2010年02月01日
■ 河野道代『花・蒸気・隔たり』(panta rhei, 2009年) ― 断想 ―
河野道代
『花・蒸気・隔たり』
2009年11月*2
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昨年末から今年の正月にかけて、その時期に例年どおり生じた若干の余暇を利用して、いくつかの文学作品を熟読することを思いたち、手もとに所持していた河野道代氏の作品をあらためて再読、さらに書誌情報などを調べていたところ、思いがけず、本書が昨年の11月に刊行されたことを知るにいたった。
純度の高い詩文が彫琢され、精緻に配分されていく河野氏の作品は、繊細で明晰なその詩作の営みとあいまってか、これまでのところ相対的に(ただし、単に量的な意味で)寡作の状況にあり、さらに一部の作品の発行部数の少なさなどもあって ― もっとも、これはその作品の物質的な稀少性に呼応しているのだけれども ― いずれにせよ、その作品を手にする機会は、これまでのところ限られていたように思う。
それゆえに、本書の上梓は、詩人・河野道代の作品を心待ちにしていた読者にとって朗報であり、また驚きでもあったに違いない。偶然にこのようなかたちで入手することができたのは幸運であった。
若林奮氏とともに制作された詩画集『花(静止しつつある夢の組織』(1998年刊行)[→ URL]を除くと、詩集として「前作」に位置すると思われるのは、刊行からすでに15年以上が経過した『spira mirabilis』(書肆山田、1993年)である。
『spira mirabilis』に収められたごく一部の詩文を、いくつかの文芸評論のなかで断片的に目にして以来、河野氏の作品は、(この小文では仮に、その作品の経験を差しあたり個人的な判断のかたちで言い表すとすれば、)少なくとも私にとって ― また、河野氏とは異なる文体と文脈において、特有の詩文を著してきた詩人X氏が、ときにある深い意味を込めて書き記すことのある“重い”形容を引用しつつ、いささか断定的に述べるなら ― “真”の芸術あるいは詩と呼ばれる営みが〈何である〉のかということを、またそれはどのような仕方で存在せ〈ねばならない〉のかということを、その詩的な形式と言葉の物質的な効果を透かしてときに暗示してしまう、そのような稀有の出来事、比類なきものの印象 ― 「(なぜ特異なものには普遍的な価値があるか)*3」 ― を刻印する出来事としてあり続けてきた。
*
本書『花・蒸気・隔たり』において形づくられていく「世界」のある位相は、「(その卓絶のゆえに、いみじくも無と呼ばれているもの〔…〕)」にかかわっているように見える。
ときに「無」とも呼ばれるこの出来事、もしくは ―
現れては消えるもの
それら振動を属性とする物影〔…〕
(「風景・移行」)
出現と失踪とを同一の揺らめきとする
ひそかな自律の文脈〔…〕
(「葉・抽象」)
「二様にはたらく」「関係性」を帯びているこれらの事象、より一般化して言えば、「無」と「存在」の同時的な措定というある種の“不可能な”形式を取るこれらの出来事は、「名づけられてなお/意味を割って振れていく」ものであるために、「矛盾」をめぐる標準的な「定理」からは〈韻律的思考〉によって隔てられた「言葉の相のその先」で ― 仮に「彼方へと突き抜けたその先に/うつくしい解法があるとして」 ― ある厳密な詩法のもとに「記述」されねばならない。
明晰な「記述」とおそらくは先‐概念的な「直観」とのあいだを往き来するその詩篇は、「存在」と「無」をめぐる問いの次元を横断しつつ、そこから一群の新たな問いを〈韻律的〉に造形していく。
作品は、その問いを開いたまま、あたかも、「わたし」たちの ― 〈友よ、わたしには友がいない〉という呼びかけのもとに分有されよう、不可能であるとともに可能な〈わたしたち〉の ― 伴行をいざなっている。「冴え渡る光とともに移ろおうではないか/心のない花の/その心のように」。
あるいは、「花を超える/花」のように …… 「そのものの実在と不在とを同音に告げて」いるであろう、そのような出来事の場所、つまりは「物質でしかないわたし」と「そのものの在処」は ―
移ろいゆく
時のかたちに積み重なって
現れているのか
在るのか
(「作品 III」)
ここには、「現象」と「存在」、「物象」と「無」のあいだで「揺れ動く」事象を解析しようとする、硬質の詩作的な問いがある。「在る」ものとその「境界」をめぐるそれらの問いと形象は、『花・蒸気・隔たり』のなかに鏤められた数々の引用のうち、いくつかの言葉によっても示唆されているように、本書における詩作と思考を〈形而上学的〉に導くモティーフでもある*4 。
― 関連ページ ―
![[記 三松幸雄]](http://d.hatena.ne.jp/images/diary/m/m-tz/titleimg.png)


