Hatena::ブログ(Diary)

愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

2006-05-06

[]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その6)

これは以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060505#p1

最初から読みたい人はこちらから。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1

 

今日は、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)に対して抗議したレスター・テニー氏の日本語文テキスト(文藝春秋2006年3月号に掲載されたもの)を、編集部の言葉とあわせて紹介します。例によって「調べることのメモ」つきです。けっこう長いので、覚悟して読んでみてください。

ただし、英文テキストはインターネット上で、だいぶ前に公開されているので、

Letter from: Lester Tenney, Ph.D., Former POW of the Japanese and a survivor of the infamous Bataan Death March - Simon Wiesenthal Center

これと読み比べてみるといいと思います。

まず、編集部の側による、レスター・テニー氏の手紙を公開するに至った事情説明です。

〈編集部より〉二〇〇五年十二月号掲載、笹幸恵氏「『バターン死の行進』女一人で踏破」について、日本軍の捕虜として六十四年前、「バターン死の行進」を体験したレスター・テニー氏より、抗議の手紙が編集部に届きました。「バターン死の行進」で日本軍の捕虜残虐行為によって多くの犠牲者がでたことは、歴史的事実です。笹氏の記事はこうした蛮行の否定を意図したものではありませんし、編集部にもそうした意図がないことは言うまでもありません。同記事では元捕虜の人々の証言を紹介することができませんでした。捕虜として悲惨な体験をされたテニー氏の肉声は貴重です。

これに続き、レスター・テニーさんの以下の手紙が掲載されています。

「バターン死の行進」----事実かフィクションか

あの忌まわしい「バターン死の行進」の行程を自ら巡った画期的な行脚に基づいて、ジャーナリストの笹幸恵氏が執筆した記事について意見を述べさせていただきたい。

アメリカでは、「バターン死の行進」の歴史についてこれまでに多くの著書が書かれているが、笹氏は日本側の視点は遺憾ながらこれまで不在だったと述べている。このような記述が冒頭に見られたため、「死の行進」がわれわれ生存者に及ぼした影響を検証するために氏が時間と労力を費やしたことを、私は喜ばしく思った。

だが、当該記事をつぶさに検討した結果、私は笹氏が「バターン死の行進」の行程を行脚したのは、実は「死の行進」は犠牲者たちが主張してきたほど過酷なものではなかったことと、生存者が語る体験は虚偽であり、信頼するに値しないことを証明することが目的だった、と結論せざるを得ない。これは、われわれ犠牲者にとって極めて侮辱的な結論である。

調べることのメモ。

アメリカでは、どれくらい多くの「バターン死の行進」に関する著書があるのか。その著書を書いた人間はどういう人たちなのか。「生存者の証言」以外の、何か興味深いテキストは存在するか。【重要】(ただし英文テキストを読むのは大変そうです)

まず、多くの元戦争捕虜の実体験に関する氏の記述のいくつかを検証してみよう。

笹氏は冒頭の記述で、われわれ戦争捕虜は武器を携帯しておらず(この記述は正しい。なぜなら、われわれは囚われの身になったばかりだったし、武器の携帯を許される捕虜など、しょせんあり得ないからだ)、所持品は水筒だけだった、と書いている。

では、実態はどうだったろうか。

行進中のわれわれの所持品といえば、米比軍駐屯地域に日本兵が侵攻し、捕虜になったときにわれわれが身に着けていたものだけだった。運よく水筒--それと帽子--を持っていた者もいたが、われわれの多くは”着の身着のまま”の状態だった。日本兵はわが軍の陣地に一九四二年四月十日午前六時になだれ込み、数分間わめきたてたりタバコを物色したりした後、われわれ全員を集め、バターン半島を貫く主要な道路に向かって歩かせた。だからわれわれは、投降したときに身に着けていたもの以外は手ぶらで、多くの者は実は水筒も帽子も持っていなかったのである。そのような装備で、われわれは最初の四日間、食料も水もなしに行進した。

調べることのメモ。

実態はどうだったのか、ということについて、テニー氏が体験したこと以外の記述テキスト・証言などが存在するのか。存在するのなら、その中で「侵攻時の日本兵の行動」「捕虜の所持品」についてはどのように記述されているのか。持ち物として「水筒」「帽子」を所有していたのは多数派だったのか少数派だったのか。可能ならばその割合を調べる。【重要】

さて、当該記事に関する第二の問題点だが、自分は下痢をしていて栄養失調の状態だったから当時の捕虜たちと同じような体調だった、という笹氏の記述について、考察してみたい。

いったい彼女は、栄養失調がどういうものなのか理解してるのだろうか。下痢が一日、二日続くことは、栄養失調であることを意味するものではない。われわれ捕虜は行進に先立つこと六〇日もの間、一日わずか五〇〇カロリーの食事の摂取を余儀なくされていた。米軍がわれわれに与えた食事には、蛋白質もビタミンもほとんど入っていなかったが、われわれ兵士たちは生き延びるために不可避だった過酷な激戦に日々身を投じていた。兵士たちの多くはマラリアに罹っており、バターン半島の動物たちが直射日光や蚊やハエを避けるために体を沈める、地べたの窪地に溜まった汚染水を行進中に飲んだせいで、赤痢に罹った。さらに氏は、自身が「死の行進」のルートを歩いた際に「周囲が緑に囲まれ、木陰が多かったことだ」と記している。だが、氏がフィリピンを訪れたのは、実際の「死の行進」から六〇年もたってからのことなのである。それだけの歳月が流れれば、緑の木々は豊かに繁殖し、木陰もふんだんにできることは確かである。

調べることのメモ。

「行進に先立つこと六〇日もの間、一日わずか五〇〇カロリーの食事の摂取」だったことは事実なのか。なぜそのような食事状態になってしまったのか。その責任は「米軍」側にあると俺は思うのだが、そのことについて言及している資料・史料などは存在するのか。【重要】

兵士たちの「マラリア感染率」はどれくらいだったのか。

兵士たちの「赤痢罹患率」はどれくらいだったのか。

当時の植生に関する描写があるか、あったとしたらそれはどこまで事実なのか、を調べる。【重要】

次に笹氏は、「もし日本軍が捕虜に対して残虐行為を行う計画があったのなら、行進などさせずに(彼らが囚われた)この場所にとどめ置いたはずだ」と書いている。だが、氏が記事の後半で指摘しているとおり、もちろんそれは不可能なことだった。日本軍の主目的はコレヒドールを攻略することであり、この目的を達成するためには大規模な砲撃が必要だったからである。しかし、七万人もの米比軍捕虜をバターンに留めておいては、この目的の達成は不可能とは言えないまでも難しくなる。だから、捕虜の扱い方について思案することではなく、捕虜たちを可及的速やかに現場から移動させることが日本軍司令部にとっての最重要事項だったのである。

ここで、過去の事実との相違点をさらにいくつか取り上げてみたい。

笹氏は、午前八時三〇分からほぼ午後四時三〇分まで歩き、昼食のために休憩している。その後、氏はちゃんとした夕食を摂り、ホテルのベッドで眠りに就いたようだ。たぶん、着替えもしたのではないだろうか。そしてぐっすり休んだ後、リフレッシュして翌日の行動を開始したに違いない。このことと、「バターン死の行進」の途上にあった戦争捕虜の一日に、いったいどのような類似点があるというのだろうか。

われわれは夜明けから日没まで歩いた。昼食のための休憩も夕食もなかったし、夜の寝場所は、優に五〇〇人は収容できるほど巨大な倉庫だったが、そこに一二〇〇人もの捕虜が詰め込まれ、ほとんど横になる隙間もないような混雑状態だった。そして用便が必要になると、自分が寝ている床の上ですることを余儀なくされた。こうした体験のどこに、笹氏の行進中の体験との接点があるというのか。また氏は、バターンの捕虜たちは「早朝と夕刻に行進し、昼間は休息した」と書いているが、いったいどこでこのような情報を収集したのか。これほど馬鹿げた話はない。

調べることのメモ。

「死の行進」において、捕虜たちが歩いた時間、寝た場所、その他具体的な記録・証言を、なるべくたくさん調べる。その中に「早朝と夕刻に行進し、昼間は休息した」という記録があるとするなら、それは誰がどのような目的・視点で書いたものなのかを調べる。【重要】

貴誌のように栄光ある一流誌が、かくも明らかに偏った記事とその結論を掲載することが、いったいどうして可能になったのか、ご教示願いたいものである。笹氏は、六〇年まえに実際に起こった出来事と無関係の意見を述べている。事実、氏はあの一〇〇キロメートルに及ぶ長丁場を踏破こそしたものの、ほとんど何も学んでいないのだ。われわれ捕虜は、日本兵に怒鳴りまくられながら行進し、要求どおりのペースで歩かないと、近くを歩いていた日本兵に小銃の台尻、軍刀、杖、竹の棒など、手にしているあらゆるもので殴られたことを、記憶に留めておいていただきたい。

笹氏の周囲には、早く歩かなかったり、何かを食べるために立ち止まったりしたときに大声で怒鳴ったり、殴ると脅かしたりする者が誰かいたのだろうか。行脚中に用便の必要に迫られたとき、氏に何か不都合が起こったのだろうか。もし当時、われわれがこの基本的な生理的要求を満たすために立ち止まったとしたら、そのときその場にいた日本兵の気分ひとつで、しこたま殴られるか、殺されるかしていたに違いないのである。

調べることのメモ。

行進している捕虜たちに対し、日本兵はどのような行動を取ったのか。「生理的要求を満たすために立ち止まった」ために殴られたり、殺されたりした人間を見た、という証言は存在するか。

ではここで、行進中の捕虜たちの生存のための必需品だった水について考察してみよう。

氏は、次のように述べている----「田園があり、水路があり、ため池があれば、水分の補給には苦労しなかったはずだ……」。読者はここでも再び、二〇〇五年の状況は一九四二年と同じ状況だったと信じ込まされてしまう。これはなんと愚かしい想定であることか。バターン半島で繰り広げられた戦闘中、日米両軍が発射した高性能の爆発力を持つ砲弾が多くの交戦で使われ、半島の陸地を破壊している。現在”田園や、水路や、ため池”がある地域は、六〇年前には今のような環境的条件では存在していなかったのである。なぜ、今日の条件を持ち出して、過去の条件と同一視しようとするのか。

