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電気的真丹後蝸牛報

2012-08-28 泉田準城と沼田恵範

 本派本願寺派による北米布教については、常光浩然『日本仏教渡米史』、同『北米仏教史話』、寺川抱光『北米開教沿革史』、ハワイ布教については『本派本願寺布哇開教史』、常光『布哇仏教史話』、比較的最近に翻訳された『ハワイ開教小史』などがある。宇津木二秀の名前を探して、これらの本をひっくり返している内に、面白い話を二つ見つけたが、忘れないよう、メモ代わりにここに書きつけておきたい。

 まず一つは泉田準城である。

 宇津木は大正6年(1917)、薗田宗恵のお伴をしてアメリカへ渡っているが、薗田が渡米した理由はロサンゼルス本願寺派で起こっていた内紛を鎮めるためであった。ロサンゼルスサンフランシスコより若い都市であり、浄土真宗の布教もまだ始まって間もない頃である。この事件については、Duncan Ryûken Williams and Tomoe Moriya eds, Issei Buddhism in the Americas中にAma Michihiro, "The Legal Dimensions of the Formation of Shin Buddhist Temples in Los Angeles"という興味深い記事がある。また常光も『北米仏教史話』中で、この内紛の焦点となっていた泉田準城[じゅんじょう]について、”先覚者そして悲運の人”として取り上げている。

 常光によれば、ロサンゼルス本願寺派が本格的に布教を開始したのは、明治37年7月に泉田が赴任してきてからであり、人口の増加と共に、泉田の羅府仏教会だけでなく、原口浄心の中央仏教会、泉田の元助手の朝喜龍雲の南加仏教会が生まれた。それらが対立していたために、本願寺北米の初代監督だった薗田宗恵を派遣して、彼の権威で一挙にことを収めようとした。薗田は、3名とも辞任させて、その代わりに別の人物を主任とした。これを不服として泉田は東本願寺派に転派した。

 泉田は、ロサンゼルスに着任後、すぐに仏教青年会を組織し、日本人労働者への仕事の斡旋や保育所など、貧困問題に取り組んで、社会事業を積極的に進めていた。金銭的には恵まれず、活動費の不足は妻の針仕事で補いながらの活動であったという。常光の言うとおりならば、泉田は志の高い宗教家であり、本山が(あるいは薗田が)、事情をよく調査して黒白をつけようとせず、「喧嘩両成敗」という安易な決着方法をとったために、腹に据えかねた泉田が本願寺派を後にしたということになる。西本願寺からすれば「裏切り者」となるが、常光の筆致からすると、どうもそういう人物ではない。もちろん、常光自身が西本願寺の進歩的、国際的仏教者の流れを引いているので、好意的な文章になってしまうのだろうが。

 面白いというのは、彼の学歴である。彼は明治26年に文学寮に入学しているが、その年の12月に上京しユニテリアンの自由学院(後に先進学院)に入学している。明治29年に文学寮に戻り、助教授として働いている。となると、この時点で薗田とは縁が出来ていたのかもしれない。それ以上に面白いのは、明治26年10月に杉村楚人冠入学している。そして、同じく明治29年に先進学院を卒業して、文学寮の教師となっている。泉田と楚人冠の先進学院の在学時期はまったく重なる。そうなると二人の間に付き合いがあったのだろうか。彼の社会意識の高さは、このユニテリアンの経験がもたらしたものだろうか。

 さてもう一つ、これも『北米仏教史話』中の話。広島真宗寺院の出身で、アメリカでの仏教伝道を志し、英文仏教雑誌を発行していた沼田恵範という人物についてである。彼は平安中学に入る。この時の校長は、マクガヴァンの面倒を見た渡辺隆勝であった。渡辺は沼田の素質を見抜いて、勉学を兼ねてアメリカへ渡ることができるように開教師補に推薦した。これが認められて、ロサンゼルス(三つ巴が片づいて内田が総長をしていた時期)に渡る。ハリウッドでスクールボーイ(家事手伝いをしながら学校へ通うこと)として住み込んでいた。日曜日ごとにロサンゼルスに町に出て、南カリフォルニア大学に学んでいた留学僧と会話するのを楽しみにしていたというが、この留学僧が二十二[じそうじ]鉄鎧、藤本龍暁、そして宇津木二秀だった。

 沼田はカリフォルニアバークレーに進み、そこを出ると1925年よりPacific Worldという雑誌を発行するが、これは二年間で廃刊。その後、いろいろあって、最終的には精密機械製造業をはじめる。これが精密機器のミツトヨである。事業に成功した沼田は、昭和40年に仏教伝道協会を設立して、ホテルに英訳仏典を贈る運動を始めている。

 それで、宇津木、二十二、藤本と沼田の友情がどうなったのか、沼田は平安中学ではマクガヴァン先生に英語を学んだのだろうか。つまらんことが気になってしまう。

 もとよりメモなので、ここらへんで終えておこう。

 追記。泉田は1932年にTakahashi Takeichiと共著のShinranism in Mahayana Buddhism and the Modern Worldという本を出版している。これについてはAma Michihiroによる論文が以下にある。

http://www.shindharmanet.com/wp-content/uploads/2012/pdf/Ama-Shinranism.pdf

 この「親鸞主義」という語の由来が気になる。ロサンゼルス仏教会をめぐる騒動があった際に、泉田を応援した数少ない西本願寺派僧侶が中井玄道であるが、彼も「親鸞主義」を提唱している。

 追記の追記。予想通りといえば予想通りではあるが、静坐社、小林信子の蔵書目録をあらためてチェックしたら、英語仏教書がかなりの割合を占めていることに気づく。たとえばゴルドン夫人が3冊、Dwight Goddardが4冊、L.Adams Beckが他のペンネームも含めて6冊。今村恵猛のHawaiian Buddhist Annual(1932)、宇津木二秀の英文冊子Shin Sect (1937)とLife of St. Shinran(1937)、中井玄道のShinran and His Religion of Pure Faith (1937)、それに泉田のShinranism in Mahayana Buddhism and the Modern Worldも所蔵されていた。小林は、大谷、龍谷の学僧だけでなく、西本願寺の国際派にも広い人脈があったのか。