羽生善治とピカソ








1.ほんとうに新しい人

「負けました」。一日午後十時二十三分、投了の意思を告げた。将棋盤を挟み目の前に座っているのは羽生善治王座。対局室に報道陣がなだれ込み、私の背中越しにフラッシュの雨を浴びせた。
私が挑戦した第五十三期将棋王座戦五番勝負は第三局で幕を閉じた。結果は羽生さんの三連勝で、王座戦十四連覇。同一タイトル連覇の新記録達成を許してしまった。(※1)


二年程前の記事になるが、将棋棋士佐藤康光氏が王座戦でライバルの羽生善治氏に敗れた際に、新聞に寄稿したエッセイの冒頭部分の引用である。


「負けました」。


文頭の、この一言が、将棋界の現状のすべてを語っている。

羽生さん、佐藤康光さんたちは人の将棋を必ず座って見る。また、彼らは、負けた時にははっきりと「負けました」といって頭を下げる。負けたときは悔しいものだが、潔く認める心が大切である。将棋界でタイトルをとって活躍していくには、将棋ファンだけに将棋を提供して楽しんでもらうというだけでなく、社会全体に影響を与える存在になるように努力する必要があるのだ。(谷川浩司)※2


羽生氏が七冠(竜王・名人・棋聖・王位・王座・棋王・王将)を達成したのが、1996年だから、それからかれこれ10年という月日が過ぎた。当の羽生氏はタイトルをすべて維持しているわけではないが、まだまだ第一線で活躍し続けている。さらに、羽生氏を評価する上で特筆すべき点は、羽生氏個人の成績もさることながら、個人にとどまらない将棋界全体に及ぼしている「開かれた力」である。

この10年間に将棋界でおこった出来事をあげると、谷川浩司の復活劇。羽生と同世代の佐藤康光森内俊之等の活躍。さらに彼らより若い世代である渡辺明等の台頭etc.
タイトル戦をどこの新聞社が主催するかというごたごたもあったが、現場を支える棋士たちは、タイトな試合スケジュールの合間を縫ってイベントを開催し、ファンとの交流を深めている。特にトップ棋士は本当に忙しいにもかかわらず、イベントやテレビに積極的に出演している。しばしば「この人はタレントなの?」と首をかしげてしまう人もテレビで見かけるが、そういった本末転倒を起こすことなく、将棋棋士として最大限の活動をしている。
またコンピューターの将棋ソフトとの対戦。プロ棋士としての自らの存在を脅かすことでもあるので避けたい気持ちもあるだろうが、こういったイベントにも逃げずに参加している。
「将棋ブーム」といったムーブメントこそ起こっていないが、将棋界は着実に前進している。

さらに、このような活動だけでなく、プロ棋士は総じて人間的にも優れている。例えば先日、偶然NHKクラシック音楽の番組に出演していた佐藤康光氏を見たが、感じがよく、またコメントも的を射ていて無駄がなく聴いていて気持ちがよかった。あるいは、谷川浩司氏は自著でこのような告白をしている。

棋士、すべてにとっての屈辱です」
森下卓さんが、羽生さんの史上初の七冠となった瞬間につぶやいた言葉だが、その屈辱をもっとも深く味わわせられたのは、王将位を明け渡すことになった私にほかならない。王将位を失い無冠に転落したことは、まさに私の人生最大の屈辱であった。
 再び、私はスランプの波に巻き込まれた。それも、これまでの将棋人生の中で最大級の大波だった。当時の私はスランプに迷い、もがき苦しんでいて完全に腰がひけてしまっていた。そうなると、対局していても負けた時の記憶がよみがえり、冷静さを失い、自信を失い、戦う気力が萎えてしまう。完全にセルフコントロールを失ってしまっている状態だった。(※3)

ある人が、男の嫉妬は一番よくないといっていたが、当時、私は羽生善治という人間に対して嫉妬していたのかもしれない。(※4)


天才と言われた谷川氏がこのような過去を赤裸々に語るとは驚きである。相当に悩み抜いて、吹っ切れたのであろう。そして、そんな谷川氏はその自著を次のような言葉で締めくくっている。

これまでの常識にはなかった新しい戦法を発想していくような構想力や、自分だけではなく周囲の人も楽しく幸福にしていくような人間力をいかに身につけていくか。そうしたことが、四十歳を越えた私の課題となっていくに違いない。(※5)


