とり・みき『とり・みきのしりとり物語』で言及されている「宮崎勤事件」を引用してみる

 これは以下の日記の続きです。
「10万人の宮崎勤」発言は都市伝説なのか(車輪の再再発明)
 
http://twitter.com/kuratan/status/22327830362

とり・みき『SF大将』再読してつらい。最後が「ソングマスター」ってつらすぎる。「さていったいSFとは何だろう」。まぁ元ネタの大半は今でも新刊で読める(と思う)んだけど。『鉄の夢』とか珍しいのでも、アマゾンで1000円+送料で手に入る。

http://twitter.com/kuratan/status/22328057816

とり・みきとり・みきのしりとり物語』はもっとつらくていろいろ絶望的な気分になる。一応、宮崎勉事件について、とり・みき氏は何て言っているのか確認できたので、そのうちぼくの日記に元テキスト掲載予定…。

http://twitter.com/videobird/status/22329132037

あれは今の時点で読むと作者を色々問い詰めたり殴りたくなりますね。誰よりも俺が。RT @kuratan とり・みきとり・みきのしりとり物語』はもっとつらくていろいろ絶望的な気分になる。

 ということで、いろいろつらいけど引用します。
 はじめに言っておきますが、「10万人の宮崎勤」的発言は、とり・みき氏のテキストにはありませんでした。
 以下、『とり・みきのしりとり物語』より。p65-73。太字は引用者(愛・蔵太)によるものです。
(2010年8月29日追記)雑誌掲載初出は1989年のニュータイプ10〜12月号です。

暗い部屋
 
 あれこれ迷ったが書いてしまおう。
 今回の事件のことだ。
 いや、事件そのものについては、なにも書くことはない。書く権利もなければ、書きたいとも思わない。
 問題はこの事件の報道ぶり----容疑者Mのアニメ・特撮・ビデオ方面の趣味や、彼の部屋の様子に対するキャスターや「識者」の反応である。
 例によって、私は今回の事件もビデオ撮りに明け暮れたのだが、TVに登場する人物のほとんどが「この歳になって」「アニメや特撮物に熱中し」「それをこまめにビデオ録画していた」行為を、きわめて「異常」なことである、と断じていた。つまり、これらのニュースやワイドショーを追っかけ録画していた私の行為自体も、彼らにいわせれば相当に怪しいふるまいであったわけだ。
 いや、私だけではない。
 先の行為や趣味がMという人間を生んだのであれば、この雑誌(引用者注:角川書店の発行するアニメ雑誌月刊ニュータイプ」)の読者の大半、私の友人のほとんどは犯罪者予備軍ということになる。
 ビデオと漫画本が山と積まれた部屋の様子に対しても、たいていの人間が驚きの表情を見せていた。
 確かに数は多い。五千本以上というのは多すぎる気もするが、それほど意外かと問われれば、そんなことはない、というのが私の率直な感想だ。ああいう部屋は見慣れている。まず我が家がそうだし、私の友人の部屋は程度の差こそあれ、どこもあんな具合だ(それはまあ、半分はそういうことを「仕事」にしている奴が多いせいでもあるが)。この雑誌の読者にしても、多くは似たような環境にあると推察するが、どうだろう。
 ここで我々は二つのことを認識しなければならない。
 当然、一つ目はオッサン「有識者」連中がいかに現状に疎いか、勉強不足か、ということだ。ビデオやアニメや特撮や映画がMの異常な性格を作りあげた、という陳腐な結論がまかり通りつつある。
 これまで述べてきたように、程度の差こそあれ、ああいう趣味の人間、ああいう環境はもはや珍しくないのであって、問題にすべきはそういった目に見える(だから常に「絵」を欲しがっているTVはとびついたわけだが)「材料」ではなく、自分の趣味に対する本人の「自覚性」のほうなのだが。
 しかし、現実には既に怪奇映画のオンエアが自粛になったし、読者諸君の親御さんの何割かは君たちから大事なビデオを取りあげ「アニメ雑誌は御法度」てな事態が進行中のはずだ。
 奇しくもMと同姓の優れた作家によって、やっと世間様にその地位を認められつつあった「アニメ」というものが、マスコミの見当違いの報道により、またぞろ信用をなくしてしまうのは実に悲しいことだ。
 つまり。
 現在の風潮からすれば、もし、今度、似たような事件が発生したときに、まずリストアップされるのは我々であり君たちなのである。
 