当該記事の検証をここで止めずに、水に関する論議をもう少し続けてみたい。コップ一杯分の水を飲むために水がこんこんと湧き出る掘り抜き井戸で立ち止まったという理由で、捕虜の一人が日本人の銃剣で刺し殺されるのを、私は自分の目で目撃している。たった一口の水のために殺されたのである。

調べることのメモ。

「たった一口の水のために殺された」という捕虜に関する、テニー氏の著述を確認。もし可能ならば、殺された同じ人間に対する、別の人間(捕虜・日本兵双方)の証言・記述を確認。【重要】

では、フィリピンの奥地のすべての道の随所にうがたれた、動物たちが日中たむろする窪地の溜まり水の場合は、どうだったのだろうか。

これらの窪地の溜まり水は非衛生この上なく、さまざまなものが混入していたが、その最たるものは動物の糞だった。しかし、喉が渇いていても水分を摂取せずに行進することを連日強いられていた捕虜たちは、水欲しさで物事を正しく判断する感覚が狂い、行進中の仲間の捕虜たちの列から飛び出して窪地の水面に浮かぶごみを掻き分け、名前ばかりの”水”をなりふり構わず飲んでしまうのだ。その結果、赤痢に罹り、死の影が背後にひたひたと迫ってくる。笹氏は自分の「行進」中、どこで水を手に入れたのだろうか。そして、一日にどれだけの量の水を飲んだのだろうか。

調べることのメモ。

赤痢」に関する病理的な記述を調べてみる。これについて、世間一般で知られていること以上のことを知識として身につける。

最後にもう一点、付け加えておきたい。当該記事には、フィリピンに派遣された日本軍報道部付きの記者が日本軍の兵士に、自分たちは食料もタバコも水も何もかも全部捕虜たちにやってしまい、「すつからかんになる」と聞かされた、というくだりがある。だが、このような記述を誰が信ずるだろうか。このような引用を記事に組み込むことによって、記者はいったい何を証明しようというのか。

調べることのメモ。

火野葦平氏は「日本軍報道部付きの記者」ではなく、普通の日本人の感覚としては「作家・文学者」なんですが(従軍記者もやったので「記者」というのは間違いではありません)、それはともかく、火野葦平氏の著作の当該箇所、というか、いろいろな人の「バターン攻略戦」について書いたテキストに目を通す。【重要】

以下のところによると、それ関係をまとめたテキストもあるみたいですが、

備忘録:文化奉公会編『大東亜戦争 陸軍報道班員手記 バタアン・コレヒドール攻略戦』

これもなかなか読むのは難しそうです。

笹氏はこのような引用を行ったばかりでなく、元捕虜たちが日本兵による虐待に関する証言を行ない、食料や水を与えられなかった状態について語ったことに関して、彼らの証言がいかに信頼するに値しないものかという点を手早く立証しようと努めている。氏は、捕虜たちの証言に関する話を自らのアジェンダに合わせるために歪曲させ、そうすることによって自らの論点が正しいことを証明しようとしているように見えてならない。

笹氏にお願いしたい。「バターン死の行進」は実際にはなかったことだ、などと日本の人々に信じ込ませようと長年努めてきた連中に耳を貸すことは、どうか止めていただきたいのである。貴台が執筆した記事は、世界が第二次大戦中の日本兵の美点だけに思いを馳せることを望んでいる連中の主張に信憑性を与えた。私は、ジャーナリストとしての貴台には、バターン半島における土地利用や環境の昨今の差異、さらには過去との比較における今日の全体的状況の相違点などを十分に考慮し、「死の行進」当時の実態を可能な限り正確に描く責任がある、と考えるものである。

調べることのメモ。

「「バターン死の行進」は実際にはなかったことだ、などと日本の人々に信じ込ませようと長年努めてきた連中」というのは存在するのか。どのような団体に所属する、どのような人間が、どのような主張をしているのか。「長年」ということなので、いつごろからその活動ははじまっており、その活動は十分長いものなのか。

「世界が第二次大戦中の日本兵の美点だけに思いを馳せることを望んでいる連中」というのは存在するのか。どのような団体に所属する、どのような人間が、どのような主張をしているのか。

「バターン半島における土地利用や環境の昨今の差異、さらには過去との比較における今日の全体的状況の相違点」などを、可能ならば調べる。

さらにもう一つ、戦争勃発以来、アメリカ兵と日本兵は互いに相手を殺すために戦っていたのであり、だからバターンにおける戦闘でアメリカ軍に勝ったとき、日本兵は勝利に歓喜したことを忘れないでほしい。そしていつの時代にも、勝者は勝利を祝福するものだということを覚えておいてほしいのである。笹氏よ、一九四二年から二〇〇五年までの歳月の経過の中で、実に多くの変化が生じていることを、どうか忘れないでいただきたい。

さて、一九四二年四月九日にわれわれが日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の五〇パーセントは戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する体調だった。したがって、短距離を歩くことさえ不可能ではないとしても極めて困難だったが、歩行を強制されたこと、あるいは命令に逆らった場合は殺されるしか選択の余地がないという極限の状態に置かれたことで、捕虜たちの多くは不可能と思しきことを可能にし、「死の行進」を生き延びた捕虜たちにとって最初の捕虜収容所となった元米軍野営地、キャンプ・オドネルまでの行進を辛うじて生き延びた。しかし、そのときでさえ、最初の収容所に生きてたどり着いた後、さらに多くの捕虜がマラリアや、窪地に溜まった汚れた水を飲んだことが原因で罹った赤痢や、日本軍の番兵たちに負わされた傷が原因で命を落としている。

調べることのメモ。

「日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の五〇パーセントは戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する体調だった」というのは本当か(具体的にその状況を記録している、信頼できるテキスト・文献は存在するか)。

「最初の収容所」にたどり着いた後死亡した捕虜の数と、主な死亡原因。

氏の報告は私が異論を唱える以上のような記述を経て終わっているが、次の一文で締めくくられている----「事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる」。そこで、笹氏に尋ねたい。「バターン死の行進」に対する責任は日米双方にあると主張されるなら、行進の途中で起こったあの数々の悲劇的な出来事のいったいどの部分が、私の多くの友人たち、あるいは私自身の責任だと言われるのか。

われわれは降伏し、武器と弾薬を日本軍に引き渡し、日本軍のあらゆる命令に服従した。口答えは一切慎み、日本兵の誰一人たりとも手を出そうとしなかった。私の場合、鼻を骨折し、歯を二本へし折られ、頭に深手を、肩に刀傷を負った状態で行進を続けた。これらはすべて、行進中に日本兵から受けた傷だった。だから訊きたい。「バターン死の行進」中に起こったあの悲劇的な出来事の中の「悪」に対して責任があると言われなければならないとしたら、この私はいったい何をしたと申されるのか。貴台が執筆した記事を今回のような形で発表することは、一個人としての私の知性に対する侮辱であるばかりでなく、あの忌まわしい「バターン死の行進」を生き延びたわれわれ元日本軍捕虜すべてに対する侮辱なのである。

調べることのメモ。

テニー氏は、どういう行動を取ったことによってそのような負傷を負ってしまったのか。負傷を負わせた側(日本兵)はその後どうなったのか。

『「バターン死の行進」--事実かフィクションか』と題する私の考察を締めくくるに当たって、「死の行進」の真実に関する無数の誤った報告にまだ反駁することができる健在な仲間は数えるほどしかいなくなってしまったことを、私は悲しむ。もしかしたら、笹氏による今回の記事企画は、氏の検証の結果に論駁できる人間がそう多くはなくなったこの期に及んで、敢えて実施されたのかもしれない。あのとき起こった悲劇的な出来事は語り継がなければならないが、それは特にそれを現場で自ら体験した人々によって語られるべきである。なぜなら、われわれ生存者は、あの戦闘に関しておおかたの研究者やジャーナリストが今後知り得るすべてのことよりもはるかに多くのことを知っているからだ。

私は今、正しいコミュニケーションが重要であることと、誤ったコミュニケーションが由々しき結果を生むことを、改めて肝に銘じている。このことを念頭に置いて、私は敢えてこの場を借りて自らの深甚な信念を述べさせていただきたい。それはつまり、日本の人々は第二次世界大戦中に起こったもろもろの出来事について、さらに多くを知らされるべきであり、栄光ある自分たちの偉大な国家の歴史について正しい知識を得る機会を奪われてはならない、ということである。

戦争が終結してすでに六十余年。あらゆる人間にとって、過去と直面し、逞しく積極的な姿勢でより大きく前進するために十分な歳月が流れたはずである。過ちを正当化する術を探し続けることは止めようではないか----いかに多くの人間たちが逆のことを言っても。

 

レスター・テニー(経済学博士)

(元日本軍捕虜、「バターン死の行進」生存者 米カリフォルニア州カールズバッド在住)

(訳・編集部)

…ということで、長い引用を終わります。

笹氏による今回の記事企画は、氏の検証の結果に論駁できる人間がそう多くはなくなったこの期に及んで、敢えて実施されたのかもしれない」とか、「日本の人々は第二次世界大戦中に起こったもろもろの出来事について、さらに多くを知らされるべきであり、栄光ある自分たちの偉大な国家の歴史について正しい知識を得る機会を奪われてはならない」とか、ラストの部分は歴史修正・見直し主義者に対する過剰な反感が率直に出すぎているきらいがありますが(「抗議の手紙」の英文テキストが公開された場所がサイモン・ヴィーゼンタール・センターだった、という事情もあるのかな)、「バターン死の行進」を体験した人の体験の一つとして、読むに値するテキストだと思いました。

俺個人に対する縛りとしては、まず、このテキストは「いくつかある体験の、あくまでも一つでしかない」ということですね。可能な限りたくさんの記録・証言に目を通さないと、「本当は何があったのか」について知ることは難しいし、特に「証言」に関しては、日本軍兵士の残虐行為にしろそうでない行為にしろ、裏づけとなる記録が残されていないものは「可能性としての真実」以上のものではない、と俺は判断します。特に今回の、戦時中の残虐行為については、「そういう証言をすることで得をする側」という側が見えすぎているのが、ものすごい難点なわけで、そこらへんに歴史修正主義者の突っ込みどころが簡単に生まれてくるわけです(ところで、歴史修正主義者の、その手の突っ込みによる「益」というのは何なんでしょう。どうもうまく俺にはわかりません。俺の姿勢は単純に「本当はどんなことがあったのか知りたい」というだけのことなんですが)。

