神話に生き、幻想に死ぬ

2016-12-02

[]竜の頭と尾を追跡する10 羅睺と計都 20:48 竜の頭と尾を追跡する10 羅睺と計都を含むブックマーク 竜の頭と尾を追跡する10 羅睺と計都のブックマークコメント

 ラーフの神話紀元前インドで広まっていたので、初期漢訳仏典にもその一部が垣間見えることがある。ただ、そのほとんどは神話的蝕観念にとどまっているため、ほかの論文に譲る*1

 唐の時代にもなると、インドの占星術文献を一部にせよ全部にせよ翻訳したものがかなり混じってくる(ジェフリー・コテックによる論文がまとまっている*2)。そのなかには、もちろんラーフやケートゥについて書かれたものもあった。

 惑星として取り扱われているなかでも相当に古いのは『摩登伽経』(230年訳)である。これはインドの原始的な天文科学書『シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ』(Śārdūlakarṇa-avadāna)が翻訳されたものである*3。この文献に、七惑星に続いて「羅睺」「彗星」(=計都)が並び、合わせて九つある、と書かれている*4

 しかしナヴァグラハが成立するには、3世紀後半は早すぎる。現に、現存するサンスクリット原典と比較すると、「羅睺」も「彗星」も載っていないという。つまり漢訳オリジナルなのだ*5。また、その他多くのギリシア的要素から考えてみても、「五世紀後半から隋代までの間に漢訳された」とみるのが妥当のようである*6

 コテックが紹介するように、時代が3世紀ほど下ると、もう少し年代が安心できる文献が出てくる。まず、『大方等大集経』のうち那連提耶舍(490-589)訳の「日蔵分」に、七惑星+羅睺の「八大星」が説かれている*7。前回書いたように、これが翻訳された6世紀の時点では、彫刻美術などでラーフは惑星に仲間入りしていたが、ケートゥはまだ仲間入りしていなかった。善波周*8やコテックは、インドは九曜が普通だから「八大星」というのは「異例」だとして、これはインド原典からの単なる翻訳ではないとしているが、別にそんなことはないのである。

 羅睺と計都が並んで惑星に入ってきた痕跡(?)は、天文学書『九執暦』(718)の名称に見られる。この題名は、普通に考えるとサンスクリットの「ナヴァグラハ」(9つのつかむもの)を直訳したもののように見える。だが、残念ながら『九執暦』には羅睺も計都も出てこない*9。いずれにしても「9」という惑星数は中国でも(遅くとも)8世紀初頭からは知られるようになった。実際、より明確に羅睺と計都を惑星に数え入れている文献が近い年代に出ている。中心的な役割を担ったのは密教文献である。724〜725年に善無畏と一行が漢訳した『大日経』の注釈書として、二人が並行して書いた『大日経疏』に、以下のようにある。

 「執は九種あり。即ち是れ日・月・火・水・木・金・土の七曜、及び羅睺・計都とを合して九執と為す。羅睺は是れ交会の食神なり。計都は正翻には旗と為す。旗星は謂わく彗星なり。」*10

 これによると、羅睺は蝕の神であるのに対して、計都は彗星である。「正翻」とは直訳のことで、そのまま訳すと「旗」になる、とする。前回みたように、7世紀前半にはインドの一部でケートゥが惑星入りしてナヴァグラハが形成されたことが確認できるので、その1世紀後には中国にもこの観念が入っていたということになる。また、同じく一行による『宿曜儀軌』では、諸仏への真言に続いて星々への真言が紹介される。その順番は日天・月天・火星水星木星金星・羅睺星・計都星であり、まとめて「九執曜天」となっている*11。ただ、(もちろん)竜の痕跡はないし、頭と尾という表現もない。

 しかし後者の表現は、さらに一行による(とされる)占星術書『梵天火羅九曜』に見ることができる。まず羅睺は「蝕神」とされ*12、「(この)星は隠れて見えず。一名を羅睺。一名を羅師。一名を黄幡。一名を火陽」と別名が列挙される*13。暗黒惑星であることが示唆されている。また「蝕神頭」ともされている*14。次いで計都も「蝕神」とされ*15、「按するに聿斯経に云わく、凡そ人、ただ七曜あるを知りて(晴)虚星を知らず。号して羅睺・計都と曰う。此の星は隠位にありて見えず。日・月に逢えば即ち蝕す。号して蝕神と曰う。計都は蝕神の尾なり。豹尾と号す」*16とされる。

 しかし、『大日経疏』で一行は計都=彗星という古典的な解釈を取っているため、少なくとも大正大蔵経版については、一行没後の改訂が加わったテクストとされる。コテックはその成立年代を9世紀とみている*17

この占星術書に言及のある『聿斯経』は現存しないが、ヘレニズム時代のギリシア占星術書(プトレマイオスPtolemaiosの『テトラビブロス』TetrabiblosかシドンのドロテオスDōrotheos Sidōniosの『五書』Pentateuch)の翻訳とされる*18。矢野は、羅睺と計都の部分については「とても『テトラビブロス』に由来するものとは思えない」と述べていて*19、おそらくこれは正しい。麥文彪(Bill Mak)が指摘するドロテオスのほうには確かに月の交点のインフルエンティアについて記述があるものの(第5巻第43章)*20、交点を惑星の一員とはしておらず、この要素は(名称も含めて)インド起源とするのがよさそうである。

 いずれにしても、『梵天火羅九曜』で羅睺と計都が「頭」「尾」と呼ばれ、交点になっているのは注目に値する。インドでは、ビールーニーによる間接的な証言がようやく11世紀前半になってから現れるからである。発祥地(?)に現存しない(または見つかっていない)後一千年紀の文献に、インドかその影響圏内でラーフとケートゥが交点化され、それが「頭と尾」と呼称された「証拠」が、中国にあるのだ。次に紹介する文献とあわせて考えると、ラーフとケートゥの頭尾交点ペアという観念は8世紀〜9世紀前半にどこかで登場したと推測できる。首と尾という言い方は、おそらくペルシア宇宙論的蝕観念(ゴージフル?)が部分的にインドに伝わったものが(たとえば『ブリハット・サンヒター』)、さらに中国に伝わったものだろう。ただ経典では「星」とされており、完全に占星術的蝕観念に移行している。とはいえ、このあたりの影響関係は大雑把にしか推測できず、はっきりしたことは言えない。

 さて、仏教とは関係のない(しかし大蔵経に含まれている)占星術書『七曜攘災決』(9世紀前半)では、尾のケートゥはさらに進化して、彗星はおろか交点でさえなくなった。

 「羅睺遏羅師は一名を黄幡、一名を蝕神の頭、一名を複、一名を太陽の首。常に隠行して見えず。日・月に逢えば則ち蝕す。」*21

 「遏囉師」はおそらく「遏師囉」の誤写で、「アスラ」の音写であろう。「蝕神の頭」とあり、下に紹介する計都の「蝕神の尾」と対応するのが分かる。「複」というのは交点が2つあることを言っているのだろうか。

 「計都遏囉師は一名を豹尾、一名を蝕神の尾、一名を月勃力、一名を太陰の首。常に隠行して見えず。」*22

 この後、計都の移動速度が示されるのだが、それが降交点ならば昇交点の羅睺と一致するはずなのに全然違う。矢野道雄によると、この数値は「月の遠地点」に相当するのだという。しかもインド文献のケートゥにそのような解釈は見られないとのことで、これは『七曜攘災決』に独特なものらしい。*23。さらに近年、コテックは、『七曜攘災決』にみえる計都の異称「勃力」の「力」が「加」の誤写だとすれば、ギリシア語の遠地点アポゲイオン(apogeion)に近くなることを指摘している*24

 しかし、「蝕神の尾」とあって羅睺と対応するのは、ケートゥが降交点であったことの名残であろう。さらに、一部の表現が『梵天火羅九曜』とよく似ているので(『九曜』は「在隠位而不見逢日月即蝕」、『七曜』は「常隠行不見逢日月則蝕」)、影響関係があったか、共通の原典があったのだろう。

 羅睺・計都、そして西方由来の占星術は、仏教と無関係な領域にもどんどん進出していくことになる。『和漢三才図会』や『五雑組』などに引用があるが、北宋の王逵(992-1072)が著した『蠡海録』(蠡海集とも)に、ラーフとケートゥを「頭」と「尾」とする記述が確認できる。

 「星命の術、其れ四余を以て暗曜と為す。天に在りて象無しと雖も、然れども禍福を推算すれば験あり。……羅睺・計都は、天の首尾と為す。天と逆行すると、天と同道するとの故なり。」*25

 ここでは、どちらとも形態はないが存在するということが語られ、さらに「首尾」であるということも明記されている。ただ昇交点が「逆行」は分かるが降交点が「同道」はおかしい。可能性として考えられるのは、ヾ違い 月の遠地点のように、別の点を指す の二つであろう。

 少し遅れて、科学書として名高い沈括の『夢溪筆談』(1088〜1095?)巻七「象数一」も、まず天文学的蝕観念を披露して、交点の話に移る。

 「両道[黄道と月の軌道]の交点は、毎月一度あまり西へ退行しますから、二百四十九交点月たつと、一周ぶん〔退行する〕というわけです。だから西方の天文学で「羅睺」「計都」はいずれも逆行するといっているのは、つまりここでいう交点のことなのです。交初(降交点)を羅睺とよび、交中(升交点)を計都と呼びます」*26

 沈括は「いずれも逆行する」としているので、どちらも交点であることがはっきりわかる。すると『蠡海録』で羅睺と計都の方向が違っているのは、やはり計都が降交点ではないこと(月の遠地点?)を意味しているのだろう。

 近い時代の日本語文献では、たとえば『宝物集』(1177〜1181年ごろ)巻第六に神話的蝕観念と占星術的蝕観念の並置が見られる。帝釈天が羅睺の許嫁・舎脂を強引に奪い取り、それに対して羅睺の軍勢が攻め入ったとき、「三光天子の宮を羅睺阿修羅王つかむと云説、手をおほふと云説あり。日月蝕の一説是なり」という説明がある。著者はさらに、「羅計の二星は色黒き星なり。日月に行ちがふ時の有也。かかるが故に、日月彼色に移りて黒くなるなりと、暦道・宿曜道にはしるせり」とも説明する。ただ著者はどちらが本当かわからない、と述べる*27

 管見では、ナーガの頭と尾だという観念は、中国にまでは伝わっていなかったか、ほとんど知られていなかったようである。また、次々回に紹介する中国語アラビア語占星術書にも「竜」の言葉は見当たらない。もしかすると他の訳書にはあるかもしれないが、全然詳しくないので調べられていない。

 その一方で、イエズス会により西洋天文学のドラゴンヘッドとドラゴンテールがもたらされ、漢字文化圏にも「竜の頭と尾」という言い方が導入されることになったようである。たとえば、明代の徐光啓などが著した『新法算書』(1645)巻十三の、蝕を説明するところで「竜頭竜尾」という表現が確認できる。徐光啓はイエズス会の伝えた西洋天文学を積極的に吸収したことで知られており、またこの言葉は明らかに中国伝統ではないため、カプト・ドラコニス&カウダ・ドラコニスの翻訳語に用いられたものと思われる。インド天文学輸入時に入り損ねた「竜の頭と尾」は、17世紀前半にいたって、アラビア語・ラテン語経由でようやく中国に到達したのである。

 さらに、竜頭・竜尾を伝統的な呼称と結びつけたものとして、游子六の『天経或問前集』(1675)がある。同書は延宝年間(1673〜1681)に日本にもたらされ、初の西洋天文学書として幅広く読まれたらしい。蝕については以下のようにある。

 「羅・計は交食の影に見えるという。これを見ればすなわち異がある。この星は、通常は見えないか。それとも食の計算上のものなのか。……(答)実物はない。羅睺とは白道(月行の道)の交点であり、計都は即ち白道の中点である。……いわゆる竜首・竜尾、内道口・外道口である。」

 17世紀後半には、日本でもカプト・ドラコニスとカウダ・ドラコニスが翻訳を通して知られていたのだ。ここで行われているのは、占星術的蝕観念に対する天文学的蝕観念による批判である。羅睺・計都には実体はなく、単に計算上のものであると断じられる。しかしその代わりに導入される用語が「竜首」「竜尾」なので、ヨーロッパでは伝統的な言い方とはいえ、ふたたび実体をイメージさせる点ではあまり教育上よろしくなかっただろう。『和漢三才図会』(1712)はこれを引用して、羅睺と計都に実体があることを否定する*28

 というわけで漢字圏の流れを、カプト・ドラコニスとカウダ・ドラコニスが輸入するところまで多少先走って紹介してみた。大量にインドの文献が流れ込んでいるのに、ほぼ「竜蛇」の面影がないことからして、やはり「竜の頭と尾」は西方起源であると考えた方がよさそうである。次回は、ラテン語まであと一歩のアラビア占星術の予定。

[]竜の頭と尾を追跡する9 ラーフとケートゥ 17:23 竜の頭と尾を追跡する9 ラーフとケートゥを含むブックマーク 竜の頭と尾を追跡する9 ラーフとケートゥのブックマークコメント

 「竜の頭と尾」の起源を探るため、どうしても避けて通れないのがインド占星術の影響である。この問題が存在するのは、日本語訳のタイトルが『占術大集成』となっているヴァラーハミヒラ(Varāhamihira)の『ブリハット・サンヒター』(Br̥hatsaṃhitā、6世紀前半、インド中部)第5章(と、ビールーニー)のせいである。同書は現在も用いられることのある有名な占星術書だが、そこでヴァラーハミヒラはまず太陽、次いで月の「振舞い」を検討したあとで、第5章にラーフ(Rāhu)を割りあてる。曰く、

 「ある人々は、アスラのこの頭は[ヴィシュヌによって]切り取られたけれども、不死の霊薬を飲んだという特殊事態によって、命を失わないままにグラハ(惑星)の状態になったと言う。[またラーフは]月と太陽の円盤の形をしているが、暗黒なので、ブラフマーの恩寵によってパルヴァンのときに見える以外は、空に見えないと言う。他の人々は、シンヒカーの息子[サインヒケーヤSaiṃhikeya]と呼ばれるラーフは胴体から頭と尾が切り離された蛇[ナーガga]の姿であると言う。また別の人々は、姿をもたず暗黒からなると言う。」*29

