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参照用 記事

『圏論による量子計算と論理』はエキサイティングだ (2/2)

クリス・ヒューネン・著/川辺治之・訳『圏論による量子計算と論理』(圏論による量子計算のモデルと論理)の内容については「『圏論による量子計算と論理』はエキサイティングだ (1/2)」で述べました。ここでは、内容そのものより、内容を説明・伝達する手段や、媒体としての使い勝手について書きます。日本語の表現についても触れるので、内容とまったく無関係というわけではないですね。今回も、周辺事項(「余計な事」とも言う)を色々書きます。

内容:

はじめに

前編(1/2)の最初の節「読むけど読まない人」は、今回の「はじめに」でもあると思ってください。そこで述べたように、僕は本をチャンと読まない(読めない)ので、僕の感想や指摘は網羅的ではなく断片的です。たまたま“そこ”を見ていてい気付いたから書いているだけです。

僕の記憶や連想に話が広がりがちなので、『圏論による量子計算と論理』特有な話ではない一般論も入ったりします。ついでに書いた、が多いわな。

次の約束は引き続き使います。

以下この記事では、『圏論による量子計算と論理』を「ヒューネン本」とも呼びます。翻訳日本語本であることを強調したいときは「ヒューネン/川辺本」とします。僕が通常使っている用語とヒューネン/川辺本の用語が違うときは、「檜山の用語《ヒューネン/川辺本の用語》」という書き方で表すことにします。

層とふるい

第4章p.162に「余層」という言葉が出てきて、索引にも載っているのですが、これは余ふるい〈余篩〉じゃないのかな。

英語・単数 英語・複数 訳語
sheaf sheaves
sheave sheaves 滑車輪
sieve sieves ふるい〈篩〉

層とふるいは圏論のなかで使われる専門用語です。その意味はnLab項目を見てください。

ふるいは、モノイドや順序集合におけるイデアルの概念を圏に拡張したようなものです。発音が似てるので混同しがちですが、sheaf〈層〉とsieve〈ふるい〉は別物です。が、さらに間が悪いことに、層とふるいは密接に関連していて、同じ文脈で出現します。

前層〈presheaf〉は、単なる圏Cに対して(反変の)関手圏 [Cop, Set] = Presheaf(C) として定義できます。しかし層〈sheaf〉は、単なる圏に対しては定義できません。層概念の定義には、Cがグロタンディーク・サイト〈Grothendieck site〉である必要があり、サイトが持つ構造であるグロタンディーク位相〈Grothendieck topology〉の記述にふるい〈sieve〉が使われます。

余ふるい〈cosieve〉はふるいの(圏論的)双対概念で、余層〈cosheaf〉のためのグロタンディーク余位相〈Grothendieck cotopology〉を記述するときに使います。順序集合を圏とみなしたとき、ふるい/余ふるいは下方集合/上方集合で、イデアル/フィルター(どっちがどっちだったかは毎度忘れる)とほぼ同じ*1ものです。

sheaf(もともとはフランス語faisceauだとか*2)という英単語は、束〈たば〉という意味らしく、類語にbundleがあります。層の定義として、エタールバンドル〈étalé bundle〉(またはétalé space)という位相空間を使う流儀もあって、ナニカがたばになったり重なったりの雰囲気なんでしょう。

占いに使う筮竹〈ぜいちく〉のバンドル
*3
ミルクレープの層
*4

フランス語「エタール」はnLab項目に説明があって、英語では"spread out"ということらしい。けど、「広がった」と言われてもナンダカ分かりません。語感は役に立たないので、定義を読みましょう。

紛らわしい言葉

ウンチクついでに、紛らわしくて誤訳につながりかねない言葉を幾つか挙げてみます。(ヒューネン本と直接の関係はありません。

英語・単数 英語・複数 訳語
base bases 基底
basis bases 基底

baseとbasisは発音も意味も似ています。別に区別しなくていいだろうと(僕は)思いますが、うるさい人がいるかも知れません。位相の基底はbaseで、ベクトル空間の基底はbasisが多いみたいです。

英語・原形 英語・過去形 訳語
bind bound 束縛
bound bounded 有界

bind, boundは動詞ですが、bound, boundedは形容詞に使われます。束縛変数は bound variable で有界作用素は bounded operator です。

英語 訳語
contract 契約
contraction 縮約
contractum コントラクタム

契約〈contract〉はビジネスでも使う普通の言葉ですが、メイヤー先生DbC(Design by Contract)では専門用語として特有の意味を持ちます。contractionはラムダ項の簡約などの意味で使います。計算と論理の話では、メイヤー流の契約と項の簡約が一緒に出てくることもあります; このときは紛らわしい。テンソル計算でも縮約〈contraction〉が出てきますね。シーケント計算の減〈げん〉もcotractionです。

contractumは、すごく契約っぽく(僕には)聞こえるのですが、簡約・縮約の結果を意味します。簡約・縮約が可能な項(の一部)はリデックス〈redex〉で、リデックスを簡約・縮約(あるいは書き換え)したらコントラクタムになります。カタカナじゃない日本語が思い浮かばないのですが、redex=可簡約項、contractum=被簡約項 とか?