あと、「バターン死の行進」でひどい目にあった人たちを、「日本もこんな風にひどい目にあっている」みたいな形で相対化してはいけないだろう、ということも重要です。『ソロモン収容所』(大槻巌著)に書いてあるというブーゲンビル島の日本人捕虜の扱いとかには、俺はものすごく興味を持ちましたが、その興味は相対化が目的なわけではありません。

この「バターン死の行進」に関する、笹幸恵さんとレスター・テニーさんのテキスト引用はこれで終わりですが、「調べることのメモ」というのはものすごく溜まってしまったので、調べられるような時間が取れたら、コツコツとやってみたいと思います。南京事件ホロコーストと比べると、元テキストとして考えられるのは英語・日本語以外にはあまりないような気がするので(なにしろ俺は中国語・ドイツ語・ヘブライ語はほとんど読めません)、その点の楽さ加減もいい感じです。

劣化ウラン弾」もどうやら一段落したので、ちょっと次からは「バターン死の行進」というカテゴリーでも作って、延々とやってみますか。

2006-05-05

[]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その5)

これは、以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060504#p1

最初から読みたい人はこちらから。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1

 

今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。このテキストの引用は、今回で終わりです。

兵隊はすっからかんになる

さて、実際に歩いてみてわかったことがある。それは、第一に「この距離を歩いただけででは人は死なない」ということである。今回、私は、準備はおろか栄養失調状態でこの行進に臨んだが、無事に歩き終えた。筋肉や関節が痛み、足の指には三つのマメができた。しかしそれでも、足は惰性で動くのだ。このことは、移送計画自体が、そう無理なものではなかったということも示している。実際に道をたどると、なるべく目的地まで近い道を選択しており、組織的な虐待という指弾はあたらない。

調べることのメモ。

「バターン死の行進」で死んだ人の数は、公的には何人になっているか。その死因は主に何だったのかを調べる。できれば非・公的なもの(異説)と、その根拠も調べる。【重要】

ただし、これは水分を補給した上での話である。自分が歩いてきた道程を考えれば、わずかな水と食料だけで行進するのは、かなり過酷であることは事実だ(「死の行進」では、暑さを避け、早朝と夕刻に行進し、昼間は休息したという記述もある。その意味では、私の方が炎天下を歩いたことにはなる)。

バターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないかと思われる。しかし、監視の目を盗んでそれを行うのは困難だったろう。「(日本兵は)我々がどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」と、捕虜の一人は証言している。

もっとも、これら捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない。「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書である。また、戦犯裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。なかには、「ジャップは道端に並んで、捕虜たちが行進していくと、殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり、果ては便器の中身をぶちまけたり、とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などという、にわかには信じがたい証言もある(国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録)。

一方、比島派遣軍報道部がまとめた『比島戦記』の中で、火野葦平氏は次のように記している。

「(兵隊たちは)自分が今日から食べるものがなくなることも忘れて、持つている限りの食料をやつてしまふ。(略)煙草をやる。水筒の水をやる。兵隊はすつからかんになる」

調べることのメモ。

国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録」における、日本人による捕虜虐待の証言記録。【重要】

『比島戦記』の中における、火野葦平のテキスト確認。【重要】

水や食料が不足していたのは、日本軍も同じだった。捕虜たちが味わったのが「死の行進」なら、日本軍もまた「死の行進」を味わっていたのである。

むしろ、最大の問題は、水不足や栄養失調より、捕虜たちがマラリアなどの病気にかかっていたことではないだろうか。マラリアは重症の場合、しばしば死に至ることがあるが、もし「死の行進」の最中に捕虜がマラリアで亡くなったのだとしたら、それは行進に起因するものというより、米比軍側のそれ以前の治療体制が不十分だったということを示している。種類にもよるが、マラリアの潜伏期間はだいたい二週間程度だからだ。もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない。

調べることのメモ。

「バターン死の行進」での、捕虜の死因(既出)、およびマラリアに関する症例調査。

もう一つの「死の行進」

徒歩で捕虜たちを行進させたことについて、ルポライターの鷹沢のり子氏は日本軍の命令系統が混乱していたことに言及し、これを批判している。

防衛庁防衛研究所戦史質著『比島攻略作戦』を読むと(中略)、良心的にとれば『輸送する予定ではあったが、トラックが不足していたので、一部の捕虜たちをトラック輸送して、あとは徒歩行進させた』と解釈できる。しかし日本軍は陥落後、捕虜の移動に関して混乱状態にあり、重要なことがらを徹底して伝えるほど余裕がなかったのだ」(『バターン「死の行進」を歩く』・傍点筆者)(引用者注:「傍点」を「強調文字」に変えました)

調べることのメモ。

『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(輸送問題)の確認。【重要】

防衛庁防衛研究所戦史質著『比島攻略作戦』に記述されている「輸送」に関するテキストの確認。【重要】

これは戦時下の状況をあまりに理解していない空疎な言葉といわざるを得ない。このとき、眼前のコレヒドール島攻略が日本軍にとって焦眉の急であり、直後から実際に大砲撃戦が展開された。その最中、捕虜の輸送がもっとも「重要なことがら」にはなりにくい。もし全員を乗せるだけのトラックがあるのなら、まず弾薬や戦闘のための補給に優先的に使用されただろう。平穏な時代に身をおいて人道主義を唱えることは易しい。

第一、そんな平穏な時代のノーテンキの代表のような私でも、歩ける距離なのだ。鷹沢氏はマリベレスからサンフェルナンドを通過し、収容所があったキャパスまで五泊六日で歩いているが、行程の一部をバスで移動している。私と同じように三万六千歩を歩いた日の夜などは「食欲が全くない」と形容しているが、不思議な話である。最初、栄養失調気味だった私ですら、踏破できたのだから。

調べることのメモ。

『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(鷹沢氏の体験したこと)の確認。【重要】

そして行進の間、もう一つ実感したのは、反日感情がまったく見られなかったことである。七〇年台中頃まで、バターン半島はフィリピンの中でも最も反日感情が強い地域の一つであった。しかしその後、宗教団体による留学生受け入れなどで、友好関係が築かれるようになっている。「死の行進」の道のりを地元住民に尋ねながら先導してくれTガイドのHさんすら、皆がじつに丁寧に答えてくれたのには驚いていた。

行進しているときも一目で日本人とわかるのだろうか、老若男女問わず、親しげに「アリガトウ」「オハヨウ」などという言葉をかけてくる。「アユ、アユ」と子どもたちに呼びかけられたこともあった。人気歌手のニックネームである。

調べることのメモ。

フィリピン人の、日本に対する感情。できれば世代別・居住地域別(都市・農村部とで違いがあるか)。

歩いてみてもう一つわかったことがある。全行程は正確には百二キロ。四日間で歩いたとすると、一日約二十五キロ。実は、この数字は「捕虜の後送は二十キロメートル」と定めたジュネーブ条約に反しているという見方もできるのだ。もっとも、条約には、その後に続く文言もある。「但シ水及食料ノ貯蔵所ニ到達スル必要上一層長キ旅程ヲ必要トスル場合ハ此ノ限ニ在ラズ」

調べることのメモ。

ジュネーブ条約」の捕虜後送に関する記述。

さて、最後にもう一つの「死の行進」について記しておきたい。太平洋上に浮かぶギルバート諸島の一つに、ナウル島という小島がある。戦後、ここで戦った兵士たちは豪州軍の捕虜となり、「バターン死の行進」の縮小版とも言える経験をしている。

『ソロモン収容所』(大槻巌著)によれば、彼ら守備隊は輸送船に三百人以上詰め込まれ、ソロモン諸島北端のブーゲンビル島へと移送された。そして上陸前に水筒の水を捨てさせられ、炎天下三十キロ余りをタロキナの収容所まで行進させられているのだ。川があっても豪州軍は足で水をかき回し、泥水にしてしまう。さらにナウル島にはマラリアがなかったため、免疫をもたない彼らはあっという間に感染し、死亡者が相次いだ。

調べることのメモ。

『ソロモン収容所』(大槻巌著)における、日本人捕虜の扱いの確認。それはどの程度まで本当のことなのかも確認。【重要】

戦時中ではない。日本が降伏した「戦後」の話である。豪州軍の責任者は処罰もされていないし、賠償の対象にもなっていない。

戦争を風化させてはならない、とメディアは盛んに書き立てる。ならば、マニラに支局を持つ大メディアの記者たちはなぜ、実際に現場に足を運んで検証しようとしないのか。そしてそれが非人道的行為であったとするなら、同様の行為が日本人兵士にも加えられたことを、なぜ報道しないのか。

かつて、バターンでの行進の様子を脱走した捕虜から伝え聞いたマッカーサーは、「適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務」だと復讐を誓っている。その結果、「死の行進」は「リメンバー・パールハーバー」と並び、米国中の憎悪をかきたてるスローガンとなった。

戦争は憎悪の応酬によって肥大化していく。それは今次のイラク戦争とその後に続く泥沼化を見ても明らかだ。憎悪の応酬を防ぐものは事実の検証でしかない。事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる。

たった四日の、「私の死の行進」がそれを教えてくれた。

調べることのメモ。

引用されているマッカーサーの言葉の出典元。

「バターン死の行進」は、「米国中の憎悪をかきたてるスローガン」としてどの程度有効だったのか、当時のキャンペーンぶりを調べる。

 

引用は以上で終わりです。

俺の感想は、実際に徒歩で歩いてみる、という笹幸恵さんの行動は興味深いと思いましたが、最後の「まとめ」的な一節が少しごちゃごちゃしているかな。特に気になったのは「憎悪の応酬を防ぐものは事実の検証でしかない。事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる。」というフレーズで(これについては後述の、テニーさんの抗議テキストでもつっこまれていますが)、「事実の検証」というのは、俺の考えでは「実際に体験してみる」とイコールではありません。笹さんも「イコール」とは言っていないな、より重要視できるものでもない、と言ってみましょうか。