また佐藤氏は、先に引用したエッセイで羽生氏を次のように称讃している。

最近では、経営学や法律の本にも目を通しているそうだ。自分のことだけでなく、将棋界全体の未来を考えている。これだけ勝っていながら、偉ぶるところがなく、それでいて第一人者の威厳を保っている。
盤上では負けたくないが、羽生さんのような人と戦えることは誇りでもある。十四連覇は途方もない記録だ。七月に私は棋聖戦で四連覇を果たしたが、二ケタの連覇は想像を絶する。羽生さんの強さを目の当たりにして、私ももっと強くならなければいけないと体内に染み渡るように思わされた。(※6)


将棋界を支える棋士一人一人の人間性豊かな姿の現れであるが、この姿と羽生氏の存在は切っても切れない関係にある。第一線で活躍しながら、ライバルの精神の向上に働きかけ、そしてライバルからも称讃される。こういう人はほんとうに稀であり、我々凡人も見習うべきところが多い。

競争といえば手段を選ばず相手をけ落とす。自らの開発した技術をかたくなに守って利益を独占する、あるいはその逆に、相手の開発した技術を執拗に盗もうとする。また「競争はよくない」ときれい事を言って、なあなあの馴合い社会を生み出す。これが世間一般で当たり前のように、平然と繰り返し続けられてきたことである。

羽生善治という存在は、こういった今までの世界観(世界システム)を根底から覆す「ほんとうに新しい人」と言っても過言ではないだろう。


2.羽生善治の将棋とは

羽生将棋にはいまだにそのような明確な棋風・個性が見つかっていない。
しかし、それは「まだ言い当てていない」「いまだに見つかっていない」ではなくて、「ない」なのだ。(作家・保坂和志)※7

羽生さんは、あらゆる戦法を指しこなせる棋士の一人だ。棋風のない、オールラウンドプレイヤーで変幻自在のため、どう指してくるのかがわからない。序盤、中盤、終盤のどこをとっても合理的で、攻めて強いし、受けに入っても強い。こだわりとかがまったくないのが特色である。(谷川浩司)※8

当時の羽生さんは、終盤に勝負手を次々放って逆転勝ちする「勝負師」のイメージが強かった。ところが、十九歳で獲得した初タイトルの竜王を翌年、谷川さん(浩司九段)に取られて無冠になったころから、将棋の質を変えたように思う。

二十代前半、主に谷川さんとタイトルを争う中で、相手を意識せず指すようになった。これは谷川さんと同様に王道を歩む人の将棋だ。しかも、勝ち負けだけにこだわることなく、得手不得手にかかわらず、どんな戦型にも挑戦するオールラウンド型になった。将棋というゲームの真理を探究する心が強くなったように感じた。

仲間とボードゲームやカードゲームに興じる時も、本質を突き詰めようとする。ゲームがどういうメカニズムで成り立っているのかを深く考える。その上で、ゲームで負けないようにプレーする。好奇心旺盛で真摯(しんし)な姿勢は今も変わらない。
佐藤康光)※9


オールラウンド型。多くの人が口をそろえて言う羽生将棋に対する評価である。一方、羽生氏自身はどう思っているのだろうか。

私は、早い段階で定跡や前例から離れて、相手も自分もまったくわからない世界で、自分の頭で考えて決断していく局面にしたい思いがある。実際に、中盤から終盤にかけて局面が混乱し、複雑な世界に突入する。そこで出現する「今、この場面」と同じものは過去にない。どの手を使うか、セオリーを敢えて捨てるか、最後の判断は自分でせねばならない。(※10)


「1.ほんとうに新しい人」では羽生氏の人間性に焦点をあてて論じたが、こういう発言を追いかけてみると羽生将棋の技術面も相当面白そうである。

保坂和志『羽生』光文社知恵の森文庫
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0107912504

なぜ今ごろ文庫化されたのか事情は知らないが、羽生善治の技術(思考法)について論じられた興味深い一冊である。保坂氏はこの作品を執筆するに至った経緯について、2つのポイントをあげている。

詰め将棋を考えているとき、下手な人の駒の動きは不自由に見え、上手な人の駒の動きの方が自由に見えるのだ。下手な人の駒の動きは“最善手”から外れた“自由”な手を指すために不自由に映る。それに対して、上手な人の駒の動きは“最善手”のとおり指すために自由に映る。「自由」とは「主体性」と考えられがちだけれど、本当は違うんじゃないか。むしろ、局面に潜んでいる指し手の法則に身を任せるときに自由が訪れるのではないか。(※11)

