Hatena::ブログ(Diary)

愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

2008-05-08 窓とステンドグラスのある風景

[]先生! 男子が若干女子より多いです(読売文学賞河野多恵子

 最近読んだ本の記述で気になっているのは、これ。

文学問答

文学問答

★『文学問答』(河野多惠子/著 山田詠美/著/文芸春秋/1,800円)【→amazon

小説の自由、創作の技術、男と女、アメリカという国、戦争、ニューヨークの魅力、サディズムとマゾヒズム、いまは亡き偉大な作家たち、文壇、文学賞芥川賞選考会―およそ文学をめぐる話題のすみずみにまでわたってくり広げられた熱く真摯な対話を集成。 小説の“熱い自由”本当の戦争の話をしよう―ニューヨークと基地からマゾヒズムの心理と肉体文壇とは何か?文学賞とは何か? 芥川賞始め数々の選考委員を務めた二人の文学者が、私生活から選考の秘話までを明かす。貴重なる肉声がつまった究極の文学対談!

 p181の河野多恵子の発言。

 ほかの文学賞のお手伝いもいろいろしましたけど、男の人と女の人でこんな決定的に違うのか、という経験はただ一度だけ。読売文学賞の小説部門のときでした。男性と女性の選考委員とで、評価がまったく正反対だったの。選考委員は十人くらい。女性は富岡多恵子さん、津島佑子さん、そして私でしたけれど、三人とも反対。男性の方たちは推されて、受賞しました。あれは、本当に不思議なくらいだった。

 この、受賞した人の名前と作品が知りたい。

読売文学賞 - Wikipedia

 これの90年代末から00年代はじめあたり?

 ぼくは何となく、辻原登松浦寿輝とかいったところかなぁ、とか思っていますが、選評を大きな図書館とかで見ないと何とも言えない。ていうか、選評なんてどこかに掲載されたんだろうか。

 まぁ、暇な人がいましたら調べて教えてください。

2007-03-12

[]芭蕉はどれくらい歩いたか(引用)

今回のテキストは、以下のところからまるまる引用なので、

芭蕉はどれくらい歩いたか

MetLog」の人、もしくはその関係者から連絡があったら削除します。けっこう面白かったサイトの印象はあるのに、もったいないと思った。

以下、引用。

芭蕉は一日4万歩歩いた、という話がラジオで流れていたので気になって多少調べてみました。

チャンネルK NO.2 よみがえるわらじ効果

松尾芭蕉は旅の道中、一日に四万歩近くも歩いた計算になる

なるほど、そう書いてありますが、計算の根拠は不明。一方こちらは2万7千歩説。

asahi.com : Be on Saturday(芭蕉をめざそう 超遅歩きと歩行記録を)

芭蕉の1日当たりの歩数は、2万7千歩。1日4万歩が、当時の旅行者の平均だそうです。これに比べれば、芭蕉の歩数は3割ほど少なく、ゆっくり歩いていたことがわかります。

いや歩数が少ないからゆっくり歩いた、ってことじゃないでしょう。芭蕉の旅は逗留も多く、資料にも詳細の経路や期間は残ってないから、実はよく分かっていないという面も多いんです。まずもって歩数でばかり語るのも怪しい。最初に距離。歩数は個人差も誤差も大きいから二の次。で、他のサイトもあちこち見てみました。

一番詳しいサイトがここでした。

芭蕉はどんな旅をしたのか-立ち読み(引用者注:現在はリンク切れ)

芭蕉は一日に何里を歩いていたのだろうか。(略)一日の平均七・三里(約二九キロ)を歩いていたことになる。(略)ちなみに当時の東海道では成人男子の一日の歩行距離十里(約四〇キロ)といわれていた。

この30kmを根拠に、自分の歩数実測データに当てはめれば、なんと40322歩。ずばり4万歩です。

さて、自分なりの常識観を交えて、さらに芭蕉の歩行について考えを進めてみますと、

・当時成人男子の旅行者の歩行距離は40km

・芭蕉は40歳を越えており、旅行者一般平均よりは遅かったろう。

・それに特に急ぐ期限も明白な目的地もない(アバウトにはあったにしても)旅なので、それほど急がなかったろう。

・成人男子一般よりずっと速い、とは考えにくいが、けれども特に遅い、ゆっくりというのも考えにくい。長距離を旅するにはそれなりのペースは必要だろうし

・最後に挙げたサイトでも言われてますが、交通量の少ない険しい山間部も多かったろうし、寄り道も多そう(ていうかそれが旅の目的の一つだし)なので、平均距離としては、一般速度の8掛け弱くらいになってもおかしくはないでしょう。

以上を踏まえても、一日30km(4万歩)というのは妥当な線のように思えます。平地で寄り道が少なければ、35kmくらいは行っててもおかしくはなさそう。

(後略)

…と、長々と引用してみたんですが…、実は「MetLog」の移転先が分かりました。

MetLog

MetLog:芭蕉はどれくらい歩いたか

せっかくなのでぼくの日記に引用テキストを載せておきますが、MetLogは他のテキストも面白いので、読むといいのです。

しかし「当時成人男子の旅行者の歩行距離は(1日)40km」というのはすごいです。成人女子なら30kmぐらいだろうか。

 

2007-01-22

lovelovedog2007-01-22

[]ピカソの絵「朝鮮の虐殺」(Masacre en Corea)と信川虐殺事件について

以下のところから。

棒太郎の備暴録 radical memo by boutarou - 【簡易】韓国 Yoko 狂想曲【まとめ】

こんな絵がピカソにあるなんて知らなかったよ。

ピカソ展@レイナ・ソフィア美術館-nakais

13時になり会場に出向く。通常ゲルニカが展示してある展示室。入ってすぐには見たことのあるコレクションが多かったので、それほど様子が変わらないように見えたのだが、ゲルニカのところまで辿り着いて驚いた。普段ゲルニカ(1937年作)の作品がある場所の向かい側にあたる所に、ゴヤの『1808年5月3日、マドリード』(1814年作)(プラド美術館蔵)が対面していたのだ。すごいインパクト。

このゴヤの作品は通常、マドリードにある王立プラド美術館・ゴヤルームの所定の位置に飾られている。それを今回この展示の為に持ってきてしまっているのだ。通常そう動くことはない。

ピカソ『ゲルニカ』

ゴヤ『1808年5月3日、マドリード』

その対面上側面を囲うように、マネの「La ejecucion de Maximiliano(皇帝マクシミリアンの処刑)」(1868-1869)(プラド美術館蔵)、ピカソの「Masacre en Corea(朝鮮の虐殺)」(1951年)が、通路空間を挟みながらそれぞれ左右に位置する。

(展示空間が見られます!)

