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ヤツザキの見たもの聴いたもの無責任評論ブログ。毎週火曜日更新

2006-05-25 恋もする成長もする大地康雄 このエントリーを含むブックマーク

「恋するトマト」(画像をクリック)

  東京 銀座シネパトス、K'sシネマにて公開中

  茨城 各映画館にて公開中

  その後全国順次公開予定




「恋するトマト」というタイトルから、なんとなく石坂啓のマンガを想像していたのだが(それは「夢見るトマト」だった)今作はそんな甘ったるいものではありませんでした。

主演が大地康雄ですから。

その時点でラブコメでもなんでもありません。

そして今作のテーマは

「日本の農業における深刻な嫁不足」

なのです。

ひゃー。石坂啓なんて名前出してすいませんでした!と全力で謝りたくなるテーマだ。



大地康雄で農業で嫁不足、ときくとなんとも堅苦しいものを想像してしまいがちだが、

ところがどっこい、これがすこぶる面白い。

あまりにも嫁が来ないのでフィリピーナに無理やり結婚してくれと頼み、フィリピンに渡るという波乱万丈のストーリー展開もさることながら、大地康雄がとにかくコスプレ七変化をする。

基本は言うまでもなく農夫であるのだが、

嫁候補を呼ぶために催される「ふるさと交流会」の場では女装をするし、

フィリピンに渡って絶望のどん底に立たされた際にはホームレスにもなるし、

かと思えば金ピカの腕時計をはめて「じゃぱゆき」さんを送り込む人身売買ブローカーにもなる。

茨城弁を流暢に喋っているかと思えば、フィリピンでは英語を流暢に操るようにもなるし、45歳のオッサンなのに若い男のようにとまどったりもするのである。

特にホームレス姿は絶品。山谷や隅田川沿岸にいても遜色ない。

こんなにもホームレスになりきることができる俳優は大地康雄以外いないんではなかろうか。

さらに言うと、キスシーンまであったりするのです。

もはやこれは、大地康雄による市原悦子ドラマのようだ。市原悦子もはるかに凌いでいるけれど。やっぱり和製ジャック・ニコルソン



と、書くとなんだよ堅苦しいどころかイロモノ映画じゃねえかよ、と思ってしまうかもしれないが、これはイロモノ映画でもない。

今現在のもっとも大きな問題である「大人以降の親離れ→ひとり立ち」に真正面から立ち向かった力強い作品なのである。

「先祖代々受け継がれてきたもの(この映画の場合は畑)を絶やしてはいけない」

という観念は時代が進み、昔と状況が変わってきた今でも残っている意識で

ことに農家という絶対保守な家に生まれた子供(とくに長男)はこれを守らなければならない傾向にある。

しかし現実には、頭ごなしに言われたことを守ってきた子供ってのはいつまでたっても子供なわけで、いくら畑が相続されようと、いくら農業でがんばろうと中身がないのである。

もちろん農業は尊い仕事ではあるのだが。


「俺は農業しかしらねえ男だから・・・」


とこの映画内でも大地康雄が遠慮がちに告げるシーンがあるが、それはとんでもなくマイナスなことなのだ。結局親や先祖の庇護から出ていない。なぜ自分が農業に従事するのか、の意味を掴んでいない。

とても残酷なことだが、そういう人間(農業に限らず自分がやってることに自分で意味がわかっていない人間)というのはどんなに働いていようと、どんなに偉いことをやっていようと、どんなに優秀であろうと、他人の目には

「薄っぺら」

に見えるのである。魅力ゼロ。

これを和らげるために「素朴な人ね」というような言葉があるわけだが、素朴なんてほめ言葉じゃないのだ実は。「あなたって何にもない人なのね」ということの言い換えなんである。



そういった意味ではこの映画における大地康雄扮する主人公・正男は聞き分けのいい、親思いな45歳であるが、自分の足で世界に飛び出していない、中身のない子供同然なのだ。



その親の庇護の元にいる子供が、簡単に結婚などできるわけがない。

昔はできたのかもしれないが、それはあくまで昔の話である。そして農業はつらいことが多いが、それはあくまでも農業内におけるつらさでしかない。どの仕事にもその仕事なりのつらさがあるのである。これは何も特別なことではない。

だから正男は、フィリピンに渡ってそこで遭遇した出来事から生きていくことのつらさを知るのである。正男の世界は、フィリピンに渡った時点から動き出したのだ。

フィリピンで遭遇する数々の出来事、人、そして経験。どんなに酷い、自分が好かない人間と知り合っても、それは決して無駄なことではない。自分の世界を模索するとはいやなものにも触れることである。



故郷を、親元を遠く離れた異国の地で正男が思う

「人間は、太陽と水と土さえあれば生きていける」

という実感。

これは茨城にいた頃も口にしていたが、フィリピンで発されるこの言葉は重みが全然違う。太陽も、水も、土も、人間がどうなろうとずっとそこにあるのだ。

必要なのはその大地に自分の足で立つということ。

太陽の日差しを自分の体で浴びるということ。

そして、水を自分の手で触れて、汲み上げるということである。

これを知ることができたのは、両親の、先祖代々の「農家の血」なんだろう。畑は守らなければならないという意識なんだろう。親元で農家をやっていたことが土台となってるんだろう。



作物が豊かに実るのは、人間が丁寧に手入れをしてあげるからだけではない。大雨が降ろうと、風が吹こうと、倒れない生命力があるからだ。自然にさらされて初めて強靭に育つのである。

映画内で正男は、フィリピンでは作られていないトマトを作ろうと奮闘する(フィリピンではプチトマトしかとれないらしい)のだが、このトマトも作るまでは土を作ったり、肥料を作ったりと手をかけるのだけれど、スコールの多い気候のフィリピンでは日本のようにうまくは育たない。