事実の検証のためには、残された記録を読み(なるべく原典・元テキストで)、関係者の証言を聞き(聞いたあとで「その証言はどこまで本当なのか」の確認をして)、事実と思われるものを淡々と、歴史として認識する必要があります。その結論として「一方的な悪など存在しない」ことが見えてくることはあるかもしれませんが、最初からそれを目的で歴史を見る、という視点があるのも気になります。そういう意味でたとえば、「捕虜の証言には疑いを持ちながら、日本側の比島派遣軍報道部がまとめたテキストは信じてしまう」ということに対する、歴史修正主義に対して批判的な人の批判も納得できるものです。「日本人が大戦中にしたひどいこと」ばかりが強調されて語られ、「一方的な悪」に扱われている、と笹幸恵さんが思っていることが、「そんなにひどいことはしなかった」という証言(記録)の提示になっているのだろう、とも俺は判断しますが。

 

最後に、俺のほうで「調べることのメモ」をまとめておきます。実際に調べるかどうかは、今のところは未定です。【重要】と記してあるものは何とかできれば調べたいんですが、「THE WAR CRIMES OFFICE」のように、国会図書館まで行かないと調べられないものもあったりするので、無理かな。

  1. 「武勇の日」とは現地名でどう呼ばれ、それはどのように普通のフィリピン人の間では記憶されているのか。
  2. そのような理由で(「真珠湾攻撃」と「バターン死の行進」を理由にして)「非戦闘員への無差別殺戮」を弁解している米軍関係者は誰で、どのようなことを言っている記録があるのか。「米軍」ということなので、「米軍兵士・士官の一個人的な意見」レベルではなく、公式にそのようなことを述べた記録は存在するのか。【重要】
  3. 真珠湾攻撃」と「バターン」との、研究・資料文献の量の違いについて。
  4. 行進した人数・死亡した人数の正式な数(公的記録)。その道を歩いた人間(ジャーナリスト)は本当に今までいなかったのか。
  5. 本間雅晴中将に関する起訴状を見る(一次資料の確認)。【重要】
  6. NPO団体「FAME」の活動の実態。公式サイトはあるのか(ちょっと検索してみたんだけど、それらしいところは見当たりませんでした)。
  7. 「さまざまな角度から見直され」ているテキストについて、誰がどのように、どういう角度で見直しているのか、という具体例。
  8. 「軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏」の、引用されている元テキスト。【重要】
  9. 「(行進の距離に関する)まちまちな記述」の元テキストを探してみる。
  10. 「捕虜の数だけ「死の行進」のストーリーがあるのであって、これらをすべて検証するのは不可能だろう。」というこの部分のテキストは、レスター・テニー氏には正確に伝わっているのか。これは調べるというより、関係者に聞くしかないですね。
  11. 「捕虜の証言記録」を読んでみる。できれば英語テキストで。【重要】
  12. 「六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進した」という記述を「最も一般的」である、とした著者の根拠について調べてみる。
  13. 笹幸恵氏が歩いた日の、現地の正確な気象。(これはまぁ、調べる手間の割にはたいしたことが分かりそうにないので、どうでもいい)
  14. マリベレスにある「死の行進の記念碑」に書かれているテキスト(元テキスト)には何と書かれているか、の確認。
  15. コレヒドール島の、その時点での武器・弾薬の状況。
  16. 『太平洋戦争(上)』(児島襄著)の中の、「バターン死の行進」に関する記述。【重要】
  17. 捕虜による「配給」に関する証言。【重要】
  18. 今日出海氏の「炊き出し」に関するテキスト。【重要】
  19. 「死の行進の距離」を「誰も現地で確認しなかった」というのは本当か。
  20. 「マリベレス−サンフェルナンド間が六十キロという説」は、どの文献に載っているのか(誰も書いたりしていないことを書いたと書いているということはないのか)。その文献は重要なもので、二次・三次的引用がされているものなのか。【重要】
  21. 当時の風景、および「水分補給」に関する証言を確認する。【重要】
  22. 「フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない」というのは本当か。
  23. 『バターン遠い道のりのさきに』(レスター・I・テニー)に目を通す。「梨の木舎」というところから2700円+税、という値段で2003年3月に刊行されているみたいです。【重要】
  24. 「バターン死の行進」で死んだ人の数は、公的には何人になっているか。その死因は主に何だったのかを調べる。できれば非・公的なもの(異説)と、その根拠も調べる。【重要】
  25. 国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録」における、日本人による捕虜虐待の証言記録。【重要】
  26. 『比島戦記』の中における、火野葦平のテキスト確認。【重要】
  27. 「バターン死の行進」での、捕虜の死因(既出)、およびマラリアに関する症例調査。
  28. 『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(輸送問題)の確認。【重要】
  29. 防衛庁防衛研究所戦史質著『比島攻略作戦』に記述されている「輸送」に関するテキストの確認。【重要】
  30. 『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(鷹沢氏の体験したこと)の確認。【重要】
  31. フィリピン人の、日本に対する感情。できれば世代別・居住地域別(都市・農村部とで違いがあるか)。
  32. ジュネーブ条約」の捕虜後送に関する記述。
  33. 『ソロモン収容所』(大槻巌著)における、日本人捕虜の扱いの確認。それはどの程度まで本当のことなのかも確認。【重要】

 

このあとさらに、文藝春秋2006年3月号に掲載されたレスター・テニー氏の抗議文と、それを載せるに至った編集部のテキストがありますので、まだだ、まだ終わらんよ、なのです。

 

これは以下の日記に続きます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060506#p1

2006-05-04

[]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その4)

これは、以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060503#p1

最初から読みたい人はこちらから。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1

 

今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。

百二キロを踏破

▼十月十五日(三日目)。天候晴れ。

夜中にスコールが降ったが、午前七時の時点で太陽が照りつけている。kろえから味わう暑さを想像すると、うんざりしてくる。

午前八時半、気温三十四度。アブカイ教会から行進を開始する。今日は、デナルピアンからパンパンガ州に入り、ルバオ付近を目指す予定である。

四十分ほど歩くと、五十キロ地点の道標が確認できた。もし「死の行進」が百キロを超えるのだとしたら、ようやく半分ということになる。昨日は足が相当重かったが、今日はそれほど筋肉の悲鳴は聞こえてこない。足も行進に慣れたということか。人間、退化もするが、順応するのも意外と早いのかもしれない。

六十キロ地点の道標を過ぎたところでヘルモサの街に入った。それにしても、この死の行進の距離をなぜ、誰も現地で確認しなかったのだろうか。この時点で、マリベレス−サンフェルナンド間が六十キロという説は明らかに間違いであるということがわかる。もっとも道標も正確とは言えない。一キロ等間隔で建てられているとはとても思えない。ただ、多少の誤差はあるとはいえ、車のメーターと合わせて測ると、総距離としてはだいたい辻褄が合うように建てられている。概ね道標が示す距離に間違いはなさそうだ。

調べることのメモ。

「死の行進の距離」を「誰も現地で確認しなかった」というのは本当か。

「マリベレス−サンフェルナンド間が六十キロという説」は、どの文献に載っているのか(誰も書いたりしていないことを書いたと書いているということはないのか)。その文献は重要なもので、二次・三次的引用がされているものなのか。【重要】

暑さにも足の疲労にも慣れたが、今度は退屈が我慢ならなくなってきた。六十三キロ、六十四キロ、六十五キロ……。たいして代わり映えのしない田園風景がずっと続いている。いや、考えてみれば、田園があり、水路があり、ため池があれば、水分補給には苦労しなかったはずだ……いや、当時は水田だったかどうかもわからない、いろいろな想いにふけりながらひたすら歩く。の

調べることのメモ。

当時の風景、および「水分補給」に関する証言を確認する。【重要】

人によっては、のんびりしたウォーキングを連想されるのかもしれない。だが、フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない。狭い道を車やバスが猛スピードで走りぬけ、大量の排気ガスをもろに受けながら、太陽の照りつける中を歩いているのである。散歩気分にもなれなければ、孤独を楽しむ心の余裕もない。思考回路も完全にストップしてくる。

調べることのメモ。

「フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない」というのは本当か。

午後二時、気温は三十九・一度を記録した。ただひたすら、足を前に出すだけの作業を続ける。あまりの退屈さにイライラする。歌でも歌おう。口をついて出てきたのは”丘をこえ行こうよ”で始まる「ピクニック」だった。次に口ずさんだのは慰霊巡拝の旅で、老人たちに教わった「歩兵の本領」である。不思議なもので、歌いながら歩けば、足取りも軽やかになる。たしかに軍歌の効用はあるのかな、と思う。

午後四時四十分、パンパンガ州に入るアーチが目に入った。この州の州都がサンフェルナンドだ。しかし、この頃になると歩幅は徐々に狭まり、歩みは遅くなる。沿道に並ぶ植木屋をぼんやり眺めながら歩き続けるが、もはや歌う気力もなくなった。

五時半、ルバオにある植木屋の軒先に建てられた七十五キロ地点の道標のところで、本日の行進を終える。歩数、約四万歩。宿泊先のホテルに着いて車を降りようとすると、足に力が入らず転びそうになった。

▼十月十六日(最終日)。天候晴れ。

最終目的地は、いよいよサンフェルナンドだ。前日までのペースで行けば、予定通り四日で終えることになる。午前九時、昨日の七十五キロ地点から行進を開始する。一時間ほどでルバオの中心街へと入った。車が大渋滞を起こしている。街中を過ぎると、車も少なく遊歩道を歩いているようなのどかな気分で行進できるようになったが、今日はやけに暑さが体にこたえる。まだ気温は三十四度前後。行進四日目ともなると、さすがに疲労もたまっているようだ。

正午過ぎ、八十七キロ地点の道標にたどり着いた。ここから先は道標がない。一九九一年のピナツボ火山の噴火によって、距離などの再調査が不可能になったからのようだ。旧道から新道へ入り、サンフェルナンドまで一直線の道をひたすら歩き続けなければならない。

道標がないので、どのくらいの距離を歩いたのか、朦朧とした頭では見当もつかない。捕虜たちはサンフェルナンドから貨車でキャパスまで送られたが、自分たちの行き先を知らされていなかった。目的地がはっきりしなければ、実際、この行進はつらいものであっただろう。永遠に続くかのような錯覚さえ覚える。

米軍捕虜として「死の行進」に参加したレスター・I・テニー氏は、「目標を持つための目印を探した」と、著書『バターン遠い道のりのさきに』で述べている。私も同じようにやってみた。たとえば、あの三メートル先の電柱まで歩こうと決める。それができたら、さらに三メートル先の木の根っこを目指す。身近な目印を見つけ、それをクリアすることで辛うじて気力を維持するのである。

調べることのメモ。

『バターン遠い道のりのさきに』(レスター・I・テニー)に目を通す。「梨の木舎」というところから2700円+税、という値段で2003年3月に刊行されているみたいです。【重要】

そこに添付されているテニーさんの略歴は、こんな感じ。(アマゾンの書籍データから)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4816602070/reviews/ref=cm_rev_more/

テニー,レスター・I.

