SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):小松左京に対する評価

 これは以下の日記の続きです。
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号)で石川喬司・福島正実を褒めていたのは誰?
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):はじめに
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):星新一に対する評価
 
 SFマガジン1969年2月号『覆面座談会 日本のSF'68〜'69』の引用を続けます。
 A〜E=石川喬司稲葉明雄福島正実伊藤典夫・森優(南山宏)という仮説を提示しておきます。

小松左京=一九六八・日本・世界
 
A そろそろ話題を移そうか。小松左京はどうだったかな。彼は去年は二冊の長編を完成させている。『継ぐのは誰か』と『見知らぬ明日』とね。ぼくは、小説としては前者に軍配をあげるけど。
D でも、両者に共通しているのは、小松左京の初期の良さというかナイーヴさというか、それがなくなってることだね。小説としてはむしろ退化してる。データをあんまり生まのまま放り出しすぎるよ。
E 『継ぐのは----』は科学的データによる推理小説という感じがする。
D 彼の最近書いている未来学的な作品は、とくにデータの未消化な傾向が見られて、読みづらいな。
A それは、『見知らぬ明日』にも共通の問題なんだ。こっちの方は、むしろ、小説であるよりも一種の疑似イベントづくりなんだ。もしかりに、いま、地球上のどの勢力にも属さない?----つまり宇宙人が侵入してきたら、現在の中ソ関係、東西対立、あるいはそのあいだにはさまれている日本、そういった勢力がどんなふうに動き、反撥しあるいは協力し得るか、あるいは宇宙人を受け入れようとするか、または異物として拒否するだろうか、そういったことへの興味に、この作品の全精力が注がれてしまってるんだ。これは、SFとしてだけでなく小説としての完成度を最初から度外視している。そしてこれは、ここ二、三年の彼の作品のすべてに共通した傾向何だ。それがとくに、時間的なあるいは紙数的な制限とからみあって、いまDさんがいったみたいな結果になる。要するにアンバランスになるべくしてなったアンバランスなんだな。
C 『見知らぬ明日』は、小松左京のいまの関心のありかを端的に示している。あれが中途半端なのは、宇宙人の侵略ものであるにもかかわらず第三次大戦ものの域を出なかった。例えば中共の国連加盟手続きなんかにものすごく紙数を使ってしまう。この関心のありかたを別の方向へ持っていって、ぎりぎりまでおしつめたのが『神への長い道』だと思う。これはぼくは非常に高く買うんだが、一般にはキヨホウヘン甚しいらしい。

 中共=1960年代当時の中華人民共和国の略称。

A ぼくも買う。だから問題なのは、あの作品でも、知的興味と同時に完成度をも目指したら、かつて彼がエフレーモフへの手紙に書いたような[要出典]大文学としてのSFにつながる作品になったんじゃないかと思うんだ。それが、置き去りにされているんだ。かつて彼は何かの後書きに、ある友人から「きみの作品はきみの文明論のメモにすぎないじゃないか」といわれて、それでもいい、現在の自分にとって完成度なんかどうでもいい、とさえ思うことがある、と書いていたけれど[要出典]、あの独白めいたいいかたは、彼の自己認識であると同時に、やっぱり弁解なんだ。だから、いまは、やがてより高次のものへ達するためのプロセスだと思うな。
E ただ『見知らぬ----』の場合は終らされちゃったんだろ。
A それはコマーシャリズムの中で書いてる以上、いったってしょうがないさ。
B 小説でなくてもいい、メモでいいってのはだけど、やっぱりすごくアポロジーだな