それでも豊かに実るトマトは、正男そのものだ。

どんな状況だろうと、どんな年齢だろうと育つものは育つんである。

育とうと心に決めれば。



人の成長ってのは若い人間だけに起こることではないし、ひとり立ちも若い人間だけの通過儀礼ではない。モノを作るってのはおしゃれなもんだけではないし、物語は、映画は、顔形のいい男女だけのもんではない。

そういうすべてがぎっしり詰まった傑作であります。

ここでは書ききれなかったが、日本とアジアの在り方も見所。

何はともあれ大地康雄に拍手。

そして相手役の女性、アリス・ディクソンが美しいのが素晴らしい。

井川遥のようで、伊東美咲のようで、イ・ヨンエのようで、その誰でもない不思議な魅力がある美人なのです。もっと見たい人であるよ。




余談ですが私がタイ行った時は、タイのねーちゃん買ってるおっさんってすべてジェーエー、すなわち○協の人だったけどな。

なかむらなかむら 2007/05/23 22:32 はじめまして、なかむらと申します。ずっと前に書籍「恋愛できない〜」を紹介していただいてありがとうございました。新作というか新商品が大苦戦中で、サンプルをお送りしますので、ブログでレビューしていただきたいなというお願いのコメントをさせていただきました。お手数なのですが、iwa11@siwao.com にメールをいただけると嬉しいのですが。長々とすみません。

もう真っ黒だwwwwもう真っ黒だwwww 2009/07/15 01:23
始める前はホワイトティンコやったけど
今じゃ使い込みすぎて真っ黒になってきたwwww
人気者になるのも困りもんやなー(^^;
こないだ彼女にも「こんな黒かった?」って言われたしw
この仕事はさすがに言われへんわwwwwwwww

http://kpVYWUn.dashinuki.adult-value.com/

じゃぶぁー!!!!じゃぶぁー!!!! 2009/08/18 13:53
やっぱコスしてもらってハ メ るのが一番萌えに燃えるって!!!!!!
昨日はエ○ァの新キャラコスしてもらったもんねー(*´Д`)ハァハァ
興 奮しすぎて無意識に服着せたままパ ン ツ ビリビリに破いてバック突きしまくっちゃったwwww(テヘw)
既に次はハ○ヒで決定してるしwktkが止まらんねぇぇぇwwwwwwwwww

http://kachi.strowcrue.net/Ddxro9X/

2006-05-16 キモ仮面おったまげ国家アタック このエントリーを含むブックマーク

Vフォー・ヴェンデッタ」(画像をクリック)

全国にて公開中



先週は都合により休ませていただきました。

申し訳ございません。



このブログでは単館系映画を取り上げる率が高いので、ハリウッド映画嫌いなのかと思われがちですがそんなこたぁないのです。

ハリウッド映画だろうがなんだろうがおもしろいもんはおもしろい。

とりわけ私は、アメコミ原作の映画が好きなのです。といってもアメコミに対する思い入れはまったくありません。読んだことも殆どない。でも不思議なもんで、あ!これおもしれえ!と思ったハリウッド映画はアメコミ原作ものが多いのだよな。

スパイダーマンは勿論のこと、(映画では)あんまり評判のよくない「X−MEN」も「デアデビル」も好きであります。

でもね、もっとも好きなアメコミ原作映画は「ブレイド」なんです。

「シンシティ」とか気の利いたこと言えなくてごめん。

でもブレイドはかっこいいのだ。

刀と空手で闘う黒人(ハーフヴァンパイア)というだけでたまらんのだ。

あ、よく考えたらマーヴェリックのマンガばかりだな。「ファンタスティック・フォー」は未見だが見たらはまるんであろう。



しかしながら今回取り上げるのはDCコミックスの「Vフォー・ヴェンデッタ」であります。ってマーヴェリックとDCの違いは「ジャンプとマガジンの違いくらいだろう」くらいにしか思っていないんだが。

マトリックス」でおなじみのウォシャウスキー兄弟が脚本を書いた、とか、ナタリー・ポートマン坊主頭になって熱演、だとかは話題になっているが、

この映画の何が一番いいかというと、主人公であるVがとてつもなくかっこいいのである。

グギャー!

なんとかっこいい佇まい!

このお面は「ガイ・フォークス」というもので、もっと見やすい写真が以下のもの。

どこからともなく「キモーイ」という声が聞こえてきそうだ。

ガイ・フォークス」というのは17世紀のイギリスに実在したカソリック教徒で、プロテスタントである国からの度重なる弾圧に耐えかねた末、国会議事堂を爆破しようとしたんだが捕まって死刑になったそうで、それ以来イギリスでは毎年11月5日は「ガイ・フォークス・デイ」とし、ガイ・フォークスの人形を燃やし、花火を打ち上げて国家が転覆されなくてよかったよかったと祝うらしい。(イギリスでは花火は禁止されている)


それを踏まえたうえでストーリーを軽く説明

近未来の世界では第三次世界大戦が起こり、世界は混乱を極めている。アメリカは内戦が今も続き、国としての機能が殆ど損なわれている状態であるが、イギリス独裁国家となっているが故に混乱は起こっていない。

国は街中に監視カメラを設置し、家庭での会話を盗聴し、ニュース番組情報操作を行うことで常に国民を管理している。美術品、音楽、娯楽番組などはすべて禁止という徹底管理社会。

国民もまた、そのような国家に従順に従っているのだった。少しでも国に懐疑的な発言をすればすぐに秘密警察によって逮捕され、刑務所あるいは強制収容所に送り込まれるという、まるでナチスドイツなんである。