1920年シカゴに生まれる。1949年マイアミ大学よりBA取得。1967年サン・ディエゴ州立大学よりMA取得。1971年南カリフォルニア大学より博士号取得。アリゾナ州立大経営学部名誉教授。専門は金融論・保険論。現在も企業における隠退計画セミナー・財政金融問題の法廷裁判で専門立会い人をつとめる。第2次世界大戦中は無線技師、戦車指揮官として従軍。バターンの戦闘、バターン死の行進・三井鉱山での強制労働を含む3年半の捕虜生活を経験。戦闘での働き、同僚捕虜支援により多くの栄誉と賞を受賞。1995年に本書を出版し2000年には文庫版刊行。当時のクリントン大統領にも感銘を与え、直筆の手紙を送られている。1999年、カリフォルニア州法の改正に基づき、戦時中の残虐な使役への謝罪と適正な補償を求めて日本企業に対し個人起訴を起こしている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

ますます、テニーさんの活動に興味を持ちました。特に、どういう賞を受賞し、どういう裁判に関係しているのか、が知りたいです。

笹幸恵さんのテキストの引用を続けます。

これはなかなか奏功した。午後四時、ついにサンフェルナンドの街を示すアーチをくぐる。それから三十分ほど歩いただろうか。私たちは立体交差点から、一般道路へと入った。ここから先はあと一キロ程度だという。やっとたどり着けるのだ。最後の気力を奮い立たせる。

その瞬間だった。雲行きが怪しくなってきたのだ。あまりに晴天が続いたのですっかり忘れていたが、今はまだ雨期。あっという間に地面をたたきつけるようなスコールとなった。

実際は、一キロもなかったように思う。店が立ち並ぶ繁華街を掻き分けるようにして道を進むと、だんだん人気がなくなり、行き止まりのような場所に出る。よく見ると、左に曲がりくねった細い道が続いている。この細い道を入っていくと、スコールで遮られていた視界に突然現れた建物、それがサンフェルナンドの駅舎だった。中は空洞だが、レンガ造りの外枠はしっかり残っている。その裏手には、久し振りに目にする道標が建っていた。

「DEATH MARCHI KM102」

午後五時、最終目的地であるサンフェルナンドに、ついに到達したのである。

スコールは上がり、向かいの教会からは賛美歌が流れた。そこだけ異質な空間を生み出しているように感じられた。

笹幸恵さんの「死の行進」を実際に歩いた記録はこれでおしまいで、あとはそれに関する笹さんの感想・意見があります(あと2回ぐらいでテキスト掲載は終了します)。(追記:次の回で終わりました)

俺がこの「記録」部分を読んだ感想は、「一人の人間が、自主的にその距離を歩いた、という記録だけでは納得いかねぇ」というのが正直なところです。こういうのは集団で百キロを、それも半強制的に歩かせて、その後の感想を書かせる、ということを、高校生あたりにやらせるといいんじゃないでしょうか。『夜のピクニック』(恩田陸)ではなく、「炎天のデスマーチ」。ていうかむしろ『死のロングウォーク』(スティーヴン・キング)。引率する教師陣は体育会系の極悪なのを用意します。どうせ出てくる感想文などは、今時の高校生だったら「青春のいい思い出になった」「感動した」とか、放っておいたらありきたりの、教師が喜びそうなことしか書かないでしょうから、「引率教師を殺してやろうかと思った」「何だよこの課外授業は」「死ねばいいのに」とか書くぐらいの、ものすごく嫌な体験をさせることが重要です。

 

これは以下の日記に続きます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060505#p1

2006-05-03

lovelovedog2006-05-03

[]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その3)

これは以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060501#p1

最初から読みたい人はこちらから。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1

 

今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。

今日は地図があったほうがいいと思うので、少し見にくいとは思いますが張ってみました。

オリジナルの大きい奴は、以下のところにありますので、テキスト読むときの参考にでもしてみてください。

WQ 6 BDM Map

この地図の「Mariveles」から「Balanga」あたりまで、今日のテキストでは笹幸恵さんは歩いたことになります。

それでは、引用をはじめます。

気温三十八・九度、三万六千歩

午前九時すぎにマリベレスのスタート地点に到着。

この場所は小さな公園のような憩いの場となっており、向かって正面には死の行進の記念碑が建立されている。碑には、マリベレスおよびバガックからサンフェルナンドまで、七万人以上の集団が夜も昼も行進を続けた、との説明がある。

調べることのメモ。

マリベレスにある「死の行進の記念碑」に書かれているテキスト(元テキスト)には何と書かれているか、の確認。

九時半、いよいよ「死の行進」スタート。この時点ですでに燦燦と太陽が照りつけており、気温は三十二・六度。うだるような暑さだ。

歩き始めた途端に蒸し暑い空気が体中を包み、じっとり汗が滲み出る。十五分ほど歩くと、一キロ地点の道標が建っていた。この道標が正しいとすれば、時速四キロということになる。ちなみにこの時点でも、「死の行進」の正確な距離はわかっていなかった。現地でロードマップを入手したが、地図上の数字を合算するとサンフェルナンドまでは八十八・七キロとなる。しかしこの行進の先導役を務めてくれたガイドのHさんによると、ルバオ付近に八十七キロ地点を示す道標があり、そこからサンフェルナンドまでの距離を車のメーターで測ると、合計で百二キロになるという。こうなると、地図さえもアテにならない。

しかも、半島東岸には現在、新道と旧道といわれる二つの道がある。新道はマリベレス経済区から都心部までの輸送を容易にするために、戦後になって敷設されたハイウエイだ。一方の旧道は、町と町とをつなぐ言わば生活道路のようなものである。この二つの道路がくっついたり離れたりして半島付け根のデナルピアンまで続く。旧道の一部は新道と重なるよう拡張されているから、戦時中の道と全く同じというわけにはいかない。ひとまず、一キロごとに置かれた「死の行進」の道標を頼るしかなさそうだ。

三キロ地点の道標を過ぎると、上り坂でカーブが続くようになった。かなりな急勾配で、箱根の山道を連想させる。救いは、周囲が緑に囲まれ、木陰が多かったことだ。

さらに進むと、経済区のゲートを抜けてなだらかな上り坂となる。海の向こうにコレヒドール島の島影がはっきり認識できた。約四キロしか離れていないから、大砲は十分に届いたであろう。バターンの降伏後、日本軍はすぐさまコレヒドール要塞の攻撃に移っているから、もし日本軍が捕虜に対して残虐行為を行う計画があったのなら、行進などさせずにこの場所にとどめ置いたはずだ。

調べることのメモ。

コレヒドール島の、その時点での武器・弾薬の状況。

「調べることのメモ」ではないんですが、ちょっと笹幸恵さんが最後の文で言いたいことが意味不明でした。「捕虜など味方の玉にでも当たって死ねばいいのに」とは、日本軍は思わなかった、みたいなことが言いたいのかな。

まだ始まったばかりというのに、ふくらはぎがパンパンに張ってくる。文明の利器に慣れ親しんでいると、人間ここまで退化するものなのか。情けない。昼食ののち、午後三時には当初の目的地だったカブカーペンに到着。バターン半島総指揮官キング少々の軍使が降伏を申し入れてきた場所だ。十六キロ地点の道標がある。

ふくらはぎの次は大腿部の付け根がきしんできたが、幸い、気力はまだ残っている。もう少し歩いてみよう。できるだけ気力体力のあるうちに距離を稼いでおかなければ。なだらかな下り坂が続き、今度は脛が痛くなってくる。

道はほとんどアスファルトで整備されている。『太平洋戦争(上)』(児島襄著)によれば、当時もアスファルトの道路が続いていたという。私は、彼らと同じような道を今、たどっているのだ。それにしても暑い。三時過ぎ、気温は三十八・八度を記録した。

調べることのメモ。

『太平洋戦争(上)』(児島襄著)の中の、「バターン死の行進」に関する記述。【重要】

午後四時五十分、リマイに近い二十二キロ地点の道標で一日目の行進を終えた。歩数、約三万三千歩。足が重い。

▼十月十四日(二日目)。天候曇りのち晴れ。

午前八時四十分、行進開始。約二十五キロ離れたアブカイを目指す。

二十三キロ地点の道標から、旧道を歩く。気温はすでに三十三度を超えている。新道と旧道が入り乱れているため、ガイドのHさんが車で先回りして道標を確認し、進むべき道を教えてくれる。

午前十一時には、三十二キロ地点に到達する。このあたりは田舎らしい田園風景が続き、私は合鴨農法をやっている水田を初めて目にした。民家が連なる街中でも、ここはのどかな雰囲気が漂う。戦時中の要塞で、激戦地となったサマット山にそびえ立つ巨大な十字架がはっきり見て取れた。

午後一時半には三十八・九度を記録。蒸し暑い空気が、全身の毛穴をふさいでしまうかのような息苦しさを覚える。昼食後、四十一キロ地点の道標に到着、ピラーへたどり着いた。さらに進むと、天を突く刀剣の巨大なモニュメントがあり、T字路になっている。二十六キロ地点を示す道標があり、数字の下には「BAGAC=0」と記載されている。ここがバガックから出発した捕虜たちとの合流地点だったようだ。

バランガでは、多くの捕虜が米と水の配給を受けた。ただし、配給に関する証言は捕虜によって異なり、マリベレスで缶詰を一缶ずつ分け与えられた者、カブカーベンでは水を、ルバオでは食料を配られたという者もいる。さらにはオラニでも、報道部が炊き出しをした、と当時部員であった今日出海氏は述べている。

午後五時、兵隊の像が建立されているのが見えた。アブカイ教会である。ここで行進を終了することになった。歩数、約三万六千歩。二日間でバターン半島の三分の二を歩いたことになる。相変わらずふくらはぎが張っているが、初日ほど暑さは気にならなかった。体が順応してきたのだろうか。