 アポロジー=apology=お詫び。

D いつもそうだ。自己弁護だね。
C いや、ぼくはそうは思わんな。もっと切実なんだ。彼は内からつき上げてくる要求のために、メモしか書けないという状態なんじゃないかと思うよ。
A うん、つまりさ、小松左京自身、たとえば『果しなき流れの果に』の後書きで、いつの日かもう一度このテーマと四つに組みたい、というふうにいってる[要出典]。だから、これがメモだということは、ある意味でやっぱり自己弁護ではあると思うんだ。でもそれは、他人に対する弁解じゃなくて、自分の内的要求に対するそれなんだな。切ない口実なんだ。
D しかし、作家は作品が勝負なんだ。ぼくたちが読みたいのは、メモじゃなく、あくまでも小説だと思うけど。
B 小松左京のフロシキはすごく大きい。だからいくらでも中身が入りそうだけど、その結果扱われる思想なり国家なりが、類型化してくるんじゃないの。つまり小松左京個人の社会的な立場がひろがるにつれて、情報もこまかくなってくる。するとますますフロシキを拡げなければならなくなるんだが、腕の方がついていかないから、かえって類型化してくるというわけじゃないかな。
A 小松左京のフロシキは、一種の魔法のフロシキでね、これも入れたいと思うと、どんどん大きくなるんだ。ただ、腕が----つまりフロシキの結び方が、うまくいかないんだな。
C 大ざっぱにいうと、小松左京というのは、何千年という歴史をもつ人類の現時点における代表者たらんと----知性の代表者としての責任を引きうけたみたいなところがあると思うんだ。これは栄光であると同時に悲劇だよね。それで、ヴェルレーヌの詩じゃないけど、選ばれてあることの恍惚と不安と二つながら我にありというわけで、人類全体を代弁してることで的は二つに裂けてるんだ。彼が見てしまったもの、人間の運命をうたえば、いくらでも上手にうたえるはずなんだ。それだけの腕はあるんだ、ところが彼は自からその道を捨てたんだよ。見てしまったんだから、もうほんとはどうにもならないんだけど、しかしどこかへ行かなくちゃならないというんで、苦しんでいる。それが、現在の彼の作品のアンバランスさの原因なんじゃないの。
D トラディショナルな文学の伝統から抜けだして新しい道を見つけようという意欲はよくわかるけど、そうすると、彼の持ってるあの通俗性はどうなんだ。あれは自己矛盾だと思うな。あの通俗さを切って捨てない限り、いつまでたっても彼の小説はこのあたりまでということになると思うけどね。
A 具体的にいうと?
D たとえば『神への長い道』でも、どうしてああ通俗仕立てになっちゃうのか……おしまいに行ってね。
A そうかね。ぼくはあのラストシーンを通俗だとは思わないな。通俗めかしたところはサービスだけど、つまり外へベッドを持ちだしてしっかりやれっていうこと自体はサービスだけど、それがいやらしいかどうかはだから別として、あのシーンには必然性があると思うよ。あの「しっかりやれ」にひっかかる人はけっこういるらしいんだが、しかし、あの一語で、それまで読んできたことがみんなすっとんじまうんだとすると、むしろ読手のほうに問題があるんじゃないかな。
E 読み手の品性下劣というわけか。(笑)ぼくは彼にもっと時間を与えれば、なにしろ今だって世界のSFの最先端をいくんだと思うし、もっと……。
A いや、それはどうかな。いま彼に非常にたくさん時間を与えたとするね、そしたら彼はそれを使って、やっぱりメモを増やしていくと思うな。あとはテレビのポストが一つ二つ増えるかもしれないけど。(笑)
E ぼくは、彼はポーランドのレムぐらいの力量は持ってると思うんだ。ところがいまの日本の忙しさが、彼のあれだけの創作力を持ってしても、追いつけないほどいそがしくさせちゃうんだと思うな。その結果、あれだけのものしかできないんじゃないかな。
A ぼくは正反対だと思うな。ぼくは、彼はこの日本的状況の中だからこそメモが増やせ、だからこそいいSFへの基盤をつくりつつあるんだと思う。情報が少なくなったら彼もぜんぜん違ったものになるんじゃないか。
C しかし、同時に彼は、そのメモの、情報の、行きつく先の空しさも知ってる。それにもかかわらずまだメモを集めるのは、つまり彼の甘さなんだ。まだ何かいいことがありはしないかというセンチメンタリズムなんだ。あれだけのリアリストであるにもかかわらずそんなが幻想も持ってるんだ。それがDさんがさっきいったような通俗性と見られることもあるし、いろんなボロを出す原因にもなるんじゃないかな。
A だけど、ぼくは『神への長い道』のラストに関してだけいえば、ほんとはサービスをあまり感じないんだ。あんなに切ないシーンはちょっとないとさえ思うんだ。彼は人類の知的限界を考える。そしてこの道もだめあの道もだめ、結局最終的に人類は何かに到達できるのか、それともできないで、一つの環を描いて終ってしまうのか、それをずっと追及していくんだ。出てくるあのシーンは、何と理由をつけようと、いわば力尽きたかたちなんだな。
C うん、ただね、彼はヒューマニズムへの訣別をつけるべきところに立ってはいる。しかし彼は、そうするにはこまやかすぎるほどの温い心を持ってる。そこで彼はこういう問いの前に立たされるんだ。お前の母親、子供、友人を捨てれば人類は救えるんだがどうするか、とね。彼はその場合どっちをとるか。多分答えはわかっている。それが壁だと思うな。
A しかし、クラークの場合と比較してみたら。クラークの方は、同じ設定をとった場合、人類よりもはるかに高次の存在がいて、それが何とかしてくれる、という考え方をとるね。ところが小松左京の場合は、日本人として……というか、非西欧人としてというか……そういう一種の衿持みたいなものがあって、そういう高次の存在がかりにあるにしても、それによって助けてもらうなんてことはいやだ、そんな空望みは最初から捨てておいて、己れ自身の中に、否定なり肯定なりの答えを見つけたいと考えるんだ。その態度は甘くないと思うんだ。世界がエントロピー増大の世界であることはどうしようもなく分るけれども、負のエントロピーとしての生命、人間というものを信じようとする、それをしも甘いといってしまうと、どうしようもないと思うんだ。
C 甘さといったのは、つまり関西人としてのしたたかさ図太さともいえるものを指したわけだけどね。決断に迫られると返答をしないで生きのびていく、というね。
A ニヒルになんか簡単に陥らない。
B 甘さはまだあるような気がするな。これは彼自身が書いていたけれども、彼は二十世紀のバルザックたらんとしているところがあるんだが[要出典]、また事実そうかもしれないんだが、どうも話を際限なくひろげはじめると、最初の意気ごみにしては密度がどんどんうすくなっちゃって、けっきょく読み手としてはプロセスはどうでもよくなって、終りだけ気になってくるといったところがあるんじゃない?
D うん、たしかにそういうところはあるな。
A 結末についていえば、『極冠作戦』なんかには、そういった意味の甘さがあるな。あの、収拾のつかない状態を救う一つのテーゼとして、彼は若さ、若者というものを出してくるけど、あの若さ、若者に対する信頼のしかたはかなり軽薄だな。あれはたんなるどんでん返しの役目しかしていない。それについてはメモもない、看破しかない。
C 今年の小松左京を語るには『未来の思想』を問題にしなければならない。
A そうそう、あれは去年から今年出た未来論の中で、たとえば香山健一の『未来学入門』なんかと較べても面白かった。彼が当然やるべきことだったしね。香山健一の方はいわば優等生の論文で正確さが取り柄なんだけど、彼の場合は、主体的な燃焼があって、図太く魅力的だった。ただ、結局のところ、彼が、人類のさまざまな到達の中から、これこそはジンテーゼだといって取りだしてくるもの、それに実はあんまり説得力を感じなかったんだけどね。その手つきが、こう、いわば香具師で……。
E でもぼくは、あれが断定せずに、つねに疑問形でたたみかけているところが、ソート・プロボーキングな感じだったな。

