月今novel

2017-03-29 私が古巣ブログに戻る、少しばかり長い理由

こんにちは。長いこと更新の止まっていた拙ブログをわざわざ読みに来てくださってありがとうございます。
突然ですが、当方、様々なる意匠と縁と事情により、4月より旧はてなブログに戻ることにしました。
「水と今」http://lovemoon.hatenablog.com/
ブログをご覧になってくださっていたありがたいお方々、お手数ですが、ブクマ削除と追加などくれぐれも宜しくお願いします。イツキ

うーむ、これだけだとちょっと説明不足なので、もう少しばかり追記させてください。

2月のある日、このダイアリーログインできなくなった。
なんで? どうして? ググってみても、全然わからぬ。
いささか焦ったが、あれこれ考えた結果、以前のはてなブログに出戻りすることにした。新しいブログを作成することも考えたが、正直、面倒でもあったし、それは「ちょっと違う」ような気がした。

これまた私事だが、愛猫Piw太が他界してかれこれ4ヶ月経つ。
そんなに。という気もするし、それしか。という気もする。どちらにしても、具体的な月日はあまり問題じゃない。きっと20年経ってもこんな風に感じているだろう。あるいはPiw太をすっかり懐かしく思い出しているかもしれない。あるいはPiw太の存在をびっくりするほど遠くに感じているかもしれない。あるいは何かを感じる私はもうここにいないかもしれない。
とにかく、そういうのはそれほど大した問題じゃない。私はここにいて、Piwもここにいた。私はPiwを失った(本当は、一度出会ったら、人は猫を、猫は人を失わないのだが。)私は、ここに何かをつらつらとしたためていた。大事なことはそれだけだ。

愛猫が臥せっていた時、他界した日、とても文章など書ける心境でなかった。だけど同時に、何か記さずにはおれなかった。だから、愛猫が他界する数日前にこのダイアリーを作成し、愛猫の亡骸を傍らに、このダイアリーをしたためていた。
それから暫く、沈んだ心で生活しながらこのダイアリーを記し続けた。でも、先日、いきなりログインできなくなってしまった。

察するに、このダイアリー「月今novels」は、愛猫が他界した時、「心が宙に浮いてしまった」私が(どうにかこうにか)何かしら書きつけるための「期間限定的日誌」だったのではあるまいか? ログインできなくなってしまったのは「ここでいったん閉じるべき」という天からのお告げではあるまいか? かねてより迷信深い私はそんなようなことを思ったのである。

そうして今、Piw太のいない春が21年ぶりにやってこようとしている。Piw太のいない日々を、Piw太のいた頃と同じ場所で、もうしばらく綴ってみよう。ようやくそう思えるようになった。

以上、この度「ブログを出戻りする」理由(のようなもの)であります。それほど説得力のある説明になっていないかもしれないけど、ご理解ください。

で、ログインできなくなったはずのこのダイアリーをなぜ今、更新できているかというと……これは簡単な話。
出戻りするにあたって、「はてなブログpro」という名の有料サービスに何となく登録してみたら、あれまあ不思議、一ヶ月間、どうやっても入れなかったこのダイアリーに何故かさらっと入れたのであります。これは「ログイン沙汰も金次第」ってことでしょうか。あまり追求しないでおきましょう。ではでは、また古巣で! http://lovemoon.hatenablog.com/

2017-02-21 木瓜

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今日、近所でひそやかに咲いている木瓜を見かけた。その木瓜は春の息吹を強く感じさせてくれた。
木瓜萌えゆ。いざ、生きめやも。月丸

2017-02-10 あれから

おはようございます。
図らずも、2月は今日が初めての更新であります。やや緊張する。
どうしてこんなに滞っていたのか……わかりません。何度か更新しようとは思ったのですが、どうにも気が乗らなかったような気がします。
ブログでもジョギングでも格闘技でもそうですが、手押し車に弾みがつかない限り、日々刷新/更新はなかなか難しいものです。
何かしら本気で続けたいなら、あらゆる努力と犠牲を払わなければなりません。自己を駆り立てる小狡い工夫も欠かせません。
「人は己が望んで臨んだもののみを得る」
けだし名言。そしてそれは、by 私。しかし説得力は微塵もなし。

話は変わるが、今日の昼、相棒猫が他界してからもう2ヶ月経つことになるのか……と歩きながら思った(二日酔いだった私は否応なしに早起きし、行きつけの中華そば店に向かっていた)。
「ことになる」とは、そうした時間計測的な実感は全くないからだ。
「そんなに」という気もするし「それしか」という感じもする。計量してみると、どちらの所感も質量ともに同じくらい。
だけどそんな所感は、空を見上げながら歩いていて、一片の雲が流れたくらいのことでくるくると変わってしまう。

それも当然かもしれない。相棒猫が他界したその時点で、全てが変わった。22年間の魔法が急に解けたように(その時は)思った。
2016年12月2日の朝。僕の世界はすっぱり分断された。大袈裟に聞こえるかもしれないが、これが猫飼い主男の正直な実感である。
なればこそ、その日からこの他愛ないダイアリーに、変わってしまった自分の所感をあれやこれや記しておこうと思ったのだった。
相棒猫との出会いと別れは初めての、そして一回きりの経験であった。だけど、今、もし相棒猫が生きていたら……となどと考えることはできないし、
相棒猫がいない事実を自分の腑に落とそうとしてみても、これまたうまく得心できない。

僕はいつか相棒猫の気配をすっかり忘れてしまうだろう。相棒猫の体の重みを感じられなくなるだろう。朝、起きても、相棒猫に向かって(無意識に)手を伸ばさなくなっている自分に気づくだろう。
相棒猫に関して、私はすっかり進退谷まってしまっている。

しかし時間なるものは、世界なるものは、こちらの希望や所存などおかまいなしに流れてく。風に飛ばされていく一片の雲のように。
僕はそんな雲のことなど気に留めず、「ここ」で相棒猫とじっとして、音楽を聴いたり、テレビゲームをしたり、本を読んだりしていたかったんだよ。甘い? そういう人間なんですわ。

しかし、僕もまた、ぐいぐい押し流されてくだろう。ざあざあ流されていくだろう。びゅうびゅう吹き飛ばされて、いつしか相棒猫のところまで辿り着けるだろうか?
いや、違う。むしろ相棒猫が僕を追いかけているのだろう。もの凄いスピードで。猫突猛進の勢いで。いつだってそうだった。白猫はいつでも狙いを定めてこちらに向かってきた。

だから僕は心を極めて、「ここ」にいなきゃいけないと思う。今もささやかに営んでいる名曲喫茶に居てもいい。未だ存在している狭い暗い部屋に居てもいい。井の頭公園のベンチで酔いつぶれていてもいい。死んでたっていい。(まだ生きてるつもりだが。)
僕という「的」はあまりに大きすぎて、相棒猫にとってはきっと見過ごしようないはずだ。なにしろ、猫の視力とひげ感度は破格だからな。

2017-01-30

数日のざっと

《1/30》
今日は、15年前から私の母が営んでいる大切な店『cafe flowers』の取材に同席させてもらった。
母の店で長年スタッフとして働いてくれたY嬢が、昨今は主婦兼ライター業に従事しており、
彼女が母の店を多摩情報誌『たまら・び』に強く推薦してくれ、さらに記事内に私の営む名曲喫茶も触れてくれることに……
というのが、今回立ち合った経緯。なので、今日は店の掃除とコーヒー番に専念していた。

さて、私は自他ともに認める人見知り兼口べた人間なので、「取材」的な場は昔から苦手なのだけど、
今日は知己であるY嬢の人柄と素敵な編集者Sさんの心遣いのおかげもあって、楽しく、心やすい取材になって快かった。
母も店の成り立ちやこれまでの経緯、現在のFLOWERSに対する心構えのようなものをいつになく滑らかに喋ってた。
じっさい、我が母ながら、こうも普段の心持ちを言葉にしてすらすら語れるものなのだなあ、と深く感心したのだった。
というわけで、『たまら・びvol.95 国立特集』は4月に発売とのこと。
http://keyaki-s.co.jp/detail_tac/lavie-book/
現在発売中の「まちの酒場、まちの地酒。」もたいへん面白いので、多摩好きの皆さんも、そうでない皆さんもぜひお読みましょう。

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《1/28-1/29》
週末は名曲喫茶為事に従事していた。長年そうしてきたように。
さて、僕は基本的にかなり夜型人間なのですが、土/日/祝は名曲喫茶を開ける為、だいたい午前8時前後に起きます(えへ、ん?)。
ただし、寝るのはいつでもすこぶる遅いのですこぶる寝不足状態です。幼少期からの習性だから仕方なし。
なので、起床後数時間はろくすっぽ頭が働きません。無意識状態で朝食を摂り、自動人形のように買い物と店の掃除と支度を済ませ、12時きっかにがらがらとシャッターを開けます。
そんなことをもう5年近くやっているわけですが、身体は眠っていたり、疲れていたり、二日酔いだったとしても、我が心はいつでも遠足の幼児のようにワク・ドキしているのです。
この《ワク・ドキ》がなければ、とてもじゃないが、店仕事など勤まらなかったことでしょう。本当にありがたいことです。
レコードを選んだり、思い入れたっぷりのリクエストを受けたり、窓際でうたた寝している老人を眺めたり、コーヒーを淹れてる時間がまったき至福にあります。
そんな私が細々と限定的に営んでいる店に、毎週お客さんが来てくれる……しつこいけど、こんなにありがたいことは、そうそうあるものではありません。
名曲喫茶では、ほぼ誰も大声を出しません。ほぼ誰もがクラシックと静寂を好んでいます。ほぼ誰もがそんな場所を祝福してくれています(そうでありますよう!)。
これはもう、「奇跡」と言って良いと思います。少なくとも、私は奇跡的恩恵と思っている。ありがたい、ありがたい、ありがたい。10000回言っても足りません。
毎週末、そんな奇跡が起こっていることに私は心の底から縁まで感謝しています。なみなみと、溢れんばかりに。
(ちっと気恥ずかしいので、なるべく目立たぬように記してみました。)おやすみりん。

2017-01-26

「中央公園」でピクニック(上)

知らず識らずのうちに、1週間も経ってる……。
「歳を取れば取るほど流れる月日が早くなる(と体感される)」
という現象は、しょっちゅう喧伝されているし、生物学的にも証明されているらしい。
本当にそうなのかしら、と自問する。多分きっとそうなのでしょう。実際、そう感じることが多い気ぃする。
だけど日々、自分を充足させることができれば、何かしら成長を感じることができれば、その時間経過は慶賀すべきものと感じられる、とも思う。

問題なのは、速き時間経過を「まったき無意味」と感じてしまうことであって、時間経過が早く体感されること自体は、けっして厭うものではあるまい。
幼少期など、昼間から遊びに夢中になっていると、瞬く間に陽が落ちていた、ということはようありました。
塾やら予備校の夏季講習やらで1日缶詰めになっていた時など、時間は堪えがたく長く感じたものでした。
夏季講習の帰り道、出来たばかりのモスバーガーコーヒーと「ティラミス」なる蠱惑的なお菓子など口に含むと、「さっきまで居たのは牢獄だった」と痛感したものです。
中学生の頃などは夏休みそのものが永遠みたいに長く感じたものだから、夏中、ほとんど囚人みたいな気分で過ごしていたのでした。
早朝の爽やかな空気までもが毒気混じりに思えましたもの。

何の話だったか。
時間が短く感じられようと、早く感じられようと、兎にも角にも、目の前のことに集中できていればそれで良き哉。ということか?
いや、それ以前に「集中しないこと」が幸せな時間であることも多々ある、ような気がする。
(すみません、今日も何にも考えずにつらつらと記しているので、だらしのない、たわいない展開になりそうです。次からはしゃんとします。たぶん……)

そう、「集中すべき対象がない腑抜けた状態」。これはこれで幸せなステイト。心の「ばらけ」を感じられる時は、なかなか得られぬプレシャス・タイムです。
だから、集中すべきものたちに日頃から囲まれている者にとっては、「ぽかん」と呆けた時はじつに希有な状態であると言えましょう。
そんな時間を得たい、そんな時間に居たい、こんな時間を過ごしていたくない……そう思った時、人はどこに向かうべきでしょうか。
断言しましょう。それは「ピクニック」という行為であります。無論、山や海や川ではだめです。あれらはあなたの心を奪ってしまうから。よかれあしかれ。

個人的には、一面に人工芝が敷かれているような人口的な公園に赴くのが好ましいと感じます。薄いサンドウィッチと熱いコーヒーが入ったポットとワインボトルを持って。
ただし、立川の『昭和記念公園』は適しません。あまりにだだっ広いし、歩き回ることが目的化してしまうことでしょう。ボートだのトランポリンだのもありますし。
井の頭恩寵公園もダメでしょう。カップルが多いし、周囲に魅力的な店舗の誘惑も多いし。同様の理由で、新宿御苑上野公園日比谷公園も除外すべきでしょう。
個人的には近場において、ピクニックに好ましい公園は1つしか思い浮かびません。
そう、それがかの「多摩モノレール」に乗って赴く、多摩センター中央公園なのであります!!!(続く)

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