日本人原理主義下等(5)

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(5)生の極限にいる外国人にとって「反日上等」は迷惑なのか?――では<金嬉老>はどうすればよいのか?――

 それでは、一連の「反日上等」論議について、私自身がどう考えているのかということを述べておきたい。私が何よりも腹立たしく思うのは、「反日上等」というプラカードに象徴されるような「反日」的な主張を行うことは、生命さえ脅かされている外国人――すなわち明日にでも強制送還されかねない「最前線の外国人」――とその支持者にとって至極迷惑である、という問題提起が、反日」的な主張を押し通すことによってしかその生命を守りえない「最前線の外国人」(とその支持者)の存在を、まったく見えなくしてしまっている、ということである。生の極限にいる外国人にとって「反日上等」は迷惑極まりないという合意が「リベラル・左派」の中にさえ成立してしまうなら、いったい金嬉老はどうすればよいというのか?しかも、現代の金嬉老は、裁判員制度という、「市民(=日本人)の健全な常識」が外国人「犯罪者」を文字通り殺しうる牢獄の中に生きているのである(「牢獄」は例えばこんなところにもある。これが刑務所の民営化というやつか?*1)。

 明日にでも強制送還されかねない外国人(だけ)を「最前線の外国人」として想定し、かれらを半ば代弁する形で「反日上等」を批判する人たちは、「日本国家に裁く資格があるのか?」とかつて問い、今も問い続けている、金嬉老とその支援者による必死の訴えに対して、何と答えるのだろう?あるいは、こうした人たちは、金嬉老のことなどもう忘れてしまっているのだろうか?そして、明日にでも金嬉老になるかもしれない無数の「最前線の外国人」たちを、出会う前から忘却の彼方に追いやっているのだろうか?

 もしも、金嬉老のように「民族問題」によって日本人を殺さなければならないところまで追い込まれた外国人について、日本人を殺害することは「反日」の極みなのだから、当人の人権はもちろん生命すら守る必要はないというのであれば、それは「人を殺した者に民族問題を主張する権利はない」という警察の言い分よりタチが悪い。前者の場合は、一方で「「反日」外国人に民族問題を主張する権利はない」と言いつつ、他方で「民族問題を主張する外国人は「反日」である」と言ってのけることができるだから、端的に言って、あらゆる外国人に対して「黙って差別されていろ」と恫喝しているのと同じである。結局のところ、外国人(在日朝鮮人)を「煮て食おうと焼いて食おうと自由」(池上努・元法務省入管局参事官)と言っているに等しい。

 ところで、「反日」(であると日本国家・日本人が表象する)外国人(以下<金嬉老>と表記する)については、人権が抑圧されても仕方ない(もしくは「運動」のために積極的に抑圧するべきである)と考えている人たちにとっても、金嬉老>の人権を守るためには、日本人自身が日本社会を内在的に批判しうる視点を徹底的に掘り下げていく以外にないということは、渋々ながらも了解されるのではないかと思う。ということは、こういうことにならないだろうか?生の極限に置かれている外国人の中には、一方に明日にでも強制送還されかねない外国人がいて、他方に明日にでも金嬉老になりかねない外国人がいる。そのうち後者を守るためには「反日上等」の精神が不可欠なのだが、前者を守るためには「反日上等」はむしろ有害極まりない、と。

 これはおかしくないだろうか?外国人を「親日」としてしか生きられない極限(前者)に追い詰めているものも、外国人を「反日」の限界(後者)にまで先鋭化させているものも、その正体は同じなのに、一方で何よりも必要とされる「反日上等」の精神が、他方では傍迷惑でしかない、などということがありえるだろうか?この理屈はどこかが間違ってはいないだろうか?