特にマイノリティと呼ばれる人種(活動家や左翼者や異教徒、同性愛者など)は見つかれば即処刑。

そんな恐ろしい国家に単独で立ち向かっていくテロリストアナーキストが、この気味の悪い仮面の男、Vなのだ。



Vは裁判所を爆破したり暗殺したりいろいろとテロリストなことをやらかしてくれるんだけど、基本的に武器が

・腰に何本も刺してあるナイフ

・インチキ空手

なのがとにかくかっこいい。

部屋で鎧の人形に向かってフェンシングの練習をしたりもするんだが、それでも使う武器は短いナイフとインチキ空手って!いいなあこのB級ぶり。

ストーリーを見るとかっこいいテロリストのようにも思われるが、テロリストがかっこいいわけがない。スーパーヒーローなわけがない。

そもそも仮面が気持ち悪い。

「なんだその卑怯な手は」と思うようなこともやってしまう。

そして不死身の完全無欠の人間外生物ではなく生身の人間なのだ。

そういう、かっこよくないところがかっこいいんである。(早川義夫の反対ですね)



ちなみに本編は2時間以上あるのだが、Vの素顔は一度も出てこない。常に仮面かぶりっぱなし。それなのに人間的な感情がありありと見えるのは、ヒューゴ・ウィービングの役者としての力量だろう。ちなみに「マトリックス」でエージェントスミスやってた人なのですがね。



そのVに触発されて自分の意志で立ち上がっていくようになるイヴィーを演じたナタリー・ポートマンもまた素晴らしいです。坊主頭になったら凛々しくなっていた。凛とした美しさとはああいうことを言うのだろう。

Vとイヴィーの触れ合いは切ない。禁止された音楽をかけて踊るシーンは泣けました。



というようにB級映画として愛でたくなる要素が満載の映画なんだが、「目の前にある現実を鵜呑みにするな」とか「国家に従順になるな、自分でいろいろ考えろ」などということも伝わってくる映画でもあります。

イギリスに限らず、アメリカも、この日本も、国家だけが強くなっていく一方で個人の権限や自由などはどんどん制限されていくという現実。テロは正しいことではない。しかし、今、現実に起こっていることを「他人事」「どっか他所で起こっていること」と思っちゃいないか?

この世に関係ないことなんてなんもない。

自分で物事を考えさえすれば、自分の中にも「V」がいるということ、あるいは自分もガイ・フォークスのお面をかぶることがあるということに気づけるはず。




原作のコミックでは映画よりもさらに「アナーキズム」「国家に黙って従ってるんじゃねえよ」という意志が強いらしいので、どうにか読みたいんだが、都内の本屋4,5軒回ったのに見つからんかったです。

心底読みてぇ!

国家によって手に入らないように操作されてたらやだな。そんな国家転覆してやる。

榎本榎本 2006/05/18 20:11 原作、上野とか渋谷のまんがの森に売ってるよ!

maaa55maaa55 2006/05/19 09:44 エノモトさん>おお!まんがの森ですかあ!
       飯島愛がCM出てた記憶があるようなないような<まんがの森
       ありがとうございます!今度行ってみますわー

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2006-05-04 オブリガード流れ星ジンガ このエントリーを含むブックマーク

「GiNGA」(画像をクリック)

東京 Q−AXシネマにて公開中

京都 京都みなみ会館 初夏公開予定

沖縄 桜坂劇場 6/17より公開

熊本 Denkikan 初夏公開予定

岐阜 シネマジャングル 初夏公開予定


私の家の近くには弁当工場がある。

皆さんもよくご存知のとあるコンビニの弁当を作っては出荷している。そこの労働者は、詳しくは知らないが外国人労働者が大半を占めていて、これも詳しくはわからないのだがどうやら南米系の人が多いらしい。

工場の前に差し掛かると、労働者の方々とすれ違うことがあるのだが、彼らの話している言葉がスペイン語/ポルトガル語のどちらかだったから。



ちなみに当方、大学時代はスペイン語を履修しておりました。第二外国語なんてのは通常1,2年で終わるもんなんだが、勉学を中途半端にしていたもんで、3年間みっちりだったのですスペイン語。3年時なんか毎週水曜日は4時間弱受け続けていたもんだ。その割には殆ど喋れないのだが。



スペイン語を履修していた19,20の頃に、唐突にボサノヴァ/MPBにはまり、ポルトガル語にも手を伸ばそうとしたもんだった。「ヂィサフィナード」の歌詞を全部覚えたりしておりましたよ。ま、歌詞覚えるも何も歌がどうしようもなく下手で本当の「ヂィサフィナード」(音痴、の意)になっていたけれども。

私がもっぱら聴いていたのはガル・コスタとナラ・レオンエリス・レジーナジョイスそいからジルベルト・ジルあたりだった。

意識的に聴いていたわけではないんだが、60年代末からブラジルに樹立された軍事政権により、音楽をやることが弾圧され、それでも音楽を続けたいがためにヨーロッパの各国に亡命せざるをえなかった人たちの音楽にばかり惹かれていた。

私がMPBにはまった当時、ちょうど「セントラル・ステーション」という映画を見たり、ブラジル人格闘家台頭に驚嘆していたり(レナート・ババルやアローナが好きだった)したので本当に心からポルトガル語が話したかったのだ。

そんなわけで、工場に勤めるブラジルの方々とすれ違う度に「どうにかしてポルトガル語を習いたい」と思っていたものだ。今考えると、実際に実行していたら「語学教えれ通り魔」だ。



工場勤めのブラジル人の方々が、一番輝いていたのは2002年の梅雨頃である。

その頃はブラジル熱も冷めつつあったのだが、私が熱を上げようが下げようがそんなことは関係なく彼らは働いていた。当たり前である。

しかし、この時期の工場に行く道すがらに出会うブラジル人たちは賑やかだった。

皆、サッカーブラジル代表ユニフォームを着て、道端でも大騒ぎなのである。

そう、2002年の6月はワールドカップが日本で開催されていたのだ。

駅から工場までの10分ぐらいの道のりの途中で何度も見かけた、サンバのステップで歩いて早口にまくしたてているブラジル人のおじさんやおばさん、そして私とあまり歳が変わらないであろう若者たちの姿は微笑ましかった。ブラジルが勝ち進み、ついには優勝したのが本当に嬉しかったのだろう。