その1 その2

↑のリンク先だと「その2」のほうで「朝鮮の虐殺」の絵が見られます。

PICASSO, la exposicion del Reina-Prado(「朝鮮の虐殺」その他が掛けられている部屋の展望(360度回転する動画)

また怪人二十面相の人に頼んで、4枚の絵を盗んでもらおうかと思ったんですが、そんなことしなくてもここにありました。

Picasso exposicion Museo Reina Sofia Imagenes 06

各絵のgoogleウェブリンクをしておきます。「イメージ」は各人でどうぞ。

El 3 de Mayo de 1808 en Madrid - Google 検索

Guernica Picasso - Google 検索

La ejecucion de Maximiliano - Google 検索

Masacre en Corea - Google 検索

リンク先はスペイン語ばかりなんでとほほなんですが、絵を見てみるとピカソの「Masacre en Corea(朝鮮の虐殺)」は、構図・題材ともにゴヤの「El 3 de Mayo de 1808 en Madrid」、マネの「La ejecucion de Maximiliano」に影響を受けている絵だということがわかります。

朝鮮の虐殺 ピカソ - Google 検索

韓国・朝鮮の人たちは知っているんでしょうか。

映画の中の南と北−『ブラザーフッド』と『シルミド/SILMIDO』−

今夏韓国でも公開される予定だったピカソの『朝鮮の虐殺(Massacre in Korea)』という絵画がある。朝鮮戦争の市民虐殺をテーマにピカソが1951年に描いた作品である。北朝鮮の黄海道信川(シンチョン)郡で米軍あるいは反共産主義集団に市民が虐殺される場面が描かれているという。

「予定だった」というのがとても気になるんですが、公開されたのかな。

ピカソの『韓国での虐殺』が韓国初公開へ(朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition))

20世紀の天才画家ピカソが描いた『韓国での虐殺』(Massacre in Korea/1951)が韓国で初公開される。国立現代美術館の金潤洙(キム・ユンス)館長は「果川現代美術館で6月末に開催する『平和展』でピカソの『韓国での虐殺』を公開することになった」と明らかにした。

↑これは2004年4月の記事。

★ヴィクトリア通信3  ピカソの「朝鮮の虐殺」によせて   立命館大学 徐 勝(ソ・スン)

つれづれに、インターネットを覗いていると、果川(クァチョン)の韓国国立現代美術館で、今年の6月から9月まで、平和をテーマにした「平和国際術展」が準備されており、ピカソの「朝鮮の虐殺」をフランスから借り入れるという、小さな記事に出会った。

「朝鮮の虐殺」は1951年の作品で、ピカソが朝鮮戦争中、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の黄海道信川(シンチョン)郡で行われた集団虐殺にインスピレーションを得て描いた大作であり、ゲルニカとともにピカソの代表的反戦作品である。

この報せに接して隔世の感を禁じえない。この絵は韓国で反米的あるいは親北(朝鮮)・容共的なものであるとして、近頃まで禁止されてきた。1960年代の半ば、この絵が収録されている平凡社版の世界美術全集だったかが、輸入禁止になっていたことを思いだす。当時は、この図版を所持するだけで反共法違反で処罰されたものだ。それが、運搬費や保険料など5〜6000万円を投じて借り出そうというのだから、韓国社会の変化がよく分かる。

金属板で覆われたロボットのよう兵士が母親と子供、妊婦に銃を向けている構図は、マドリッド攻略時のナポレオン軍による虐殺を告発したゴヤの「5月30日」(1814年)から借用していることは知られている。無機的で機械的な殺戮に母親と子供、妊婦という人間の生命を対比させているが、彼女たちが犠牲者として描かれているのは、「信川虐殺」の最も悲劇的な事件である「400オモニ(母親)の墓」、「102子供の墓」の虐殺事件からインスピレーションをえたからだと思われる。すなわち、旧弾薬庫に100余名の母親から引き離された子供を閉じこめ、その下手の倉庫に400名の母親や娘たちを入れて、お互いを呼びあう阿鼻糾喚の中で火を放ち両者を焼き殺したという。ナチスの蛮行を凌ぐ惨劇である。

「信川虐殺」とは、1950年9月、マッカーサーの仁川(インチョン)上陸作戦後、国連の制止をふりきって疾風怒濤の勢いでピョンヤンに向かって殺到する米第24師団第17連隊の一部が、10月17日から米軍が中国人民義勇軍の参戦で撤収を余儀なくされるまでの52日間に当時の信川郡の人口の4分の1、35,383名を虐殺したといわれている事件である。1953年、朝鮮戦争の停戦とともに、当時の金日成(キム・イルソン)首相が虐殺現場を保存し記念館を作る事を提案し、58年に開館してから延べ1400万人が参観し、北朝鮮の反米教育の現場となってきた。

「信川虐殺」は朝鮮戦争時期の100万になんなんとすると言われる民間人虐殺の一部を構成するものであるが、従来、アメリカ軍の犯行であると言われてきた通説に最近、異議がだされている。韓国の代表的作家、黄皙映(ファン・ソギョン)氏は一昨年出版した話題作『ソンニム(お客さん)』(岩波書店から翻訳出版予定)で、虐殺の下手人は米軍ではなく、むしろキリスト教を背景とする反共右翼テロ団である事を示唆した。当時の状況や韓国での証言採録の結果を勘案すると、黄氏の言が現実性を帯びてくる。ただし、当時、また今も、韓国軍の軍事指揮権を米軍が持っている事を考えるなら、米軍が虐殺の直間接的な責任を負わなければならない事は言うまでもない。

(太字は引用者=ぼく)

この「信川虐殺事件」、ものすごく興味がわいてきました。

 

ピカソが共産主義者だった、ていうかフランス共産党員だった、というのはある種有名です。

ピカソ 共産主義 - Google 検索

こんな話もあります。

村人生活@ スペイン : ピカソとダリ

1927年から1970年の間に サルバドール・ダリはパプロ・ピカソに30通の手紙や電報をおくったそうです。 その中には 絵も同封してある物もありました。 それらの書簡と絵画がフランスで一冊の本になりました。 ピカソは一度も返事を出しませんでした。

しかし 初めて ダリがニューヨークに行ったときも ピカソが飛行機代を払うなど かなり援助をしています。 ただ 市民戦争の時代 ダリが電報で 「あなたは共産主義にもかかわらず ベラスケス以来の偉大なる画家だ」と書いたときはさすがのピカソも激怒したそうです。 

当時の 作家や画家たちで中流階級以上のインテリたちはだいたい 共産党を支持するか どちらも支持しないと言う人が多かった中で フランコを支持していたダリは異色です。 どうどうとお金を儲けたいからと宣言してしまうところも。

ただ このダリの手紙 半分はカタランで書かれているのですが フランス語の訳がすごくひどいらしいです。 最初にスペイン語訳が出れば良かったのですが ピカソの物はほぼパリに残されているので 残念です。

(太字は原文のまま)

しかしこの、ダリの手紙を原語で読むのは難しそうです。

『ピカソ』瀬木慎一/「ゲルニカ」=非人間的な暴挙への抗議 未来の小林多喜二

ピカソは第二次大戦中にも反戦活動をするレジスタンスや共産党に接触し、1944年8月にパリが解放されると「彼らがいちばん勇敢だった」と共産党への入党を公表する。

 51年には「朝鮮の虐殺」、52年には「戦争と平和」を描き、ヴェトナム戦争に対しては70年にアメリカ撤退を要求する声明を発表した。

パブロ・ピカソ - Wikipedia

1944年、ピカソはみずからフランス共産党に入党し、死ぬまで共産党員であり続けた。しかし、その間には、友人のアラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、党内のスターリン主義とは合わなかった。

ちなみに、ピカソが描いたスターリンの絵は、以下のところから(なぜか日本語での検索はうまくいきませんでした)。

stalin picasso - Google イメージ検索

 