 ヴァラーハミヒラ自身は天文学的蝕観念が正しいと信じており、あれこれ説明したあとに「ラーフは食の原因ではないという、学問の真実が述べられた」*30と断言する。とはいえ彼は、用語自体は破棄せず使い続けているのだが……。だから、ここに列挙された諸説は単に否定されるために紹介されているにすぎない。この諸説を本連載の用語に当てはめてみると、最初のものは神話的蝕観念、次のものは占星術的蝕観念に近く、三つめは宇宙論的蝕観念、最後のものは占星術的蝕観念のバリエーションということになるだろう。ちなみにヴァラーハミヒラ自身は、蛇(ナーガ)によるという説についてだけ、交点が180度離れていることなどを前提に、具体的な反論をしている。

 また、数世紀後、イランの大学者ビールーニー(al-Bīrūnī)がアラビア語で書いた『インド誌』(Kitāb taḥqīq mā li’l-Hind、1030)でも、竜のことが述べられている。

 「竜の頭はラーフと呼ばれ、尾はケートゥと呼ばれる。インド人たちは尾について滅多に語らず、頭のみを用いる。一般的に、天空にみえるすべての彗星も、ケートゥと呼ばれる。」*31

 ここではもっと細分化され、竜の頭と竜の尾について具体的な名称が与えられている。重要なのは、蝕を引き起こす「蛇の頭と尾」という言い方を、シリアのセウェルス・セボフト(7世紀中盤)より1世紀以上前に、インドのヴァラーハミヒラが使ったということである。そしてヴァラーハミヒラを多用するビールーニーも、この言い方を裏付けているようにである。そこで「竜(蛇)の頭と尾」はインド起源だという説が生まれることになる。たとえば世界的な科学史家のデヴィッド・ピングリーは、次のように考えていた。

 「[月の昇交点と降交点は]サンスクリットの天文学書では、ラーフと呼ばれる天空の蛇の頭の尾と名付けられるのが普通だった。たとえばヴァラーハミヒラの『五天文学書綱要』(Pañcasiddhāntikā)7.2である。しばしば頭がラーフ、尾がケートゥと呼ばれた」*32

 また、晩年の論文でも同じようなことを言っている。

 「5世紀後半サーサーン朝の占星術師たちは、その頭(シラスsiras)と尾(ケートゥketu)が蝕を起こすという天空の大蛇ラーフという考えをインドから採り入れた。パフラヴィー語では、ラーフ自身はゴージーフル(Gōzīhir)と呼ばれ、頭はサル(Sar)、尾はドゥンブ(Dumb)と呼ばれた。アラビア語では、頭と尾はそれぞれラァス(ra’s)とダナブ(dhanab)と呼ばれた。ビザンツ翻訳者は、ケファリ(κεφαλὴ)とウラ(οὐρά)を用いた。」*33(ビザンツとパフラヴィー語については前回までに紹介した。アラビア語については次々回。)

 また、ピングリーの説を受け入れて、中世イスラーム美術における竜表象の研究書を出したサラ・キューンも「インドの概念が西アジアやイラン世界へと伝えられたとき、蝕を起こす怪物の2つの部分[ラーフとケートゥ]が、蝕で重要な役割を果たす月の交点と同一視された」と述べる*34

さらに、起源は未特定だが、Wikipedia日本語版の「月の交点」には「インドでは月の昇交点をラーフ(Rāhu)、月の降交点をケートゥ(Ketu)と呼んだ」とある*35

 しかし実は「竜の頭と尾はインド起源」説&「昇交点=頭がラーフで降交点=尾がケートゥ」という説、どうやらインドの専門家には支持されていないようである。まず重要な事実として、後一千年紀(紀元後1〜1000年)までの「インドの文献において、この[竜の頭と尾]概念は『ブリハット・サンヒター』にしか見出せない」*36。上の引用でピングリーは『五天文学書綱要』第7章第2節をあげているので『ブリハット・サンヒター』以外にもあるように見えるが、ここでは交点を「ラーフの頭とラーフの尾」と言っているだけだ(竜蛇とは言っていない)。この第7章はヴァラーハミヒラ以前のインド天文学の一分野「パウリシャ・シッダーンタ」(Pauliśa Siddhānta)による日蝕の説明である*37。もちろんラーフは伝統的に人間の姿をしているので「尾」という言い方から「ラーフが蛇の姿で想像された」と見なすのもありだが、それは単にヴァラーハミヒラが、(『ブリハット・サンヒター』にあるように)交点が何かの「頭と尾」と表現されることを知っていたということを示すにすぎない。いずれにせよ「たとえば」で例示できるほど多くの文献に載っているわけではない。さらに別の問題として、唯一の根拠たる『ブリハット・サンヒター』でさえ、「頭と尾」には名称を与えず、ナーガ全体をラーフと呼んでいる。尾がケートゥとは一言も述べられていないのである(同書では、ケートゥは彗星のこと)。

 それではビールーニーが言っているのは何だったのだろうか。アダルベルト・ガイルは次のように推測している。まずヴァラーハミヒラは、ケートゥは彗星であり、無数にあることを述べていた。ビールーニー以前の時代のインド文献も、同様の解釈をしている。事実、ケートゥを「竜の尾」=降交点とみなしたのは、少なくとも文献上は外部者のビールーニーが初めてなのである。とはいえ、当時、インドでケートゥを蛇の尾をもつか、蛇の姿をしていると表現することはあった。また、ケートゥは惑星の一つに数えられてもいた。これに対し、次回紹介する予定だが、ビールーニーの生きた10世紀後半〜11世紀前半のペルシアでは、二つの交点が惑星とともに並べられ、それぞれが竜の頭と尾だとする観念は昔ながらのものだった。そしてすでに昇交点=ラーフのほうは頭だけである。となると、もう一つの蛇の尾がある惑星ケートゥは降交点であろう――。そのようにビールーニーは推測したか、あるいはペルシア占星術の知識をもつ人物がそのように想像したかして、ケートゥが竜の尾ということになったのだろう*38。ビールーニーが「インド人たちは尾について滅多に語らず」と言っているのは、そう考えてみると当然のことである。おそらく降交点を尾として語っていたのは、(存在していたのならば)ペルシアかぶれの一部の占星術師だけだったのだろう。

 というわけで、インド専門家たちによると、蝕を起こす、対となる「竜の頭と尾」という観念は、グプタ朝前半(4世紀〜5世紀ごろ)に西方からインドに到来したのではないかと考えられている*39。またピングリーの弟子である矢野道雄も、

 「インドのラーフの神話とイランのドラゴン神話のいずれが先かという問題をわたしは解決したわけではない。しかし、「ラーフ」はほんらいドラゴンではなかったはずであり、甘露を盗み飲んだためにシヴァ神によって頭と尾に切り離されたというのはむしろ西方のドラゴン神話の影響ではないかと持っている。」*40

 という考えを示す。

 その一方で、後二千年紀初頭からは、イスラーム占星術の影響により、竜の頭と尾というイメージも現れるようになったようだ*41。インド占星術がペルシア以西に影響を与えたというのは、ピングリーがさまざまな具体例(書物、概念、人物など)をあげるなど、多くの論文で指摘しているので、東から西への知識の移動は確実にあったのだろうが*42、少なくとも「交点=竜の頭と尾」という占星術的蝕観念をインド起源とみなすのは苦しいように感じる。まあ、単に古ければよいというのではないが、本連載は起源を追う事を目的としているので、ここは多少こだわらざるを得ない。

 この観念を持ち込んだ「西方」はおそらくギリシアかペルシアだろう。ヴァラーハミヒラがギリシア科学を高評価していたこと、ギリシア占星術に強い影響を受けた4〜6世紀成立の『ヤヴァナ・ジャータカ』(Yavanajātaka「ギリシア人の出生占星術」)*43に一切痕跡が見られないこと、6世紀のペルシアには蝕を起こす竜の観念があったらしいことなどを考えると、ペルシア由来かもしれない。

 というわけで、一旦、大家の所説を無効にしたところで、ざっとラーフとケートゥについてたどってみることにしよう。ただし、しばらくは竜蛇と関係のない話が続き、最後まで竜蛇は話題の中心にならないことを、あらかじめお断りしておく。

 ラーフもケートゥも、最古の文献『リグヴェーダ』(R̥gveda、前18〜12世紀ごろ?)には登場しない。一方で、日蝕を表すと思われるのは、第5巻第40歌の一節である。

 「太陽よ、スヴァルバーヌ(Svarbhānu)なるアスラ(Āsura)が汝を暗闇で貫いたとき、生きとし生けるものは、居場所を知らず混乱した者のごとく、それを認めた。そして、インドラ(Indra)よ、汝が天空よりスヴァルバーヌの輪転する呪術を打ち破ったとき、第四の呪言をもつアトリ(Atri)が、掟に反する(行為)による暗闇に隠された太陽を見出した。」*44

 スヴァルバーヌが太陽の全体を暗闇で包み込み、インドラがそこから太陽を助け出したことが書かれている。『リグヴェーダ』はどれもそうだが、書き方が暗示的なので内容が読み取りづらい。昔からこれがラーフの初出だと言われているのだが、少し前から、実はこれはアグニ(Agni)によるスーリヤへの攻撃を表したものではないかという説も出ているらしい*45。実際、最新の英訳『リグヴェーダ』の注釈によると、スヴァルバーヌは字義的には「太陽の輝きを所有する者」という意味で、地上の太陽たるアグニのことなのだという。eclipseという言葉は用いられない*46

 その神話が十全に展開されるのは大叙事詩マハーバーラタ』(Mahābhārata、後300年ごろ完成)の乳海攪拌のエピソードである。よく知られた話なので関係ある所だけ説明してみる(第1巻第17章第4〜8節)。

 乳海攪拌によりアムリタを入手した神々に対して、悪魔たちはそれを奪おうと攻撃をしかけていた。そんな中、悪魔のラーフは神々に化けて潜り込み、一緒にアムリタを飲んでしまった。この液体が喉のあたりまで達したとき、月と太陽がそれを見つけて神々に報告した。そこでヴィシュヌがチャクラでラーフの首を切断した。[ここで説明はないが、アムリタが喉まで来ていたので、そこから上は不死身になった。]それ以来、「ラーフの顔と、月と太陽との間には、永遠の怨恨が生じた。そして今日でも、彼はその両者を呑むのである。」*47

 非常に分かりやすい神話的蝕観念がここに現われている。しかし、下半身(あるとすれば尾)の行方や、それがケートゥと呼ばれることは、まったく書かれていない。

 この神話は北アジアや東南アジアにも広まり、ラーフやラホといった名称の存在が蝕を起こすという物語が各地で伝えられるようになった*48。なお、マハーバーラタと並ぶ叙事詩『ラーマーヤナ』第1巻第45章にも乳海攪拌神話があるが、ラーフは登場しない*49

 ラーフが惑星の列に加えられるまでには、やや複雑な歴史がある。まず、サンスクリットで惑星といえば「グラハ」(graha)だが、これは「とらえるもの」という意味を持つ*50。ヴェーダ文献(『マハーバーラタ』より1000年は古い)の『アタルヴァヴェーダ』(Atharvaveda)第19巻第9歌第10節で、グラハとラーフが近接して現われる(これはラーフの初出でもある)。

 「我らがための福利は月に付随する惑星たち[グラハー(grahā)]であり、福利はラーフと共にある太陽(アーディティヤ)である。我らがための福利は煙をはためかす(ドゥーマケートゥdhūmaketu)死であり、福利は鋭く輝くルドラたちである。」*51

 ここで重訳に用いた英訳はウィリアム・ホイットニーによる20世紀初頭のものだが、矢野道雄はヴェーダの時点でグラハを惑星と訳す根拠はないとして、むしろ月や太陽が、グラハたちやラーフによって「とらえられる」ものと表現されている、と解釈した*52。つまりもとはラーフがグラハだった。

 さらに矢野は、グラハの発展史として、ラーフがグラハと同一視される→5惑星もグラハと呼ばれるようになる(ラーフは仲間外れに)→日月もグラハの仲間入り(7惑星)、ラーフとケートゥも正式に仲間入り(9惑星)→日月火水木金土ラーフケートゥの順に並んだグラハ、という段階を想定する。5惑星がグラハとされるようになったのは、その影響力で人々に取り付き、害をなすからだという*53

 矢野によると、ラーフとケートゥを加えた9惑星の観念が最初に出てくるのは、学者ガルガ(名称に多くの異形あり)が北インドで著した『ガールギーヤ・ジョーティシャ』(前25年〜後25年ごろ、Gārgīya-jyotiṣa)だという*54。同書の現代語訳はないっぽいのでどういう文脈でどのように出てくるのかはわからなかったが、部分訳の付録にある「『ガールギーヤ・ジョーティシャ』の構成」(目次)によると、第2章が月の進行を扱い、第3章が月宿(ナクシャトラNakṣatra)の円、第4章がラーフの経路、第5章が木星の経路、以下金星の経路、ケートゥの線路、土星の経路、火星の経路、水星の経路、太陽の経路、カノープスの経路と続く。第25章は「惑星の集成」(グラハコーシャgrahakośa)と題されているが、内容は分からなかった*55。タイトルの序列言葉遣いだけみると、ケートゥが惑星の仲間入りをしているとは断言できない気もする。

 現代と同じギリシア式配列になったのは『ヴリッダ・ヤヴァナジャータカ』(Vr̥ddhayavanajātaka, 300〜325年ごろと言われるが不確定)であるとされる。ただ、ケートゥは仲間外れにされている*56。同書はギリシア(「ヤヴァナ」)天文学をインドに移入した『ヤヴァナジャータカ』(ラーフもケートゥも出てこない)の増補版(ヴリッダ)とされているので*57、彗星が惑星の仲間に加えられていないのも仕方ない。