道端でサンバを踊りだす彼らの足さばきと腰さばきは見事だった。

私はサッカーには興味がない(高校サッカーは除く)が、彼らの姿を見ていて心底うらやましかった。もっとも、会社の同期のおかげでワールドカップ自体は楽しく観戦することができたんだが、六本木や会場やスポーツカフェではなく、こんな東京の東のはずれでもこんなにも軽快に踊る彼らの根っこをぶっとく束ねている何かが、ずっと眩しかった。

おそらくこのような光景は、この時期、日本中のあちこちで見ることができたんだろう。愛知とか、群馬とか、栃木とか、広島とか、その他大勢の地域で。




先日見た「GINGA(ジンガ)」という映画はブラジルサッカーをテーマに、ブラジルの10人の若者の姿を追ったドキュメンタリーである。

サッカーそのものにはあまり興味がないというのは先ほど述べたばかりだが、この映画を知った時、工場で働くブラジル人の方々の、あのワールドカップ優勝の日のサンバのステップを思い出した。

同時期に「ゴール」というサッカー映画が公開されるのも知っていて、そちらはお涙頂戴映画、というか「もうひとつのJリーグ」や「俺たちのオーレ」を連想してしまって絶対見ねぇと思っていたから、この映画もそのようなものだったらどうしようと危惧していたんだが、ドキュメンタリーなんでまあ、見ても損はないだろうと思ったわけである。



実際に見てみて、本当によかったと思う。



この映画は、サッカーをやっている若者だけを10人追っているのではなく、フットサルをやる人、そしてフットバレーをやっている人やカポエラをやっている人もいる。

住んでいるところもリオデジャネイロもいればサンパウロもいるし、同じリオやサンパウロでもファヴェーラ(スラム街)で暮らす者もいれば、高級マンションで暮らす者もいる。

また、リオやサンパウロサントス、サルバドールなどの大西洋沿岸の都市ばかりでなく、アマゾンの奥深くにあるパリカトゥーバでサッカーに興じる者もいる。

男性だけでなく女性もいるし、足がない者もいる。そしてプロで羽ばたく者(ロビーニョファルカン)もいればプロを目指してテストを受け続ける者だっている。

人種だってさまざまだ。黒人もいれば白人もいるし、日系人もいるのだから。

そんなさまざまな彼らが、皆ジンガを持っていて、それに基づいてサッカー(フットバレーカポエラもいるけど)をしている姿がテンポよく繋がれていて、見ていて飽きることがない。



みんな全然違うけど、この上なくブラジル人なんだよな。

全然違うのに、根底に繋がるブラジルターヂ、そしてジンガがありありと見える。



しょっぱな、サンバの映像や街角で踊る人々、そしてサッカーやフットバレー(手を使わないバレーボール)の映像が入り乱れ、「ブラジル人は誰もがジンガを持っている」という文字とナレーションが飛び交うのだが、それを見た時に膝を打つ思いに駆られた。



そうなんだよ、工場勤めの人たちの街角サンバも、ジンガの賜物なんだよな!



ちなみに「ジンガ」とは

もともと、カポエラブラジルの格闘技)の技だそうで、

「揺れるような動きとリズム、表現力を伴ったステップ」

のことらしい。

カポエラはもともと、ブラジルが奴隷制だった頃、手錠で手の自由を奪われたアフリカの奴隷たちが手を使わないで身を護るために編み出した護身術なんだそうだ。もっとも、カポエラには勝敗がないんで、護身術というよりは抑圧された中でのアフリカ系奴隷の自由への身体的表現という要素が強いらしい。



今は「ジンガ」という言葉は、カポエラの技を離れて、サッカーでいえば足腰を使ってリズミカルに行われるフェイント、そして一般的には

「人間がもっている楽しみを追求する本能のこと、言葉を使わないで相手とコミュニケーションをとる魅力的な動き」

だそうで、私にとってはあの工場の人たちの街角サンバだが、一番わかりやすい例だとテレビで時たま繰り広げられるマルシアの踊りだろうか。



この映画の若者たち、うちの近くの工場の人たち、マルシア、プライドのリングを賑わせているブラジル人格闘家たち、そしてMPBやボサノヴァ音楽家たちを見ているとジンガというのは軽快なあの、踊るような動きのことだけではないということもよくわかる。



どんな状況下でも、絶望せずに、今を生き抜くという意志。

明日どうなるかわからない状況であっても、こんなにも楽しく生きることができるということ。

何もなくたって、何かが足りなくたって、今あるすべてのことでやりきっていこうという精神的な強さ。

今を生きられれば、きっとそのうちいいことがあるさ、という希望。

ジンガってのは人生哲学なんだろうな。



本編を彩るスピーディな映像もさることながら、大音量で流れる音楽が素晴らしい。

ひとりひとりの若者によってクローズアップされる音楽も違うので、サンバだけでなく、ロック、ボサノヴァヒップホップレゲエファンクとさまざまなブラジル産の音楽がてんこ盛り。ファンクは、ブラジル的味付けをされたものだなーと思っていたら「ファンキ」というまた違うものらしい。