話を「信川虐殺事件」に戻します。

ニュースの眼/朝鮮戦争時の米軍の虐殺(朝鮮新報(日本語)・1999年10月18日)

AP通信が朝鮮戦争(1950年6月25日〜53年7月27日)当時の米軍による住民虐殺事件を報じて以来、南朝鮮では連日、真相究明を求める声の高まりと同時に、他の虐殺事件も続々と明らかになっている。13日現在、その数は12件に及んでいるが、さらに増えることは確実だ。

AP通信が9月30日に報じた老斤里虐殺事件というのは、朝鮮戦争が始まって間もない50年7月27日、忠清北道の老斤里という村で、米軍が住民らを避難させると偽って鉄橋の上に連れ出し300人以上を虐殺したというもの。

(中略)

しかし、崔教授の分析だけでは朝鮮半島北部における米軍の住民虐殺を説明できない。朝鮮社会科学院歴史研究所の資料によると、米軍は平壌など34の地域で17万2000余人の非戦闘員を虐殺している。

とくに50年12月7日、黄海南道信川郡で起きた婦女子虐殺事件は米軍の残忍性をそのまま物語っている。米軍は2つの火薬庫に母親と子どもを分けて閉じこめ、ガソリンをかけて火を付けた。そして400人の母親と102人の子どもを含む910人を虐殺した。

信川郡を占領した米軍司令官のヘリソンは「母親と子どもが一緒にいるのは、あまりにも幸福すぎるではないか。ただちに引き離して別々に閉じこめろ。そして母親は子どもを捜しながら死に、子どもは母親を捜しながら飢え死にするようにしろ」と叫んだという。

(太字は引用者=ぼく)

ますます興味深くなってきましたが、「100万になんなんとすると言われる民間人虐殺」という立命館大学・徐勝(ソ・スン)さんのソースはうまく見当たりませんでした。

「信川の虐殺」は民族同士のものではなく、米軍によるものだ、というのが(朝鮮民主主義人民共和国の?)公式の説としてはあるんですが、一方にはこのような本も。

沖縄フィールドワーク〜軍事占領・キリスト教史〜地域文化研究: 小説『客人(ソンニム)』に見るキリスト教の狂気

黄海南道の信川郡では住民の四分の一にあたる三万五三八三人が米軍によって虐殺されたという。だが、近年、この『信川虐殺事件』は米軍によるものではなく、米・韓軍の反撃の報に接して蜂起した反共右翼によるものであるとの説が有力である。作家・黄晢暎は、この『信川虐殺事件』を素材とした作品(『客人』)を通じて、住民を悪魔として大量殺戮したプロテスタントたちの心の闇を描いている(同上、p78)。

(太字は引用者=ぼく)

『客人』(ソンニム)著者からのメッセージ

今回の『客人』も,韓国分断の端緒である朝鮮戦争(1950〜53年)をこれまでとまったく違った角度から描いています.南北の軍や米軍,あるいは中国軍の戦争であっただけでなく,それは同じ村人たち,隣人たちの殺し合いでもあったのです.信川の大虐殺については,当時ピカソが絵に描いて非難するくらい有名な事件でした.しかしそれはピョンヤン政府が公式に伝える,米軍による虐殺ではなかったのではないか,というのが,現地を取材し,アメリカで亡命者の牧師と語って彼が得た結論でした.

 いわば彼はタブーを破ったのです.北のマルクス主義者からも,南のクリスチャンからも,彼は批判を受けることになりました.

ということで、この本を紹介しておきます。

 

→『客人(ソンニム)』(黄笥・岩波書店)

※本当は「黄笥」は「ふぁん そぎょん」と読みます。

 

「信川」というのは「黄海南(ファンヘナム)道 信川(シンチョン)郡」のことで、現在は朝鮮民主主義人民共和国の領土のようです。「信川博物館」というものもあるらしいので、そこの紹介など。

信川の虐殺

信川は平壌から南西へ約六十辧朝鮮戦争で米軍が住民を大量虐殺したところである。数百人もの女性に重石をつけ橋の上から落として溺死させ、母親たちと子どもたちを別々の建物に閉じ込め焼き殺すなど、信川だけで三万五千人、黄海南道全体では十二万人もの人を虐殺したのである。私たちはすぐに、同じ米軍によるベトナムのソンミ村事件や日本による平頂山事件などを思い起こした。しかし、その規模は格段に違うものであり、日本の南京大虐殺、ドイツのアウシュビッツなどに匹敵するものである。信川の虐殺は日本で余り知られていないのではないか。

(太字は引用者=ぼく)

第6日(九月山・信川・正方山観光)

その後、我々は、信川博物館という博物館を見学するために、信川という町にやって来ました。博物館の前に来ると、大勢の労働者や学生が列を作って順番を待っていましたが、我々は、いつものように、待たずに博物館の中に入れてもらいました。

ガイドの説明によると、朝鮮戦争の際、米軍は、この信川で、52日間、罪のない愛国的人民を3万5千383名も虐殺したというのです。博物館内部には、その際の米兵による蛮行の数々が、真に迫る絵画を中心に展示されていました。

しかしながら、米兵が、ノコギリで頭を切ったとか、ハンマーで頭に釘を打ち付けたとか、複数の牛をそれぞれ違う方向に走らせて労働者を八つ裂きにしたとか、まるで、紀元前の中国における刑罰のような展示ばかりでした。

(太字は引用者=ぼく)

何か怪しげな「信川博物館」の展示。

↓のところでは、実際の展示物の画像をもっとたくさん見ることができます。

21世紀の太陽・写真編(7)

朝鮮戦争悲劇の舞台、黄海南道信川(シンチョン)郡は、現在(私が見る限り)のどかな農村地帯です。

しかし、この土地では朝鮮戦争時に『国連軍に協力的でない』という理由で、多くの(三万人あまりとの記録がある)人々が国連軍(主力は米軍)に殺害されました。

信川には、その朝鮮戦争時の米軍(国連軍)の蛮行を告発し、あわせてこの1世紀あまりの“アメリカ帝国主義の朝鮮侵略の実態”を糾弾する信川博物館があります。

今回、のりまきはこの博物館内部の写真をいくつか撮って来ましたので、ここで紹介します。

すごいですね。

ピカソの絵と比べてみることも一興でしょうか。

しかしこのピカソの「朝鮮の虐殺」(Masacre en Corea)が描かれた1951年の時点で、ピカソ自身はこの事件および朝鮮戦争についてどの程度の情報を持っていたのか、またピカソ自身はハングルが読めたのかは皆目不明だし、ハングルもスペイン語もフランス語もさっぱりなぼくにはこれ以上の言及は難しいので、この話は一応終わりにしておきます。

 

2007-01-20

[]蜀山人大田南畝はなぜ二回も試験を受けなければならなかったのか

今日もジャンル「知的刺激」で、なんか毎日自分が本読んで知ったこと書いてるだけの日記になってます。これでいいのか。ていうか皆さん面白いんでしょうかね。アクセスが減らないんだから面白がる人もそこそこいるってことですね。今日も皆さんの中では知ってる人は知っている話をしますので、タイクツだったらすみません。