もう一つ、『将棋世界』編集長の大崎善生から、こんなことを訊かれたことも、きっかけになっている。
「保坂さん、小説書いてて詰まったらどうする?」
「それまで書いたところを読み直す」
「羽生も同じことを言ったんだよ。指し手に詰まったら、それまでの指し手を何度も辿り直すんだって。それまでの指し手の流れに一番素直な手が、一番いい手のはずだって言うんだよ」
 それまで棋士は、自分の思い描く理想形を実現させる手が一番いい手だと思っていた。ここでも羽生は、いわば「主体」を放棄して「法則」についている。これはもう小説や音楽や絵画とまったく同じことで、作品というのは作者の当初の意図を離れて、その作品固有の法則や運動を持ちはじめる。そのとき、作者の「主体性」なんか関係ない。(※12)


保坂氏の著書では、この2点を軸に「最善手」というキーワードを用いて「羽生論」が展開されている。内容については各自、読んで頂ければよいので、私から何も言う必要はないが、この論点をさらに先へと展開していくべく問題を提起させて頂きたいと思う。


3.羽生 と ピカソ


「オールラウンド型」と言われて、すぐに思い当たる芸術家はピカソである。先の羽生氏に対する評価はそのままピカソにも当てはまる。保坂氏の著書を読めば読むほど、ピカソの姿がチラついてくる。何も羽生氏をピカソの再来だと言うつもりはない。「羽生は羽生であり、ピカソピカソである」。そのあたりを誤解しないで頂きたいが、両者を比較するというのは非常に面白いと思われる。

以前、私は美術家や美術史家が集うBBS(※13)に書き込みを行っていた。美術の知識がほとんどないので、議論に参加していたかと言えば大いに疑問であるが、ピカソに関する面白い議論があったので、抜粋して紹介しておく。





fig.1 ピカソ



fig.2 ピカソ《海辺の人物たち》(1931年)



fig.3 ピカソ《骸骨と水差し》(1945年)



松井:【超越的な枠組み】※14


確かにピカソの画面には超越的な枠組みが使用されています。偶然かも知れないけどこのページのピカソ画像では、キャンバスの左上の頂点から斜めに引かれた直線がかなりの頻度で使われています。《牛の骸骨のある静物》の窓枠などもそうですね。これらは経験やモデルの観察から得られた要素だとは思えません。そういう意味では、あくまで経験から構成を立ち上げるマティスとは異なっているように思えます。
しかしその効果はブラックとはやはり異なるかも知れません。ブラックのグリットが認識の枠組みを超越論的に考察したものだとすれば、ピカソの枠組みはキャンバスのリテラルなボリュームを際だたせるものかもしれない。「単独性」の問題の延長上にあるメディウムの「特殊性」として捉えられるかも知れません。





さかね: (※15)

一つ質問させてください。松井さんが、指摘していたピカソの例の線。
これ絵画の制作過程のどの段階で引かれたと考えられますか?
こういう言い回しが相応しいかどうか、分かりませんが、


序盤・中盤・終盤


の3つで分けたとしたら、どの段階ですか?



[参考文献]
石岡論文(※16)


GK: (※17)

石岡君の論文はどういう内容なんでしょうか?
「横レス」させていただくと、ピカソの線は「序盤」からあったのではないかと、僕は考えます。ピカソの場合、制作時間の短さや、或る時期(或る日)集中的に同じタイプの絵をドドドッと描くことを考慮に入れると、とくに背景などはかなり「自動的」に処理しているのではないか。以前土屋さんが、ピカソ自身の中にアーカイブ化された様式がある、というような言い方をされていましたが、モチーフの部分は別として、背景、というか、全体のマトリクスになる部分は、このようにアーカイブ化されたものを引き出して、そのまま描いているような印象があります。あてずっぽうなので、他の方の意見をお聞きしたいところです。


さかね:【石岡論文要約】(※18)


タイトル: [必ずしも信じていないことを信じている時がある。]




物語には「始め」と「中間」と「終わり」がある。そのうち「始め」と「終わり」はコード化されやすい。これはゲームにおいても同様であり、「序盤」と「終盤」については、特に「定石」が成立しやすい。つまり、ゲームにおいて局面が最も複雑化するのは、中盤である。