 ケートゥが単数形で惑星の仲間とされるようになった初出文献は調査不足で分からなかったが、初期のものとして『ヤージュニャヴァルキヤ法典』(Yājñavalkyasmr̥ti)がある。第1巻の「グラハ・シャーンティ」(Grahaśānti、惑星の鎮静儀礼)について説明しているところで、まず「栄光を願う者、あるいは平安を願う者は、グラハの供養を行うべきである」とされ、グラハすなわち惑星が列挙される。その順番は日・月・火・水・木・金・土・ラーフ・ケートゥである*58。変な話だが、この法典の成立年代がはっきりしないため、「グラハ」の部分が年代決定の鍵になっている。日本語訳の解説によると、まず「日月火水木金土」という順序はギリシア天文学由来であることから、その普及を考えると古くても4世紀。そして他の証拠から、おそらく6世紀に完成したのではないか、という*59

 また宗教文献『ヴィシュヌ・プラーナ』(Viṣnupurāṇa)第2巻第12章でも単数形ケートゥが登場する。月・水・金・火・木・土と来たあとで(太陽は出てこない)、ラーフの戦車を8頭の黒馬が牽き、ケートゥの車もやはり8頭の赤黒い馬が牽くと歌われ、単数形で他の惑星と同列に扱われている。描写からすると、ここでもケートゥは彗星を指しているようだ*60。他の多くのプラーナと同じく『ヴィシュヌ・プラーナ』も年代決定が困難で、極端な推定を除いても3世紀から9世紀まで諸説紛々である。身内びいきというわけではないが、ラーフ・ケートゥについての論文もあるアダルベルト・ガイルは550年としているようだ*61。とすると6世紀半ばなので『ヤージュニャヴァルキヤ法典』とあまり変わらないことになる。ほかのプラーナにも類似表現はあるらしいが、年代特定が無理なのは同じようである。

 インド占星術に関しては、文献の他に美術も史料として用いることができる。この時代は、石の浮彫や彫刻が多く残されていて、惑星神を並べたと思しきものも知られている。ラーフがその列に加わったことが確認できる中で最古のものは、マディヤ・プラデーシュ州の彫刻で、500年ごろのものとされる。ラーフは他の神々と違って禿げた巨大な頭部だけで、率直に言って異様である*62。しかしケートゥはおらず、「八惑星」になっている。次に知られているのが同州の510年ごろのもので、こちらのケートゥには巻髪があり、左腕が彫られている*63。550年ごろと目されるウッタル・プラデーシュ州の彫刻でも八惑星の一員としてラーフがいるが、ここでは腰から上の姿になっている*64。頭部ではなく上半身という表現が、以降は徐々に主流になっていくようだ。

 ケートゥがラーフや惑星と並んでいる「九惑星」すなわちナヴァグラハ(Navagraha)の最古の美術表現は、600年かそれより少し後の、ウッタル・プラデーシュ州の彫刻である。ラーフは顔と左腕だけが彫られているのに対して、隣のケートゥは、途中から欠けているが、明らかに下半身が蛇(あるいは魚。以下同じ)の人間の姿をしている*65。また、この世紀の後半から、インド中部でケートゥの実例が増えてくるらしい。その一方で、独自の占星術の伝統があったオリッサ地方では、ケートゥは10世紀に入るまで惑星に入れてもらえなかった*66。インド西部で最古のものはラージャスターン州の寺院にある600〜650年ごろの彫刻で、腰から上のラーフの隣に、やはり下半身が蛇のケートゥが並んでいる*67

 確かに、巨大な顔の目立つ神と、蛇の尾の目立つ神が隣り合わせになり、片方が交点で、どちらとも他の惑星たちとは性質が異なると言われると、「頭と尾……蛇の?」というビールーニー的な連想が生まれてもおかしくはない。いずれにしても、この時代のケートゥは彗星である。

 惑星(グラハ)のケートゥは降交点ではなく、また全身が竜蛇の姿をしていたというわけでもなく、さらに「尾」だけでもなかった。「竜蛇」に関しては、おそらく7世紀以降(遅くとも10世紀)成立の『ヴィシュヌダルモーッタラ・プラーナ』(Viṣnudharmottarapurāṇa)第1巻第106章に、ケートゥが煙をたなびかせる黒蛇として生まれたという神話があるらしい*68。現実に彗星に長く伸びた「尾」があるのをイメージしてみると、「交点は竜蛇だ」という観念よりは「彗星は蛇(の尾)だ」という観念のほうが自然である。

 それではラーフは交点かというとこれまた微妙なところである。交点であるからには実体が二つ(たとえば頭と尾)がなければならない。しかし天文学書以外の文献でラーフが交点と一致した振舞いをすると明記されたものはほとんどないように思われる(ただ『ヴィシュヌダルモーッタラ・プラーナ』は交点の暗黒惑星としてラーフを描いている)。その意味で、インドではしばらくのあいだ神話的蝕観念が優勢だったと見ることができるだろう。

結局のところ、ケートゥを降交点としたのは、今のところビールーニーが最古らしい。その次がグジャラート北部で書かれた数秘術書『ナラパティ・ジャヤチャリヤー・スヴァローダヤ』(Narapatijayacaryāsvarodaya、1175年)である*69。12世紀後半。しかし、漢訳されたケートゥ=「計都」のほうは、現存するサンスクリット文献よりも先に、降交点の意味を持たされ、「尾」と呼ばれていた。次回に続く。

*1王鑫、2015、「天狗食日(月)考」小松和彦編、『怪異・妖怪文化の伝統と創造 ウチとソトの視点から』。

*2ジェフリー・コテック、2016、「漢字圏の文学における西方占星術の要素 東西文化交流における仏教の役割」駒沢大学仏教文学研究』19。

*3:The Buddhist Canons Research Deatabase: http://aibs.columbia.edu/databases/New/index.php?id=de7494e1a2036933b67533548109dfc9&enc=tibetan_wylie_title&coll=kangyur.

*4:『大正新脩大蔵経』T1300, Vol. 21,405b15。

*5:Bill Mak, 2015, “The Transmission of Buddhist Astral Science from India to East Asia: The Central Asian Connection,” Historia Scientiarum 24.2, p. 63.

*6:コテック、p. 106。

*7:T397, Vol. 13, 282a25, a29; コテック、p. 106。

*8:善波周、1957、「大集経の天文記事 その成立問題に関連して」、『日本仏教学会年報』22、p. 111。

*9:Mak, p. 66, n. 28.

*10:T1796, Vol. 39, 618a13-16。

*11:T1304, Vol. 21, 422c18〜423a20。

*12:T1311, Vol. 21, 459b11。

*13:同上、469b26-b27。

*14:同上、461c22。

*15:同上、461a08。

*16:同上、461c28〜462a02。

*17Jeffrey Kotyk, 2015, “Chronology of Occidental Astrology in EA.”

*18:矢野道雄、1986、『密教占星術 宿曜道とインド占星術』、p. 136-140; Bill Mak, 2014, “Yusi Jing: A Treatise of ‘Western’ Astral Science in Chinese and its versified version Xitian yusi jing,” SCIAMVS 15.

*19:矢野、p. 140。

*20:David Pingree (tr.), 1976, Carmen Astrologicum, p. 157-158.

*21:T1308, Vol. 21, 442b21-22。

*22:T1308, Vol. 21, 446b12-13。

*23:矢野、p. 160-163。

*24:コテック、p. 107。

*25:『叢書集成 初編 蠡海集・群物奇制』、p. 24; 『五雑組1』、p. 82、訳注に引用。

*26:梅原郁訳注、1978、『夢溪筆談1』、p. 186-187。「升交点」はママ。

*27:小泉弘・山田昭全校注、1993、「宝物集」『新 日本古典文学大系40』、p. 295。

*28:『和漢三才図会1』、p. 61。

*29:矢野道雄、杉田瑞枝訳注、1995、『占術大集成 古代インドの前兆占い1』、p. 32。

*30:同上、p. 33-34。

*31:Edward Sachau, 1910, Alberuni's India, Vol. 2, p. 234.

*32:David Pingree, 1976, “The Indian and Pseudo-Indian Passages in Greek and Latin Astronomical and Astrological Texts,” Viator 7.7, p. 148.

*33:David Pingree, 2006, “The Byzantine Tradition of Māshā’allāh on Interrogational Astrology,” Paul Magdalino and Maria Mavroudi (eds.), The Occult Sciences in Byzantium, p. 240; cf. Pingree, 1997, From Astral Omen to Astrology: From Babylon to Bīkāner, pp.39-40.

*34:Sara Kuehn, 2011, The Dragon in Medieval East Christian and Islamic Art, p. 137-138.

*35:ラーフとケートゥが2つの交点だという説は、定番のインド神話辞典John Dowson, 1888, A Classical Dictionary of Hindu Mythology and Religion, Geography, History, and Literature, p. 252にもある。Adalbert Gail, 1980, “Planets and Pseudoplanets in Indian Literature and Art with Special Reference to Nepal,” East and West 30.1/4, p. 137, n. 20は専門文献を多く引用している。

*36:Gail, p. 135; cf. Rajesh Kochhar, 2010, “Rāhu and Ketu in Mythological and Astronomological Contexts,” Indian Journal of History of Science 45.2, p. 291.

*37:B. V. Subbarayappa and K. V. Sarma, 1985, Indian Astronomy: A Source-Book (Based Primarily on Sanskrit Texts), p. 224.

*38:Gail, p. 137-139.

*39:Gail, p. 136; Stephen Markel, 1990, “The Imagery and Iconographic Development of the Indian Planetary Deities Rāhu and Ketu,” South Asian Studies 6, p. 9.

*40:矢野道雄、2004、『星占いの文化交流史』、p. 108-109。

*41Digital Dictionary of Buddhism, s.v. 羅睺

*42:たとえばPingree, 1976; Pingree, 1964-66, “Indian Influence on Sasanian and Early Islamic Astronomy and Astrology,” Journal of Oriental Research 34-35.

*43:Bill Mak, 2013, “The Date and Nature of Sphujidhvaja’s Yavanajātaka Reconsidered in the Light of Some Newly Discovered Materials,” History of Science in South Asia 1; Bill Mak, 2014, “The “Oldest Indo-Greek Text in Sanskrit” Revisited: Additional Readings from the Newly Discovered Manuscript of the Yavanajātaka,” Journal of Indian and Buddhist Studies 63.3, p. 1104はいずれも、149/150年にアレクサンドリアで作成された原文を269/270年に韻文に翻訳した、というピングリーの年代推定の誤りを指摘している。

*44:Stephanie W. Jamison and Joel P. Brereton(tr.), 2014, The Rigveda: The Earliest Religious Poetry of India, Volume 2, p. 706.

*45:Markel, p. 9.

*46:Jamison and Brereton, loc. cit.

*47:上村勝彦訳、2002、『マハーバーラタ1』、pp. 148-149。

*48:Cf. 大林太良、「東南アジアの日蝕神話の一考察」、1971、『論集 日本文化の起源 第3巻 民族学I』、p. 303-313。

*49:中村了昭訳、2012、『新訳ラーマーヤナ1』、p. 209-214。

*50:矢野、p. 73。

*51:William Dwight Whitney, 1905, Atharva-Veda Saṁhitā, Second Half, p. 914.

*52:Michio Yano, 2004, “Planet Worship in Ancient India,” Charles Burnet et al (ed.), Studies in the History of the Exact Sciences in Honour of David Pingree, p. 333。

*53:矢野、p. 74; Yano, p. 331-332を改変。

*54:Yano, p.334.

*55:John Mitchiner, 1986, The Yuga Purāṇa: Critically Edited, with an English Translation and a Detailed Introduction, p. 105-107.

*56:Yano, p. 336.

*57:近年では「ヴリッダ」を「古い」と解し(そちらのほうが普通)、『ヤヴァナジャータカ』以前の文献とする説も提示されている。Mak, 2014, p. 1103参照。

*58:井狩弥介、渡瀬信之訳注、2002、『ヤージュニャヴァルキヤ法典』、p. 65-66。

*59:井狩・渡瀬、p. 360; Cf. Yano, p. 341。

*60:H. H. Wilson (tr.), 1896, A Prose English Translation of Vishnupuranam, p. 152-153.

*61:Ludo Rocher, The Purāṇas, 1986, p. 249.

*62:Markel, p. 13 & fig. 1

*63:Ibid.

*64:Ibid., p. 15 & fig. 8.

*65:Ibid., p. 21 & fig. 15.

*66:Ibid., p. 21, 24.

*67:Ibid., p. 24 & fig. 17.

*68:Gail, p. 138.

*69:Roger Billard, 1971, L’astronomie indienne: investigation des textes sanskrits et des données numériques, p. 127.

