませんが、とりあえず思いついたところを…
その頃の氏の書き方は何か説教臭いと思ってそう書いていたら,
「それは失礼しました」とコメントが・・・・・・
しかしこれは3年も前のテクストなんですね.
でも「正義の人」も事実を元に批判しているのならいいじゃないですか。世の中には自説の補強のために、言っても無いこと、やっても無いことをでっちあげてまで、批判する輩も居ますから。
>世の中には自説の補強のために、言っても無いこと、やっても無いことをでっちあげてまで
それで分かりやすい例といえば、北朝鮮のTVや中国共産党政府・朝日新聞などに見られる「とにかく日本が悪いんだ!」というあたりの主張ですかね。
「およそ、真面目な人ほど始末に負えないものはないんです。だって、頭上に「正義」があるんですもの。どんな嘘をついても殺しても、正義があるから許されるんです。」
「岩波はよい本を出来るだけ安く売ってどこが悪いと思っているが、悪いのである。正義だからである。正義は自分を押しつけてなお正義である。五・一五事件二・二六事件は政財界の腐敗、汚職を糾弾して要人を殺してなお正義だった。汚職は国を滅ぼさないが正義は滅ぼすのである。正義を売り物にするのは最も恥ずべきことなのに、岩波はながくそれを売った。社会主義の正義である」
「自分の利になるとみれば他人の島(一例尖閣諸島)まで自分のだと言いはるのが、健康な個人であり国家である。故に健康というものはいやなものである。けれども個人も国家も健康でなければ怪しいかな侮られる」
長文投稿失礼しました。
>〜「水害が起きてほしい。出来れば大規模な惨事になって欲しい」と願っていたのではないだろうか。いや、きっとそう思っていたと思う。
>共産主義と聞けばすぐに鬼の首を取ったように「強制収容所」を持ち出すカミュは本当は心の底では「強制収容所」の存在を喜んでいるのではないか、自説の正しさがそれによって証明されたその喜びに打ち震えて隠し切れないといったように得意げに「強制収容所」の問題について語る、
これらの箇所は何ら実証の無い、ただの仮定と憶測の積み重ねに過ぎず、
・「脱ダム反対派&収容所を言い立てたカミュ≒正義の人」は「下品」でなければならない
といった「待望」に他なりませんので、deadletter氏の論法に沿えば、
・「下品」に依存せずに「上品」の資格を得られると信じ込み、得意げになって「下品」を言い立てて「正義」を糾弾するdeadletter氏は「下品の王様」である
と、なってしまうため、ぶっちゃけたハナシ思い切り自縄自縛ってる気がするのですがどおでしょお。
つか卑怯ですね。「きっとそう思っていたと思う」とか「本当は心の底では」って。
自分の弱さ−「正義の人」の危うさを自覚する人ほど、こういう言葉を否定できないのに。