江戸時代の人間で頭がいい人というと、ぼくは真っ先に大田南畝、次に高野長英を思い出します。高野長英は前代未聞の牢破りをしてこっそりオランダ語の翻訳をしたらあまりにも名訳なので居場所がばれちゃったりとか、だいたいそういう知恵は最初にみなもと太郎の『風雲児たち』で知ったわけですが(名作なので読んでみてください)、少し破天荒な秀才ですね。蜀山人大田南畝の場合は、若い時にバカやって、突然中年(というか初老)になって幕臣になって小役人仕事をコツコツやった能吏で後半生を終えたわけです。狂歌で名を成していた、まぁ今でいうと漫画家ですかね、変な人がいきなり40代後半、今の時代感覚では60歳ぐらいかな、小林よしのり先生が東大受験して国家一種試験を受ける、みたいなもんでしょうか。

で、これに関しては、たとえばこんなことが書いてあります。

太田南畝・蜀山人

さしもの権勢を誇っていた田沼政権は完全に崩壊し、南畝や東作たちの後援者で、田沼一派の旗本であった土山宗次郎は、最も重い死刑に処せられたのである。この年を境にして、南畝は文芸界と絶縁して、ひたすら幕臣として仕える恭順な日々を過ごし、寛政六年(1794)四十六歳になった南畝は人生の再出発を期して、定信が教育改革の一つとして施行した幕府の人材登用試験を白髪頭で受験したのである。第一日目は論語・小学、第二日目は詩経と林大学の面接があり、御目見得以下の主席は大田直次郎・南畝で銀十枚を拝領し、ともに受験した南畝の門人三人もそろって次席となり銀七枚を賜ったのである。

ここで語られているのは、実は二度目の試験のことなんです。

一度目は、南畝は抜群の成績だったのに、なかったことにされてしまったんですね。

福岡県弁護士会 弁護士会の読書: 2004年05月 BackNumber

大田南畝は幕府の御徒組(おかちぐみ)に所属する小身の幕臣でした。松平定信の寛政の改革のとき、中国の科挙の制度にならった「学問の吟味」という選抜試験システムがつくられ、大田南畝も受験しました。しかし、第1回目は、大田南畝を嫌う上役ににらまれ、見事に落第。2回目に、首席で合格しました。

この「大田南畝を嫌う上役」というのが、今日のぼくの話の主役です。

名前は「森山源五郎」と言う人で、『鬼平犯科帳』にも出てきます。

『鬼平犯科帳』Who's Who: 093森山源五郎

森山源五郎(300石と廩米100俵)という筆のたった幕臣がいた。長谷川平蔵が死の床にあったとき、火盗改メ代行をもぎとった仁だ。

そう、老中首座・松平定信へとりいり、文字どおり「もぎとった」のだ。

なぜそういえるか、って? せっかく火盗改メになったのに、1年ちょっとで塩入大三郎(100石と廩米100俵)にその役をもっていかれたときの大仰な残念がりようでわかる。

罷免された経緯を手をまわして調べあげ、老中の戸田侯(美濃大垣藩主。10万石)の存在をつきとめた。侯は館林藩主の五男で、大垣藩へ養子に入った人。

そこで森山のいい分……塩入は母親が館林藩の重職・松倉某のむすめだった縁をたくみに利用し、松倉から戸田侯へ働きかけて成果をえたというのだ。

自著『蜑(あま)の燒藻(たくも)』で、塩入大三郎を気が強いだけの総身に知恵がまわりかねる大男で無芸無学とこきおろす。

この部分だけ読むと、塩入というのは森山が書いているとおりの仁かな、とつい思いこむし、事実、これまで幾人もの学者が『蜑の燒藻』を珍重・引用してきた。

前任者の平蔵についても、火盗改メ在職8年のあいだに「さまざまの計りごとをめぐらした」と非難。

『鬼平犯科帳』ほかで平蔵の人柄と立派な業績をすでに知ってしまっているぼくたちとしたら、森山には自分の意にそまない者はバカとかよこしまなこころの持ち主とこきおろす習癖があるとしか考えられない。

『蜑の燒藻』で口ぎたなく罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけられている人たちについても、はたして森山のいうとおりの人物だったか、疑ってかかったほうがいい。

まぁそのほかにも「鬼平」がらみでいろいろなことがgoogleで見つかります。

→森山源五郎 - Google 検索(http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-27%2CGGLJ%3Aja&q=%E6%A3%AE%E5%B1%B1%E6%BA%90%E4%BA%94%E9%83%8E&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

森山源五郎 - Google 検索

さて、江戸時代の「学問吟味」の創設は、寛政3年7月…、と写したりしないでコピペしておきます。

江戸と座敷鷹 番方登用制度3

さて、現代でもそうだが、就職試験において関連する資格を取得しておくと有利だといわれる。有利に働く資格ほど難しいもので、江戸期では「学問吟味登科済」がこれにあたる。

 学問吟味が創設されるきっかけは、寛政3年(1791)7月27日の若年寄安藤対馬守から儒者たちへの通達である。おそらく柴野栗山と林大学頭による事前の根回しがあったものと思われる。通達の内容は、学力のある者を各部署の頭から推挙させ、湯島聖堂(寛政9年に昌平坂学問所に改称改組)において目付の立ち合いの上で儒者が試験をする、というものであった。

同年10月になると、目付の名によって学問吟味の通達が出され、受験願書の書式が発表される。科目は経書・歴史・経済之書・講釈・作文があり、受験者が受験科目を申告するもので、翌寛政4年9月には早くも実施されるのだが、※第1回学問吟味は目付と湯島聖堂儒者の間で成績評価基準の折り合いがつかず、また松平定信からも異論が出たため、285人が受験した第1回学問吟味は無効となった

第2回学問吟味は寛政6年(1794)2月に行なわれた。受験科目は経科・歴史科・文章科の3科があった。ただし、経科は初場・経科前場・経科後場の三場から成っており、経科初場(論語・小学から出題)は予備試験の位置づけで、これに合格しないと本試験の経科前場・経科後場へ進めなかった。選択制であったため、漢学上級者でないと答えられない歴史科や文章科の受験者は少なく、経科初場の予備試験から本試験へ進もうとする者が多かった。

成績評価は甲科・乙科・丙科が及第、それ以外は落第。甲科と乙科の及第者は「登科済」の者とされ、丙科の者は次回も挑戦して甲科・乙科で及第することが期待された。及第者には成績と身分に応じて褒詞と金品の褒美が贈られた。丙科は褒詞のみだった。

実質初回となった第2回学問吟味には237人が受験し、甲科及第者5人、乙科及第者14人、丙科及第者28人の結果であった。甲科及第者におけるお目見以上の首席は小姓組番士遠山金四郎(景晋)、お目見以下の首席は徒衆大田直次郎(南畝)であった。

第1回の学問吟味のことですが、

※第1回学問吟味の無効

 目付と儒者の評価基準の折り合いがつかなかった一例として、大田南畝の評価がある。儒者の柴野栗山は南畝の評価を上としたが、目付の森山源五郎は下とした。森山は、南畝は人格の点で幕府官吏に不適格と主張したらしい。栗山は純粋に答案のみから判断したのであろうし、森山は目付の職掌から南畝の前半生を重視したのであろう。南畝については以下参照。