無明寺無明寺 2017/08/19 10:21 真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

2016-11-27

[]竜の頭と尾を追跡する8 ゾロアスター教のゴージフル 23:48 竜の頭と尾を追跡する8 ゾロアスター教のゴージフルを含むブックマーク 竜の頭と尾を追跡する8 ゾロアスター教のゴージフルのブックマークコメント

シリア語やマンダ教、マニ教文献からうかがえるように、紀元後一千年紀の半ばには、西アジアの一部で「蝕を起こす竜」の観念が広まっていた。これを踏まえて、そろそろヨーロッパの「カプト・ドラコニス」「カウダ・ドラコニス」(竜の頭、竜の尾)へと発展していくことになる、具体的な「竜」を見ていくことにする。しかし舞台は、まず東方へと向かう。

この竜「ゴージフル」(Gōzihr、Gōčihrとも)は、ゾロアスター教の宇宙論的な神話群が描かれた文献『ブンダヒシュン』(Bundahišn)に登場する怪物である。『ブンダヒシュン』は9世紀に中世ペルシア語のパフラヴィー語で記述された宗教書で、イラン版と、それを要約したインド版がある。ゴージフルの登場する箇所はインド版で省略されていることもあるので、ここでは原則イラン版(『大ブンダヒシュン』とも言う)をもとに説明する。

これが書かれた当時、かつてゾロアスター教が広まっていたペルシアイスラーム勢力圏内にあった。そこで、旧来の伝統が完全に失われてしまう前に『ブンダヒシュン』をはじめとする多くの宗教書を文字記録する必要が生まれた。そのため、『ブンダヒシュン』に書かれていることは必ずしも9世紀になって生まれたのではなく、もっと以前から伝えられていたことも多いと考えられている。

とはいえ、無数にある神話要素のどれがいつごろのものかを確定するのは難しい。イラン学者のW・ヘニングは、ゴージフルの登場する天体神話における星座の配置を計算し、さらにギリシア天文学がペルシアに導入された時期を考慮して、少なくとも天体神話のあたりはホスロー1世時代(在位531-579)か少し前の天球をもとに書かれたのではないか、と推測した*1。要するに6世紀前半である。セウェルス・セボフトよりも1世紀早く、また次回紹介するヴァラーハミヒラの『ブリハット・サンヒター』と同時代(やや遅い)と見なすことができる。

年代推定はこのあたりにして、物語に移ろう。本連載でこれまで紹介してきた重要文献の多くは日本語訳がなかったが、『ブンダヒシュン』については学術的対訳(中部大学野田恵剛教授による)をネット上で読むことができる。素晴らしい。

ただ、ここではゴージフルの特徴を浮き彫りにする都合上、野田訳(2009)を紹介したあとで、伊藤義教らによる部分訳(1980→2001)でそれを訂正するという、年代的には逆の順番で眺めていくことにする。さらに、いちいち明記しないが、デヴィッド・マッケンジーによる英語訳(1964)*2も参考にした。

ゴージフルが最初に登場する『ブンダヒシュン』第5章は「2つの霊の戦いについて、すなわち主要なデーウどもがどのようにメーノーグ的な戦いのために神霊たちのところへ来たかについて」と題されている。「2つの霊」とは善神オフルマズド率いる光の勢力と悪神アフレマン率いる闇の勢力のことで、デーウは闇の勢力に属する。事細かに敵対関係が書かれるなか、第4節では、天空において具体的に誰と誰が戦ったのかが羅列される。

「天空(スピフル)でも、暗いミフル(太陽)が太陽を、暗い月が家畜の種子を持つ月を襲ってきた。(敵は太陽と月を)同じ紐で(?)自分の車に縛りつけた。その他のジャードゥーグとパリーグ(魔女)と…破壊的な惑星恒星を、7つの惑星の将軍が恒星の将軍を、すなわち惑星のティール(水星)がティシュタル(シリウス)を、惑星のオフルマズド(木星)がハフトーリング(北斗七星)を、惑星のワフラーム火星)がワナンド(ヴェガ)を、惑星のアナーヒード(金星)がサドウェース(フォマルハウト)を、惑星の中の大将であるケーワーン(土星)がメーフ・イー・マヤーン・イー・アスマーン(天の中心の釘=北極星)を、ゴージフル(竜座)と尻尾のあるムーシュ・パリーグが太陽と月と星を襲った。」*3

この部分からは、恒星および日月に対して、惑星と「暗い太陽」(Mihr ī tomīg)「暗い月」(Māh ī tomīg)「ゴージフル」「ムーシュ・パリーグ」(Mūš-Parīg)が闇の勢力として天界を襲撃したことがわかる。

この直後の5A章は「世界の天宮図[ホロスコープ]について」と題され、攻撃が始まったときの天体の配置が語られる。このホロスコープは、実質的にヘレニズム占星術で知られていた「テマ・ムンディ」(thema mundi)すなわち宇宙誕生時の天体配置*4を物語っている。創造からこの時点まで(6000年間)、宇宙は平穏安定していて何事もなかった。しかし惑星の侵入がきっかけで宇宙史が始動することになったのである。今回は、そこからゴージフルに関するところだけ引用する(全文はネットで見られるため)。日本語訳で「竜座」とあるのは原語でゴージフルなので、そこだけ改変する。

「…は人馬座で、ゴージフルの尻尾がそこにあった。[……]不運(の宿)は双子座で、ゴージフルの頭がそこにあった。……ゴージフルは蛇のように天の中心に立ち、頭は水瓶座にあり、尻尾は人馬座にあった。頭と尾の間にいつも6つの恒星があるようにするためである。その動きは逆行で10年ごとに頭が尾のあったところへ、尾が頭のあったところへ戻る。尻尾のあるムーシュ・パリーグは羽があった。太陽はそれを自分の車に縛りつけて悪事を働けないようにした。もし解き放たれると、太陽と同じ紐まで戻って縛られるまで世界で多くの害を引き起こす。」*5

先ほど書いたように、この部分に関しては伊藤義教の訳がある。後で見るように、占星術的には伊藤訳のほうが正確である。

「世界のホロスコープ(ザーイチュ)すなわちいかに(諸惑星がどの星座に)入座したかについて。……奴僕位は人馬座、ゴージフルの尾が入座した。……禍害位は双子座、ゴージフルの頭が入座した。……ゴージフルは天の中に蛇のごとく横たわり、頭は双子座に、そして尾は人馬座にあった、すなわち頭と尾の間にはつねに六星座にある。そしてそれ(ゴージフル)は後方に向かって走り、一〇年ごとに、頭のある所が尾となり、尾のある所が復た頭となる。」*6

ちなみに、矢野道雄がこの伊藤訳を多少改変したものを自著で用いている。具体的な改変箇所は「双子座」→「ふたご宮」、「人馬座」→「いて宮」、「六星座」→「六宮」*7

さて、野田訳ではゴージフル=竜座となっているが、これは間違いである。まずホロスコープをたどってみると、人馬座と双子座は黄道十二宮の180度反対の位置にあり、そこに「頭」と「尾」があるということは、竜座ではない。また、動きが逆行というのも、それが星座ではないことを示している。むしろゴージフルのこの特徴は、このブログでずっと見てきた月の交点=ドラゴンヘッド・ドラゴンテールと同じである。ゴージフルが竜だということは「天の中に蛇のごとく横たわ」ったという表現からも裏付けられる。さらに、太陽に敵対している点から見ても、ゴージフルが蝕を起こす竜(宇宙論的蝕観念)に相当するものであることがわかる。(ということで、野田訳で「6つの恒星」とあるのは誤りで、伊藤・矢野訳のように「星座」あるいは「宮」とするのが正しい。)

また、野田訳の2つ目のところでゴージフルの「頭は水瓶座にあ」ると訳されているが、これはおそらく何かの間違いである。ただ、『ブンダヒシュン』の主要写本2種(TD₁とTD₂)の間でも、実はいくつかの天体の位置に違いがあることは、この章を研究したマッケンジーや伊藤、矢野のいずれも指摘している*8。『ペルシア文化渡来考』に、写本のホロスコープが対訳で掲載されている*9

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このように、写本TD₁では人馬座にあるゴージフルが、TD₂では魚座に入っている。本文とつきあわせると、尾が人馬座にあるので、頭はその180度反対側の双子座になければならない。そのようなわけでTD₂は間違いなのだが、TD₁にはゴージフルのかわりに魚座に水星が入っていて、これもまた間違いである。この点については矢野やエンリコ・ラファエッリが論じているので省略する*10

ゴージフル(交点)の周期が10年(あわせて20年)というのは、――普通は9年4ヶ月ほどと言われるので――大雑把である。中途半端な数が嫌われたのだろう。また、占星術的な交点の概念が『ブンダヒシュン』にとっては厳密さを必要としないものでしかないことを示しているとも考えられる。

占星術的な意義とは少しずれるが、『ブンダヒシュン』第5B章の最後には、

「[「カーヨースの道」(天の川)と呼ばれるこの天の印は天空の蛇であるゴージフル(竜座?)の輝きである。これは上に述べた通りである。]」*11

とある。しかしこの部分、文脈的におかしい上に、黄道上を動く交点と固定された恒星の集合である銀河を同一視しているので、この部分は後世の付加であるとみなされており、野田訳に[]が付けられていることから分かるように、本文からは削除されることが多い*12。ただ、マッケンジーと矢野が指摘するように、ゴージフルが昂揚する場は双子座と人馬座であり、これは銀河が黄道と交差する(と伝統的に見なされる)場と同じである。ゴージフルが、もっとも力を持つ場に光り輝く「印」を残すという考え方は、それほど不自然なものではないだろう*13

ゴージフルと、同じく日月に敵対する「黒い太陽」および「黒い月」との関連は明らかではない。蝕の原因となる暗黒惑星のことを言っているのだと思われるが、だとするとこれはシリアやビザンツ、インド、東アジアの資料に見られる占星術的蝕観念に相当する。またマニ教『ケファライア』に登場する2アナビバゾンとの関連も考えられるだろう。そうなると、『ブンダヒシュン』には占星術的蝕観念と宇宙論的蝕観念の二つが並置されているということになる。

この矛盾というか重複は、9世紀に書かれた教理書では発展的に解消されたようである。たとえば9世紀後半に書かれた教理問答書『ダーデスターン・イー・デーニーグ』(Dādestān ī Dēnīg)第69章、蝕についての問いがされるところ。

「ゴージフルの二つの暗黒の産物が動き、月と太陽のはるか下にて回転するようにされており、天球の回転するあいだ、太陽の下か月の下の一つの経路を進むとき、太陽のところで旋回する覆いとなるが、これが、太陽や月が見えなくなるときのことである。ゴージフルの二つの産物のどちらも――片方は「頭」、片方は「尾」――、その運動は天文学者によって特定されている。しかし、光明[日月]の上に留まるとき、覆いをなすとき、それらが覆いの内側に光明を入れることにはならない[飲み込むのではなく覆うだけ]。」*14

ここでは明確にゴージフルの頭と尾が蝕を起こすことになっている。また、ゴージフルに特別な天球層が与えられているようだが、これは以下にみる17世紀版『ウラマー・イェ・イスラーム』の記述と一致する。

また、同じく9世紀に書かれた教理書『断疑論』(Škand Gmānīg Wizār)にもゴージフルが登場する。ただ、これにはちょっと問題があるようだ。

まずは伊藤義教による全訳注をもとに話を進めよう。同書第4章の第29節あたりから、5つの「オフルマズド的星」(恒星、善性の天体のこと)が紹介される。「至高の巨魁」(北極星)、大熊座、ヴェガ、フォーマルハウト(?)、シリウスである。次いで、それぞれが惑星と対抗する構図が描かれるが、テクスト(第31〜32節)をそのまま訳すと「至高の巨魁――遊星ゴーズィフル……――〔大熊座〕は土星に対抗し」となる(欠落があるらしい*15)。伊藤義教はこの部分をまとめて「至高の巨魁は土星に対抗し」とした*16。ついで第46節で、日月の対抗者が語られる。

「また、太陽と月との遊星的対抗者である、きわめて強力なかの二ドルズが二光明(太陽と月)の光芒の下を動いており、そのほか、盗賊星であり、ムーシュ・パリーグとよばれるものも同じように太陽の光芒の下に結びつけられていて、紐帯から遠ざかると、太陽による、引き戻しの完全捕捉が行われるまで、交会する星座において、その星座が主管する方位に、禍害と不祥をはたらくのである。」*17

第31〜32節では、名称は出てくるものの、ゴージフルが何と対立しているのかは明記されない。その一方、第46節では日月に対立するのが2体のドルズとされている。2体というのは明らかに昇交点と降交点のことだが、今度はゴージフルの名称が出てこない。

しかし実のところ、『断疑論』のテクストには「ゴージフル」は全く出てこない。近年この部分を論じたラファエッリによると、ジャン・ド・メナスが、1945年に出版した校訂テクストにおいて恣意的に「ゴージフル」を追加したのだという*18。現に、メナスの校訂に従うと北極星がゴージフルのことになってしまう。善の恒星と悪魔が同一視されるのはありえない。というわけで、この部分をラファエッリの英訳から重訳すると、「至高の星の如き北の釘(北極星)は、土星に対抗する」となる*19。というわけで、結果として伊藤訳は正確だったということになる。さすがだ。しかしゴージフルは消えた。

いずれにせよ、9世紀のどちらの教理書でも、蝕を引き起こす実体は「2つ」とされていることから、『ブンダヒシュン』の長大な竜(宇宙論的蝕観念)が、おそらく「暗い太陽・暗い月」と並行するか影響を受けるなどして、この時期には占星術的蝕観念に焦点が移行したのだと思われる。

占星術的蝕観念は西アジアにもインドにも見られ、『ブンダヒシュン』第5章以降のペルシア占星術に影響を与えたのがどちらかは判断できない。竜=宇宙論的蝕観念は西方からの影響だろうが、暗黒惑星=占星術的蝕観念は(デイヴィッド・ピングリーが言うように)東方からの影響と考えてもおかしくはない。

ゴージフルにあたる存在は、古代ペルシア時代のゾロアスター教文献(アヴェスター)には見当たらない。しかし語源としてはアヴェスター語の「ガオチスラ」(gaočiθra)が想定されている。この説はベルンハルト・ガイガーが提唱し、その後ハルトナーやフルラーニ、マッケンジーなどゴージフルを論じた多くの研究者によって受け入れられた*20

「ガオチスラ」は新層アヴェスター語に見られる表現で、「種子を担う」「家畜(牛)の起源を持つ」といった意味のある、月の形容辞である*21。後の時代の『ブンダヒシュン』でも、「家畜の種子を持つ月」(gōspand-tōhmag)という表現が見られる(上に引用した箇所)。どうやら人間に有益な家畜は月からやってくるという神話があったらしい。

もし、『ブンダヒシュン』が書かれていた時点で日蝕が月のせいだという天文学的蝕観念が知られていたのならば、蝕を起こすのが月であり、月の形容辞が蝕を起こす怪物に流用されたのもわからないではない*22。とはいえ、この観念は月とゴージフルを別物とする宇宙論的・占星術的蝕観念と衝突してしまうし、月蝕に別の必要が必要になってしまう。そもそも月の善性の側面を形容した言葉が悪性の存在に用いられるというのは、やはり変である。近年アントーニオ・パナイーノは、こうした疑問点を含め、あらためて写本レベルから語彙や意味の検討を行なって、「ガオチスラ」は「ゴージフル」と実質的に無関係である、と結論づけた*23。むしろその語源は「手(または爪)のかたちを持つもの」=「ガウチフル」(Gawčihr)でしょう、というのがパナイーノの主張である*24。するとこれは次回紹介するインドの「グラハ」(とらえるもの)や日月をつかむラーフの観念と、意味論的には近くなる。この説が今後広まるかどうかはわからないが、月の形容辞の転用という仮説よりは無理がないように思われる。