カポエラの伝統的音楽もあるし、普段あまり聴くことのできないアマゾン奥地の伝統的ダンスミュージック「フォホー」も流れる。

それらが惜しまれることなく大音量で流れるから、映画の最中ずっと体を揺らしっぱなしでありました。

その音楽に乗って実際に踊ったり、踊るようにサッカーカポエラに興じる彼らの姿がまた小気味いいんだ。見ているだけで彼らのジンガが乗り移ってくるようだ。




大音量に乗せてサッカーする姿も普段の生活の姿も、すべてが小気味いい映画でした。

映像そのものもとても雑多なようで、自然でスマート。

ああ、なんかこんな映像見たことあるな、と思い、思い出してみると「ナイキ」のCMと「シティ・オブ・ゴッド」という映画だった。

それもそのはず、本編はナイキが100%出資した映画で、プロデューサーは「シティ・オブ・ゴッド」の監督でした。ただし監督は3人の若手監督らしい。彼らのジンガもカメラ越しに伝わってきた。

これはいい。本当にいい映画だった。

私なんかパンフレットだけでなくサントラもTシャツも買ってしまったよ。

やっぱりポルトガル語習いたいなあ。工場の方々にアタックするかなあ。

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2006-04-26 名前はいらねえけど、ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン このエントリーを含むブックマーク

「“恋愛”できないカラダ 名前のない女たち3」(画像をクリック)

 中村 淳彦・著 宝島社・刊



ここ2週ばかり火曜更新を守っていなくてごめんなさい。

来週こそは持ち直すぞ。



はてなで書き始めて早いもので4ヶ月になります。

最初ははてなダイアリーの形式に慣れなくて苦労しました。今も「より読みやすい工夫」を試行錯誤中であります。はてなダイアリーは自然改行をしてくれるし、ほかの日記/ブログに比べて行間が開いているので読みやすいブログではあるんだが、私の文章ってのはとにかく長いんで


「開いた途端に『うっ』と思う」

「読む気なくす」


とよく言われているのです。

何とかして読みやすくしたい今日この頃。もっとも、そんなこと言う奴は別に読まんでいいよ、と言いたくもなるがね。



そんな読みやすさの追求もさることながら、はてなダイアリーにはプロフィール欄があります。

私は昔から自分のプロフィールを書くのがどうにも苦手なのです。


なぜならば「自分には肩書きがない」から。


自分はごくありふれた労働者で、他人に一言でアピールできるような個性(例:スピリチュアルカウンセラーなど)がない。スピリチュアルカウンセラーという肩書きうらやましいなんて思ったことは生まれてこの方一度もないけれど。

私は、自分が労働者である自覚はあるし、そこにアイデンティティーだってある。ごくありふれた人間である故に他人と共有できる感覚があることが嬉しいし、連帯できるってのが頼もしくてたまらないし、それゆえに見えることや感じることがあることは素晴らしいと思っている。私は一般大衆だ。いや、私が一般大衆なんだ、と言い切ってしまいたいくらいだ。



昔は「私は他人と違う」なんて思っていた時期もありました。皆さんが思うのと同じくらい思っていましたよ。って、その時点で一般大衆なんだけどな。

その時はそんなことはもちろん自覚できなくて、なんでもない自分が恥ずかしくてたまらなかった。肩書きがない自分を呪ったもんだ。何もやってないんだから肩書きなんてできるわけないし、誰かに注目されるだのあるわけがないんだが。

しかし、こうしてwebで自分の思ったこと感じたことを吐露していくうちにそんなものはどうでもよくなったのでした。

そんなものあってもなくても自分は自分だし、自分に驚きだとか怒りだとか、くだらねーだとかおもしれーだとか、そういうことをもたらしてくれるのは自分のあまりにも一般大衆的な生活と感覚だということに気づいたから。

私の周りの世界はくだらなくて、どうしようもなくて、世の中ではさして重要ではない、別になくても一向に構わないようなものだ。でもそれ以外知らないし、その周りの世界がつまらないなんて思ったことはない。これは誇張などではない。

最悪だ最低だと思うことはよくあるし、つまんねーと思うことも実はあったりするけれど、「違う世界に行けばもっとおもしろいのかも」なんてのは思わないなあ。思うのは「夜汽車のブルース」聴いた時くらいだなあ。


余談だが、私は旅好きであるけれど、「よりおもしろい世界を求めて」「現実から逃避するため」の旅などはしたことがない。

そうではなくて、旅先に、遠く離れた土地に自分の感覚を共有してくれる人がいて、そういう人たちと知り合うのが楽しいのだ。で、そういう遠い土地も日常の一部になってしまうのがたまらんのだ。

しかも私の旅って出張多いしね。

出張って仕事(日常)の拡大版だからな。





話がそれた。

で、私ははてなのプロフィールに


>普段はドカチンみたいな仕事

>しかし仕事とは関係のない交友関係ばかり広がっている、一体なんなのかよくわからない人。


と書いております。自分でよくわからない人って書くのはどうなんだ、という疑問はさておき、この「仕事とは関係のない交友関係」について書きたいのです。

私は労働者でありますが、どういうわけかAV業界の方と仲良くさせていただいておるのです。

どういうわけか、って勿体付けすぎだ。今を遡る事6,7年前にAVライターの方と知り合って、その方と仲良くしていくうちにいろんな人と知り合ったのです。何度も書いているけれど人間の縁ってのはよくわからないもんだ。

しかし労働者のわたくし(当時は大学生)がAVライターと知り合いになったのは、今思えば全然偶然なんかじゃないのだ。これこそがナミイおばあ言うところの

「ウティングトゥ カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」

だったんだと心から思う。

AV業界は特殊な業界だと思うけれど、そこにいる人たちは何も特別じゃない人が多い。中にはどうしようもない人もいれば尊敬の念を払う人もいるけれど、私は少なくとも皆生身の、同じような人間として付き合わせていただいている。まあ、私が業界の人間ではないしAVの熱狂的なファンじゃないというのも大きく関係しているんだろうけども。