何つうか、大田南畝を落としたいためがための試験だったみたいにしか、後世の人間には見えないのであります。

ちょっとその時の、原文に近いものを引用しておきます。

http://140.119.172.157/jweb/930517.doc(ワード文書)

一 聖堂講尺其外弁書文章等の事ニ付、上中下を附候事、大不同ニて一統相服して不申候由与力久保田十郎右衛門を大学頭下ト附ケ、大田直ニ郎ねぼけ先生啓事(=聖堂担当目付)下ト付候を余りの事と取沙汰ニて中に直し候由。…人物、流義ハともかくも書物ニて上中下を付候事ニ候へば、其書物の処をこそ撰候て位をバ付可申処、寝惚ニ下杯を被付候ハ如何成事、…事ニ大田直ニ郎抔抔ハ平常啓事僧居候ニ付爰ぞと存じ下ニ付候処、余り成致し方とて中にか直し候由。掛り大学頭、清助良助森山中川啓事見分之節、たとへば五人中と記候所、一人下としるし候へば、下の方へ位定り候由。大学頭森山抔上中下を付候ハ、大杜撰可有之由。

「ねぼけ先生」の作文の評価は大変だったみたいです。その時の試験問題の回答も見たいものですね。

このあたりには、こんな人たちも。

畝源 The ブログ : 『沼と河の間で―小説大田蜀山人』(童門冬二著・毎日新聞社)を読了した

一度目の吟味では失敗したが、幼馴染で昌平坂学問所の教授でもある岡田寒泉などからも励まされたりした。岡田寒泉には、狂歌師として高名を得ていた直次郎を堕落した武士として考え、彼を評価しようとしない学問所の事務のトップ森山源五郎との間を取り持ってもらい、改心釈明の席を設けてもらったりする。

森山源五郎孝盛はこんな人です。

日本島

賤のをだ巻の著者の森山源五郎孝盛は,子供のころ母から漢文などを教えられ,教養があった.そのため,1773年に大番士になってから1791年には目付に昇進した.1795年には,同輩の目付の中川勘三郎の奸計により,先手頭へ左遷された.中川は勘定奉行にまでなった.

なんかこの人、少し真面目に調べてみたくなった。『賤のをだ巻』ってよさげな本だし。

でも、文章がうまくて人気のある蜀山人を、この森山孝盛は嫌ってたんだろうなぁ。年もそんなに離れていないはずです。

あー、なんか眠くなってきたので今日はこのへんで。

大田南畝は長崎奉行になるんだけど、江戸との行き帰りに京都で上田秋声と会って話をしたりしているので、思い出したらこの話でもパラフレーズして書いてみます。

今日の話の元ネタは、これなのでした。

→『蜀山残雨 大田南畝と江戸文明』(野口武彦・新潮社)

 

2007-01-18

[]武蔵野の雑木林はなぜ無くなったのか

まずこのたくさんの絵を見てください。

絵で見る武蔵野の雑木林

すばらしいですね。

武蔵野との出会い

武蔵野の地に始めて接したのは、高校に入学する為に兵庫県の但馬の片田舎から東京に出てきた昭和40年代前半のことで、故郷の但馬では野生のコウノトリの姿が見られなくなり、円山川から鮎が一斉に姿を消し、薪や炭といった木質系燃料から石油系の化石燃料への転換が一斉に進み、首都圏では高度成長の真っ只中で、工業化に伴う公害は日常化し、謂わば社会が武蔵野的牧歌的風景を一斉に脱ぎ捨てにかかった時代でした。

(太字は引用者=ぼく)

要するに、戦前・戦後の燃料として、武蔵野の「雑木林」は作られていたわけです。

つまり、人工の自然(こういうことばは少し変ですが)。

鉄腕アトムの初期短編に「赤いネコ」という話がありまして、そこでは国木田独歩『武蔵野』を、一部アレンジメントしながら引用しています。

『鉄腕アトム』「赤いネコ」と『武蔵野』

手塚治虫の『鉄腕アトム』「赤いネコ」は1953年(昭和28年)に発表されたエコロジーをテーマにした先駆的作品である。(今年(1997年)も諫早湾干拓などいろいろあったが、1953年の時点でエコロジーをマンガのテーマにするというのがすごいと思う)「赤いネコ」では、最初と最後に国木田独歩の『武蔵野』が効果的に使われている。

この「自然はすばらしい」「人間が自然をダメにしている」というのは、実に高度成長・戦後の日本っぽい無駄な説得力で、実は人間が積極的に、自然をすばらしいものにしていかないと、すごいことにしかならないのが世界の普通の「自然」なわけで、それは映画『おもひでぽろぽろ』などを見てもわかるのです。

20世紀前半から中盤にかけてのエネルギー革命で、雑木(薪)を都市生活者に供給する必要がなくなった近郊の農業の人は、かわりに何を作ったかというと「麦畑」です。

季節を感じさせる広葉樹林の雑木林と、麦秋前の春に一番美しい麦。さらに現代の複雑な直線(特に電線・電柱!)で切り拓かれた空、などなど、世代によってイメージがことなることでありましょう。

武蔵野の雑木林を描いた人は、多分今は町の送電線を描くとか、ビルの谷間に沈む夕日を描くとかするといいと思います。

巨大建造物萌え、というのは、別に最近になってはじまったことでもないわけです。

今日の参考書は、以下の本でした。

→『郊外の文学誌』(川本三郎・新潮社)(アマゾン)

現代の表参道は、実は陸軍が訓練のためにもっぱら利用していた道だったのだ、とか、面白いことが山盛り書いてあります。

 

2007-01-16

[]信長はなぜ本能寺で殺されたのか、あとすごい九州国立博物館

今日はあんまり時事・政治とかとは関係のない話をします。

「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」と本能寺と井戸の茶碗とすごい九州国立博物館の話です。

本能寺の変で、明智光秀によって織田信長が殺された、ってのはみんな知っているとは思いますが、なんで信長は、少数の護衛しかつけないで本能寺にその時いたのか、という理由は、知らない人もいるかも知れないのでちょっと話してみます。

実は、前日の「天正10年6月1日(1582年6月21日)」に、本能寺で茶会がおこなわれ、それに信長はどうしても出席しなければならない理由があったのです。

で、その理由とは、博多商人の嶋井宗室(しまいそうしつ)が持っていたという伝説の「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」、なんですね。

三宅孝太郎のラジオ出演2

吉田:えー、それで、明智光秀の謀反によって、本能寺で自害をする信長についてですが。信長が本能寺にいたのは、実はお茶会を開くためだったと?

三宅:そういうことですね。

吉田:これは知らなかったー。

三宅:お茶会を、なぜこの時やっていたのかというのが、ひとつの大きな疑問なんですね。謎ですね。なぜこの時にやっていなきゃならなかったか。

その時に正客として呼ばれたのが、武将でもなければなんでもない。博多の島井宗室(しまいそうしつ)という豪商なんです。なぜか? その人がスゴイ物を持っていたんです。「楢柴(ならしば)」という名物です。

吉田・小俣:へえー。ならしば!

三宅:これは茶入れです。信長がこれを、なんとしてでも手に入れたいんですよ。

吉田:あら、またまた。

三宅:「楢柴」というのは、「楢柴戦争」という戦争がおっぱじまるぐらいすごい物なんです。

吉田:えー、そんなすごいもんなんだー。戦争起こしちゃうの?

