人が書いてもいないことを書いたと書く(言う)のはカンニンしてください、曽野綾子さん(罪の巨塊)

 これは以下の日記の続きです。
「沖縄集団自決訴訟」は、『沖縄ノート』の誤読に基づく、という説(罪の巨塊)
 
 以下のところから。
曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇。 - 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ 『毒蛇山荘日記』

作家や新聞記者にとって問題は現地ばかりにあるのではない、言葉にもあるのだ。いや、すべては言葉なのだ。

 これはひどい。「SAPIO」2007年11月28日号、「沖縄集団自決と従軍慰安婦=なぜ日本人はデマに平伏してしまうのか」(池田信夫×曽野綾子)p32

 決定的だったのは、大江健三郎氏がこの年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊長は「あまりに巨きい罪の巨魁」だと表現なさったんです。
 私は小さい時、不幸な家庭に育ったものですから、人を憎んだりする気持ちは結構知っていましたが、人を「罪の巨魁」と思ったことはない。だから罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。

 大江健三郎氏の『沖縄ノート』の元テキストは以下の通り。岩波新書、p210

 慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。

 どうでもいいことですが、「たえずくりかえしてきたことであろう」が「たえずくりかえしてきたということだろう」となっているコピペテキストが流通しているようですが、これは間違いテキストです。
 やはりどう考えても赤松隊長=罪の巨魁という解釈は無理があると思うのですが、みなさんはいかがですか。「罪の巨塊」は「集団自決の死体」というモノ(事物)であり、「そのまえで、かれ(=赤松隊長)は…」と解釈するのが普通という感じ。
 まぁこの件に関しては、山崎行太郎さんのテキストを読んでいただければだいたい用は足りるのですが(ものすごく読みにくいのが少し難点)、
曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇。 - 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ 『毒蛇山荘日記』
池田信夫君、逃げないでね(笑)。君の日本語は大丈夫か?
 あと、こことか。
曽野綾子さんの『あまりにも巨きい罪な誤読』(2) :イザ!

このように、曽野綾子氏は30年以上にわたって、誤読を繰り返し増幅しつづけてきたのである。そして、その『努力』が、今回の裁判として結実したといっても過言ではない。

 
 ということで、曽野綾子『ある神話の背景』には、過去に書籍の形で流布したテキストが5種類あります。
 国立国会図書館ではこんな感じ。

1. ある神話の背景 / 曽野綾子. -- 文芸春秋, 1973
2. ある神話の背景 / 曽野綾子. -- 角川書店, 1977.11. -- (角川文庫)
3. ある神話の背景 / 曽野綾子. -- PHP研究所, 1992.6. -- (PHP文庫)
4. 沖縄戦渡嘉敷島「集団自決」の真実 / 曽野綾子. -- ワック, 2006.5. -- (WAC bunko)
5. 曽野綾子選集. II 第2巻. -- 読売新聞社, 1984.6

 刊行順だと「12534」なのですが、これらの本の中で「罪の巨塊」という元テキストがどのように扱われているかを少し調べてみました。
 手元には「ワック」の本(4番目の本)しかないのですが、その中ではこんな感じ。p295〜p296

 大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他社への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨魂のまえで……(後略)」
 このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨魂」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。

 曽野さん、「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう」と、主語を略して引用してはいけません。もうみんな、それで沖縄ノート』読んでない人は大混乱だよ。
 それはさておき、国会図書館の本で確認した限りでは、問題のテキストは以下のような感じでした。
1…罪の巨塊
2…罪の巨塊
5…罪の巨魂
3…罪の巨魂
4…罪の巨魂
 どうも、『曽野綾子選集』を出すときに元テキストが間違ってしまい、それ以降は大江健三郎氏は「罪の巨魂(あるいは巨魁?)」と言ったことに、曽野綾子氏のテキストしかみない人にはなっている、という、ちょっと考えられない状況が存在しているのが現在の状況。
 元テキストを批判するにしろ擁護するにしろ、書いてもいないことを書いたと書く(言う)のはちょっとマズいのでは、というのがぼくの感想です。曽野綾子さんが大江健三郎さんに対してどのようなことを書こうとも(言おうとも)、大江健三郎さんは「罪の巨塊」としか書いていません。
 
 いろいろ書いてみましたが、ぼくは「アイヒマン」に関する記述が面白かったのでした。
池田信夫君、逃げないでね(笑)。君の日本語は大丈夫か? - 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ 『毒蛇山荘日記』

アイヒマンの話も、ぜんぜん、わかっていない。ハンナ・アレントアイヒマン論がらみで、大江健三郎アイヒマンの名前を出しているわけだが、池田信夫君はハンナ・アレントなんて、もちろん、知っているよね(笑)。大江健三郎は、赤松某旧帝国軍人を、「アイヒマン」のような極悪人だと批判しているわけではなく、ナチスの罪に対する贖罪意識から、後世のドイツの青年達にまで波及するだろう罪を償うために、自ら望んで堂々と公開処刑を要求した「アイヒマン」、そういう「アイヒマン」にも遠く及ばない愚物として批判しているわけだが……。池田君にはちょっと難しかったかな、この論理展開は……。

 大江健三郎氏のテキストは、ちゃんと全文を読まないとやはりいけないのです。
「【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「日本軍の命令だ」」事件です‐裁判ニュース:イザ!