私はAV業界の方々の生身の人間ぶりが好きだ。

それはたぶん、彼らが「セックス」を生業にしている分、生きることに正直だから。

「セックス」っていうのは生きることそのものだと思うんだよなー

私はセックスなんて全然きれいなもんじゃないと思っている。だって生きることなんて全然きれいなことじゃないからな。どうしようもないことだってあるし、くだらねえことだってあるし、意味がないことだってある。

でも、するんだよ。

私はジョージ秋山「ピンクのカーテン」に繰り返し出てくる


「人間て哀しいよね、セックスしなくちゃならないからだよ」


という言葉に大変感銘を受けているのだけれど、それはセックスしなければならないって言葉が、まんま「生きなければならない」「生きてくしかない」「生きていっちゃう」に聞こえるからだ。

AV業界の人たちは、意識的だろうが無意識だろうが、そういう「避けては通れないもの」と向き合っている。でも本人たちは全然特別じゃないのがいい。


人間なんて皆ちんこもまんこも持ってるんだから、誰だってセックスに興味はあるし、したいとも思うものですよ。

で、実際したりしているのに、その業界に従事している人間を明らかに差別の目で見るのはなんともいただけない。

特にAV業界に籍を置く女性に対する「汚い」「汚れている」感覚は凄まじいものがあるな。(風俗嬢もだが)

私も昔は「なんでAV女優(風俗嬢)をわざわざやるんだろう、こんなにきれいなネーチャンたちが」と思っていたことがあるが、今はまったく思わない。


だってAV女優の人たちって、ものすごく等身大なのだ。


私も女優さんは何人か会って話したことがあるが、本当に、なんの気負いもなく接したことしかないであるよ。年齢が近い方が多いから、考えていることも感覚も、時代背景もすんなりと共有できる。会社なんかの表面上をなぞるだけの女子なんかよりずっと濃い話もできるし、楽しい。

それはたぶん、彼女たちが「セックス」を仕事にしているという時点で常に生きることと向き合っているからだと思う。生きること、あるいは自分と向き合っている人間は、それだけで深い。

「人前で股開いている何も考えていないバカ女」ではない。

「セックスに溺れている安い女」でもない。

何も考えてない女や安い女なんて他所にいっぱいいるからな。(って、女優の中にはそういうのもいるんだろうけどさ)



今回取り上げる「“恋愛”できないカラダ 名前のない女たち3」はAV女優のインタビューを中心に構成されている連載コラムの単行本である。名前のない女たちシリーズはすでに2作出ている。1巻は他人感覚で読んでいたんだが、巻を重ねるごとに「ふーんこんな人たちもいるんだなあ」感覚は見事に消えていった。


ここに出てくる女の子たちは、本当にどこにでもいる女の子達なんである。

彼女たちの生い立ちは不幸なものも多いし、過激な言葉も飛び交うけれど、本当に問題のない家庭なんてどこにもないだろうよ。いわゆる普通の家庭で育っても「父に嫌われていた」だとか「母の顔色を伺ってしまう」なんて問題はいくらでもある。私だって親との関係はいつも悩んでいるさ。その解決法として「セックスしまくる」だとか「セックスを生業にする」だとかが特別で、酷い事のように思われているけれど、そんなことはない。

誰だってまんこがついている限り、彼女たちになる可能性はあるんだよ。

この本に取り上げられている女の子たちになる可能性はないわけではないんだよ。

私だってそうだ。誰も見たくないだろうけどさ。


でも、

「母親とうまくいかない」だとか

「ダメな男ばかり付き合っちゃう」だとか

「寂しくてしょうがない。ひとりになるのが怖い」だとか

「恋愛するのが怖い」だとか

どれも特別な不安ではないし、

セックスしてようが「この世をどうにかしなくっちゃ」と思うことだってあるだろう。決して頭おかしくもないし、汚れてもいない。いや、彼女たちが汚れているんだったら、女はみんな汚れてら。男も言うまでもなく汚れているし、そもそも人間なんて汚れしかいねーよ。



本書は過去3作の中でもっともよかったです。

このシリーズはどうしても著者の主観が強すぎて、「女の子がこんな言い回ししねーだろ」とか「常にエラそうだよなー自分の言いたいこと言わせてるみてーだな」と思わされてきた箇所も多かったが、今回はそんな主観がどうでもよくなる。

それくらい女の子たちの考えていること、感じていることが普通に共有できた。

正直、あまりにも共有できすぎちゃって涙出た回もあったくらいだ。

これは是非とも女性に読んでいただきたいです。そして彼女たちと自分は何も変わらないということを読み取って欲しいよ。

我々は皆「名前のない女たち」という肩書きでぶっとく括られている、と実感していただきたい。




追記

本書の最後に収められている「飛び降り自殺したあるAV男優の物語」が、実は一番グッときました。

人間って哀しいよね、セックスから逃れられないからだよ。って呟かずにはいられない。

電波男」読んでいるような暇があったらこれを読むべきだ。

遠藤遠藤 2006/04/28 11:35 なるほどなー。
とはいえ俺は「電波男」に共感しまくりだったんですが(笑)。

maaa55maaa55 2006/05/04 17:38 いや、「電波男」に匹敵する部分は最後のAV男優の物語だけであるよ
この本自体はそ「電波男」に大共感の人は読まないほうがいいかもなー

ごろごろ 2008/01/12 01:52 セックスしてようが「この世をどうにかしなくっちゃ」と思うことだってあるだろう。決して頭おかしくもないし、汚れてもいない。いや、彼女たちが汚れているんだったら、女はみんな汚れてら。男も言うまでもなく汚れているし、そもそも人間なんて汚れしかいねーよ。

なにこの極論・・・
気持ち悪いな・・・

ヤツザキヤツザキ 2008/05/27 17:54 ああ、クリーンな方からコメント入ってたのか
しらんかった

汚れているのが気持ち悪いと思う感覚は普通だと思うので
その気持ち悪いという感覚を大事にしてってください。

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2006-04-20 今、底にある危機 このエントリーを含むブックマーク