 ソート・プロボーキング=thought-provoking=示唆に富む。

A あの疑問形はレトリックだよ。
C 内部事情もある。彼はちゃんと結論をだしたんだけど、出版元の方でこれじゃあんまり悲しいからというんでせめて明るくしてくれというんで、ああいうかたちになったらしい。それと、Aさんのいった香具師的というのは、ことによったらSFそのものの持ってる軽薄さであるかもしれないよ。つまり、専門家でないものの大胆さだといえるかも。身軽さであるかも。
A なるほど、そうかもしれない。ぼくにとって物足りなかったのは、彼が『未来計画』の中で大いに主張していた個の問題ね、未来計画をおしつけられる側、良かれ悪しかれそれを受けとめざるをえなくなる個体の側の主張が、『未来の思想』の中にあんまり反映してなかったところでね。だから、どうも、彼が結論を出すのに急なために、それを----小松左京が主張すべき一番大事なものを省いちゃった感じがした。そうまでして形をととのえたあたりがつまり、軽薄な感じだという意味だったんだ。彼はほんとは、小松左京=一九六八年・日本・世界という式のつくれる作家なんだ。
C それだけにいまの小松左京は、歴史なり世界の構造なりを、最大公約数的に解釈せざるを得ないんだな。それで軽薄な印象を与えるというところもある。

 な、長い。
 …なんか、Bさん(稲葉明雄)よりDさん(誰?)のほうがひどいこと言ってないか?
 あと、Aさん(誰?)、小松左京を高評価。
 覆面座談会、これからもっと面白く(ひどく)なります。
 今回は小松左京の本2冊にアマゾンリンク。え…2冊とも品切れ状態なの? あんまりだ。

継ぐのは誰か? (ハルキ文庫)

継ぐのは誰か? (ハルキ文庫)

神への長い道 (角川文庫)

神への長い道 (角川文庫)

 あんまりなので、これも置く。
完全読本 さよなら小松左京

完全読本 さよなら小松左京

 小松左京が『日本沈没』を世に出すのは、この「事件」から約4年後の1973年のことでありました。
 
 これは以下の日記に続きます。
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):筒井康隆に対する評価