ヤラセ
 
 二つ目に入る前に多少の軌道修正をする。
 前回の原稿を入れたのはMの逮捕直後のことであり、その後のマスコミの報道ぶりを見るにつれ、少し考えをあらためたのだ。
 前回、私は“こういうビデオ漬けの生活がMのような人物を生んだ”という陳腐な結論を「勉強不足」によるものだと書いたが、どうやら事はそれほど単純ではなかったようだ
 彼らの報道ぶりにはかなり意図的な“オタク排斥キャンペーンが感じられるのだ。もちろん、それは「誰かが仕組んで」とかいうような陰謀史観の類ではない。「意図的」というのは編集のしかた、材料の選び方を指して言っているのであり、その動機は逆に無意識的な嫌悪から来ているものだと思っている(どういう意味かは次回に書く)。
 ちょっと前に反暴走族の大キャンペーンがはられたことがあった。
 新聞社の人間が暴走族によって殺された事件をきっかけに規制が強化され、マスコミがこれをバックアップした。直後に起きた、外国人の運転する車が暴走族を振りきろうとして逆にこれを事故死させさ、という事件では、けっきょくこの外国人は無罪になった。
 この時点で人は皆思ってしまった。「あ、ゾクは殺してもいいんだな」と。
 案の定、ひと月も経たないうちに市民が走行中の暴走族を殴り殺すという事件が起きた。
 暴走族と一緒にされてはたまらない、というのがアニメファンの想いだろう。逆に私は暴走族のカタを持ちたいわけでもない(それどころか、個人的には私は「ゾクは殺してもいい」と思っている人間だ)。
 しかし、世の人々は、
1・自分たちに理解できない行為にのめり込んでいる連中が
2・閉鎖的な集団を組み、
3・しかも圧倒的なパワーを持っている
 ことを、つねに薄気味悪く思うものなのだ。
 権力にとっては弾圧の対象になる。そして今の時代の権力とは実はマスメディアに他ならない。
 弾圧のためには大義名分が必要だ。暴走族の場合はそういう事件に事欠かなかったが、オタク族のほうは「あいつら気持ち悪い」と薄々は思っていても、潰しにかかるほどの材料がこれまではそろっていなかった。
 それが今年になって、麹町のファミコンマニアの青年の子供殺し、練馬のナイフマニアによる警官殺し、そして今回の事件と、立派に条件が整ってしまった。----これは逆に犠牲者だが、大雪山のアニメファンの遭難事故(原注:犠牲者が枯れ枝で空からの捜索へ向けて作った「SOS」のメッセージや、遺留品のカセットテープに入っていたSFアニメのテーマソングが話題になった)も「そういった連中がいる」というPRには一役かったはずだ。
 あとはもうご存知の通り。三浦事件以来ノウハウを積んできたお得意の魔女狩りが開始された。
 警察よりも早くカメラはMの部屋に入り込み、できるだけわかりやすい素材が意図的に選ばれ「物語」が組み立てられていった(漫画『若奥様のナマ下着』を目立つところに置いたのはTVの人間だし、スプラッタビデオはコレクション五千本のうち、けっきょくTVで紹介されたあの三巻きりだったといわれている)。そうして、その「報道」に接した人々はこれまでよくわからなかった“アニメファン”や“オタク族”の正体を理解したような「気分」になった……。
 虚構の世界がMのような人間を作ったといわれているが、実は虚構なしの現実などあり得ない。「報道」や「情報」が既に虚構なのだ。そして、さらに人々が自覚すべきなのは、この「あいつら気持ち悪い」という感情が実は自己嫌悪や近親憎悪に近いものである、という点なのであった。
 