調べることのメモ。

捕虜による「配給」に関する証言。【重要】

今日出海氏の「炊き出し」に関するテキスト。【重要】

ということで、多分笹幸恵さんはトータルで100キロぐらい歩くことになります。

そこで、これを使って、

地図上で距離を測るサンプル【僕の歩いた跡に道はできる】

「日本橋」を基点にして東海道(国道一号線)を歩くと、だいたいどのくらいのところまで行けるかを調べてみます。これも旧道・新道があってややこしいのですが、一応地図の「国道一号線」の旧道らしいところをたどってみます。

…横浜駅前まで約32キロ。

…藤沢バイパス出口あたりで約50キロ。

…小田原あたりで約80キロ(このツール、めちゃくちゃ面白いです)。

小涌谷あたりで約97キロ。

ていうか、これ、ほぼ駅伝のコースと同じなんですが。

クネクネした山道を辿るのは面倒くさいんですが、「元箱根」までたどり着いたら、約105キロ。

「バターン死の行進」は、その逆コースを辿って東京まで着いた、みたいな感じですか。

俺だったら、笹幸恵さんより軟弱なので、小田原あたりの十キロで、もう嫌になりそうです。

ていうか、マラリアにかかってて、水もろくに飲めなくて、何言ってるかわかんない日本兵にこづかれながら歩かされたら、いかにネット右翼とネットの中では言われているような俺でも、頭パーになります

やはり、ますます「バターン死の行進」の真相について、当時の日本兵・捕虜の両方の証言(生の記録、というか元ソース)を猛烈に読みたくなりました。

 

これは以下の日記に続きます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060504#p1

 

2006-05-01

[]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その2)

これは以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1

 

一応、続ける前に、ネットで見つけたこれ関係のことが書いてあるところ。

Bataan Death March2ちゃんねる軍事板常見問題FAQ)

↑ここのテキストは、資料としての出典の明示が割としっかりしているものが多く、関係資料として何を読んだらいいのかを知る参考になりました。

笹幸恵さんのテキストは、出典明示しなさすぎなのが少し(俺のような人間には)読み通すには大変でした。読みながら「それ、どこの誰が言ったことなんだよ」「どの本にそんなことが書いてあるのよ」と思うことが多すぎです。

あと、こんなのとか。

Bataan Memorial Death March

毎年ニューメキシコのほうでやっている記念行事みたいです。

 

それでは、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。

組織的残虐行為だったのか

「バターン死の行進」は、ナチスドイツのホロコーストと同列に、組織的計画による残虐行為として論じられてきたが、戦後六十年を経た今、さまざまな角度から見直されつつある。

日本軍は事前に輸送計画を立てたが、捕虜が想像以上に多かったためトラックなどの輸送手段や収容施設、医療施設に事欠いたこと。また日本軍は徒歩による行軍が当たり前だったこと。もともと日本軍に食料は乏しく、捕虜に支給する余裕はなかったこと。しかも日本軍は小銃を構え、完全軍装でこの行進に臨んでおり、軽装の捕虜のほうが楽に歩けたこと----等々。しかも、バターン半島の米軍司令官は降伏したものの、対岸にあるコレヒドール島の米比軍との砲撃戦はまだ続いていた。日本の軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏は、これを「死の行進」ではなく、砲撃を避け、食料のある場所に移転するための「生の行進」だった、と指摘しているほどだ。

調べることのメモ。

「さまざまな角度から見直され」ているテキストについて、誰がどのように、どういう角度で見直しているのか、という具体例。

「軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏」の、引用されている元テキスト。【重要】

しかしその実態を検証しようにも、具体的にどのような行程を辿ったのか、詳細を語る記録はきわめて少ない。行進の距離からして、記述はまちまちである。

マリベレスからサンフェルナンドまで六十キロというものもあれば、八十八キロと記したものもある。また、「部隊によって異なり、六十キロから百二十キロ」と記述した書物もある。これらを四〜五日かけて歩いたというが、どれが真実なのか、さっぱりわからない。

調べることのメモ。

「まちまちな記述」の元テキストを探してみる。

「マリベレスからサンフェルナンドまで」の距離は、今だとこれを使うとすぐに出来そうな気がするので、やってみる。

地図上で距離を測るサンプル【僕の歩いた跡に道はできる】

やってみたけど、「マップ」ではなくて「サテライト」表示しかできませんでした。これでは無理か。

歩いてみるしかない。もちろん私一人がバターン半島を歩いたからといって、当時と今では、目にする光景も相当異なっているはずだ。また、捕虜たちが投降した場所やそのときの体調によっても、行進の苦しさには差が出る。捕虜の数だけ「死の行進」のストーリーがあるのであって、これらをすべて検証するのは不可能だろう。

調べることのメモ。

この部分のテキストは、レスター・テニー氏には正確に伝わっているのか。これは調べるというより、関係者に聞くしかないですね。

しかし、ろくに運動もしていない三十路女が実際に捕虜の跡をたどる、その実体験は一つの目安にはなるはずだ。「記者は足で書け」ともいう。

行進にあたり、バターンについて書かれた文献や戦記を元にいくつかの条件を設定した。

まずは、行軍のスタート地点である。実は、「バターン死の行進」はマリベレス−サンフェルナンド間のほかに半島西岸中央のバカックからも始まっている。しかし、軍主力の目的はマリベレス攻略にあったと考えられ、また、バカックからより長距離であることなどから、マリベレスを出発地点とした。

次に日程である。捕虜の証言記録によると、三日間で歩いたケースもあれば、二週間以上かかったケースもある。しかし先に述べたように六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進したという記述が最も一般的であるため、これに準じて四日プラス予備一日を加え、五日間の日程を組んだ。

三つ目は服装や持ち物についてである。これも諸説あるが、共通しているのは投降した捕虜たちは武器を持たず、水筒一つぶら下げているのみだったことから、行進時はほとんど荷物を持たず軽装で行うこととした。

調べることのメモ。

「捕虜の証言記録」を読んでみる。できれば英語テキストで。【重要】

「六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進した」という記述を「最も一般的」である、とした著者の根拠について調べてみる。

四つ目は、体調についてである。捕虜たちは投降した当初、一様に憔悴しきっていた。多くは栄養失調で、マラリアや赤痢にかかっている者も少なくなかった。これを忠実に再現するのは難しい。が、実をいうと、私は出発の四日前まで、ソロモン諸島のブーゲンビル島における十二日間の慰霊巡拝団に同行し、帰国後すぐにフィリピンを訪れた。幸か不幸か、ブーゲンビルの水にあたって下痢を繰り返し、食べ物をほとんど受け付けなくなっていた。マリベレスに到着したときは、準備運動をしただけで息切れがするほどの有様だ。はからずも、栄養失調状態だったのである。

過酷な戦時中と比べるべくもないが、私は身長百五十三センチ・体重四十数キロでしかない。二十歳前後の壮健な兵士と私との体力差を考慮すれば、その差は縮まると考えていいだろう。もちろん、バターン半島を歩くための特別なトレーニングは一切していない。

最後は天候である。行進が始まった四月はフィリピンの一年の中で最も暑い季節。日中は四十度になることもある。四月は乾期だが私が歩いた十月は雨期。厳しい日差しと曇りがちな天気とでは、体に及ぼす影響も異なる。しかし結論から言えば、気候の差はほとんどなかった。私が行進を開始した十月十三日から四日間、スコールがあったのは夜だけで、日中は乾期とほとんど変わらない強烈な日差しが降り注いだからだ。連日昼過ぎには三十八度を超え、三日目には三十九度を記録している。

調べることのメモ。

笹幸恵氏が歩いた日の、現地の正確な気象。(これはまぁ、調べる手間の割にはたいしたことが分かりそうにないので、どうでもいい)

かくて、私は「バターン死の行進」の出発点マリベレス山の麓にある「DEATH MARCH KM00」地点へと向かった。

 ----以下、日にちを追って、行進の状況をお伝えしたい。

ということで、次からが本番です。ここまでで全テキスト10ページ分のうち3ページ(広告スペースなどがあるから、実際には計算もっとややこしくなるです)。

 

これは以下の日記に続きます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060503#p1

2006-04-30

[]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その1)

これは以下の日記の続きです。

ユダヤ人団体をあおっている(=情報を提供している?)日本の団体について(2006年1月16日)

「バターン死の行進」に関する文芸春秋テキストへの、サイモン・ウィーゼンタール・センターの抗議についてもう少し掘ってみる(2006年1月17日)

「日本の市民団体が外国の人たちを煽っている」と書かれるのが嫌いな人たち (2006年2月19日)

要するに、

1・笹幸恵氏が文藝春秋2005年12月号に「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事を書いた

2・それを日本の市民団体が、要約したテキストをネット上で公開した

3・そのテキストを読んだ戦時捕虜のレスター・テニー氏とユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が抗議した

(レスター・テニー氏はその後、抗議の前に全文の英訳を読んでいる、という情報がある)

4・文藝春秋はその抗議を受け、謝罪とレスターテニー氏によるテキストを掲載した

とりあえずネット上では以下のものがあります。

SURVIVORS OF THE INFAMOUS 1942 BATAAN DEATH MARCH PROTEST BUNGEI SHUNJU MAGAZINE ARTICLE DENIGRATING THE DEATHS AND SUFFERING OF THE VICTIMSサイモン・ウィーゼンタール・センターの記事)

Letter from: Lester Tenney, Ph.D., Former POW of the Japanese and a survivor of the infamous Bataan Death March - Simon Wiesenthal Center(レスター・テニー氏の抗議の手紙)

A Woman Retraced the Entire Route of the Bataan Death March Alone - Simon Wiesenthal Center(文芸春秋に載ったテキストの英文概略)

Article on the Bataan Death March Published in Japan's Premier Magazine, Bungei Shunju(POWという団体のサイトに要約された笹幸恵氏のテキスト)

US-Japan Dialogueからメールを頂きました(それを翻訳した人による事情説明)

最後のものを除くと英語のテキストばかりで、少し読むのが大変だと思います。

おまけに、肝心の元テキスト(「「バターン死の行進」女一人で踏破」)をネットで読むことはできません。

そこで、俺がどう思ったか、みたいなことを書きながら、元テキストを全部引用してみたいと思います。

さらに、文藝春秋に載ったレスター・テニー氏のテキストも掲載してみます。

いろいろ面白いことと、少し調べるだけではわからないことなどがたくさん出てきたりしたのです。

少し長いので、何回かに分けることにします。

 

「バターン死の行進」女一人で踏破(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)