三宅:ええ。それがたまたま島井宗室の手もとにあるわけですよ。それが欲しいもんですから、信長は、この茶会に彼を招くんです。単独で招くんじゃ、あまりにも露骨すぎますからね、いろんなお公家さんたちとかも一緒に集める。それで茶会を開いて、それまで信長が集めた名物を披露します。

吉田:で、この「楢柴」は、「天下の三肩衝(さんかたつき)」のひとつである、ということですね。この「肩衝(かたつき)」というのは何なんですか?

三宅:「肩衝」というのは、肩がこう突き出ているものです。さっきも言いましたように、「つくも茄子」というのは、なすのように肩が丸い。そうじゃなくて、肩がいかっているものですね。

吉田:へえー。で、信長は、この本能寺でお茶会を開いていなかったら、明智光秀に襲われることもなかったかもしれないんですよね。

三宅:んー、まず襲われることはなかったと断言できるんじゃないですか。ええ。襲うタイミングがズバリですよね。なぜかというと、本能寺に連れていったのは、70人ぐらいのお供の者たちだけなんですよ。いかにも信長は油断しているわけです。しかもその頃、信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいないんです。秀吉は備中の高松に行っている。その高松が危ないっていうんで、信長が光秀に援軍を出させた。「じゃあ、行ってきます」といって行った途中で、引き返してくるんです。「敵は本能寺にあり」となる。

三宅孝太郎のラジオ出演3

小俣:あの、さっきの因縁の「楢柴」ですが、これは、その後どうなるんですか?

三宅:「楢柴」はですね……、ええっと「楢柴」は、っと(予期しない質問に、しばし頭の中の引き出しを開けたり閉めたりする三宅)。

ええ。これは、やはり大坂城ですね。夏の陣の時に、やはり燃えるんですけれど、そこから掘り起こされています。で、徳川家康のもとへと入っていくんです。

吉田:はー、家康のところに入っちゃうんだー。

あの、「天下の三肩衝」といわれる「楢柴」「初花(はつはな)」「新田(にった)」っていうのは、全て家康が手にしたっていうことですか?

三宅:ええ、そうなんです。それだけじゃない。ほとんど90パーセントぐらいの名物は全部、家康のもとへ集まってきたんです。

ええと、ぼくもちょっと調べてみたんですが、実は「楢柴」は現在どこにあるのかよく分からないんですよね。

豊臣秀吉が3つ集めたのはどうも本当らしいんですが、大阪城が落城するときにどっかへ行っちゃったのかな。もう少し調べてみます。

で、ここに名前が挙がった「初花(はつはな)」と「新田(にった)」は、所在がはっきりしているので、今でも見ようと思えば見られます(いつでも、というわけではないみたいですが。

「初花」は徳川記念財団が持っていて、美術館の企画展示があった際などには貸し出されているようです。

江戸東京博物館<企画展示室><「徳川将軍家展」>

唐物肩衝の白眉として珍重された大名物。銘の「初花」は室町幕府8代将軍足利義政の命名と伝えられる。織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、宇喜多秀家などの所有を経て、関ヶ原の戦い後に家康へ献じられた。大坂夏の陣の戦功によって松平忠直に与えられたと考えられ、その死後、3度徳川将軍家に献上、代々伝えられた。

「新田」は、水戸にある「彰考館徳川博物館」が所蔵しています。

美術館・ギャラリー紹介 財)水府明徳会 彰考館徳川博物館

徳川家康の遺品(駿府御分物)を中心に歴代当主をその家族ゆかりの品約3万点の他、紺地葵紋付菊唐草丸文辻が花染小袖(重文)、漢作肩衝茶入銘新田 大名物(重美)、ドチリナキリシタン等を収蔵している。

財団法人 水府明徳会 「徳川博物館」- 博物館概要 -

徳川博物館は、水戸徳川家第13代当主・徳川圀順が伝来の大名道具や古文書類を寄贈して設立した財団法人水府明徳会の博物館として、昭和52年に開館しました。

所蔵品は、徳川家康の遺品(駿府御分物-すんぷおわけもの-)を中心に家康の子である初代頼房、第2代光圀以下歴代藩主や、その家族の遺愛の什宝約3万点に及びます。さらに敷地内にある彰考館文庫収蔵の『大日本史』草稿本や、その編纂のために全国から集められた古文書類約3万点からも史料が展示されます。

これの画像は、こんなところで見られます。

特集:九州国立博物館/The Nishinippon WEB 「美の国」探訪・九州国博開館記念展より=肩衝茶入 銘新田肩衝(かたつきちゃいれ めいにった かたつき) 数奇な運命たどり里帰り

「この品があるとなしでは、『美の国 日本』展の入場者数が五千人は違ってきますよ」

陶磁器研究の第一人者、東京芸術大の竹内順一大学美術館長が確信を持って言う。なにしろ竹内館長ですら、実物を見たことがない幻の茶器なのだ。

「この数十年来、展覧会に出てきたことはありません。私も何度か出展交渉をしましたが、実現しませんでした」

…美しいですね。

おいらが怪人二十面相なら、「本日○時、新田肩衝いただきに参ります」と予告状出して巻き上げてみたいぐらいです。

ところが!

以下のところによると、この「天下の三肩衝」も、茶道具としては「二等級」らしいんです。

信長の野望革新 家宝一覧-茶道具-

二等級

日本楢柴肩衝 ならしばかたつき政治+9

漢作肩衝茶入。天下三肩衝の1つ。博多の商人・島井宗室から秋月種実に渡る。九州征伐の際、降伏の印に豊臣秀吉へ献上されるが、のちに消息不明となった。

明国新田肩衝 にったかたつき政治+9

唐物肩衝茶入。天下三肩衝の1つ。村田珠光が所有したのち、三好政長、大友宗麟、織田信長、豊臣秀吉らに渡る。大坂落城後は徳川家の家宝となった。

明国初花肩衝 はつはなかたつき政治+9

唐物肩衝茶入。天下三肩衝の1つ。楊貴妃の油壷であったとも伝えられる。初花劣らぬ上品さと評した足利義政が命名した。織田信長、豊臣秀吉らが所有した。

まぁ、あんまりアテにならない価値情報ですが、そこで「一等級」になっている茶道具は、以下のようなものです。

一等級

明国 九十九髪茄子 つくもなす 政治+10

「流転の茶器」の異名をとる戦国時代随一の名物茶入。村田珠光が99貫で購入したことからこの名がある。朝倉宗滴、松永久秀、織田信長などが所有した。

明国 上杉瓢箪 うえすぎひょうたん 政治+10

漢作唐物茶入。天下六瓢箪の1つ。上杉景勝が所有した。所有者の名にちなんで「大内瓢箪」「大友瓢箪」の別名も伝わる。のちに紀州徳川家の所有となった。

日本 珠光文琳 しゅこうぶんりん 政治+10

漢作文琳茶入。珠光が所持していた名物の一品。所有者の名にちなんで「天王寺屋文琳」「宗及文琳」などの別名も伝わる。織田信長の手にも渡ったという。

で、「九十九髪茄子(つくもなす)」とは、こういうものです。

松永久秀と茶の湯

久秀自慢の茶入れは当時の茶人の垂涎の的であり、ルイス・フロイスの記録にも登場するほどの大名物であった。しかし、足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく、久秀は断腸の思いでこの茶入れを信長に献上し、配下となった。

