理趣経と理趣釈と蘇悉地経、とか。

ってわけで、予告どおりお経の話。
っても、もちろん私、哲学科とか仏教系大学とか行ったわけじゃあございませんので、いろいろ読んでの感想的なアレコレです。専門の人から見たらちゃんちゃらおかしいかも知れないけど、まァそこはそれってことで。


で、理趣経と理趣釈の件。
前に出た『密教経典』(講談社学術文庫、以下、引用はここから)読んで考えたことなんですが。
えーとね、阿闍梨最澄に理趣釈を貸さなかったわけなんですが――多分ね、阿闍梨最澄に、理趣経の文言そのものを読んで、自分で考えさせたかったんだと思うのです。
って云うのは、私見なんですが、釈経とか経疏とかって云うのは、ざっくりな喩えで云えば教科書ガイドなんですよ。
今のお子さんたちは、もう教科書ガイドとか見るの全然抵抗ないんだろうなー(だって、毎春新学期になると、教科書ガイド求めてくる親御さんとか子どもさんとかの多いこと!)と思うのですが、私が現役のころには、教科書ガイド見るって、金のある家の頭の悪い子ども、って云うイメージだった――だって、教科書の“ガイド”だよ? 授業中に習うんだぜ? それにガイドがなきゃ駄目ってことは、授業内容が理解できないくらいに頭の出来が残念、ってことじゃねェ? ……まァ少なくとも、私が子どもの頃はそうだったわけさ。今〜ゆとりあたりは知らんけどな!
で、まァざっくり理趣経=教科書、理趣釈=教科書ガイド、って思うとさ、最澄のやったことってのは、授業を受けないで、教科書ガイドだけで勉強しようとしたってことなんだよね。
いやまァ、今のお子さんはそれでいいのかもしれませんが(←いや、ホントは良くないと思う)、仏教ってのはさー……まァある種の哲学なわけで、哲学ってのは自分で考えなきゃだよね? って思うとさ――そう云う科目の“教科書ガイド”って、ぶっちゃけどうなの? って思いません?


まァね、確かに釈経・経疏ってのも大事な部分はあるよ、特に密教で云えば事相(=修法のやり方に関する具体的なあれこれのこと)部なんかはね。
でも、(これは真言・天台方面からは異論のあるところだとは思いますが)事相ってのは、基本理念としての教相があってはじめて意味があるもので、教相だけじゃどうもならんのも事実だとは思うのですが、同時に事相だけでもどうしようもない(印形とか陀羅尼とかだけ覚えたって、ひとつのシステムとしての“修法”には行きつかない)のも本当のことだと思うのです。
でもって、大日経は、理念部分の“住心品”と、それ以外の事相部とに分かれているのですが、理趣経は、はっきり云っちゃうと理念しかないのでした。
だから、理趣釈にはまァ理念部分の註釈と、事相部の具体的なアレコレ、が一緒に書かれているので、確かに“読めばわかる”のかも知れないのです、が。


ただねー、理念部っつーか教相部の註釈って、読むと何かわかったような気になっちゃうんだよね。
例えば、理趣経の“観自在菩薩の法門”に「所謂世間一切欲清浄故、即世間一切瞋清浄。世間一切垢清浄故、即世間一切罪清浄。世間一切法清浄故、即世間一切有情清浄。世間一切智智清浄故、即般若波羅蜜多清浄」と云う節があります。まァ普通に読み下すと「いわゆる世間の一切の欲は清浄なるが故に、即ち世間の一切の瞋は清浄なり。……」とこう云う風になりますね。
しかし、ここを理趣釈で読むと、「“いわゆる世間の一切の欲は〜”とは、これすなわち金剛法菩薩の三摩地なり。……」とかになっちゃうわけですよ。でね、下手に頭のいい人だと、この“金剛法菩薩の三摩地”とは何ぞや、と云う方面に頭が行っちゃって、原文の意味は考えないと思うんだ、多分ね。