プレイヤーが取りうる「手」の選択肢の数が最も増大する中盤において、分岐点は至る所にあり、局面の進行を見極めることが最も困難になる。もっとも、正確に言うなら、「序盤から中盤への移行」と「中盤から終盤への移行」という2つの移行こそがゲームにおける最重要点である。熟練者は「どこで定石が終わるのか」(序盤)、あるいは「どこで定石が導入されるのか」(終盤)という特異点のありかを探り、中盤への、あるいは中盤からの移行を首尾良く成し遂げようとする。


ここで話を物語に戻す。物語におけるナラティヴの進行を統御しようとする様々な試みは、レトリックと呼ばれる。レトリックは、認識的機能を担い、出来事の因果性を操作する役割を担っている。


例えば「愚か者が穴に落ちる」「愚か者が崖を飛び越える」という2つの格言について考えてみよう。前者は賢さの必要性を、後者は愚かさの有用性を示すものになる。ここで両者を分岐させるのは、行為の帰結である。しかし、これらが「教訓」として認知されるのは、本来行為の帰結に基づいて事後的になされるはずの「愚かさ」という評価を予め行為者に指定し、時間を「逆転」するというレトリックによる。


レトリックのこのような機能は、ゲームの中盤におけるプレイヤーの状況と対応しているかのようである。だが、レトリックはいわば「中盤における定石」とでも言うべきものを構成することによって、プレイヤーの役割を代行し、免除する。このように定義上のプレイヤーを必要とするゲームとは異なり、「物語のプレイヤー」という表現は、明確さを欠いている。


ここまでは、格言(物語)におけるレトリックについての話であるが、ここで見られるような時間の逆転、時間の反対進行は、可能であろうか。だが、時間を反転させる試みは、レトリックの統御を越えていると言わざるを得ない。なぜなら、ナラティヴ進行の統御可能性それ自体が、時間は「取返しの付かないもの(純粋時間)」として与えられることを条件としているからである。格言(物語)において、行為者たちは局面の進行を様々なやり方で統御しようとするが、そのつどの局面(純粋空間)を恣意的に設定するわけではない。


この純粋時間と純粋空間が最も良く定義されるのは、ゲームにおいてである。例えばチェスにおいて、純粋時間はプレイヤーの「順番」、純粋空間はチェス盤で繰り広げられる「局面」として現れる。これは、物語にとっても不可欠な成立条件である。


したがって「物語のプレイヤー」を「物語内の登場人物」から区別する必要があるだろう。例えば『オイディプス王』における「逆転」と「認知」の瞬間において、自己の運命に打ちのめされるのは、もちろん主人公のオイディプスである。しかし、運命の反転は、読者に前もって提出されている。ナラティヴ進行に真に立ち会うことになるのは、読者なのだ。だが、厳密には読者が進行を統御するわけではない。他方、時間や局面(純粋時間と純粋空間)は、物語におけるプレイを可能にする条件であり、プレイヤーではない。むしろプレイヤーは、物語によって、そのつど構造的に要請される次元に位置している。


まず第一に、純粋時間や純粋空間が物語を与えるのだが、今度は物語がプレイヤーを与えることになる。「物語のプレイヤー」とは、この二重の贈与によって定義される存在者であり、読者、登場人物、さらには作者といった物語に関与する様々な人称性の次元のそれぞれの位置を占めつつも、それらからは区別されるのである。


こうして「プレイヤー」をめぐるゲームと物語の関係の非対称性が再定義されるに至る。「物語のプレイヤー」は、「始め」と「中間」と「終わり」のそれぞれの進行形式に応じて、逆転や認知のプロセスを用いつつ、物語の局面のそれぞれにおいて、様々な出来事を出現させる。こうした出来事は、ときには純粋時間や純粋空間の条件付けに対してすら作用するだろう。




[石岡さんの文章で参照されている文献]
アリストテレス詩学』(※19)
マルセル・モース『贈与論』(※20)
マリオ・プラーツ『ムネモシュネ』(文中での本書名の紹介はなし)(※21)
ソポクレス『オイディプス王』(※22)


松井:【ピカソの斜線】(※23)

ピカソの斜線は、序盤・中盤・終盤のどこで描かれるのかという問題です。
ピカソの絵について考えながら、石岡君のテクストを読むと感慨深いですね。このテクストは、アレゴリーの問題を扱ったアレゴリーなのでしょうか。石岡君がベンヤミン的な方法でテクストを書いたとしたらすごそうですね。