「あの橋の向こうに」(画像をクリック)

 戸梶 圭太・著 実業之日本社・刊




「女の気持ちをリアルに描いた」



と紹介されている恋愛小説は数多存在するし、多くの人に読まれているし、私も過去に何冊か手にとって読んだことはあるのだが、

実は、私はこういう触れ込みで紹介されている小説はあまり読みたくないのだ。

理由は2通りある。



1、全然リアルじゃねーよと思わされるから(8割弱)

2、なんでこんなに生々しいんだよ・・・と閉口させられるから(2割強)



「あまり読みたくない」ってのは前者にあたるものについてであって、実は後者のほうの小説は読みたいところもあるな。ちょっとウソつきました。読んで「うあー古傷がイテェ!私もそんな覚えあったわ」と思いたいものな。マゾか。

全然リアルじゃない恋愛小説ってのは、まあ、相手が病気で余命いくばくもないものだったり、ひょんな出会い(このひょんって言葉が使われているものは大体ダメだ)から始まり、片思い奮闘してハッピーエンドみたいなものだったりいろいろあるが、

「こんなドラマみてーなキレイ事やご都合主義はあるわけねえだろう」

と直感で思わされたら即刻アウトだ。

実際の恋愛ってのは楽しいこともときめきもあるが、大部分がつらい。しんどい。その当時は泣く事も何度もあるが、今思い返してみれば「なんでそんなくだらねえことで泣いたんだろう」と思わされるようなことばかりである。恥をしのんで告白すると、私は「ゲーセンに行きたくない」「ポロシャツを着て欲しくない」だのといったことで泣いたことがある。本当の馬鹿とはこういう人物のことをさす。

 私の例は極端かつ幼稚なものであるが、実際の恋愛って「あなたに会いたくて」泣くだの「ただ顔が見られただけで」幸せだのということはない。「顔が見たい」「あなたに会いたい」なんて聞くと「一途な恋が織り成す美しい行為」のようにも聞こえるが、そのために例えば、真夜中に駆けつけるという行為は次の日の仕事に差し支えるし、タクシー代だってバカにならない。

そして、何よりも相手の都合や迷惑を考えていない。

小説の世界では相手もウェルカムと受け入れてくれるかもしれないが、現実はそうでもないのだ。真夜中の訪問は「うざい」と思われストーカーよばわりされて破綻することのほうがよっぽど多いことだろう。(付き合った時期にもよりますが)

あと「会いたい」や「ただ顔が見たい」は、ずばり「セックスしたい」の言いかえであることも多いので、やっぱり美しいものではないと思うんだよな。

フィクションの世界にそのような現実的な生々しさを求めていない、という声も多いだろうが、私はそういう、目を逸らしてしまいがちな部分を書いている小説に惹かれる。

あるいはみんながキレイ事で隠蔽しているようなことを潔く書いている小説に惹かれる。

恋愛なんてセックスの導入部分だ!とか

そんなのは恋愛じゃなくて性欲だろうよ!とか

性欲を恋愛だと思ってしまうと女は別れ際、修羅になる!とか

彼氏がいる主義ゆえに別れる時の泥沼凄まじい!とか

それこそが女の気持ちをリアルに描いていると思うのだ。

最近では女性作家の描くこういうリアルな小説もたくさんあって、私も大変興味深く読ませていただいている。

男にさんざんな目に遭わされたり、使わなくていい気を使って身を滅ぼしたり、どこから湧いてくるのかわからない妙な行動力に突き動かされて余計なことをしてしまったりしている主人公の姿を見ると、かつての自分や、自分の持っていた感情が自然と投影されて、心から「いてぇ!」と思うものだ。自分のダメな部分を指摘されるのは非常に重要なことである。

しかし、どうしても同調できない部分がある。

それは筆者の「でも、彼女は必死で恋愛しているんですよ」的同情のまなざし部分である。

どんな目に遭おうと恋をしている主人公=女だけは肯定。

私も女なんでこの肯定したい気持ちはわかるのだ。全部ダメなんていったら生きていけない女は沢山居るし、恋をする部分まで否定してしまっては元も子もないというのも納得できる。何よりも筆者自身が女性ということもあって、ダメな恋愛をしている人間を他人事に思えないと思ってしまっているんだろう。

わかるんだが、ここまで過去の行いを、冷水が勢いよく流れ落ちる滝に打たれながら回想し、そこから立ち直るぞ立ち直るぞと修行しているのに、この部分はまるで、その修行後滝から上がったら、ふかふかのタオルと温かいミルクティーを出されて「ハイ、ご苦労様」と言われるようだ。そして尼さんがまるでわが身の様に「わかるわぁ、その気持ち」と言ってくれるかのようだ。どんな喩えだ。

そんな生ぬるさはいらんのである。

男の坊さんに客観的に渇!渇!と叩かれるほうがいい。「お前はダメだ!」「そんなのは恋愛じゃないぞ!肉欲だ!」と言われるほうが脱却せねばという気持ちに駆られる。あるいは滝から上がろうが無視、あるいは皮肉のひとつやふたつ言われるほうがここから這い上がらなければという気持ちになる。マゾか私は。