でもちょっと待って、この理趣経の原文って、実はかなり凄いこと書いてあるんだぜ。
「世間の一切の垢は清浄なるが故に、世間の一切の罪は清浄なり」とかって、これってつまり、幼児虐待もオレオレ詐欺も殺人も戦争もフクシマも核戦争も、それが昂じて人類が滅んだり地球が消滅したり、あまつさえ宇宙が消滅したとしても、“それは清浄なものである”って云っちゃってるんだぜ! はっきり云ってコレ、例の“十七清浄句”よりもラディカルだぞ!
つまり、“その行為が成ると云うことは、それは「世界」がその行為を許しているからである”って云う、恐ろしいほどの絶対的な肯定なんだよね。これはもう、人間の尺度で量れるものじゃあない。理趣経をまとめたのがどんな人かはわかりませんが、その人マジ天才だと思う。こんな尺度でものを考えたら、人生投げたくなっても不思議はないもん。だって、どんな理不尽も、「世界」に許されちゃってるんだ。“カミサマは何も見ない、何も罰しない”って、そんなの当然だよ、って達観するんだか諦観するんだかそんなカンジで言葉を紡ぐのって、どんな感性なんだろうって思いますよマジ。
この“超‐神の視点”から、また地面の上の“自分”に立ち返って、架空の対話を紡ぎ上げるってのは、並みの神経では無理だ。“世界の絶対肯定”って云う絶望の先に、“それでも智の完成を目指す”って云うのは、どんな気持ちなんだろうか――正直云って、どうもその辺はよくわかんないんですが。


でね、その超ラディカルな一文をさ、理趣釈で読むと、「金剛利菩薩の三摩地なり」で終わっちゃうわけですよ。
って云うか、金剛利菩薩って何だ、その三摩地って何のことだよ、って思って続きを読んでくと、「まさに曼荼羅を建立すべし」からはじまる事相部的な説明があって、何となく、それをやればこの“金剛利菩薩の三摩地”がわかるんじゃないかと思えちゃうんだよね。
でも違う。
阿闍梨が、理趣釈をある一定以上の修業をした人間にしか与えなかったって云うのは、多分、まず理趣経の文の根源的な意味を考えさせたかったからだと思う。
だって「世間一切垢清浄故、即世間一切罪清浄」って、すごい言葉だ。真剣に考えたら、これだけで随分長い論文だって書けちゃうんじゃないかと思う(私は論文苦手なんで書けませんが)。そう云う難しくて多元的な解釈の可能な文を、弟子と師が共同で(その二人だけの)解答を探すって云うのが、(私的解釈における)密教の師弟関係だと思うのです。多分、人によって、この一文から導き出す答えは違っている、それを見極めて、“その弟子にとっての”正しい解答を導いてやる、そうであればこそ、阿闍梨の云ったように、密教は“唯以心伝心”なんだと思うんだよね。だからこそ、それは面授でなくてはならないんだと思うのです。


だけど、最澄はそう云うのわかんなかった、って云うか、文献読めばわかるだろうって舐めてたと思う。
多分最澄は、凄い秀才だったそうだから、理趣釈読んだら何となく“金剛利菩薩の三摩地”も(理趣釈の解釈的に)わかったんじゃないかと思います、が。
それはあくまでも理趣釈を書いた不空三蔵の解釈であって、実際に最澄が出した解答ではないんだよね。密教的には、最澄は不空三蔵の答えをなぞってはいけなかったのに、阿闍梨と一緒に“自分だけの答え”を探さなくちゃいけなかったのに、「理趣釈貸して下さい」って云っちゃった。それに対して、あの長ったらしい「叡山の澄法師 理趣釈を求めるに与うる書」(だよね?)なんてものを書いたんだと思うのです。
でもって、だから“文は是糟糠、文は是瓦礫なり”なんだと思うんだ。あの“文”は、経典そのものではなく、釈経・経疏を指してると思うんですよね。
他人の解釈でわかったような気にならないで、自分の答えを探しなさい、って云うのを、最澄はついにわからなかったんだと思う――で、“新来の真言家は則ち筆授の相承を泯す”とか云っちゃうんだな。あーやだやだ。


