物語の持つ本質的な残酷さについて:『インポッシブル』

映画館で『風立ちぬ』の予告編を観たのだが、がっつり関東大震災を描くらしい。
今この次期に宮崎駿関東大震災を描く、しかも、ある意味で弟子であり後継者であり自らの分身ともいえる庵野秀明を主人公の声優に起用するということは、どう考えても東日本大震災の暗喩として描く筈だ。もう、考えただけでわくわくする。


一方で、先日スマトラ島沖地震を題材とした『インポッシブル』を観賞したのだが、別のことも考えてしまったよ。
『インポッシブル』は『永遠のこどもたち』で颯爽とデビューしたJ・A・バヨナ監督が、アジアの片田舎で極限状況に置かれた欧米人一家の地獄めぐりという形でスマトラ島沖地震を描いた映画だ。冒頭の津波シーンの迫力は『ヒア・アフター』以上だし、前作でも見せた子役の演出も最高に上手い。何より、地獄のような状況下でこそ光る人間愛や心理描写が美しい傑作だ。
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ただ、こんなことも考えてしまった。


作り手が題材にしたのはあくまでも2004年にカオラックで起きたあれやこれやであって、2011年に福島で起きたあれやこれやでは無い。勿論、「災厄にどう立ち向かうか」とか「離ればなれになった家族」とかいったテーマには普遍性がある。製作中に起こった東日本大震災が映画の出来栄えに何がしかの影響を与えた可能性もあるだろう。
しかし、「スマトラ島沖地震で被災したヨーロッパ人家族のエピソードの映画化」という当初のコンセプトを完遂しきった映画という意味においては、全く関係が無い筈だ。


ところが、2013年の日本に住む人間である我々がみると、『インポッシブル』の製作者が意識したかしていないかどうかに関わらず、どうしたって東日本大震災を連想してしまうんだよね。


これは、映画でも小説でも漫画でもなんでもそうなのだけれど、「物語」とか「作品」とかいったものが現像されたフィルムや印刷された紙やデータの中ではなく、そういったマテリアルと受け手の間にあるものである限り、仕方のないことであると思う。
もっといってしまえば、それこそが「物語」や「作品」の持つ面白さであり、残酷さといったものではなかろうか。


たとえば本作、スゲェと思う描写の一つに、津波襲来後の沿岸部でのシーンがある。
津波に巻き込まれ、ナオミ・ワッツは胸と脚に大怪我を負う。初めてナオミ・ワッツが乳首を出したらしいのだが、常にエロいことを考えている下衆な自分であってもそんなことに思いが至らないくらい凄惨な描写だ。
運良く息子のルーカスと出会い、津波を避けようと内陸部に向かう二人。ここで視点は息子のルーカスに移る。ルーカスがナオミ・ワッツの脚に目を向けると、膝の裏から肉がべろりと垂れ下がるさまが一瞬だけ映る。思わず目を背けるルーカス。観客も目を背けた筈だ。
当初は「単なる子供」の一人でしかなかったルーカスに、観客が共感しはじめていく瞬間だ。これを契機に観客はルーカスの視点で様々なものごとを体験し、ルーカスと一緒に成長していくこととなる。
この後、見ず知らずの少年を助けた後、樹の上で一休みして、ほっと一息ついてまどろむのだけれど、凄いのは、木漏れ日が泥まみれの海水や押し流されたゴミでぐっちゃぐっちