神話的思考と現実的思考

ヒトの心のなかには神話的思考と現実的思考が同居している。現実的思考は、コップをもったり、御飯の支度をしたりと日常的な「所作」にかかわる部分に連なる。また神話的思考は、花に母の顔を思い浮かべたり、神前で手をあわせたり、森の中で神の化身の鳥に出会ったりする。神話的思考は世界との連なりをもたらす。現実的思考は、近代化のなかで科学技術により途方も無く拡大され、もはや科学的思考といってもよい。近代はこのふたつの軸のバランスが極端に悪い時代である。ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、あまりに明るい科学の光のまえに、おもわず神の所在を忘れてしまったのダロウ。このふたつの軸をめぐる旅は中沢新一の『カイエ・ソバージュ』のシリーズが小気味よい。

森林と砂漠

鈴木秀夫は風土論のなかでまた二軸を展開する。砂漠という風土ではいつもいま決断しなければならない。これがロゴスを核とした一神教を生む土壌となり、やがてイエスを生んだ。一方森林のなかはどこを切っても不可分な多様で多彩な関係にみちている。これがレンマ(AがAであるのはAとBがあるからこの関係のなかでAになるという関係性)を核とした多神教を生む土壌となり、やがて仏陀を生んだ。風土と宗教、文化がそのまま連なっているというわけダ。『超越者と風土』は必読書。中沢新一対称性人類学とも響きあう。

マイクロソフトリナックス

マイクロソフトリナックスもこの軸に重ねてみることができる。エリック・レイモンドはこの軸を『伽藍とバザール』と表現した。ビル・ゲイツを頂点とするマイクロソフトのソフトウエア開発を「伽藍」とし、リナックスのソフトウエア開発を「バザール」とした。伽藍ではトップダウン式に厳密に仕様が決定され構築される。一方バザールには様々な開発者が集まり思い思いに自分で組み立ててはバザールに出店する。従来のソフトウエア開発とオープンソース式の開発の対比である。これもそのまま現実的思考と神話的思考、砂漠のロゴスと森林のレンマに連なる。マイクロソフトにはただひとりの神がおいでになり、リナックスにはたくさんのカミが遊ばれてるというわけダ。いよいよソフトウエアの世界でもこのふたつのココロの軸が語られるようになってきた。


伽藍とバザール(Eric S. Raymond著、山形浩生訳)
 http://cruel.org/freeware/cathedral.html

軸の所在

だが、このふたつのココロの軸はどちらか一方を選択するのではない。だれもがこのふたつの軸をもっている。現実的思考・科学的思考は物理的生活を成立させるためにはたらく軸であり、超現実的思考・神話的思考は、物理的空間をこえて他所の空間、世界と連なるためにはたらく軸である。軸のバランスの問題はあるが、誰の心のなかにもこのふたつの軸がある。ただ、近代は科学のチカラにより科学的思考の軸が巨大化し、ココロとしてはとてもバランスの悪い状態になってしまったというわけダ。ぼくはこの心の模様を「マインド・スコア」と呼んでいる。


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近代の先

 さて0911以来、「近代は終わった」という気分が世界をおおっているが、近代を破壊するだけでなく、「近代の先」を歩みたいものダ。破壊はテロリズムどまりだ。ジャーナリズムにいたるまでいまこのテロリズムが横行している。このふたつのココロの軸がなかなかよい羅針盤になってくれる、カモネ。