世間の鬼
 
 というわけで、やっと二つ目の問題に入る。
 それは我々もまた「識者」やマスコミの連中と同じあやまちを犯してはいないか、ということである。
 なぜなら、そういう迫害を受けているアニメファンもまた、彼らと同じようなことを口にするのである。いわく、
「Mは他のアニメファンとほとんどナマでつきあう機会がなかった。一緒にされてはたまらない
「ヤマトとラ・セーヌの星のポスターが並んで貼ってあった。真のアニメマニアだったら、あんなことはしない
「彼が作ったベストテン作品のリストを見たが、理解できない
「録っている番組の趣味がバラバラで、あーゆーのはオタクとはいえない
 あれれ?と私は思ってしまった。
 これでは「識者」やマスコミが「特殊な環境」「異常な部屋」と断じたあの論調と、なんの違いもないではないか。一見、マスコミのオタク攻撃に逆らっているように見えるが、根は同じだ。より差別化をはかろうとしているだけなのだ。ポスターやビデオの趣味が悪いなどといっている輩などは、まさに彼の部屋だけを見て「異常」だのなんだのと決めつけた連中と、なんら変わるところはない。
 ほんとうにMと我々は違う人間なのか
 前々回に私は「程度の差」ということを書いたが、Mと私の明確な「差」なんて、考えてみれば実際に殺人を犯したか、そうでないか、という一点だけだ。むしろ共通項のほうが多い
 ただ、おそらく私は作家という仕事を選んだために自分の趣味や性癖に関してMよりは自覚的であり、それで報酬を得ることにより社会的な足枷も大きく、そのぶんセイフティが効いているだけかもしれないのだ。
 これだけ多くの人がこの事件に関心を持ち、なおかつ口をそろえて彼との差別化をはかろうとするのは、実はみんなMに自分の姿の一部を見てしまったからだと思う。人は皆、それが自分でなかったことを安心したいため、ことさら差異の部分だけを「理解できない」と強調するのだ。
 自分も多少は持っている、しかし実際は理性やら社会倫理やらで抑えつけられているある部分を、たがが外れて堂々とやってしまった人間がいる。そのことに驚き、(言葉が不適当かもしれないが)嫉妬し、かつ、そういう反社会的な行為を犯した者が自分でないことを確認し、安心する。だからこそ攻撃の度合いも、よりひどくなる
 実際、マスコミの今回の事件の報道ぶりは、本物の「連続幼児誘拐殺人事件」に負けず劣らずサディスティックで陰湿だ。
「近親憎悪」という言葉がある通り、過剰に、真っ先にオタク批判をする人は、実はもっともオタクに近い所にいる人だと、私は以前から考えている。人から同一視されないうちに、自分だけ安全な場所に移りたいのだ。
 マスコミのオタク攻撃も同じこと。TV屋なんて、ほんとは誰よりもMに近い部屋で暮らし、Mと同じ趣味を持っている連中が多いはずなのに。
 Mとの差異をやっきになって見つけるよりは、むしろ自分と同じ部分、共通点を探すほうが、より今回の事件や世の中の仕組みが見えてくると思うのだが、どうだろうか。

 これで引用を終わります。
 
(2010年8月29日追記)
 とり・みき様より以下のコメントをいただきましたので、
http://twitter.com/videobird/status/22370089996

@kuratan テキストの引用掲載、及びこれに関するどのような感想も論評も一切異存はありませんが、テキストの発表年は記載していただけるとありがたいです。慌て者に最近書いた文章かと思われても困りますので。初出は1989年のニュータイプ10〜12月号です。よろしくお願いします。

 追記しました。どうもありがとうございます。