ゴージフル(ガウチフル)について面白いのは、『ウラマー・イェ・イスラーム』(‘Ulamā-ye Islām)という13世紀ペルシア語ゾロアスター教文書である*25。この書は5世紀前半にサーサーン朝宰相が書いたもの(パフラヴィー語)の翻訳と考えられており、また、このころ隆盛していたゾロアスター教ズルヴァーン主義の資料としても知られている。5世紀前半だから『ブンダヒシュン』の「世界のホロスコープ」より1世紀早い。

『ウラマー・イェ・イスラーム』は基本的には宇宙論や終末論など、ゾロアスター教にとって重要なポイントを整理した教理書であるが、そこには惑星についての記述も含まれている。神話時代、7大悪魔が善の勢力と争った末に天空で縛られると、オフルマズドがそれぞれを光で包み込み、善性の名称を与えた。これが7惑星であるという。実に、青木健が指摘するように、『ブンダヒシュン』と違って惑星は善なのである。さらに、青木は指摘していないが、『ブンダヒシュン』に登場した交点の惑星(ゴージフル、黒い太陽、黒い月)は同書には見られない。これに関して興味深いのは、1645〜1649年にヤズドで書かれた『ダストゥール・バルズー教示書』に入っている『ウラマー・イェ・イスラーム』*26では、7大悪魔が原初の人間カユーマルスを襲撃した部分で天文学的な記述が追補されており*27、そこにゴージフルが登場することである。悪魔と惑星が、善悪の強度のバランスを考えつつ諸天球に配置されるところで、月が最下層の天球にあると述べられたのち、次の一節が語られる。

「月の天圏の下にも実は天圏があって、彼らはこれをゴーチフル天圏と称する。ヴァキードの尾と頭は、この天圏にある。」*28

「尾と頭」、「ゴーチフル」という名称からして、これは明らかに月の交点たる竜のことである。青木の注記するように、「ヴァキード」の意味は不明だがおそらく竜蛇の名称であろう。また、ほかの惑星と同じく天圏(天球)の一つに位置づけられているところから、ゴーチフルが惑星と同じ扱いを受けていたことがわかるし、「実は天圏があって」という表現は、原文のニュアンスは不明だが、この惑星は不可視である(=黒い)ことを暗示しているようにも見える(占星術的蝕観念)。また、『ダーデスターン・イー・デーニーグ』で日月の下にゴージフルの天球が割り当てられているのと『ウラマー・イェ・イスラーム』の記述は一致している。これが書かれた時期は、イランやその両隣(インドとアラビア)で天文学的蝕観念が浸透して何世紀も経つのだが、その影響は微塵も感じられない。古くからの神話を優先しているかのようだ。

いずれにしても詳細な神話は語られないが、17世紀半ばの『ダストゥール・バルズー教示書』は、占星術的には、『ウラマー・イェ・イスラーム』原本よりも、交点を実体とみなす古代末期の西アジア占星術や『ブンダヒシュン』の占星術に近い。『ウラマー・イェ・イスラーム』の書かれたと思しき5世紀前半は、まだゾロアスター教の、少なくとも宮廷で信仰されるぐらいに中核的な教理には、交点についての観念は入り込む余地がなかったのだ。ということは、イランにおいて、蝕を起こす竜についての観念は、存在はしたかもしれないが周縁的でしかなかったということになる。しかしそれは、「世界のホロスコープ」が書かれた6世紀前半から(少なくとも)9世紀後半の『ダーデスターン・イー・デーニーグ』までは教理システムに収まっていた。

トゥルファン出土のマニ教文献(8世紀後半〜11世紀前半)に「アータールヤー」(Ātālyā)という言葉が出てくることは紹介したが、「ゴージフル」という言葉が出てくる断片も見つかっている。これもまたマニ教文書辞典では「竜、蝕」という英訳が付されている*29。さいわい、この断片の英訳があるので、それを参考にすると、次のような感じになる。

「第10の兆し 大地が動揺するか、太陽と月がゴージフルの上にある」*30

この断片全体は予兆を記したものらしく、この「兆し」というのは何かわからないが、とにかくそれと地震あるいは日蝕・月蝕が結び付けられた、ということになるだろう。また、言うまでもなくゴージフルは日月に重なる存在として語られている。また、日月がゴージフルの上にあるという表現は、9世紀以降のゾロアスター教理書と一致する。ゴージフルが竜蛇とは書かれていないものの、同時代のアラビア占星術では(少なくとも概念的には)竜と同一視されていたようなので、トゥルファンでも竜としてイメージされていたと思われる。

興味深いのはこの断片にイラストが付されているということで、上に引用した部分の左側には、三日月がはっきりと描かれている。下の画像がそれである。ウェブサイト「デジタル・トゥルファン・アーカイブ」より。

http://turfan.bbaw.de/dta/m/images/m0556_recto.jpg

おそらくこれは三日月のように見えて蝕の最中の様子なのだと思われる。

また、アタリアー系でもゴージフル系でもなく、ごく一般的な「竜」を表す中期イラン語の「アズダハーグ」(Azdahāg)も、辞典の定義によると「竜。月の交点を指示する」という*31。ただ、この定義にはやや飛躍がある。少し詳しく見てみよう。アズダハーグが登場するのは、マニによる教理書『シャーブフラガーン』(Šābuhragān)の、トゥルファン出土断片であり、そこには次のようにある。

「[創造神ミフルが]7惑星[を取り付ける]と、2頭の竜[アズダハーグ]を吊り下げ、鎖でつないだ。この最下層の天に、彼らはそれらを吊り下げ、男女の2人の天使を割りあて、その号令により、休みなく回転させるようにした」(断片番号M98)

この宇宙創成論において、竜は1頭ではなく2頭登場して、天球を回転させる役目を負わされている。この竜が、現代のマニ教研究では「蝕を起こす竜」と見なされているようだ。ただ、断片しか残っていないから仕方がないのだが、そのようなことを明記している箇所はない。天球全体に広がるドラコ・カエレスティスの観念は、確かに古代グノーシス主義の文献の一部でも確認することができる。たとえば『ピスティス・ソフィア』(Pistis Sophia)がそうだが、しかし蝕を起こす竜だと明記しているものはない。ここは、関係はあるかもしれないが蝕との結びつきは確認できない、と穏当に結論付けておこう。

次回は、カプト・ドラコニス&カウダ・ドラコニスまであと一歩の「ジャウザハル」にしようと思ったが、その前にインド占星術との影響関係について見ておく必要がある。というのも、大御所デヴィッド・ピングリーが、交点が竜の頭と尾だという観念はインド由来だと言ったからである。

*1:W. Henning, 1942, “An Astronomical Chapter of the Bundahishn,” Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland 3, p. 245.

*2:D. N. MacKenzie, 1964, “Zoroastrian Astrology in Bundahišn,” Bulletin of the School of Oriental and African Studies 27.3.

*3野田恵剛、2009、「ブンダヒシュン(?)」『貿易風 中部大学国際関係学部論集』14、p. 181。

*4:MacKenzie, p. 523-524; Enrico Raffaelli, (2011), “ZĀYČA,” Encyclopædia Iranica; S・J・テスター、1997、『西洋占星術の歴史』、p. 160。

*5:野田、p. 182-183。

*6:伊藤義教、2001、『ペルシア文化渡来考』、p. 217-218。

*7:矢野道雄、2004、『星占いの文化交流史』、p. 106。

*8:MacKenzie, p. 527; 伊藤、p. 216; 矢野、p. 103-105。また、Enrico Raffaelli, 1999, “The Diagrams of the zāyč ī gēhān,” East and West 49.1/4が写本DHも加えて詳細な比較研究をしている。

*9:伊藤、p. 216。

*10:矢野、p. 103-104; Raffaelli, p. 288。

*11:野田、p. 186。

*12:MacKenzie, p. 522n53; 伊藤、p. 140; 矢野、p. 108。

*13:MacKenzie, p. 525; 矢野、p. 108。

*14:E.W. West (tr.), 1883, Pahlavi Texts Part II, p. 212-213. なお、ここで「ゴージフル」と日本語へ重訳した部分はもともとPrimeval ox「原初の雄牛」となっている。この理由は、ゴージフルの語源が「(雄牛の)種を持つ」と解釈されたことによると思われる(p. 213の訳注1参照)。

*15:伊藤義教、2001、『ゾロアスター教論集』、p. 420。

*16:伊藤、p. 342。

*17:伊藤、p. 343。

*18:Enrico Raffaelli, 2009, “The Astrological Chapter of the Škand Gumānīg Wizār,” In Gherardo Gnoli and Antonio Panaino (ed.), Kayd: Studies in History of Mathematics, Astronomy and Astrology in Memory of David Pingree, p. 115n42.

*19:Raffaelli, p. 111.

*20:Bernhard Geiger, 1933, “Indo-Iranica,” Wiener Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes 40: 108-113. Cf. Willy Hartner, 1938, “The Pseudoplanetary Nodes of the Moon’s Orbit in Hindu and Islamic Iconographies,” Ars Islamica 5.2: 151-154; Furlani, p. 604; MacKenzie, p. 515.

*21D. N. MacKenzie, “Gōzihr,” Encyclopaedia Iranica.

*22:Hartner, p. 153-154

*23:Antonio Panaino, 2005, “Pahlavi GWCYHL: Gōzihr o Gawčihr?” in M. Bernardini e N.L. Tornesello (ed.), Scritti in onore di Giovanni M. D’Emre, p. 806-807; cf. Almut Hintze, 2009 (2005), “The Cow that Came from the Moon: The Avestan Expression māh- gaociθra,” Bulletin of the Asia Institute 19, p.63n3; Raffaelli, p. 115n42.

*24:Panaino, p. 808.

*25:校訂テクスト、日本語訳、書誌学的情報、比較思想的分析などについて青木健、2012、『ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究 ペルシア語文献『ウラマー・イェ・イスラーム』写本の蒐集と校訂』参照。この本のもとになった紀要論文はネット上で読める

*26:青木、p. 10-11。

*27:青木、p. 80-81。

*28:青木、p. 81。

*29:Desmond Durkin-Meisterernst, 2004, Dictionary of Manichaean Texts, vol. 3, Texts from Central Asia and China, Part 1: Dictionary of Manichaean Middle Persian and Parthian, p. 166;

*30:Zsuzsanna Gulácsi, 2005, Medieval Manichaean Book Art: A Codicological Study of Iranian and Turkic Illuminated Book Fragments from 8th-11th Century East Central Asia, p. 202; Christian Reck &Werner Sundermann, 1997, “Ein illustrierter mittelpersischer manichäischer Omen-Text aus Turfan,” Zentralasiatischen Studien 27, p. 12-15.

*31:Durkin-Meisterernst, p. 85。アズダハーグは『アヴェスター』の3つ首竜アジ・ダハーカの中期ペルシア語形。

2016-11-20

[]竜の頭と尾を追跡する7 マンダ教、マニ教中世ギリシアにおけるアタリア 19:32 竜の頭と尾を追跡する7 マンダ教、マニ教、中世ギリシアにおけるアタリアを含むブックマーク 竜の頭と尾を追跡する7 マンダ教、マニ教、中世ギリシアにおけるアタリアのブックマークコメント

グノーシス主義の系統をひくイラクの小宗教であるマンダ教文書にも、シリア語のアタリアーに相当する竜が登場する。マンダ教では「マンダ教アラム語」という、シリア語と同じく東方アラム語の一種典礼言語として用いられている。この言語では、「アタリアー」(←アッタルー)の冒頭の「ア」が抜け落ちて「タリア」という名称になっている。

タリアは『右のギンザー』や『黄道十二宮の書』を始めとしたいくつかの文書に現われる。『右のギンザー』は宇宙論教義について書かれたもので、長い世代を継いで書き続けられてきたものらしく、いろいろと記述がごちゃごちゃしているが、マンダ教についての重要文献である。現在の形態になったのは8世紀ごろ、すでにイスラームがマンダ教徒たちの地域を支配していた時期と考えられている*1。『右のギンザー』の、悪なる創造神プタヒル(グノーシス主義なので、この世界をつくったのは悪神)による宇宙創成の場面でタリアが登場する。この時点ですでに惑星と黄道十二宮(虚無の怪物たち)はルーハー(悪の女性原理)から生まれている。

「彼(プタヒル)は地の臍をつかむと、天空の中心と結びつけたいと願った*2。地の臍をつかもうとするとき、惑星が彼を取り囲んだ。……7つの惑星と、12の虚無の怪物たちが彼を取り巻いた。2人の世界の副王たるアトラパン(アタルパン)とルパン(ルファン)が彼を取り囲んだ。ティビル(この世)の怒りを支配する、ウルプイル(ウルペール)とマルプイル(マルペール)。彼らが大いなるタリアを取り巻き、上昇し、そして天蓋に立った」*3

かなり分かりにくいテクストである。アトラパンやルパンなどもこの部分以外では確認できず、どういう役割を持っているのか、どういう特徴・属性があるのかはほとんどわからない。

さて、ドイツ語訳でも英語訳でも「タリア」の部分は「竜」(ドラッヘ、ドラゴン)になっているが、少なくともこの部分からは、身体的特徴がどういったものかは読み取れない。ただ、単なる惑星軌道の交差点などといったものではなく、食とは無関係に存在し、惑星や「虚無の怪物」(黄道十二宮の生き物)と並ぶ宇宙的な実体だとされていることは分かる。また、この部分を下で紹介する『黄道十二宮の書』の表現と組み合わせてみると、タリアが宇宙的な竜とイメージされていた可能性は高いように思われる。

さらに、そのうち紹介するが、宇宙的で食との関係が明記されていない点では、タリアはユダヤ教の『形成の書』に登場する竜とも近いような気がする。『ギンザー』が8世紀成立、『形成の書』が9世紀成立だという年代推論を採用するならば、「宇宙論的食観念型」の竜は、後一千年紀後半におそらくグノーシス主義的な宇宙蛇と融合しつつ、「ドラコ・カエレスティス」型の竜へと進化していったのかもしれない。また、宇宙創成時の「食を起こす竜」の残滓という点では、今回の最後に紹介するギリシア占星術における竜とも近い。