信長が本能寺に倒れたとき、この名物は本能寺に持ち込まれていたが、焼け跡から奇跡的に発見され、次いで羽柴秀吉の手に渡った。その後秀吉から秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたが、大坂夏の陣で再び兵火に掛かる。戦後徳川家康の命で焼け跡から探し出されたもののかなり破損しており、修復のため漆接ぎの名工・藤重藤厳の手に渡った。以後藤重家に代々伝えられたが、明治になって三菱財閥の岩崎弥之助氏の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されている。

画像見たいですか? 見たいですよね。それではお目にかけましょう。

静嘉堂文庫美術館

静嘉堂は、岩崎彌之助(1851〜1908 三菱第二代社長)と小彌太(1879〜1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財82点を含む凡そ20万冊の古典籍と5,000点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前に供える供物が立派に整うとの意味です。

 1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました

静嘉堂文庫美術館:大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子

茶匠・村田珠光が九十九貫で入手し、『伊勢物語』所収の和歌「百とせに一とせ足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」から命名したという。大坂夏の陣で罹災したが、大坂城址から徳川家康の命をうけた藤重藤元・藤巖父子により探し出され、漆で繕われた。精緻な漆繕いの褒美として、家康から藤元に下賜された。X線調査で、釉と見られる景色など、表面を覆う部分は、ほぼすべて漆による修復と判明している。

ついでに、「珠光文琳」はうまく見当たらなかったんですが、「上杉瓢箪」は見つかったので、これも画像にリンクしてみます。

京都、野村美術館−トップページ

野村美術館 - gallery

http://www.nomura-museum.or.jp/nomura024.JPG(画像)

素晴らしい。

ということで、

「初花肩衝」「新田肩衝」「付藻茄子」「上杉瓢箪」いただきました(by怪人二十面相)。

以下のところにあります。

怪盗美術館・その1 | 愛・蔵太の少し調べて書くblog

画像転載上の問題がありそうなので、近日中に消す予定ではあります。

しかし、このイベント、すごかったんだな。

九州国立博物館 開館特別展『美の国 日本』公式ホームページ

「井戸の茶碗」なんてのも出ていた。

特集:九州国立博物館/The Nishinippon WEB:「美の国」探訪 井戸茶碗 細川井戸 幅広く愛された名器

平成の名人、古今亭志ん朝の得意演目「井戸の茶碗」をさわりだけ。

くず屋の清兵衛、人呼んで正直清兵衛が貧乏浪人の千代田卜斎から、売ってくれと仏像を託された。細川家の屋敷で呼び止められ、家来の高木佐久左衛門が買い上げた。高木が仏像を洗っていると底の紙がはがれ、中から五十両の金が。高木は「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない」と清兵衛に渡すが、卜斎は「売った仏像から何が出ようと自分の物ではない」。清兵衛は高木と卜斎の間を行き来し、卜斎が汚れた古い茶碗と引き換えに金を受け取ることで手を打つ。この話を聞いた細川の殿様に高木が茶碗を見せると、これが名器「井戸の茶碗」だと判明、殿様が三百両で買い上げることになった―。

細川忠興 - Wikipedia

千利休に師事し、利休七哲の一人に数えられる。和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。

父と同じ教養人でもあり、「細川三斎茶書」という著書を残している。

日本刀の著名な拵えである肥後拵えの創案者としてその名を残している。

細川家に伝わるいいものは、こちらにあるようです。

永青文庫美術館

永青文庫は、今は遠き武蔵野の面影を止める目白台の一画に、江戸時代から戦後にかけて所在した広大な細川家の屋敷跡の一隅にあります。

落語の舞台となったのは、下屋敷のほうですが。

第33話「井戸の茶碗」

麻布茗荷谷に住むくず屋の清兵衛、人呼んで正直清兵衛。清正公(せいしょうこう)様脇の裏長屋で器量の良い質素ながら品のある十七,八の娘に呼ばれる。貧乏浪人の千代田卜斎 (ぼくさい)から普段扱わない仏像を、それ以上に売れたら折半との約束で、二百文で預かる。

白金の細川家の屋敷で呼び止められ、仏像が気に入ったと、細川家の家来・高木佐久左衛門が三百文で買い上げてくれる。

今日のこれみたいなテキストをダラダラと書いて、原稿料1枚400字5000円ほどもらえるような仕事がしてみたい(補足:これはギャグというかアイロニーです)。

 

(追記)

コメント欄で以下のようなご指摘がありましたので、

# makube 『このエントリとネタ元は『へうげもの』の内容と驚く程一致しています。

既に有名な漫画ですので、ご存じないというのは不自然だと感じました。』 (2007/01/15 18:58)

改めてぼくの(人に不自然と感じさせるほどの)無知を恥じる次第です。どの程度の「一致」なのか確認しようと思って近くの書店を覗いてみたんですが、ちょっと見当たらなかったので少し足をのばして遠くの書店に行ってみます。漫画はぼく自身は日常的に読む人間ではないので、かなり有名な漫画でも読んでいないのがけっこうあるんだろうと思います。

公式ブログもあるんですね。

へうげもの official blog

「天下の三肩衝」の話も、その漫画の中ではしていましたか。

「信長がなぜ本能寺にいたか」に関しての最初の情報は、実は以下の本からだったんですが、

→『歴史に消された「18人のミステリー」』(中津文彦・PHP研究所)

ついでにその手の日本史雑学本を何冊かパラパラと見ても似たようなことが書いてあったので、あえて一冊、という形では紹介しませんでした。

なお、この『歴史に消された「18人のミステリー」』では、「楢柴」は千利休が贋物を作り、それで秀吉を試そうとしたために死罪を命じられ、家康はその贋物を本物と思い込んで宝物蔵に置いておいたんだけど、後に誰かが気がついて、明暦の大火のときだかに紛失した、ということになっている、という、いかにも小説家的な謎と謎解きを示していた記憶があります(記憶は少し曖昧)。

ちゃんとネタ本を紹介しなければいけないな、と反省したのでした。

 

2007-01-06

lovelovedog2007-01-06

[]ア・バオ・ア・クゥーはどこにいる(どこにある)

調子に乗って、また少し文学ネタを書いてみます。

「ア・バオア・クー」はガンダムの物語に出てくる要塞ですが、

ア・バオア・クー - Wikipedia

「ア・バオ・ア・クゥー」は、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』に出てくる幻獣です。

ア・バオ・ア・クゥー - Wikipedia

『アラビアン・ナイト』(『千夜一夜物語』)を最も原典に忠実に英語へ翻訳したとされる編者であるバートン卿が、彼が加えた注の中でア・バオ・ア・クゥーの伝承に触れている。 その件について、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは彼が見聞した伝承をまとめた『幻獣辞典』(柳瀬尚紀による邦訳版(1974年、晶文社)がある)にて言及している。 しかしそのいずれにおいても、伝承の出典については詳しくは触れられていない。

伝承の舞台となっているのは、柳瀬の訳註によればインドのラジャスターン州ウダイプル郡チトールにある、ジャイナ教の15世紀の建造物「勝利の塔」である。この地は、古代ラジュプート族の要塞の地であった。