十二月八日を真珠湾攻撃の日と知る日本人は多い。しかし、四月九日を記憶する日本人はほとんどいない。

一九四二年四月九日、日本軍による総攻撃の後、バターン半島の米比軍は降伏した。そして、彼らはこの日を「降伏」ではなく、「バターン死の行進(DEATH MARCH)」がはじまった記念日として、今も記憶し続けている。フィリピンでは、この日はかつて「バターン・デー」と称され、現在では「武勇の日」として祝日になっている。

調べることのメモ。

「武勇の日」とは現地名でどう呼ばれ、それはどのように普通のフィリピン人の間では記憶されているのか。

だが本当は、日本人にとっても四月九日は、十二月八日同様に重要な意味を持っている。

騙し討ち(真珠湾)に加えて捕虜虐待(バターン)。この二つの事件が米軍をして、本土空襲・原爆投下という女性・子供を含む非戦闘員への無差別殺戮を弁解させる理由となっているからだ。

調べることのメモ。

そのような理由で「非戦闘員への無差別殺戮」を弁解している米軍関係者は誰で、どのようなことを言っている記録があるのか。「米軍」ということなので、「米軍兵士・士官の一個人的な意見」レベルではなく、公式にそのようなことを述べた記録は存在するのか。【重要】

ところが、真珠湾攻撃には詳細な研究があるが、バターンに関しては驚くほど資料が少ない。戦後三十年を過ぎてから生まれ、まだ三十歳でしかない私が、数少ない資料を読み漁りながら、それでも気がついたことが一つだけあった。

調べることのメモ。

真珠湾攻撃」と「バターン」との、研究・資料文献の量の違いについて。

九万人近くの兵士や難民が行進し、二万人近い人間がその途中に消えた道。炎天下、死屍累々だったはずの街道を歩き抜いたジャーナリストがいまだない、ということだ。

調べることのメモ。

行進した人数・死亡した人数の正式な数(公的記録)。その道を歩いた人間(ジャーナリスト)は本当に今までいなかったのか。

十月十三日、私はバターン半島の先端・マリベレスに立っていた。とにかく炎熱の街道を歩き抜こうという覚悟で。

バターン半島は、東京湾を扼する房総半島のイメージに近い。首都メトロマニラとマニラ湾を挟んで向かい合う南北約五十キロ、東西約三十キロの半島である。

当時、このマリベレスから、八万とも九万ともいわれる米比軍人や民間人が白旗を掲げて投降した。彼らは日本軍によって、半島からやや内陸に位置する町、サンフェルナンドまで、水も食料もろくに与えられず、炎天下を徒歩で移動させられた。第十四軍司令官だった本間雅晴中将は戦後、この「死の行進」の罪を問われ、銃殺刑に処せられている。起訴状によれば、死亡・行方不明となったアメリカ人捕虜は約千二百名、フィリピン人捕虜は一万六千名に上る。

調べることのメモ。

本間雅晴中将に関する起訴状を見る(一次資料の確認)。【重要】

行進の出発地点であったマリベレスは現在、「経済区」として外資系企業や工業団地などが立ち並んでいる。そして半島東岸を走る道路には、「DEATH MARCH」と記された高さ二メートルほどの三角の道標が、一キロごとに道なりに建てられている。どの道標にも、うなだれ、倒れ掛かる人をデザインしたプレートがはめ込まれている。もともとは、現地を再訪した生還者や海援隊の有志たちが一九五〇年代初頭から道標を設置するプロジェクトを開始していたが、現在ではNPO団体「FAME」(FILIPINO-AMERICAN-MEMORIAL-ENDOWMENT)が募金によって順次、三角碑に改修している。

調べることのメモ。

NPO団体「FAME」の活動の実態。公式サイトはあるのか(ちょっと検索してみたんだけど、それらしいところは見当たりませんでした)。

 

と、ここまでで序章(はじめの約1ページ分)。あと9ページ分に加えて、さらにレスター・テニー氏のテキストがあります。これは長いよ。ひー。

 

これは以下の日記に続きます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060501#p1

2006-04-15

[]長崎の「平和市民団体」と被爆者の関係について考える(その2)・ビバ池田章子先生議長

これは以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060411#p1

 

引き続き、長崎のどういう被爆者のかたが、どういう「平和市民団体」と関係あるか、を見てみます。

「被爆体験継承」考える 市民集会に70人が参加 長崎市西日本新聞 The Nishinippon WEB 長崎・2006年3月5日)

修学旅行生ら児童・生徒に被爆体験を伝える被爆体験講話で「政治的問題」に触れることの是非について考える市民集会が四日、長崎市岡町の長崎原爆被災者協議会事務所で開かれた。

市民グループ「被爆体験の継承を考える市民の会」が企画した集会に、被爆者高校生など約七十人が参加。公的団体の財団法人長崎平和推進協会が今年一月、同協会継承部会員の体験講話で「政治的問題」に触れることを自粛するよう求めたことについて意見を交わした。

同協会が、イラクへの自衛隊派遣や劣化ウラン弾の問題、憲法九条改正問題などの「政治的問題」に触れる発言自粛要請をしたことについて、被爆者は「若者が政治に関心を持つことを阻害する」などと主張。学校教諭からは「現代の問題を抜きに平和の大切さを伝えることはできない」との意見が出た。また健康被害の影響が指摘される劣化ウラン弾廃絶を訴える活動をしている高校生から「被爆体験講話でイラクの話を聞いて活動を始めた。これからも話してほしい」との声が上がった。

市民の会の舟越耿一代表は「政治を語らずして平和は語れない。今日の意見を推進協に届け、今後も集会を続けたい」と話した。

この記事に出てくる「被爆者」「高校生」「学校教諭」が誰なのか、に少し興味を持ちました。

女子高生が劣化ウラン弾被害者支援グループ発足(長崎新聞・2005年5月16日)

長崎市内の女子高生が、湾岸戦争などで使用された劣化ウラン弾被害に苦しむイラクの子どもを支援しようと、グループ「No More DU(劣化ウラン弾) From 長崎」を発足させた。核兵器廃絶を訴える若い世代の取り組みが活発化する中、劣化ウラン弾被害に焦点を絞り活動を進める。

メンバーは現在三人で、いずれも大浦中出身。中学三年の時、被爆者の体験講話で劣化ウラン弾被害を知り、市内中心部でイラクへの募金活動や写真展に取り組んだ経験がある。今年初め、イラクでボランティア活動に取り組む非政府組織(NGO)の講演会で子どもへの被害が拡大している様子などを知り、グループ発足を思い立った。

今後、劣化ウラン弾の被害を広く知らせる写真展の開催やパンフレット作製、イラクの子どもたちに医薬品を届けるための募金活動に取り組む計画。メンバーも募集中。

メンバーの石井美保さん(16)=県立長崎南高二年=は「中学時代、みんなで頑張ったことを終わらせるのはもったいなかった」、松岡順子さん(16)=同=も「今、世界で起きている現実に目を向け、自分たちでできることに取り組みたい」とそれぞれ意欲を語る。

劣化ウラン弾は、核兵器や原子力発電用の濃縮ウランの製造過程で大量に発生する劣化ウランを兵器として使用。発火時に放射能を含んだ微粒子が大気中に飛散、人体や環境に悪影響を与えるといわれる

劣化ウラン弾が「○○といわれる」とは、誰が、具体的・科学的根拠を持っていっているのか皆目不明ですが、とりあえず大浦中出身で2005・2006年現在高校生の人が、いったいどういう関係があるのか皆目不明ですが、「被爆者の体験講話で劣化ウラン弾被害を知」った、ということがわかりました。

次にはこの記事ですが、

イラク支援:「劣化ウラン弾の怖さ知って」 高校生ら、31日に街頭募金 /長崎(MSN-Mainichi INTERACTIVE 地域ニュース・2005年7月29日)(キャッシュ)

劣化ウラン弾(DU)による放射線の影響とされる障害や病気が多発しているイラクの窮状を救おうと、長崎市の高校2年生3人と中学時代の担任がイラク支援の平和活動「No More DU! from長崎」を立ち上げた。31日、長崎市の鉄橋(てつばし)で、パネル展と医療支援の街頭募金をする。

3人は、市立大浦中で同級生だった安永優里さん(16)=長崎女子商業高▽石井美保さん(17)、松岡順子さん(16)=ともに長崎南高。担任は池田章子教諭(44)。

3人は中3の平和学習で聞いた被爆者、城臺美弥子さんの講話で「日本だけが被爆国ではない」とDUの存在を教えられた。さらに、イラクで武装勢力に身柄を拘束されたボランティア活動家、高遠菜穂子さんの講演を聞いたのをきっかけに、今年4月から支援活動の準備を進めてきた。

3人は、被ばく治療で実績がある長崎大で医療研修しているイラク人医師2人とも交流。がんやテロによるけがで命を落としている子どもたちの写真を借り受け、パネルにした。今回、集まった募金は2人に託す。

安永さんは「高校生の仲間を増やして活動を広げていきたい」、石井さんは「城臺さんからの『あなたたちにバトンタッチします』という言葉で自分たちが行動しなくてはと思った」と意気込みを述べている。池田教諭は「平和学習がこういう活動に実を結んで、すごくうれしい」と話した。

パネル展示と募金活動は31日午前10時〜午後1時、後輩にあたる大浦中3年生20人と一緒に取り組む予定。【横田信行】

この記事も「横田信行」記者ですか。

横田信行 毎日新聞 - Google 検索

で、とりあえず、「高校生3人」と「被爆者の体験講話で劣化ウラン弾の話をする人」と「学校教諭の人」の名前はわかりました。

城臺美弥子 - Google 検索

文化女子大学附属杉並中学校 長崎修学旅行のページ

城臺 美弥子(じょうだい みやこ)さんに話をしていただいたお礼に、お礼の言葉と花束を修学旅行委員でお渡ししました。

池田章子 長崎 - Google 検索

いろいろなものに賛同している学校の先生みたいです。

で、こんなのが。

長崎市立大浦中が「靖国」テーマに総合学習(長崎新聞・2005年8月13日)

長崎市高丘二丁目、市立大浦中(平野まり子校長、二百四十七人)は、一学期の総合学習の時間で「靖国神社」をテーマに取り組んだ平和学習について、生徒の意見をまとめた。小泉純一郎首相の参拝問題や「A級戦犯」の分祀(ぶんし)、日中・日韓関係などで感想を寄せている。