天体について書かれた『黄道十二宮の書』では、「竜」との関連はさらに明確である。この文献は基本的には占星術書なので、諸惑星の配置と地上での出来事の予兆について書かれているのだが、そのなかに次のような一節がある。

「もし、タリアのなかの月の影響下にあるならば、その者は4人の子供を持ち、いずれも学識があり、賢明で、力強くなるだろう」*4

ここで、タリアが月を取り込むようなものだということは分かる。別の一節。

「太陽。その昂揚は天秤宮であり、失墜は天秤宮である。……土星。その昂揚は天秤宮であり、失墜は天秤宮である。……竜の頭。その昂揚は双児宮であり、失墜は人馬宮である。竜の尾。その昂揚は人馬宮であり、失墜は双児宮である。」*5

ここでは、竜の頭と尾が七惑星と同列に並べられ、さらに各々に特有の「昂揚」と「失墜」があることが明らかにされている。昂揚というのは地上に最も影響力(インフルエンティア)を持つ場所で、失墜はその逆である。この箇所の「竜」は原語でタニナであるが、これはヘブライ語のタンニーンなどと同源であり、明らかに竜のことである(『ギンザー』にも繰り返し出てくる)。そして、「タニナの頭」は実は別のところで「タリアの頭(リシュ)」とも言い換えられており*6、このことから、タニナもタリアも「竜」を意味するということが判明する。さらに別のところでは「腹痛や疫病が人々に蔓延するのは、タリアの頭が太陽の上にあるからである」とされており、これは日食のことを暗示しているようである*7。このように、タリアは占星術的な意味を持たされてはいるが、『ギンザー』と考え併せると、宇宙論的食観念に沿っているようである。

『黄道十二宮の書』は、ほかの多くのマンダ文書と同じように、書き始められてからおそらく何世紀にもわたって増補・修正が繰り返されたと思しく、成立年代を見極めるのは難しい。英訳者のドロワーは、「王の王」という用語や登場する地名などから、サーサーン朝時代(226〜651)ではないかと推測している*8。近年、フランチェスカ・ロッホベルクが推測したところによると、この書の第16章では、惑星と「タリアの頭」が同列に扱われていることから、この部分は明らかにサーサーン朝起源であるという*9。この時代のペルシア占星術には、西方からはギリシア、東方からはインドの影響があったらしいが、そのどちらにも見られない独自の特徴として、「交点の昂揚」があった*10。この点が『黄道十二宮の書』に見られるのである。また、昂揚と失墜の宮もペルシア占星術と同一である(さらにいうと、今回の後半で紹介するペルシア由来のギリシア占星術とも一致する)。ペルシアの竜については次々回でまた触れる。それにしても、この年代推定が正しいとすると、セウェルス・セボフトよりもやや古いということになる(ただ、ペルシアにおける「交点=竜の昂揚」の伝統は、少なくとも9世紀ごろまでは持続していたので、そのあたりを下限にできるかもしれない)。

このあたりでマンダ教を離れ、もう一つのグノーシス主義、マニ教に行こう。きわめて情報は断片的だが、アナバビゾンを悪魔に仕立て上げたマニ教の一部でも、この言葉は用いられていたようである。まず、マニ教版コプト語詩篇』に、「太陽はその光を引っ込め、アタリアをまとった」という表現がある*11。前に紹介したように、コプト語『ケファライア』では交点=惑星はギリア語由来のアナビバゾンと呼ばれていたが、こちらのシリア語由来のアタリアも、日月を覆う何かの実体のようにみられていたようである。となると、いずれも占星術的食観念に近く、シリア語による聖書註解者たちと似たような考えを持っていたと見なすことができる。

また、時代も地域もはるかに遠くなるが、中国ウイグル自治区トゥルファンで出土したマニ教文献(パルティア語)の断片も、「アータールヤー」という言葉が何回か登場する。断片の年代は、中央アジア東部でマニ教が広まっていた8世紀後半から11世紀前半のあいだと思われる。残念ながらこの断片は現代語に翻訳されていないようなので、具体的なう文脈はわからないが、辞典や研究論文では「(天文学用語の)竜、食」とされている*12。これはシリア語のマニ教文献の断片に「アタリアー」が見られることから、シリア語からの輸入ではないかと考えられている*13。ただ「竜」のイメージがあったかどうかは、手持ちの文献からだけでは分からない。

マニ教ではもっと明確に食と竜が結び付けられている文献もあるが、それは次々回紹介することにします。

中世ギリシア(つまりビザンツ文化圏)の占星術文書にも、アタリアーという観念は受け継がれた。ただ、ビザンツ文化圏では、少なくとも8世紀ごろまで、占星術は度重なる弾圧追放により衰退していた。8世紀には、ペルシア人のステファノス・フィロソフォスという人物が占星術をこの地に再導入することを提案したが、これもそのような背景によるとされている。その後、9世紀以降になると徐々に占星術への関心が再び高まっていった。この点はフランツ・キュモンらが編纂した『ギリシア語占星術関係文献目録』の写本のいずれもが10世紀か11世紀にまでしか遡らないことからも裏付けられるという。とはいえ、それでも12世紀以前の写本は24しかない*14

このころには、すでにペルシアやアラビアで占星術が流布しており、後二千年紀初頭のビザンツ占星術でも、そうした言語で書かれた書物の翻訳受容から新たな展開が始まったようである。とりあえず食を起こす竜について見てみよう。「アナビバゾンについての第一論考」と題された12世紀のギリシア語占星術文献には、次のようなことが書かれている。

バビロニア人、つまりカルデア人たちは、この竜の姿をした精霊(プネウマ・ドラコントエイデス)をアタリアと呼ぶ。その頭部は2つあり、尾部も2つある。頭部の一方は天秤宮、他方は天蝎宮にあり、尾も同じように、一方が天秤宮の反対の白羊宮、他方が金牛宮にある。これらは十二宮の環の第三の部分を支配しており、上昇運動で動く。その運動を天秤宮の30度から開始して、また処女宮の30度から開始して、天秤宮へと向かう。尾も、双魚宮から同じように動く。頭も尾も、それぞれの宮に19ヶ月と7日滞在する。バビロニア人たちは、その停止を[?]9ヶ月7日が限界とした。……しかし竜は、十二宮の反対側に置かれた2つの頭部と2つの尾部で、そのなかの運動を遂行するので、遅れることも緩まることもなく、むしろ逆行して運動する。そして、竜は悪星のなかでももっとも悪性のものであり、人馬宮と双児宮がそれに隷属し、そこにおいて最も苛烈な悪を遂行するが[=昂揚]、頭部は尾部ほど悪性なわけではない」*15

ここでは竜がはっきりと「プネウマ」だと書かれている。プネウマは気息や生気のことだが「精霊」を意味することもあるので、「竜」と呼ばれているものが生き物あるいは精霊だと見なされていることがわかる。また数値も交点の周期に近い。「カルデア人」というのは、ギリシア語文献においては単に過去の占星術師のことである。しかし「アタリア」という竜の固有名詞は、ペルシア語か何かを経由したかもしれないが、明らかにアラム語(シリア語)由来である。また、頭と尾が二つずつあるという奇妙な姿は、少し時代をさかのぼるユダヤ人学者ドンノロの文献にも見られる(いずれ紹介します)。

「第一論考」の次に「アナビバゾンについての第二論考」(同じく12世紀)が掲載されていて、そこには以下のようにある。

「そして、食の竜(ドラコン・ホ・エクリプティコス)と呼ばれるアナビバゾンがいる。それは[天球の]一方から他方へと、あちこちを動き回り、天空の半球に対して力を持つが、向かい側にはカタビバゾンと呼ばれる尾があり、それにより[つまり交点の竜の研究により]、あらゆる原理の調査が始まるのである。月が、すべての惑星や黄道十二宮の四つの宮を通って、カタビバゾンやアナビバゾンに向かう動きを観察する必要がある。どこにそれがいるのか[を知るの]は困難であり、頭と尾がどこかもそうである。……食に気をつけること」*16

ここでは、シリア語由来の固有名詞は出てこないが、今度はギリシア語伝統のアバビバゾンとカタビバゾンが、明確に竜の「頭と尾」とみなされている。ピングリーによると、ギリシア語で交点を「頭(ケファレ)と尾(ウラ)」と表現するのは、ビザンツ時代、パフラヴィー語かアラビア語占星術書からの翻訳によって登場したものという(よって、竜の頭と尾という表現は、古代ギリシア占星術由来ではない)*17

また別の文書では、食は太陽と月とのあいだに挟まった「黒い星」(アスティル・メノス)によって引き起こされるのだという。この星は太陽や月と同じくらいか、やや大きい。さらにこの星は「ケファリ・ケ・ウラ」つまり「頭と尾」と呼ばれる、とも言われる*18。ここでは名称だけが生き残り、竜の頭と尾だという観念は失われ、暗黒惑星の実体に変化している。暗黒惑星、つまり占星術的食観念はすでに『ケファライア』やシリア語聖書註解などに確認したとおりである。また次々回の6世紀ゾロアスター教占星術における「黒いミフル」「黒い月」とも共鳴するものだろう。

さて、食とは関係ないが、『ギリシア語占星術関係文献目録』にはドラコ・カエレスティスの宇宙創成論が語られているところがある*19。「カルデアの信仰による、占星術の根本」と題された13世紀の写本(内容は10世紀ごろ*20)によると、全知の神(セオス・パンソフォス)が、巨大な竜を、アナビバゾンと呼ばれる暗い頭部が東に、カタビバゾンと呼ばれる尾が西に来るように創造した。次にこの神は黄道十二宮を創造し、そのうち六つを竜の背中に負わせた。その六つとは、創造のときには大地の下側の見えない半球にある、巨蟹宮から人馬宮までの宮である。残りの六つ、つまり磨羯宮から双児宮までは地平線の上の、見える半球に置かれた。最後に神は七惑星を創造し、それを当初の室に置いた。それから7惑星が動きはじめ、運動は昂揚にいたるまで続いた(水星だけは失墜へ)。そこで神は十二宮と竜を動かし始めた。竜は6つの宮を背負ったまま、西向きに走ることになった。しかし、「7つの光体が、12の異なった黄道の宮を素早く逆行する運動をする、偉大で恐るべき竜を目にしたとき、突如恐れに囚われて正しい経路を失い、そこから外れてさまよいはじめた。あるものは立ち止まり、あるものは後退し、あるものは北へと逃げ、あるものは南へと逃げた。そして、これが理由となって、光体は「さまようもの(惑星)」と名付けられた。そのため、光体はその頂点にいたるまで旅をするような慣わしになった」。

竜の名称も天球上の位置も運動方向も、いずれも月の交点そのままなのだが、どういうわけかここでは日食や月食のことは語られず、むしろ「素早く」動くことになっている。ロジャー・ベックは、これは竜が天球を動かすという観念に基づいたもので、「素早い」のは日周運動のことだろうと推測している*21。おそらく宇宙論的食観念とドラコ・カエレスティスがどこかで混合した結果、このような竜の神話が生まれたのだろう。

次回は、今回あつかった時代と重なるインドの「ラーフとケートゥ」について。その影響関係を探ってみます。

*1大貫隆、2014、『グノーシス神話』、p. 206-207。

*2:この一文のみ、大貫、p. 235に和訳あり。

*3:Mark Lidzbarski, 1925, Ginzā: Der Schatz oder das große Buch der Mandäer, p. 104, n. 2; Sabah Aldihisi, 2008, “The Story of Creation in the Mandaean Holy Book the Ginza Rba,” unpublished PhD thesis, p. 418.

*4:E. S. Drower, 1949, The Book of Zodiac (Sfar Malwašia), p. 62.

*5:Drower, p. 95-96.

*6:Drower, p. 111.

*7:Drower, p. 116, cf. p. 115.

*8:Drower, p. 2.

*9:Francesca Rochberg, 2010, In the Path of the Moon: Babylonian Celestial Divination and Its Legacy, p. 234.

*10:David Pingree, 1997, From Astral Omen to Astrology: From Babylon to Bīkāner, pp. 39-40.

*11:C.R.C. Allberry, 1938, A Manichaean Psalm-Book, p. 196; Sarah Clarkson et al., 1998, Dictionary of Manichaean Texts, vol. 1, Texts from the Roman Empire, p. 89.

*12:Desmond Durkin-Meisterernst, 2004, Dictionary of Manichaean Texts, vol. 3, Texts from Central Asia and China, part 1: Dictionary of Manichaean Middle Persian and Parthian, p. 5; Christian Reck &Werner Sundermann, 1997, “Ein illustrierter mittelpersischer manichäischer Omen-Text aus Turfan,” Zentralasiatischen Studien 27, p. 13.

*13:W. B. Henning, 1937, “A List of Middle-Persian and Parthian Words,” Bulletin of the School of Oriental Studies 9.1, p. 79.

*14:テスター『西洋占星術の歴史』pp. 125-126。

*15Catalogus Codicum Astrologorum Graecorum(以下CCAG), 8.1, 1929, p. 195; 英訳Bellizia, p. 4.

*16:CCAG 8.1, p. 195-196; 英訳Piergabriele Mancuso, 2010, Shabbatai Donnolo’s Sefer Hakhmoni: Introduction, Critical Text, and Annotated English Translation, p. 346.

*17:David Pingree, 2006, “The Byzantine Translations of Māshā’allāh on Interrogational Astrology,” Paul Magdalino and Maria Mavroudi (eds.), The Occult Sciences in Byzantium, p. 240.

*18:CCAG, 7, 124; Furlani, p. 592.

*19:CCAG 5.2, 131-134; 英語要約Roger Beck, 1976, “Interpreting the Ponza Zodiac,” Journal of Mithraic Studies 1: 12-13; 部分英訳Mancuso, p. 344-345.

*20:CCAG 5.2, 131.

*21:Beck, p. 13.