本日取り上げる戸梶圭太の「あの橋の向こうに」は2003年に発表されたものなんだが、

読んだのが最近なのです。今までなんで知らなかったんだ!と後悔したほどだ。

これまで読んだ中でもっとも「女の気持ちをリアルに描いた」小説です。

女の気持ちどころか、生活や、生態や、どうしようもなさや、勘違いぶりや、激安ぶりや、クズぶりや、何にもなさ加減などもリアルに描かれている。

それを戸梶圭太(言うまでもなく男)が書いているのだからまさに奇跡の一冊である。

まあ、戸梶圭太は女だけでなく人間の生々しいクズ/激安部分を書かせたら右に出るものはないんだけども。



主人公は20代後半のOL。

池袋から1時間以上離れた埼玉のとある町に住んでいて、

仕事は単純な事務だが朝から晩まであって、

同僚はオヤジと暗い女と攻撃的な女でうんざりで、

家族は私のことを何も考えてくれていない。

そして自分は太っていて

男にも相手にされないし、友達も居ない。

通勤電車は臭くてノロくて、

住んでいる町は駅前だけが整備されたけどあとは大したことなくて、

家から駅の間にある橋は巨大トラックが行き交い、自転車は歩道を走ってはいけないんだが

死にたくないので歩道を走るとじじいやばばあが鬱陶しい。



フィクションの登場人物でありながら、こんなにもどこにでもいそうな女なのである。

こうやって羅列していくとまるでノンフィクションのようだ。

ドキュメンタリーのようとも言える。スティーヴィーにも匹敵するクズぶりだ。

一言で言うと「冴えない女」である。

その冴えない女の言動や思考がこれまた冴えなくていちいち素晴らしい。

ゲロくさい満員電車で楽しいこと考えなきゃ、と思って考えつくのが

「もしも宝くじで3億円当たったらどうしよう」

だから。

私の周りにも宝くじ3億円シュミレーションを話す人がいるが、その人がどうであれ、この話題は本当にくだらないと心から思う。私は宝くじを買ったことがないのでこんなことを言う資格はないかもしれないが、当たってから考えろよ!というかそんな夢見るなよ!

あとこの主人公は「具合が悪い」依存症だ。頭痛いだの腹が痛いだの気持ち悪いだのなんだかんだ。

こういうのも身近にたくさんおりますね。こないだも電車の中で見かけました。「そんな人いない!」なんて言い張る奴が居たら吊るし上げてくれよう。

いない、と言う女はおそらく表面的な会話をしておきながらすべてスルーしているのだろう。あるいは馬なのかもしれない。



この冴えない女は、冴えない女のくせに「周りが悪い」と思っていたり、「どうしよう」と言っていながらでも何も変えるつもりはない。

文句だの「どうしよう、ヤバイよね」とは一応言うけれど、大抵流されて、なんだか意志があるような気持ちになっちゃって、でも実は全然なくて、そこでまた「どうしよう」「ヤバイよ」と一応言う。

無気力悪循環。

自分を変えなきゃという気持ち皆無。

食っていく事に関する危機はないのでこういうことになっているんだろうが、それにしても「今の状況やばい」と口では散々言うが今、自分を変えることに対しては梃子でも動かない人ってのも沢山居ます。

これも「こんな人いない」なんて言わせねえぞ。

私も「自分を変えるつもりがない」というのは身に覚えがあって、いやはや、本当にまずいなあと思う次第です。というわけで最近は変化に向けて動き出しているわけですが、この小説を読んでいたら変化しないで今の環境を保とうとする女=すなわち昔の自分がいかに愚かでださくて安い女なのかを見せ付けられているようで、本当に早く這い上がらねばと思わされました。

戸梶圭太は現状に「どうしよう」と言いながらもすぐに「でも、いいよね、周りが悪いんだから」と責任転嫁する女を叱るんでもなく同情するんでもなく「ダッセエ女!」と吐き捨てながら意地悪く見ているだけなのだ。

見られているという行為は本当に堪える。なんとかせねばと思う。

そして、「私はこの主人公とは違う女にならねば」と心から思わされる。

(もっとも、本当に激安な人間って「私はこんなに酷くない」「私はこの人と違う」とか都合いい自己解釈してしまうんだけどな。激しく立ち位置の間違っている女。そういうのに限って小説以上に酷いんだけど。救い様がないんだけど)

何度も書くが、それくらいこの女の激安ぶりはどこまでいっても凄まじい。

しかし、すべてが「ありえねー!」ではないのだ。ありえる/すでに起こっている/経験あることなのだ。

肉欲と恋愛が混同するのは誰にでも起こる現象だし(混同したままの人間のほうが多いくらいだ)、女だってオナニーはする。どうしようもない妄想を膨らますこともある。程度の低いスリルを味わうこともあるし、どうしようもない人だかりの中の人間になってしまうことだってあるだろう。

上記のようなことを戸梶圭太は、前述の「ダッセエ女!ケケッ」という視点で書いてあるので、汚いことと安いことと醜いこととグロいことまみれだ。顔を背けたくなるような描写も数多くある。

しかもそれが全編を通して勢いだけでテンポよく書かれているからすごい。

そして戸梶圭太がよく多用する、意地悪く強調したい部分が大文字/太文字になっているネットの文章のような文体も痛快だ。





ちなみにweb上にアップされている本書の感想文を見ていたら

「卑猥な言葉満載」

「性愛描写がグロテスクなほどすごいので、電車の中で読んでいて途中でページを閉じてしまった」

と書いている人が多かったです。

主人公に感情移入できないだの恋愛小説じゃないだの、女性をバカにしています!などという意見もよく見かけたな。

こういうことを言える人間てのは、激安人間は目に見えないんだろう。戸梶圭太の小説も読まないんだろう。

戸梶圭太はものすごく多作なのに、賞的なものと一切無縁なのが、激安人間を意識の中からシャットアウトの構造と似ているような気がする。いや、一切無縁なところがまたたまらんのだが。

自分の世界から伸びている橋の向こう側は、まさにその激安人間の世界だというのに。地続きだというのに。

自分の中にもある部分だというのに。



それにしても激安人間を自分と切り離している人ってのは、自分の中の激安部分はどうしてるんだろう。

なかったことにしてんのかな。

その、「自分は違う/そんな部分はない」という発想がすでに激安人間の始まりなんだけどな。

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