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で、もうひとつ、蘇悉地経の件。
天台宗のお寺に行ってはいないのですが、とりあえず国会図書館蘇悉地経(正式には、蘇悉地羯羅経)を見&前半コピーしてきました。
とりあえず、天台宗での蘇悉地経の位置づけはともかくとして、阿闍梨が“律部の雑経”に突っこんだ、ってのは、現品見たらすごく納得。
いや、蘇悉地経って、教相部に当たるところがないのですよ。頭っから“師匠の選び方”とか“場所の選定の仕方”とかがずらずらとあって、その後は個別の修法と陀羅尼とがずらずらずらっとね……うん、これは律部に入れても仕方ないかな、って云うか、これ書いた(訳した?)の善無畏師なんですが、何で中国来たのに全部インドの地名で場所選定とかしてるかなwww っつーか、修法の時に必要な花とかも、全部インドのものなんですがwwwww 中国に来て漢訳してるからには、全部中国にある場所&ものに変換してやれやwwwwwww
って云うのを思っていたら、どうも天台の方々は、これをこのまま使って修法をなさるらしい(by夜の闇の彼方のW大師以下)、って云うか、スリナガルとかに“いるつもりで”って、行ったこともないのにどうやってwwwwwwwww いやいや無理だろそれって云うか、せめて中国の地名ならこう想像のしようもあるだろうけど、インドって(特に平安〜鎌倉期)頭ん中でどんなところ想像してたwwwww って、そっちの方が気になるわwwwwwww


っつーか、蘇悉地経には(前述のとおり)教相部がないわけですが、そこに法華経入れるつもりだったからそれでOKだったの? でも、大日経金剛頂経(台密金剛界系の経典って何だ)と、蘇悉地経法華経で三部、って、それはないだろう、っつーか、蘇悉地経法華経って、やっぱ合わなくね? ってイメージなんですが。
まァそもそも、どうも台密がわかり難いってのは、東密があまりにも整然としてて、胎蔵界=理、金剛界=智、の働きを解釈したもの、って云う説明で、何かなにもかもぴったり収まっちゃうのがいかんのかもしれん……この辺の組み上げ過ぎは阿闍梨の悪いとこだな。萌えに発展しづらいのよ、隙間がないと、って云うのと同じようなフィーリングで、理論が発展しようがないカンジ。理論が、って云うか、理論を発展させようっていう気分が、ってカンジかな?
だからと云って、台密gdgd具合もどうかと思いますがね。っつーか、台密完璧だってんなら、ホントちゃんとした解説書出せ。まァ完璧じゃあないとは思うんだけどね、下っ端大師が組み直しを計る程度には。
結局、法華経には密教は必要ないと思う(法華経読んだわけじゃないから、イメージですよ)し、密教にも法華経は必要ないと思う。思考のルートがまるっきり違うのに、無理無理にワイヤをよじり合わせようとしてるようなカンジと云うか。蘇悉地経は事相部しかないから、これは何とか法華経と合うかもしれないけど、教相部のある大日経金剛頂経は無理だ。
っつーか結局、最澄が密まで欲をかかずに、止観と禅と念仏くらいに留めておけばよかったんじゃ――でもそれじゃあ、天台が安定し過ぎて、鎌倉新仏教は難しかったかな……いやでも、結局は何らかのかたちでああ云うものも出てきたか。どうだろう、どうなんでしょうね?


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とりあえず、散漫なまま考察終了。特に蘇悉地経の方は、何の役にも立たないと思う――私以外には。
しかし、改めて読み返してみても、私、やっぱ理趣経が好きだ。
このお経、一応仏典のくせに、ルネサンス自然魔術≒錬金術的な視点にものすごく近そう。
ヘルメス・トリスメギストスのタブラ・スマラグディナ――“下なるものは上なるもののごとし、上なるものは下なるもののごとし。しかして、万物は一者の適合により一者より来る。なんとなれば、万物は適合によってこの一者に起因すればなり”とか、ミクロコスモスとマクロコスモスの話、って、これって加持祈祷と同じじゃない? まァ厳密には違うんだろうけども。
あと、大般若経の理趣分のことですが、国会図書館で読んだ『大般若経と理趣分』(だっけな?)によると、理趣経の成立が先で、大般若経理趣分は、その後に般若経系の方に理趣を取りこんだので文言がかなり違う、のだとか何とか。元ネタ本、面白そうだったけど、近隣では国会図書館とかしか入ってない上に、古本とかでも結構なお値段でorz 買えませんよ、って云うか、そろそろ流石に本をどうにかしないと床が軋んできたような……いや、でもどれ処分!


うわあぁぁぁ、散漫……
とりあえず、この項終了。次は、お待たせルネサンス。そう云えば、次の『Pen』がルネサンス特集だよね……楽しみ♪