一方、説の中には「勝利の塔」というのは中国にある架空の塔である、と言う物も存在している。 『幻獣辞典』原文では「チトールにある」と記されているのみで、インドであるというのは大抵の文章中に一言も記されていない。

こんなのも。

ア・バオ・ア・クゥー A Bao A Qu インドの神話・民話 :幻想世界神話辞典

バートン版の『千夜一夜物語』の注にア・バオ・ア・クゥーの伝説が載っているというが、河出書房版の邦訳では確認できなかった。

バートン版の『千夜一夜物語』は、2003年に文庫版が出ているみたいですが、ちょっと中身は見ていないし、この言葉だけのために全部読むのもナニかなぁ、な気分です。

と思ったらこんなところにテキストが。

勝利の塔はどこにある

@勝利の塔

@Victory Tower

中国のチトールにある。これをインドのチトルガルと混同してはならない。この塔を巡る高いテラスからは,世界でも最も美しい風景が望まれる。回り階段の底部にはア・バオ・ア・クが住んでいる。だれかこの階段を登る者があると,ア・バオ・ア・ク(ほとんど透明である)は生命を吹き返し,訪問者の踵にしがみついて,そのあとから登っていく。

階段を一段登るごとに,ア・バオ・ア・クの身体の色は濃くなってゆき,次第に強い光を発するようになる。しかしながら,彼が階段の頂上に達することができるのは訪問者が精神的に完全である場合に限られる。そうでないときには,ア・バオ・ア・クは麻痺したようになり,未完成のままに残されて,色はぼやけ,光も薄れてくる。頂上に達することができなければ,この感じやすい獣はどこか絹のサラサラという音に似た弱々しい泣き声をあげる。訪問者が降りて来ると,ア・バオ・ア・クは階段の底まで後ろ向きになって転がり落ちる。そしてその場所で再び昏睡状態に陥るのである。ア・バオ・ア・クが完全に可視の状態になったのは,何世紀ものあいだでたった一度だけのことである。

(リチャード・フランシス・バートン卿,『アラビアン・ナイト・エンターテインメント』の訳注より,ロンドン,1885-88年)

なるほど。でも中国に「チトール」なんて地名のところはないんだけどな。

で、「インドのラジャスターン州ウダイプル郡チトール」はどこにあるのか、「勝利の塔」はどのようなものか、お前ら多分見たことがないと思うので見せてあげます

これです。

日本企業駐在員 インド人化計画:2005年11月

チットールガル城塞の内側には数多くの建築物が残るが、一際目立つのがこの塔である。時の王ラーナ・クンバが、戦勝記念として1458〜68年に建てたもので、高さ37mの9階建構造である。建物内外にヒンドゥー教彫刻を施したものとしてはインドで最も高い建築物とされている。また、上層階が中央部よりも広がっている点が、当時の建築技術水準の高さを立証している。

だいたい、ピサの斜塔とか浅草凌雲閣が高さ50メートルぐらいなので、それらと比べると見劣りはしちゃうんですが、「一際目立つ」というのは以下のところを見るとわかります。

chitor

↑これの1枚目と4枚目の画像。

また、一番最後の画像を見ると、チトール(チットールガル)の「勝利の塔」からでも、「世界でも最も美しい風景が望まれる」かもしれないな、と思いました。

ところが!

英語圏に住んでいる人にはさらに意外な事実が。

こんなテキストが、ウィキペディアの英語版にはあるんですね。

A Bao A Qu - Wikipedia, the free encyclopedia

A Bao A Qu is a Malayan legend described in Jorge Luis Borges's 1967 Book of Imaginary Beings. Borges claimed that he had found the legend in the book On Malay Witchcraft (1937), by C.C. Iturvuru.

と、いきなり「マレーの伝説」になっています。元になったのは、C.C. Iturvuruという人による「On Malay Witchcraft (1937)」だそうな。

こんなのとか。

Abaoaqu

For some reason I felt sure that C.C. Iturvuru (what an amazing name!) had heard the tale from an Orang Asli. The first person I asked happened to be Seri Pagi (though I only knew him as Pak Diap then). I gave him a simplified rendering of the A Bao A Qu legend and waited while the rusty gears of his memory whirred. His brow furrowed and then he broke into a broad grin, exclaiming in triumph: "Abang Aku! You mean Abang Aku!"

現地のSeri Pagiさんもそう言っています。

ところが!

これにはこんな裏事情が。

Jorge Luis Borges's BOOK OF IMAGINARY BEINGS

So this edition is a more accurate rendition of the various Spanish-language versions (order excluded). But I wonder if perhaps Borges did not intend (as Rodriguez Monegal and Woodall suggest) for the English-language editions to have some differences. For example, the last paragraph of the "A Bao A Qu" in the Hurley translation says, "Sir Richard Francis Burton records the legend of the A Bao A Qu in one of the notes to his version of The Thousand and One Nights." The di Giovanni translation says, "This legend is recorded by C. C. Iturvuru in an appendix to his now classic treatise On Malay Witchcraft (1937)." John Dyson of Indiana University thinks this change (from the Spanish text) was made to make it even more exotic, and is in fact a literary hoax, because various people who have attempted to track down the Iturvuru book have found nothing (except that Borges had a friend named C. C. *Iturburu*). It is a pity that this additional fillip has been discarded in the new edition. Hurley cites sources for most references in his edition, which is a great boon, but says nothing about this particular one. He does say in his end note that "some of [Borges's] 'quotations' are almost certainly apocryphal, put-ons." Interestingly, though Hurley claims to hew close to the Spanish, he translates "El capitan Burton" as "Sir Richard Francis Burton".

訳すのめんどくさいんで適当にパラフレーズすると、現代は「Andrew Hurley」の訳(Viking版)では「バートンの千夜一夜物語」に依拠していると書かれているみたいですが、イギリスで「Norman Thomas di Giovanni」に1967年に訳されたテキスト以降、(ボルヘスのテキストはスペイン語なので、英語に翻訳しないといけないのです)様々な「異本」が存在しているらしいんですな。

で、「di Giovanni」の翻訳では、その伝説は「C. C. Iturvuru in an appendix to his now classic treatise On Malay Witchcraft (1937)に書かれている」ということになっている、と。

ところが!

この「On Malay Witchcraft」の作者という「C. C. Iturvuru」という人は、ボルヘスの本の中、あるいはその本を引用している本の中以外には出てこないみたいなんです。

このテキストを書いた人は、ボルヘスの「literary hoax(文学的でっちあげ)」という説を取っていますし、ぼくも何か怪しい気がします。

この事実を確認するには、

1・中国のチトール(ってどこよ)にある「勝利の塔」

2・C. C. Iturvuru(って誰よ)が書いたという「On Malay Witchcraft」

という2つのうちのどれかが確認できるといいのですが、現在確認されているのは、チットールガルにある「勝利の塔」だけだったのでした。

まぁ、『幻獣辞典』は、少し調べようと思わなくても、パラパラ読むだけでもとても面白い本なので、機会があったら読んでみてください。たいていの図書館には置いてあると思います。ただし図書館から借りて読む場合は、返さなければならない期日があることに頭にくることではありましょう。

→「幻獣辞典」(アマゾン)