平和学習は三年生八十九人を対象に全五コースあり、「靖国神社」には二十人が参加。福田清非常勤講師が新聞記事スクラップを中心に資料を作成。生徒は歴史などを学び、家庭でも祖父母に戦争体験を聞き理解を深めるなどして、「意見表明文」をまとめた。

首相の靖国参拝をめぐっては、太平洋戦争で被害を受けた中国、韓国などが反発し、政治・外交問題に発展。一方で、国家のために命を落とした人々の追悼という課題もある。こうした中、平和学習で靖国神社をテーマにしたのは今回が初めて。

平和教育担当の池田章子教諭は「歴史教科書に関連記述はなく、内容的にも国民生活や歴史の流れから少し離れ、教材化しにくいテーマだった」と言う。中国での反日デモを機に「ニュースに日々接する子どもたちは『歴史認識問題』を疑問に思う。その理解は必要」と学習の意図を説明した。

大浦中では、引き続き平和教育がおこなわれている様子です。

イラク派遣反対の街頭活動 県平和運動センター青年女性協(原爆・平和関連記事2004/01)

自衛隊のイラク派遣に反対する県平和運動センター青年女性協議会(池田章子議長)は二十四日、長崎市浜町のアーケードで派遣中止の署名を求める街頭活動をした。

街頭活動は今年に入って毎週土曜日に実施しており、これまで県内で約二万人の署名が集まった。署名に応じてくれた人には白いリボンを配布した。

白いリボンは、大分県の医師がイラク派遣反対の意思表示のため肩に着けたのをきっかけに、倣って着ける運動が広がっている。

参加者は「リボンはどこでもらえるのか、と市民から問い合わせがある。派兵中止まで活動を続ける」と話した。

池田章子先生は、何かの団体の議長のようです。

ちょっと一区切り置いて、次に続きます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060415#p2

[]長崎の「平和市民団体」と被爆者の関係について考える(結び)・「知らないもの」の量を減らす

これは以下の日記の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060415#p1

 

で、具体的な「被爆体験講話」の見本テキストがないかと探してみたんですが、このようなものがありました。

2003年ピースメッセンジャー〜被爆体験講話〜

山脇佳朗さんによる被爆体験講話

(前略)

私たちはそういうことも知らずに庭の防空壕で待っていました。するとお昼少し前に兄が帰ってきて3人で父の帰りを待っていました。工場の責任者なのでこれまでも小さな爆撃でも帰ってこないことがあったので仕方がないと思いながら待っていましたが結局帰ってきませんでした。夜が明けると隣組の人が無神経な話をする。原爆が投下された浦上地区は全滅したと。不安で父を迎えにいくことにしました。爆心地に向って歩いているとは知らず。

歩きだすと被害がひどくなる一方で、電柱や街路樹は立ったまま焼け、電線は垂れ下がり、住宅は皆焼け落ち、道路にはガレキの間に真っ黒い人たちがごろごろ転がっている。川の向こうの工場は大きな柱だけ残してあとはつぶれている。小さな橋まできたら3人が立ちすくんでしまいました。私たちを迎えるように欄干に沿って真っ黒い人たちが倒れていました。渡り始めると両側から声をかけられそうで、一つ上流にある橋を渡ろうと見ましたが爆風で橋は落ちていました。仕方がなくこの橋を渡りはじめましたが、川を見るとゆっくり流れている川のなかにもたくさんの人が浮いていました。その中でも若い女性の姿が目を引きました。黒いモンペを履いて白いブラウスを着ていましたが、自分の後ろに長く白い帯びを引いていました。腹帯がとれて流れているのかと思いましたが、よく見るとわき腹が破れて飛び出した腸でした。気持ちが悪くなり足早に橋を渡りました。川を渡り小道を歩きましたが、そこにもたくさんの人が折り重なって亡くなっていました。近くで見ると、顔はパンパンに膨れ皆真っ黒焦げ、髪はちりぢり、洋服は真っ黒。白い目と歯だけが私たちを睨んでいるように見えて、小学校6年生の私にはとても恐かった。踏み越えていこうとしましたが道中に倒れていて、少しでも触れると熟した桃の皮をむくようにペロッと黒い皮膚がめくれる。それがとてもかわいそうであり、また、気持ち悪かった。

会社に向って走りました。すると焼け落ちた工場にスコップを持った人が3人見えたので兄が「山脇ですが、お父さんどこですか」と言ったら、1人が「工場長はあそこで笑っておられますよ」といったので、良かった、来た甲斐があったと思い、指差された所にいきましたが、そこで見たものは、他の人たちと同じように膨れて亡くなった父の遺体でした。口元に笑みを浮かべているようにも見えました。自分の父ではないと思いながら、しかし、見れば見るほど自分の父でした。3人とも呆然として声が出ませんでした。そこにスコップを持った人たちが寄って来て、父を連れて帰るならここで焼かなければ駄目だと言われました。工場の焼け跡から木々を集めて父を載せ、父が見えなくなるくらい木々をたくさん載せて火をつけました。夕方だったので、明るい炎が上がりました。それに向って私たちは拝みました。拝み終わって見てみると炎から父の素足が出ていました。それがかわいそうで仕方がありませんでした。

……すみません、この実体験の講話は、俺にとって「戦争は嫌なものだ」と考えさせるという点において、とてもいいテキストでした。ていうか号泣しました。最後のこれは、どうかなぁ、という気もするんですが。

どうすれば残酷な核兵器を地球上からなくすことができるのだろう。

どうすれば戦争を地球上からなくすことができるのだろう。

そのためには自分たちに何ができるのか考えられる人間になってほしい。

この「どうすれば」ということに関しての、俺の考えは後で述べます。

で、2006年3月26日の朝日新聞読者投稿欄に、同じ「山脇佳朗」さんだと思うんですが、以下のようなテキストが掲載されました。

被爆体験談を要請しただけ

  無職  山脇 佳朗(長崎市 72歳)

 

政治的発言の自粛を求めた長崎平和推進協会は、言論統制を意図したわけではなかったと思っています。

協会に属する私たちは、被爆体験を伝えたいと日々努力しています。ところが、話を聞いてくれた子どもたちや先生方からのアンケートの中に、「被爆体験を聞きたかったのに、それ以外の話が多かった」という意見が見られました。

協会はこのため、「被爆体験を主体にした講話をしてほしい」と要請したのです。

確かに、憲法9条やイラクへの自衛隊派遣問題などを自粛してほしいという内容の文書を、会員に配ったのは勇み足であったとは思います。しかし、その後協会は「『私個人の意見だが』とことわって話すことまでは規制しない」と言っています。

私たち被爆者は、反戦平和の思いは十分伝えていきますのでご安心ください。

で、ネット上ではこんな意見など。

kmizusawaの日記 - 「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋

そもそも被爆体験を語るということそのものが政治的なことだ。そもそも戦争や原爆投下自体が政治的なことなわけだし。

作文書いたんだけど、これじゃ先生に叱られるかな:「中立」にどれほど価値があるのか、「バランス感覚」がどれほど貴いものか。

あらゆる態度・ふるまいは政治的であって、「絶対的な中立性」なんてのはあるはずない(あるのは相対的or見かけ上の中立性)。

違います。(まったく同意できません)

被爆体験を語るということは、広義の「文学的」なことで、「文学」と「政治」とは、世の中で最も違うものです。

文学者が政治を語ったり、政治家が文学を書く、ということはもちろんありますが、「文学」は「政治的なもの」、つまり「最大多数が最大の幸福を得られるためにはどうしたらいいのか」ということを考えるためのものではありません。

「文学」は、「個」と「公」がぶつかりあう、その淵に生まれ、「公」に対して葛藤する「個」を描くものです(と、ポール・アンダースンも言っていました)。だから、「語られる被爆体験」は、森鴎外『舞姫』と同じように、文学以外の何ものでもありませんし、「政治的」な意味を持たせるのは間違っています。

被爆者が語ることは、だから「戦争とは嫌なものだ」という、当事者の私的体験に基づく感情(嫌悪感)で十分なのです。

当事者意識のないまま「(イラク)戦争」や「憲法(第九条)」について語ることは、俺に言わせるとものすごく危険です。それは、「想像力によって『何か』を憎む・否定する」ことにつながり、そして人間同士の戦争は常にそういった「間違った想像力」が原因です(人間と宇宙人との戦争は少し違うかもしれませんが)。

だいたい、「先生その他えらい人」から教えられた「中国人」「鬼畜米英」その他の虚像を、そもそも実在する「外国人」を知らないまま憎んだことでかつて戦争がはじまり、不幸な終わりかたをしたということを知っているのは「戦争体験者」でしょう。なのにその人たちが、戦前と同じように「「知りもしないこと」を憎め(少なくとも、批判しろ)」ということを教えて、戦争がなくなると思っているのが俺にはよくわかりません。

戦争を避けるために必要なことは「知らないもの」の量を減らすことです。より具体的に言うなら、「相手の言葉(英語・中国語その他)」で自分の考えを伝え、相手の考えを理解する、ということです。

イラク戦争を語る資格があるのは、イラクで戦った人(アメリカ軍兵士)で、その人がもし語ることがあるとするなら「戦争反対」という理念・観念ではなく「戦争とは嫌なものだ」という個人的な体験でしかないでしょう。で、さて、そのアメリカ人兵士は、イラクの人の言葉を知っていたでしょうか。原爆を落としたアメリカのパイロットは、日本について何を知っていたでしょうか。原爆を落とされた側の人間は、その後、落とした側の言葉を使って「自分自身の体験」を含む何かを言うような「言語の習得」をしたでしょうか。

で、

どうすれば戦争を地球上からなくすことができるのだろう。

なんですが、これは「戦争という観念に、観念的に反対する」という政治的なことではなく、「戦争は嫌なものだ、という生理的・個人的嫌悪感を伝える」という文学的な方法がいいんじゃないかと思います。

 

(追記)

作文書いたんだけど、これじゃ先生に叱られるかな:スポーツ審判員の中立性と政治的中立性

無自覚な「中立性」という暴力が、紙面・ネット上を賑わしているのを見ると、そう思ってしまう。

違います。(まったく同意できません)

ネット上で一部の人間が無駄にネット言論を賑わしている原因は、無自覚に「何でもかんでも政治的なものにしてしまう」という行為(暴力)です。

 

(追記)

以下のところのテキストなども参照。

そうやって何でもかんでも「政治的バイアス」にしとけばいいと思っている人について