2016-11-13

[]竜の頭と尾を追跡する6 シリアの竜アタリア19:45 竜の頭と尾を追跡する6 シリアの竜アタリアーを含むブックマーク 竜の頭と尾を追跡する6 シリアの竜アタリアーのブックマークコメント

 ふたたび紀元後の世界に戻ろう。紀元前メソポタミアでは、食を起こす竜についての明確な証拠は見つからなかった。しかし、この言葉自体はのちのち竜に結び付けられるようになる。

 前回引用したメソポタミアの占星術書では、食に「アンタルー」という言葉が用いられていた。この言葉は、『シカゴ東洋研究所アッシリア辞典』では「アッタルー」という項目にまとめられている。この辞典によると、他に「ナムタッルー」や「ナンタッルー」などの異形もあったようだ。意味は「(太陽あるいは月の)食」。古期バビロニア語以来、確認できるという*1。この言葉はシリア語やマンダ教アラム語などの東方アラム語、そしてヘブライ語にも借用されたと言う*2

 おそらく、このうちシリア語で残された文献に、交点を竜の頭&尾に結び付けた、年代が比較的明確にわかる文献のなかでは最初期の記述がみられる(次回以降に出す予定のヴァラーハミヒラの文献のほうが古いが、彼は交点の理論をむしろナーガによる食の否定のために用いている)。

 シリア語というと何だかマイナーな中東言語という印象を与えるが、紀元後しばらくは(アラビア語が支配的になるまで)西アジアの共通言語だったアラム語の一種であり、何よりも、古代ギリシア語や中期ペルシア語学術書がシリア語に多く翻訳されたことで知られている。さらにシリア語訳のギリシア科学書がアッバース朝時代にアラビア語に訳され、それによって発展した中世イスラーム科学がスペインイタリアラテン語ヨーロッパに入り込み、12世紀ルネサンスに至るという流れがあったわけで、シリア語は、ある意味で近代ヨーロッパの覇権にいたる長い翻訳の道の出発点にあったともいえる、重要言語なのである*3。また、マニ教の教祖マニの言語もシリア語だったことも重要な点だ。

 さて、食を起こす竜についての話に戻ろう。シリアの学者セウェルス・セボフト(666/7年没)による天文学文書(659/660年)に、食についての記述がある。

 「この学[天文科学]において高名な人々は、食および星の掩蔽をアタリアーの仕業とする。その語りを確証するために、彼らはそのたぐいの図を描き、アタリアーは竜の形の身体であると述べ、そのため竜や蛇と呼ばれるのだ、とする。その身体の幅は[天球の]24度にわたり、長さは180度、つまり黄道の六宮分、天球の半分にわたる。そのため、その頭と尾が反対側に来て向かい合っているということがすぐにわかる。アタリアーはつねに黄道十二宮を進行しており、頭がある宮に、尾が別の宮に来る。身体の中心部は黄道十二宮全体の「冠」の外にあり、北を向き、「チャリオット」の脇にある。なぜなら、アタリアーは曲がっており、弧のような半円の形になっているからである。……その運動は、惑星のような西から東への運動とは異なり、十二宮と同じように、東から西へと動く。一昼夜に3分11秒、一月に1度33分動き、一年間で19度20分動く。そのため、完全に周回するには18年7ヶ月16日かかる。アタリアーは太陽と月の下にあるので、ある宮のなかで月と太陽が合にあって、その度がアタリアーの頭か尾に一致するとき、アタリアーは月に向き合い、太陽を覆い隠すのである。」*4

 食を起こす竜「アタリアー」の登場である。典型的な宇宙論的食観念だ。(ちなみにシリア語のマイナーな単語だと母音のつけ方がわからないことが多いので、欧米文献では「アタリアー」のほかに「アッタルヤー」や「アトリヤ」といった表記もある。)セウェルスは天文学的食観念が正しいと考えていたので、アタリアーのせいだという物語は、単に「俗説である」と否定されるためだけに紹介されている。とはいえ、無駄に細かく解説してくれたので、何となく宇宙論的食観念における竜のイメージが分かってくるだろう。

 まず、アタリアーの周期は、月の交点の周期と一致する。また、この竜は天球をすっかり取り巻くウロボロス型の怪物ではなく、その半分だけに広がっている。そのため、頭と尾は180度反対側にある。これまた二つの交点の位置と同じである。さらに、言うまでもないが、アタリアーは日食や月食の原因である。しかし、その身体は単に黄道十二宮に広がっているのではなく、真ん中の部分で北を向いているのだという。つまり、全身が黄道に沿っているのではなく、頭と尾の部分だけがそれに掛かっているのである。これは、交点が2つの「点」であり、どこでも食が起きるわけではないという事実に対応している。みごとに全要素が揃った宇宙論的食観念である。

 すでに書いたように、アタリアーというシリア語が、音韻論的にも意味論的にもバビロニア語のアッタルーに由来するということは疑いようがないように思われる。しかし一方で、アッタルーのほうには、それ自体が怪物であるという意味は(現存する文献のどこにも)見当たらない。そのため、おそらく紀元後の西アジアで用いられていた言語のいずれかにおいて「食」と「竜」が結び付けられることになったのだと思われる。ただ、紀元前で廃れてしまったバビロニア語と紀元後7世紀のシリア語文献との間は大きい。それでは、いつから食に竜のイメージが融合したのだろうか。残念ながら、この議論が始まってもう1世紀以上にもなるが、今のところよく分かっていないようである。

 セウェルス以外にも、シリア語文献には何回かアタリアーが登場する。文献学者のジュゼッペ・フルラーニが文献を渉猟して論文にまとめてくれているが*5、残念ながらイタリア語で書かれていたのでちゃんと読めなかった。Google翻訳やイタリア語辞書・文法書などを使って曲がりなりにも意味を取ろうとしてみたが、うまくできてないような気がする。いずれにせよ、どうやらセウェルスほど事細かにこの竜について書いたものはないようだ。

 とりあえずいくつか例を出す。まずは聖書註解テクストである。『マタイによる福音書』などに、イエスが十字架にかけられた場面で日食のような天変があったとの話があり、これが何かを説明するために、何人かのシリア人が食について説明しているところがある。次の一節である。

 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マタイ第27章第45節、新共同訳)

 まず、神学者テオドレ・バル・コーナイが791〜792年に著した『注釈の書』第8部第19章では、次のように説明される。

 「十字架上で起こった暗黒について、どう考えればよいだろうか。これは、太陽に時折起こる偶発事ではなく、我らの主の御力によるものである。太陽が隠れるのは、その月の20日目から30日目に2回であり、太陽と月が同じ[ゾディアックの]宿にある時である。しかし毎年ではなく、7年に1回である。また、月だけではなく、アタリアーによっても起こされる。カルデア人によると、この2つが太陽の下部で一直線にあると、[太陽が]隠れるという。しかし月が暗くなる時は、アタリアーだけで暗くすることができる。何故なら、太陽よりも月の光が鈍いからである。」*6

 ここでバル・コーナイが言いたいのは、処刑のときの異変は日食ではなく神の所業だということであるが、その際、彼が知っていた食のメカニズムについても説明している。まず日食は新月に近い時に(20日というのは、下記イショーダードにあるように29日の間違いだと思われる)、定期的に起こるものである。そして日食は、月やアタリアーのせいで起こる。月食の場合は、アタリアーだけでも起きる(光量が太陽より少ないから)。この註解におけるアタリアーは、月と並べられていることことからして、どうも占星術的食観念に近いように見える。ただ、いずれにしても、ここでは「竜」であることは一言も述べられていない。「カルデア人」由来というのは興味深い。個人的には、次回予定のビザンツの暗黒惑星とともにペルシア由来ではないかと思うが、確証はない。

 9世紀半ばに活動した神学者メルヴのイーショーダードも、新約聖書の福音書註解(第22巻)でこれに触れている。ただ、基本的にバル・コーナイのものを拡張しただけである。

 「太陽は、月の第29日から第30日にかけて、2つの時点で暗くなる。他の人々は、月の第30日に、太陽と月が合にある時、つまり同じ(ゾディアックの)宮に動いた時、日中に暗くなると言う。しかも、これは毎年でさえなく、7年に1回だという。また、月のせいであるだけではなく、同じように太陽の下部にアタリアー[英訳obscurations]が来る時もである。しかし食、いわば隠蔽が月を暗くする時は、アタリアーだけでそれを起こすことが出来る。食(エクレイプシス)は、覆い(カリュプシス)として説明されるのである。……太陽が月やアタリアー[英訳an eclipse]によって暗くなる時、全地ではなく一部分だけが暗くなる。」*7

 バル・コーナイとほぼ同じなので追加コメントは特にないが、「覆い」という説明は、占星術的食観念を補強するのではないかと思う。

 聖書註解以外では、13世紀の大学者バル・エブローヨー(バル・ヘブラエウス、1286年没)もまた、この言葉に触れている。彼の詩歌第38番で、宇宙の構成をうたったところである。

 「動きと時、太陽と月、牡羊座と牡牛座、2つの極、天の川、そしてアタリアーの子」*8

 しかしこれだけでは竜なのかどうかわからない。むしろ「子」(バル)という謎要素が出てきている。家族がいるのか。別のシリア語夢占い文献にも、太陽を覆って食を引き起こす「竜の子」(バル・タルヤー)という表現が出てくるが*9、詳細は不明である。いずれにせよこれもどちらかというと占星術的食観念に近いような気がするがはっきりしない。

 また、別の詩で惑星を列挙するところでも、バル・エブローヨーは「それらしき」ものに言及している。土星木星火星、太陽、金星水星、月の名称をギリシア語とアラビア語で述べたところで、「頭」と「尾」が来るのである。この「頭」は、占星術的には善いときもあれば悪いときもある。「尾」のほうは、しかし常に悪いインフルエンティアしかない。これは明らかに月の交点を惑星と同等の存在とみなす占星術的食観念である。ただ、年代からして(次回以降に登場する)アラビア占星術の翻訳であることは間違いない*10。この場合、「頭」と「尾」は「竜の」というより単なる呼称になっている。

 以上のような有名な学者による文章以外にも、シリア語占星術・天文学テクストには、時々似たような概念が現われる。いずれもアラビア占星術の影響を受けており、時代としてはそれほど古いものではない。まず、11世紀後半にエデッサで書かれたと思われる百科事典*11『全原因の原因の書』第4巻第6章では、「一方の交点は「竜[タンニーナー]の頭」あるいはアナービーバゾーンと呼ばれ、他方の交点、「竜[タンニーナー]の尾」はカタービーバゾーンと呼ばれる」と書かれ*12、また第7章ではわかりやすく図が添えられている*13。総体として天文学的食観念が前提とされており、名称は単なる名称でしかないようである。

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シリア語のタンニーナーは、ウガリト語「トゥンナーン」、ヘブライ語の「タンニーン」、アラビア語の「ティンニーン」と同じく「竜」のことである。アナビバゾンとカタビバゾンはすでに見たように、交点に与えられた特殊用語のことだ。巨大な竜が食を起こすという観念は(残念ながら)見られないものの、ギリシアとアラビアの伝統がシリア語で統合されていることがわかる。

 ジュゼッペ・フルラーニが論考を始めるきっかけとしたヴァチカン所蔵シリア語写本第217番には「太陽を食うアタリアー、あるいは日食についての論考」と題して、時期による日食の予兆が多く羅列されている部分がある*14。さらに同写本の別の箇所には、

 「アタリアーによって起こされる、月の翳り。……月の翳りのことを、学者や哲学者研究者は食と呼ぶ。彼らは、アタリアーは蛇の胴体であると言う。しかし、東方で翳りがあるなら、それは上昇つまりアナービーバゾーンを暗くするのであり、西方でなら、下降つまりカタービーバゾーンである」(余白に「アナービーバゾーンはジャウザフル」「カタービーバゾーンはナウザフル」)*15

 とある。知識人がアタリアーを「蛇」と呼んでいるというのはセウェルスも数世紀前に言っていたことだが、ここでは解説が大いに簡略化され、どういう蛇なのかほとんど分からなくなり、ほとんど神話的食観念に近くなっている。また、この写本の年代は定かではないが、アラビア語文献の影響を受けていることは「ジャウザフル」という言葉が出ていることから明らかである(ジャウザフルについては次回以降)。この点で、このアタリアーにはかろうじて占星術的食観念もかかわっていることがうかがえる。

 しかし、9世紀後半にイーショー・バル・アリーが著したシリア語辞書では、アタリアーの意味は「月が暗くなること」(月食)であるとされ、またハサン・アル・バフルールの辞書(10世紀)でも同様の定義がなされており、「竜」の要素はまったく失われてしまっている*16。紀元後一千年紀のはじめまでには、完全にとは言わないまでも、少なくとも学術的なレベルでは、「竜」という意味で用いられることはほとんどなくなっていたのだろう。そもそも「竜」を表す言葉としては「タンニーナー」が存在するのだ。おそらくアタリアーが「竜」であることは、一部の占星術の伝統でのみ継承されていったのだろう。

 最後に、中央アジアにおける事例を一つ紹介してみる。天山山脈西部にあるチュイ峡谷出土の墓碑銘に「アタリアー」が出てくるのである。日付は1591年で、「アタリアーの年」と書かれている*17。これは日本語で言う「辰年」のことである。中央アジアでは、ほかにテュルク語由来(おおもとは中国語*18の「ルー」も使われることがあったが*19、この事例だと、アタリアーは明らかに「竜」のことを意味している。ただ、今度は「食」のほうの意味が見えなくなっている。

 このように、西アジアのシリア語文献では7世紀から数世紀のあいだ、食を起こす竜についての微妙にずれたいくつかの観念が語られていたようである。しかし9世紀以降になると、それ以前はシリア語が影響を与えていたアラビア占星術の影響が逆に強くなっていき、結局名称だけが残ったようだ。

(次回はシリア語以外でのアタリアーについて)

*1The Assyrian Dictionary of the Oriental Institute of the University of Chicago, vol. 1, A 2, 1968, pp. 505-509.

*2:Stephen Kaufman, 1974, The Akkadian Influences on Aramaic, p. 40.

*3:よくわかる解説としてスコット・モンゴメリ、2016、『翻訳のダイナミズム 時代と文化を貫く知の運動』、大久保友博訳、白水社の第1部参照。

*4フランス語訳F. Nau, 1910, “La cosmographie au VIIe siècle chez lez syriens,” Revue de l’orient chrétien 15, p. 254; フランス語訳の英訳Lucia Bellizia, Of the Judgments on the Lunar Nodes, p. 5.