ところでピカソの、斜線で描いた枠の問題ですが、いつ描いたのでしょうかね。僕も分かりません。何となく、記録映画で見たやたら描き直しをするピカソのイメージがあって、さらに、いろいろな技法を使いながらも、完成作品はキチンと解決されている(整合性が取れている)という印象から、終盤の定石として描いているのではないかと思っていました。つまり、絵がどんなにバラバラなものになっても、枠さえ描いてしまえば回収出来てしまうような、ちょっと卑怯な一手として考えていました。
しかし、ここでピカソの話をしているうちにちょっと違う印象を持ちました。ピカソはキャンバスの物質感の問題に積極的に取り組んでいたのではないかという印象です。モデルの観察を出発点として絵を描くのではなく、モデルとキャンバスという2つの「対象」が画家の眼前に出発点としてあると考えてみることもできます。そうすると斜線は序盤あるいは中盤の定石としてあるということかもしれません。


松井:【ピカソアンフォルメル】(※24)

社会学と人類学』に並録されたレヴィ=ストロースの「マルセル・モース論文集への序文」には感銘を受けました。

システムやルールを成立させるにはその根源に無根拠な贈与の一手が必要だというのがモースだと思います。アンフォルメルの絵画もいわば無根拠な一手、無根拠な肯定性によって支えられていると考えることも出来ます。

その無根拠な一手を、実体化してしまうモースの傾向を批判したのがレヴィ=ストロースです。レヴィ=ストロースはモースが魔術的なものとした無根拠な一手を、シニフィエに対するシニフィアンの余剰というように記述しなおします。つまり、システムの起源としての一手を外的で超越的なものではなく、構造の二重性からあるいはシステムの内部から要請されるものとして捉え直すということだと思います。

ピカソアンフォルメルと同様にある種の無根拠性、ブラックボックスを持っている。しかしアンフォルメルの場合はその無根拠な根拠が絵画構造の外部に予め前提されてしまっているのではないかと思います。ピカソの場合はあくまで絵画構造の探求の上に無根拠な一手があるような気がします。


議論は、その後も展開していったのだが、この部分だけでも十分に興味深い内容を含んでいる。まとまりのある発言とは言えず、結論らしい結論はないが、ここで述べられていることを頭に思い浮かべながら保坂氏の『羽生』を読めば面白いことになるだろう。例えば、保坂氏の次のような記述との共鳴を感じ取ることができるのではないだろうか。

自分の個性を持たず、力量差も想定せずに、どうやって「勝とう」として指すことができるのか。(中略)棋風を持たず、指し手の特徴や癖を持たず、つねにその局面での最善手を探すこと。
棋風で指し手を選択するのではなく、あくまでも、最善かどうかで指し手を選択すること。それだけを考えるなら、棋風の入り込む余地はない。
(中略)つねに最善手を考えようとしつづけるのが羽生の将棋であり、棋風に頼らず最善手を考えつづける意志の強さを持続させることのできた者が勝つ、というのが羽生の将棋観だ。(※25)

曲は最初の数小節が決まった時点で、ある意味で作曲者の意図を越えて、その曲の法則によって動きはじめる。(中略)
理想的な曲とは、前の音からの自然な流れとして次の音が奏でられる。あるいは、一連の音がいったん終わり、次の流れのはじまりの待機として音の間がある。曲というものの主導権は、作曲者ではなくて曲それ自体にある。
(中略)芸術というものは、すべて作者個人の意図を越えて、作品固有の運動性を持つものなのだから、完成するはるか以前、作りはじめてかなり早い時点から、作品は作者の手から離れている。(※26)


ここに来て、この文章を収束させる気持ちがすっかり失せてしまった。この際、拡げられるだけ拡げて、そして片付けないで散らかしたまま去ってしまおう。その方がこの流れからいって自然だろう。くどいが最後に作家・大江健三郎氏の発言を紹介して、この文章から離れることにする。


4.羽生 と ピカソ と 大江 と 武満

大江:丹念にものを創ってゆくことをエラボレーションといいますね。小説の場合、推敲するという言葉がありますけど、文章を直していったりすることもエラボレーションというわけですね。(※27)