ヒューネン本に限ったことじゃないですが、順序に関わる用語は解釈が難しいです。単に「順序」といったとき、total order か partial order か分かりにくい。たぶん(僕の観測範囲では)、単に「順序」だと partial order で、total order はその旨断ることが多いでしょう。でも、そうじゃないときもあります。

partial order を直訳すると「部分順序」だけど、たいていは「半順序」みたい。しかし、semiorderという言葉もあるので、困った事態になるかも知れません。

ヒューネン本では「疑順序」という言葉が出てきますが(例えばp.120)、どうも「前順序」(例えばp.176)と同義らしい。原語はおそらく、quasiorderとpreorderで、ヒューネン自身が混ぜて使っていたのでしょう。なお、preorderを「前順序」とすると、口で言う/耳で聞くときに前順序〈preorder〉と全順序〈total order〉の区別が付かないので、僕は(できるだけ)プレ順序と線形順序にしています。

これらの紛らわしい言葉達に関して、一冊の本のなかでは、一様なルールに従って書いていただければ嬉しいです。悩む負担が軽減できますから。

原語を知りたい

本のなかで説明がなくても出てくる専門用語があります。これは仕方ないことですが、その用語を調べるとき、日本語だと情報がないときがあります。例えば、p.103に「超コンパクト位相空間」という言葉が出てくるんですが、日本語の検索ではこれといった情報が出てきません。

「超」の原語候補は ultra, super, hyper などがあります。超関数〈distribution〉のような意訳もあります。結局 supercompact space のWikipedia項目がありました。

p.201には「超ストーン的(位相空間)」という言葉が出てくるんですが、この「超」も ultra/super/hyper を入れ替えて検索してみたのですが、どうも引っかからない。結局 hyperstonean space でした*5。これは一般的な言葉ではなくて、Bohrification of operator algebras and quantum logic あたりでヒューネン達が使いだしたものみたいです。

一般的じゃないといえば、p.221の「現存在化」、日本語でも英語でも見つからない。「現存在」はハイデッガーが使ったドイツ語dasein〈ダーザイン〉の訳語、それをdaseinisation(発音ワカラン)としたのは、たぶんクリス・イシャムによる造語。nLab項目 https://ncatlab.org/nlab/show/daseinisation がありました。たどり着くのに一苦労。

といった具合に、説明がない(あるいは短すぎる)言葉は、nLab(https://ncatlab.org/nlab/show/HomePage)やarXivhttps://arxiv.org/)で調べたいわけですが、そのときは原語(英語)が必要です。

欧文索引を付けるか、日本語索引に原語も併記するのがすぐ思いつく方法です。しかし、これだと、今言った目的ではうまくないんですわ。当該書籍に説明がない用語って、索引に拾わないことが多いですよね。でも、説明がないから他をあたって知りたいわけ。単に使用または参照している語には、本文内で英語を併記するか、使用・参照しているだけの語も索引に拾うか、詳しい訳語一覧を付けるか。どっちにしろ手間だけど、要望として「欲しい」と言っておきます。

人名表記と人名索引

僕は、日本語の文章内では、外国(非漢字圏)*6のかたの名前をカタカナ書きすべきだと思っています。日本人でさえ名前の発音は分からないので、発音が大きく違ってしまう可能性はあります。でも、仕方ないですよ。例えば僕が、外国(非日本語圏)のかたから「ミスター・ハイヤマ」と呼ばれても仕方ないでしょ。ゲーテGoethe〉をギョエテと読んでも恥じるほどのことではないです。

ヒューネン/川辺本における人名はすべてカタカナ書きされています(後で述べるひとつの例外を除いては)。発音が食い違ってもいいと思いますが、前節で述べた理由で原綴〈げんてつ | げんつづり〉が知りたいことがあります。例えば、p.178に「クリプキ-ジョアル意味論」て出てきますが、「ジョアル」が André Joyal*7 のことかな? とか。(あのJoyalでした、https://ncatlab.org/nlab/show/Kripke-Joyal+semantics

人名も、本文内に原語併記よりは、人名索引があったほうが便利です。その索引に原綴も入れておけばいいですね。

さて、本文内で人名は完全にカタカナ表記なのに、なぜか表紙の著者表記が Chris Heunen なんです。これ、なに? なんで? 翻訳本でも日本語の本なんだから、「Chiris Heunen 著」って変だと思うんだが。