 一つの答えとしては、(外国人に日本人と同等の権利を保障しようという普遍的課題からすれば)本来は緊急避難でしかありえない、外国人の「善良」さをアピールする(「かれらはただ日本人の間で穏やかに暮らしたいだけなのに…」)という日本人側の戦略が、いつの間にか常態化し、さらには自己目的化してしまっていることが、上の矛盾を招いていると言えるのではないかと思う。カルデロン一家への支援と処分をめぐって以前書いたように、日本人が非正規滞在者の在留特別許可取得を支援することは、在留特別許可に象徴される日本の入管行政の排他性を問い直すという普遍的な課題の中でこそ初めて意味を持つのであって、在留特別許可への支援それ自体が目的化し、「寛容な日本社会」(を求める私たち日本人)という自己陶酔に転がり落ちるなら、それこそ外国人にとっては「迷惑極まりない」だろう。

 では、なぜ在留特別許可への支援それ自体が目的化するような状況が生じてしまうのかと言えば、一つには当事者(支援者)の余裕のなさということもあるだろうが、最大の原因はやはり日本人原理主義だろうと思う。梶村秀樹は、「私たち(対策委)*2の活動を、エネ・ロス*3とか、さらには政治的課題の追求に妨げになるとすら評した人々」に対して、「私たちは、金嬉老公判に目もくれない政治的な人々を、目もくれないことによって批判すべきではなく、この個別闘争にも影響を及ぼしうるような普遍的課題へのせまり方を一向にしていないことをこそ、批判すべきでしょう」*4と述べている。「政治的な人々」というのは時代的に新左翼のことを指すのだろうが、<金嬉老>の人権に「目もくれない」現代の「リベラル・左派」は、新左翼よりよほど批判に値する。こうした人たちにとっては、<金嬉老>が外国人「支援」運動の妨げになる*5というだけでなく、外国人の「親日化」こそが運動の「普遍的課題」だということにさえなりかねないのだから。

 けれども、繰り返すが、日本国家/日本人が生の極限にまで追い詰めている外国人は、明日にでも強制送還されかねない外国人だけではない。日本には明日にでも金嬉老になりかねない無数の外国人がいる。<金嬉老>は、在日朝鮮人であり、難民であり、もしもあなたが(私も)日本人でなかったら包摂されていたであろう、在日外国人の普遍的な可能性である。そして、明日にでも強制送還されかねない外国人は、明日にでも金嬉老になるかもしれない外国人でさえあると思う。この言葉の意味を理解できない日本人は、自らの社会が外国人に対して強いている絶対的な孤独が、その人の内面をどれほど深く抉っているかということを、知らずに済ませようとしているだけだ。それが日本人自身の人間性をいかに擦り切らせているかということも。

「あなたはなぜパレスチナ難民キャンプに行くのですか?すぐそばに難民キャンプがあるのに。飛行機代も要らない。通訳も要らない。パレスチナの難民キャンプよりもっとひどい状況に置かれた人がここにいるんです」

 P-navi info:「ひとつの地獄からもう一つの地獄「日本」へ」
 http://0000000000.net/p-navi/info/column/200409241924.htm

 「在日特権を許さない市民の会」がその主要な標的として掲げているのが在日朝鮮人である以上、「在特会」に対抗する運動が、<金嬉老>を守るために「反日上等」の精神で臨むのは、まったく正しいことだと思う。むしろ、同じように生の極限に追い詰められている外国人の存在をダシにして、<金嬉老>を運動から切断し、<金嬉老>と連帯しうる人々(外国人であれ日本人であれ)を攻撃している人たちこそ、明日にでも強制送還されかねない「最前線の外国人」の人間性を冒涜していることに気づくべきである。

(次回に続く)

*1:てか「はてな」のが牢獄だったか。このシリーズが終わったら引っ越します。

*2:金嬉老公判対策委員会

*3:時間の無駄(エネルギー・ロス)

*4:梶村秀樹、『梶村秀樹著作集 第六巻 在日朝鮮人論』、明石書店、1993年、p.370

*5:例えば、鈴木のような人間にとってはそうである。鈴木は、自身が関わるNPO/NGOが、「善良」でないことが「判明」した外国人への支援を打ち切ったことについて、さも当然のことであるかのように、本書で述べている。