大江:書き直してみると、最初に書いたテキストの、この音が違う、ということが分かるんです。この数小節が違う、とも。そこを書き直すでしょう。それが全体に向けて次つぎ力を及ぼして、大幅に変わってくることにもなりますけど、現場修正ができるということが、やはり、小説を書く喜びです。そして、そのように現場で修正しながら、これまで生きてきたことの積み重ねで、つまり年齢で、自分の内容がかなり豊かになっていると気がづく。自分のなかに在庫が沢山あるんですよね、読んでの在庫とか、考えての在庫、経験しての在庫。感情の在庫もね、ここで悲しみについて書いている言葉は違うと感じる。もっと正確な言葉の在庫はないだろうかと考えていると、なんとかうまく引き出すことができる。あなた(小澤征爾)の演奏会で、どのような現場での修正が起きるかということもよく分かるように思います。(※28)

大江:音楽は共通言語だから、武満さんが世界で理解されているということとは違うと思うんです。(※29)

大江:ここでさきのエラボレーションに戻ると、武満さんはまさに、自分の音楽をどんどん練り上げていった。そのあげく武満さんの魂の声とでもいうか、それこそ本質的な武満さんの声が、曲の冒頭、三十秒聴いたら分かるということを、世界じゅうに知らしめた。それは何というすごいことだろうと僕は思っています。それぞれの作品の最初の十秒から三十秒のなかに作曲家の全体を表すような声が響くんですからね。(※30)


およそ芸術家と呼ばれうる人たちは、ジャンルは異なれども、多かれ少なかれ同じようなことを考え、同じように実践しているようである。今の私には「ようである」としか言えないのだが。



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※1 日経新聞2005年10月13日(朝刊)掲載
  佐藤康光「盤外でも王道歩む〜王座戦で14連覇した羽生善治さんの強さの秘訣〜」
  より抜粋して引用。
※2 谷川浩司『集中力』角川oneテーマ21 p.176.
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0100862532
※3 同上 pp.42-43.
※4 同上p.65.
※5 同上p.188.
※6 日経新聞2005年10月13日(朝刊)掲載
  佐藤康光「盤外でも王道歩む〜王座戦で14連覇した羽生善治さんの強さの秘訣〜」
  より抜粋して引用。
※7 保坂和志『羽生』光文社知恵の森文庫 p.37.
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0107912504
※8 谷川浩司『集中力』角川oneテーマ21 pp.17-18.
※9 日経新聞2005年10月13日(朝刊)掲載
  佐藤康光「盤外でも王道歩む〜王座戦で14連覇した羽生善治さんの強さの秘訣〜」
  より抜粋して引用。
※10 羽生善治『決断力』角川oneテーマ21 p.35.
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105768387
※11 保坂和志『羽生ーー21世紀の将棋』より引用。
    http://www.k-hosaka.com/note/comment/habu.html
   (本稿は保坂和志公式ホームページ「創作ノート」にリンクされています。)
    http://www.k-hosaka.com/
※12 同上より引用。
※13 松井勝正氏(造形作家・美術史家)が主宰する「artBBS」を指す。
※14,15,17,18,23,24 同上における書き込みを一部抜粋して引用。
※16 石岡良治「必ずしも信じていないことを信じている時がある。」
   (『ジュリオ・ロマーノもまた、才能がある。』展 冊子所収)
※19 アリストテレース詩学』(『詩学、詩論』岩波文庫 所収)
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0197018295
※20 マルセル・モース「贈与論」(『社会学と人類学1』弘文堂所収)
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0173030066
※21 マリオ・プラーツ『ムネモシュネ』ありな書房
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0199834723
※22 ソポクレス『オイディプス王岩波文庫
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0167000729
※25 保坂和志『羽生』光文社知恵の森文庫 pp.39-41.抜粋して引用。
※26 同上 pp.54-55.抜粋して引用。
※27 小澤征爾大江健三郎『同じ年に生まれて』中央公論新社 p.101.
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0101652213
※28 同上 p.201.
※29 同上 p.37.
※30 同上 p.192.


fig.1 ピカソ
fig.2 ピカソ《海辺の人物たち》(1931年)パリ、国立ピカソ美術館所蔵
fig.3 ピカソ《骸骨と水差し》(1945年)ヒューストン、メニル・コレクション所蔵




羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知恵の森文庫)

羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知恵の森文庫)

集中力 (角川oneテーマ21 (C-3))

集中力 (角川oneテーマ21 (C-3))

決断力 (角川oneテーマ21)

決断力 (角川oneテーマ21)