 被「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」
 大江氏「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」
 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」
 大江氏「アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った
 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」
 大江氏「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた

 ハンナ・アーレントアレント)の『イェルサレムアイヒマン』(みすず書房・1969年、p187)からの、大江健三郎の引用は以下の通り。『沖縄ノート』p212-213
沖縄ノート:ξ  Joseph murmured Vol.?  ε

 罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化、にせの被害者意識、それらのうえに、なお奇怪な恐怖をよびおこすものとして、およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感がある。すでにその一節をひいたハンナ・アーレントアイヒマン裁判にかかわる書物は、次のようなアイヒマン自身の主張を収録していた。「或る昂揚感」とともにアイヒマンは語ったのである。
《およそ一年半ばかり前〔すなわち一九五九年の春〕、ちょうどドイツを旅行して帰って来た一人の知人から私は或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えているということを聞きました……そしてこの罪責コンプレックスという事実は私にとっては、謂うならば人間をのせた最初のロケットの月への到着がそうであるのと同じくらい、一つの画期的な事件となったのです。この事実は、それを中心に多くの思想が結晶する中心点となりました。私が……捜索班が私に迫りつつあるのを知ったとき……逃げなかったのはそのためです。私にこれほど深い印象を与えたドイツ青年のあいだの罪責感についてのこの会話の後では、もはや自分に姿をくらます権利があるとは私には思えなかった。これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するように提案した理由です。私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果たしたかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。》
 おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果たしたいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由をもつ。
 この法廷をながれるものはイスラエル法廷のそれよりもっとグロテスクだ。なぜなら「日本青年」一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背おっていないからである。ハーレントのいうとおり、実際はなにも悪いことをしていないときに、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。この旧守備隊長が、応分の義務を果たす時、実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)人間のにせの罪責の感覚が、取除かれる。「日本青年」は、あたかも沖縄にむけて慈悲でもおこなったかのような、さっぱりした気分になり、かつて真実に罪障を感じる苦渋をあじわったことのないまま、いまは償いまですませた無垢の自由のエネルギーを充満させて、沖縄の上に無邪気な顔を向ける。その時かれらは、現にいま、自分が沖縄とそこに住む人々にたいして犯している犯罪について夢想だにしない、心の安定をえるであろう。それはそのまま、将来にかけて、かれら新世代の内部における沖縄への差別の復興の勢いに、いかなる歯どめをも見出せない、ということではないか?

 長々と引用しましたが、「アイヒマン」と赤松隊長がどのように関連づけて言及されたか、少しはわかりましたか。
 まとめると、
1・曽野綾子さんは大江健三郎さんが「沖縄ノート」でどのようなことを書いているのか、について書く(語る)にあたっては、少し不誠実である(大江さんが書いたとおりに書いたり語ったりしていない)
2・アイヒマン大江健三郎氏の意識の中では、赤松隊長よりちょっと上の精神を持っている
3・やはり『沖縄ノート』はちゃんと読みましょう
4・大江健三郎氏の法廷証言全テキストが読みたい
 なのです。
 ただ本当に、『沖縄ノート』は、大阪万博の、沖縄がまだ日本に返還されていない当時の時代を背負いすぎているので、その点を考慮して読まなければいけないところです。
 
 これは以下の日記に続きます。
「Corpus Delicti(コーパス・デリクタイ)」の翻訳について(罪の巨塊)
 

『野口英世とメリー・ダージス 明治・大正偉人たちの国際結婚』『天狗はどこから来たか』『中世の秘蹟 科学・女性・都市の興隆』

本日の読みたい本・おすすめ版(2007年10月あたり)。

野口英世とメリー・ダージス―明治・大正偉人たちの国際結婚

野口英世とメリー・ダージス―明治・大正偉人たちの国際結婚

★『野口英世とメリー・ダージス 明治・大正偉人たちの国際結婚』(飯沼信子/著/水曜社/1,890円)【→amazon
日本女性の伝統的な忍耐と内助の功は物語となりつつある昨今、百年前の異国の女性が日本男子と共に生きたすがすがしい姿を多くの人に知ってもらいたい―。野口英世高峰譲吉、松平忠厚、長井長義、鈴木大拙。黎明日本を背負った男たちと異国の妻の物語。
天狗はどこから来たか (あじあブックス)

天狗はどこから来たか (あじあブックス)

★『天狗はどこから来たか』(杉原たく哉/著/大修館書店/1,785円)【→amazon
日本を代表する妖怪である天狗。しかし、その正体は、意外にも多くの謎につつまれている。天狗はどのように誕生したのか?天狗の鼻はなぜ高いのか?そもそも、天狗とは何者か?天狗イメージの源流を探り、その誕生の謎を解く、図像学の挑戦。
中世の秘蹟―科学・女性・都市の興隆

中世の秘蹟―科学・女性・都市の興隆

★『中世の秘蹟 科学・女性・都市の興隆』(トマス・ケイヒル/著 森夏樹/訳/青土社/3,360円)【→amazon
ヨーロッパ中世は「暗黒」ではなかった。科学と人文精神を生み出した沸き立つ坩堝だった。いまだ異質のままだったユダヤキリスト教精神とグレコ・ローマン精神とが、その坩堝の中で混ぜ合わされ、新しい知と、女性への畏敬、そして美の感性が登場する―。都市と人物をたどり、歴史の「秘蹟」を描き出す、斬新・秀逸な中世論。いにしえの中世都市を巡り、偉人たちの活躍や思想をのぞき見る、万華鏡のような都市巡礼物語。