笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その2)

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1
 
一応、続ける前に、ネットで見つけたこれ関係のことが書いてあるところ。
Bataan Death March2ちゃんねる軍事板常見問題FAQ)
↑ここのテキストは、資料としての出典の明示が割としっかりしているものが多く、関係資料として何を読んだらいいのかを知る参考になりました。
笹幸恵さんのテキストは、出典明示しなさすぎなのが少し(俺のような人間には)読み通すには大変でした。読みながら「それ、どこの誰が言ったことなんだよ」「どの本にそんなことが書いてあるのよ」と思うことが多すぎです。
あと、こんなのとか。
Bataan Memorial Death March
毎年ニューメキシコのほうでやっている記念行事みたいです。
 
それでは、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。

組織的残虐行為だったのか
バターン死の行進」は、ナチスドイツのホロコーストと同列に、組織的計画による残虐行為として論じられてきたが、戦後六十年を経た今、さまざまな角度から見直されつつある。
日本軍は事前に輸送計画を立てたが、捕虜が想像以上に多かったためトラックなどの輸送手段や収容施設、医療施設に事欠いたこと。また日本軍は徒歩による行軍が当たり前だったこと。もともと日本軍に食料は乏しく、捕虜に支給する余裕はなかったこと。しかも日本軍は小銃を構え、完全軍装でこの行進に臨んでおり、軽装の捕虜のほうが楽に歩けたこと----等々。しかも、バターン半島の米軍司令官は降伏したものの、対岸にあるコレヒドール島の米比軍との砲撃戦はまだ続いていた。日本の軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏は、これを「死の行進」ではなく、砲撃を避け、食料のある場所に移転するための「生の行進」だった、と指摘しているほどだ。

調べることのメモ。
「さまざまな角度から見直され」ているテキストについて、誰がどのように、どういう角度で見直しているのか、という具体例。
「軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏」の、引用されている元テキスト。【重要】

しかしその実態を検証しようにも、具体的にどのような行程を辿ったのか、詳細を語る記録はきわめて少ない。行進の距離からして、記述はまちまちである。
マリベレスからサンフェルナンドまで六十キロというものもあれば、八十八キロと記したものもある。また、「部隊によって異なり、六十キロから百二十キロ」と記述した書物もある。これらを四〜五日かけて歩いたというが、どれが真実なのか、さっぱりわからない。

調べることのメモ。
「まちまちな記述」の元テキストを探してみる。
「マリベレスからサンフェルナンドまで」の距離は、今だとこれを使うとすぐに出来そうな気がするので、やってみる。
地図上で距離を測るサンプル【僕の歩いた跡に道はできる】
やってみたけど、「マップ」ではなくて「サテライト」表示しかできませんでした。これでは無理か。

歩いてみるしかない。もちろん私一人がバターン半島を歩いたからといって、当時と今では、目にする光景も相当異なっているはずだ。また、捕虜たちが投降した場所やそのときの体調によっても、行進の苦しさには差が出る。捕虜の数だけ「死の行進」のストーリーがあるのであって、これらをすべて検証するのは不可能だろう。

調べることのメモ。
この部分のテキストは、レスター・テニー氏には正確に伝わっているのか。これは調べるというより、関係者に聞くしかないですね。

しかし、ろくに運動もしていない三十路女が実際に捕虜の跡をたどる、その実体験は一つの目安にはなるはずだ。「記者は足で書け」ともいう。
行進にあたり、バターンについて書かれた文献や戦記を元にいくつかの条件を設定した。
まずは、行軍のスタート地点である。実は、「バターン死の行進」はマリベレス−サンフェルナンド間のほかに半島西岸中央のバカックからも始まっている。しかし、軍主力の目的はマリベレス攻略にあったと考えられ、また、バカックからより長距離であることなどから、マリベレスを出発地点とした。
次に日程である。捕虜の証言記録によると、三日間で歩いたケースもあれば、二週間以上かかったケースもある。しかし先に述べたように六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進したという記述が最も一般的であるため、これに準じて四日プラス予備一日を加え、五日間の日程を組んだ。
三つ目は服装や持ち物についてである。これも諸説あるが、共通しているのは投降した捕虜たちは武器を持たず、水筒一つぶら下げているのみだったことから、行進時はほとんど荷物を持たず軽装で行うこととした。

調べることのメモ。
「捕虜の証言記録」を読んでみる。できれば英語テキストで。【重要】
「六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進した」という記述を「最も一般的」である、とした著者の根拠について調べてみる。

四つ目は、体調についてである。捕虜たちは投降した当初、一様に憔悴しきっていた。多くは栄養失調で、マラリア赤痢にかかっている者も少なくなかった。これを忠実に再現するのは難しい。が、実をいうと、私は出発の四日前まで、ソロモン諸島ブーゲンビル島における十二日間の慰霊巡拝団に同行し、帰国後すぐにフィリピンを訪れた。幸か不幸か、ブーゲンビルの水にあたって下痢を繰り返し、食べ物をほとんど受け付けなくなっていた。マリベレスに到着したときは、準備運動をしただけで息切れがするほどの有様だ。はからずも、栄養失調状態だったのである。
過酷な戦時中と比べるべくもないが、私は身長百五十三センチ・体重四十数キロでしかない。二十歳前後の壮健な兵士と私との体力差を考慮すれば、その差は縮まると考えていいだろう。もちろん、バターン半島を歩くための特別なトレーニングは一切していない。
最後は天候である。行進が始まった四月はフィリピンの一年の中で最も暑い季節。日中は四十度になることもある。四月は乾期だが私が歩いた十月は雨期。厳しい日差しと曇りがちな天気とでは、体に及ぼす影響も異なる。しかし結論から言えば、気候の差はほとんどなかった。私が行進を開始した十月十三日から四日間、スコールがあったのは夜だけで、日中は乾期とほとんど変わらない強烈な日差しが降り注いだからだ。連日昼過ぎには三十八度を超え、三日目には三十九度を記録している。

調べることのメモ。
笹幸恵氏が歩いた日の、現地の正確な気象。(これはまぁ、調べる手間の割にはたいしたことが分かりそうにないので、どうでもいい)

かくて、私は「バターン死の行進」の出発点マリベレス山の麓にある「DEATH MARCH KM00」地点へと向かった。
 ----以下、日にちを追って、行進の状況をお伝えしたい。

ということで、次からが本番です。ここまでで全テキスト10ページ分のうち3ページ(広告スペースなどがあるから、実際には計算もっとややこしくなるです)。
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060503#p1