ストリクトとストロング

新興分野の本の翻訳は大変だろうなー、と思います。定訳がないですからね。へたな日本語にすると誤解されそうだ、って言葉もあります。"strict"がその例です。僕は、そのまま「厳密」としてますが、「○○○は厳密ではない」とか書くと、○○○は不正確でダメみたいな印象になってしまう。そういうことじゃないんだけど。

strictは圏論でよく使われる専門用語(形容詞)です。ヒューネン本では、内積に関して非自明なヌルベクトルを持たないこともstrictと形容しています。訳者の川辺さんは"strict"を「ストリクト」にしてますが、「厳密」で誤解されるより「ストリクト」のほうがいいかも、と思います。ただし、「狭義の」と「ストリクト」の2つを混ぜないで、「ストリクト」一本槍のほうが良かったんじゃないかな。

それと「ストロング」; これには、「強」か「ストロング」か? よりずっと深刻・厄介な問題があります。原著でそうなってるんだと思うのですが; p.19でストロング・モナドとストロング関手が出てきます。p.42では、ストロングモノイダル関手が出てきます。この二箇所で「ストロング」の意味が全然違うのですよ。何の断りもないから、読むほうは混乱します。

p.19のストロング関手の「ストロング」はテンソル強度〈tensorial strength〉に関係し、p.42のストロングモノイダル関手の「ストロング」は、「ストリクト/ストロング/ラックス」という形容詞のセットのなかの「ストロング」です。より詳しい事情は次の記事を参照してください。

このテの言葉・表現の問題は、まだたくさんありますが、かなりのところは一般論なので、このへんでやめます。ヒューネン本固有のことも、断片的じゃなくてリストにしたほうがいいだろうから、別の機会にします(って、網羅的に読まないからリストは無理そう)。

索引類

索引は特に少ない方ではありません。しかし、前に述べた理由で、使用・参照しているだけの語も原語付きで索引に入っていると大変にありがたい(要望)。

通常の索引以外に、圏の索引と記号索引が付いてます。これはとても便利。ただ、圏の索引には随分と漏れがあります。例えば次の圏は、圏の索引にはないです。

  • p.11のRng
  • p.12のFld
  • p.39のSLat
  • p.71のSup
  • p.172のTop
  • p.191のModel
  • p.185のKHousTop

また、既存の圏に接頭辞を付けて修飾した圏は索引にない(少しはある)のですが、接頭辞のルールが説明されてません。分かった接頭辞を記しておくと*8

  • c : 可換
  • fd : 有限次元
  • fin : 有限
  • fp : 有限射影的
  • o : 反対の〈opposite | 逆〉
  • pre : 前
  • s : ストリクト
  • Inv : 対合的
  • K : コンパクト

p.13のPHilbPや、p.39のdivtfAbdivtfのように、意味が分からない接頭辞もあります。ヒューネンは、けっこうチャンとした(接頭辞だけではない)ネーミングルールを持っているようですが、それが説明されてません。系統的なネーミングは、圏の分類学でもあるので、圏の索引を充実させると、書籍の内容の鳥瞰図が得られると思います。

ハードカバー

僕がハードカバー嫌いであることは、次の記事に書いてあります。

上記記事は主に洋書のことで、日本語の本では値段が高くなったり、落として壊れる事件も発生してないので、まーいいんですけど…。本の形態は、出版社の方針で、著者や編集者の意向ではどうにもならないのかも知れません。僕の印象では、名門老舗出版社はハードカバーの伝統があるような。共立出版は名門老舗ですから、ハードカバーか、しょうがないのか。

しかし、ハードカバーのメリットって何なんですかね? 本棚に置いたときヘニョらないでシッカリ立ちますね。経年劣化にも強いのかな。読むより保管するのに向いているようです。読む時点での機能性と保管時の機能性のどちらを重視するかで、2バージョンから選べるといいのですが、コスト的にまず無理でしょうな。

ともかく、個人の好みとしては「ソフトカバー(ペーパーバック)のほうがいい」と言っておきます。

おわりに

なんやかんや言いましたが、『圏論による量子計算と論理』のような新しい分野のテキストを、正確な翻訳書に仕上げることは大変な作業です。翻訳書、編集者、関係者の皆さんの努力に感謝します。

*1:イデアル(双対的にフィルター)概念は、単なる順序集合、半束、束などでちょっとずつ違います。https://ncatlab.org/nlab/show/ideal 参照。

*2:日本語訳の層〈そう〉は、フランス語faisceauの音訳だと聞いています。音も意味もうつしているので、うまい訳語ですね。ちなみに、ふるい〈sieve〉も、もとはフランス語cribleです。

*3:画像: http://wasendou.net/product.html より

*4:画像: http://lowch.com/archives/8114 より

*5:さらに厄介なことに、Stone space と Stononean space で意味が違うのです。訳文でも、形容詞「ストーン」と形容詞「ストーン的」と訳し分けています。

*6:地理的・政治的な意味での国ではなくて、文字・言語の文化圏のことです。

*7:僕は「ジョイアル」と書いてますが、Forvo の https://ja.forvo.com/search/Joyal/ だと、「ジョワイアル」に近いかも。

*8:これを見て、ハンガリアン記法を思い起こす人っているかな? いないかなー?