*5:Giuseppe Furlani, 1948, “Tre trattati astrologici siriaci sulle eclissi solare e lunare,” Atti della Academia nazionale dei Lincei, Classe di scienze morali, storiche e filologiche, Serie Ottava, 2.11-12.

*6:Robert Hespel, René Draguet, 1982, Théodore Bar Koni: Livre des scolies (recension de Séert), II, Mimrè VI-XI, p. 98。このフランス語訳は「アタリアー」を翻訳してしまっているのでフルラーニによるイタリア語訳も参考にした。Furlani, p. 580。

*7:Margaret Dunlop Gibson, 1911, The Commentaries of Isho‘dad of Merv, Volume 1, Translation, p. 112; 英訳はアタリアーを英語にしてしまっているのでフルラーニによるイタリア語訳も参考にした。Furlani, p. 579。

*8:Th. Nöldeke, 1890, “Syrisch-Nestorianische Grabinschriften aus Semirjetschie,” Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft 44, p. 524; Furlani, p. 580-581.

*9:Furlani, p. 583 & n. 1.

*10:Furlani, p. 581.

*11:G.J. Reinink, 1997, “Communal Identity and the Systematisation of Knowledge in the Syriac “Cause of All Causes,”” Peter Binkley (ed.), Pre-Modern Encyclopaedic Texts: Proceedings of the Second Comers Congress, Groningen, 1-4 July 1996, p. 276n5.

*12:Karl Kayser, 1893, Das Buch von der Erkenntnis der Wahrheit oder der Ursache aller Usachen, p. 253; Furlani, p.581.

*13:Keyser, p. 290-291.

*14:Furlani, p. 569-575.

*15:Furlani, p. 576.

*16:Furlani, p. 583

*17:Mark Dickens, 2014, “Syriac Gravestones in the Tashkent History Museum,” Dietmar W. Winkler and Li Tang (eds.), Hidden Treasures and Intercultural Encounters: Studies on East Syriac Christianity in China and Central Asia, p. 33.

*18:Alexander Vovin, 2004, “Some Thoughts on the Origins of the Old Turkic 12-Year Animal Cycle,” Central Asiatic Journal 48.1, p. 127-130.

*19:Dickens, p. 33.

2016-11-11

[]竜の頭と尾を追跡する5 食を起こすメソポタミア怪物たち 01:47 竜の頭と尾を追跡する5 食を起こすメソポタミアの怪物たちを含むブックマーク 竜の頭と尾を追跡する5 食を起こすメソポタミアの怪物たちのブックマークコメント

 さて、第3回までは紀元後数世紀の観念を見てきたが、少し時代をさかのぼってみよう。ここで出てくるのは神話的食観念のほうである。

 食を起こすのが怪物だという伝承は、西アジアだと古代バビロニアにもその一部を確認することができる。古代といってもセレウコス時代(前312〜前63年)の文献なのだが、シュメール語とアッカド語の対訳で『ウトゥック・レムヌートゥ』(シュメール語では『ウドゥグ・フル』)という呪文文書が知られていて、この第16書板に、おそらく月食と思われる記述があるのだ。この文書のタイトルは「悪い精霊」という意味で、全般としては悪霊退散が目的であるとされる*1

 第16書板は、まず7体の悪霊たち(シビットゥ「7」)を紹介するところから始まる。一体目は荒れ狂うシュートゥ(南風)、二体目はウシュムガル(竜)、そして怒り狂うニムル(豹)、シッブ(蛇)、憤怒のラッブ(獅子)、怒濤のアグー(波浪)、悪のシャール(嵐)と続く。さらに、シビットゥは天神アヌの「使者」だということも紹介される。次いで、シビットゥが天空を闇で覆い、暴風や砂塵や黒雲などをともなって荒れ狂う様子が描かれる。エンリルをはじめとする神々が会議を開く様子が描かれた後、月の男神シンになにやら問題が起こり、沈黙してしまった様子が述べられる。110行目ではエンリルが「奴らが天空のただなかでシンを暗くした」と神々に説明するところがあり*2、シビットゥが暴れた結果、月食が起こったことがわかる。これ以降、原典文書は破損しているが、マルドゥクがシビットゥを追い払ったと思われる*3。古代メソポタミアで、これほど詳細にシビットゥが日食や月食を引き起こしていると分かる文書は、ほかには見当たらないようである。ただ、占星術文献『エヌーマ・アヌ・エンリル』(前二千年紀終わり頃?)の第22書板(アッシリア語版。バビロニア語版は第20書板)の終わりの「要約文」に、この神話をほのめかす文章が載っている。それによると、「食、破壊、病気、そして死(とともに)――大いなるガッルー[悪霊]、シビッティが、月神シンの前面で妨害になろうとし続ける」*4。ここでは悪霊の名称が一つずつ紹介されることはなく、総称の「シビッティ」のみが有名な悪霊ガッルーとともに登場し、月食を起こすということが書かれている。そのため、蛇や竜が食にかかわっていたかどうかはわからない。なお、この文書で「食」の原語は「アンタル」であるが*5、これはまた次以降の回にも登場します。

 ここに登場する悪霊の一団は、大きく分けると「天候」と「肉食動物」と「蛇」に分けることができる。この三つは、古代メソポタミアを通じて、手のつけられない恐るべき存在に典型的な表現だった。そのため、この一団自体に目立った特徴があるわけではないが、本連載として注目できるのは、ここに「蛇」が入っているということである。天空の蛇が月食を起こしているのである。

 ウシュムガルはシュメール起源の竜の怪物で、古アッカド時代から知られていた。とくに有名なのは創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』に登場するということで、ここでウシュムガルは母神ティアマトの創造した11の怪物の一員とされ、『古代オリエント集』に入っている日本語訳では「狂暴な竜たち」と翻訳されている(第1書板137行目ほか)*6。また、『シカゴ大学東洋研究所アッシリア語辞典』では、「獅子=竜」という訳語が割り当てられている*7。ウシュムガルは、猛毒でもって人々や神々さえ脅かす怪物として(しかし英雄神に倒される怪物として)恐れられていたようだ。そのため、天体危機に陥れる存在としては十分な資格を持っていたと思われる。シッブはウシュムガルに比べると地味で目立たないが、やはり蛇の一種のようである*8。また、当時の医学文書に「シッブに咬まれたときの植物は……」という一節があるらしく、ウシュムガルと同様に、一般的に毒蛇だと考えられていたことがわかる*9

 とはいうものの、ウシュムガルもシッブも、単独で天空と関連付けられていたわけではない。あくまで悪霊の一団としてそのような活動をしていただけである。蛇の怪物が単独で月食にかかわっていたかもしれない資料は、むしろ文字ではなく図像のほうに見られるということが指摘されている。そのうちのいくつかはこじつけに近いが、素人からすると有り得そうなのが、VAT 7851という番号のつけられている資料の図である(セレウコス期のウルク出土。ベルリン古代アジア博物館所蔵)。

 VAT 7851には、全体として3つの図像が描かれている。左側には7つの星(☆)が描かれており、内側に書かれた「ムルムル」というシュメール文字から判断して、これはプレイアデスを表現しているということがわかる。右側には、前脚を掲げて飛びかかろうとする雄牛が描かれている。これには文字が添えられていないが、「天牛座」(今でいう牡牛座に相当する)であろうと考えられている。そして、プレイアデスと天牛座のあいだに、大きな円のなかに立つ男性と、その男性に左手で尾を抑えられ、右手の棍棒で打たれようとしている、ライオン頭の細長い怪物が描かれている。この怪物の尾は、円の内側をぐるりと取り囲んでいるようにも見える。これにもやはり文字が添えられているわけではないが、プレイアデスや天牛座と並んでおり、さらにプレイアデスの星々よりもずっと大きく、三日月か何かのような形もみせているので、これが月を表現しているのはほぼ疑いがないと思われる。

 この図像は以前もこのブログで紹介したことがあるので載せておく。

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 とはいえ、この図像の解釈は、なんといっても図像だけなので、難しい。まず想定できるのは、これは月の表面の模様を表現したのではないか、というものである。現代日本では餅をつくウサギの姿が見えるというのが定番だが、古代メソポタミアでも何かになぞらえることはあったようだ。そのなかにはティアマトや「バシュムの母」が見えるという説明もあった。さらに研究者のポール=アラン・ボリュは、前一千年紀の宇宙論文書にみられる太陽・月の円周の長さと、別の神話にみられる怪物の長さがほぼ一致していることを指摘し、こうした伝承は、「英雄神と戦う怪物の姿を、月面に見ることができる」という観念にまとめられるのではないか、と論じた*10。そしてこうした観念がVAT 7851の図像に反映されている、というのである。ボリュが文書ごとに要素をまとめた表は、以下のとおりである*11。一部説明を加えた。

資料名月面に見える男性=英雄神月面に見える怪物=宇宙的戦闘の竜月/竜の大きさ太陽の大きさ太陽の内側に見える存在
VAT 7851湾曲した武器を手にした神(月面に見える男性)ライオン、あるいは獅子蛇(月の怪物)
VAT 7847(月、60リーグ?)50リーグ
KAR 307ナブー、おそらく短剣を持っている(月面に見える男性)バシュムの母、そしておそらくライオン(月面に見える怪物)60リーグ(月)40リーグバシュム
STC II, pls. 67, 68ティアマト(月面に見える怪物)マルドゥク
AC, Ištar XXVII, 4260リーグ(月)40リーグ
CT 13, 33-34ティシュパク(英雄神)ラッブ(宇宙的戦闘の竜)50リーグ(竜)
KAR 6ネルガル(英雄神)バシュム(宇宙的戦闘の竜)60リーグ(竜)

この表のうち、下2つは怪物退治神話で、VAT 7851は図像のみ、ほかは日月のサイズおよび表面の模様について説明した文献である。「竜」とあるのは必ずしも一般的な意味での竜ではなく、CT13のラッブやVAT 7851の図像、そしてもちろんSTC IIのティアマトは、せいぜい半分かそれ以下しか蛇・竜要素はない。

 いずれにしても、天体を取り巻くほどの巨大な怪物とその数値の対応は見事なものである。とくに怪物が蛇型だとすれば、「取り巻く」という表現も文字通り想像することができるだろう。怪物退治神話のほうには月食に関する要素は見られない。となると、この神話がたとえばセレウコス期になって日月と分かちがたく結びつき、もしかすると食を説明する神話に変貌していたかもしれない。そう考えたほうが、月がプレイアデスや天牛座と並んで描かれている(=それらのそばに月があったとき、何かが起こった)理由としては強いように思われる。直接それを示す証拠は見つかっていないが、紀元後の西アジアにおける食神話と竜との関わりを考えるなら、バシュムや(蛇要素を強めた)ラッブが、神話的食観念の起源に位置していた、と仮定することはできる。

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 ここから先、混乱がないように、「食を起こす竜」の観念について、以下の三つの区別をしておく。

 一つは、文字通り、日食や月食は、天空の竜によって引き起こされるというもので、とりあえずこれを「神話的食観念」とする。

 もう一つは、この竜は月の交点と関係するというものである。これが重要なのは、前に説明したとおり、交点は天球上の180度離れた二点にあるので、竜は必然的に天球の半分にわたって広がる巨大な存在ということになるからである(神話的食観念だと、それほど巨大である必要はない)。これを「宇宙論的食観念」とする。

 最後に、二つの月の交点を、関係はあるけれども別物だとする観念がある。『ケファライア』においてアナビバゾンが二つあるというのがそれである。これを、「占星術的食観念」とする。こちらの場合、宇宙論的食観念と違ってサイズの下限は神話的食観念と同じく「日月と同じ大きさ」となる。ただ、交点という概念が前提となっているのが異なる。この観念は、インド占星術と、そこから派生した密教占星術――九曜――として現在の東アジアでも確認することができる。九とは、伝統的な五惑星に太陽と月を加えた「七」に、月の交点(ラーフ)と彗星(ケートゥ)を足したものである。

 ちなみに、竜とは関係がなくなるが、食は天体の影によるものだという観念は、「天文学的食観念」と呼ぶことにしよう。それともう一つ、「食を起こす竜」からは離れるが、また別の観念も混同されやすいので書いておく。それは「天空に存在する竜」(ドラコ・カエレスティス)全般である。宇宙全体を竜がウロボロス状に取り巻いているとか、星々は天上の竜から吊り下がっているとか、天球を回すのは竜だとか、そういったものである。これは「宇宙論的食観念」と重なる部分が多いので、専門的な研究の中でも同一視されることが多いし(フランツ・キュモンとかサラ・キューンとか)、実際に資料上でも近接しているものはあるが、一応、区別すべきだと思う。

*1:『ウトゥック・レムヌートゥ』の全文現代語訳については、これまで1世紀前のものしか存在しなかったが、今年(2016年)Markham Geller, Healing Magic and Evil Demons: Canonical Udug-Hul Incantationsが出た。ただし、月食にかかわる第16書板については、以前からA.D. Kilmerによる翻訳がJournal of the American Oriental Society 98.4 (1978): 372-373にある。

*2:Geller, p. 525.

*3Cf. Kilmer, pp. 372-373.

*4:John Wee, 2014, “Grieving with the Moon: Pantheon and Politics in The Lunar EclipseJournal of Ancient Near Eastern Religions 14, p. 61.

*5:Geller, p. 524; Wee, p. 61.

*6:「エヌマ・エリシュ(天地創造物語)」『古代オリエント集』、1980、p. 111。

*7The Assyrian Dictionary of the Oriental Institute of the University of Chicago, vol. 20, U and W, 2010, pp. 330-331.

*8The Assyrian Dictionary of the Oriental Institute of the University of Chicago, vol. 17, Š part II, 1992, p. 375.

*9:JoAnn Scurlock, Burton Andersen, 2005, Diagnoses in Assyrian and Babylonian Medicine: Ancient Sources, Translations, and Modern Medical Analyses, p. 365.

*10:Paul-Alain Beaulieu, 1999, “The Babylonian Man in the Moon,” Journal of Cuneiform Studies 51.

*11:Beaulieu, p. 98.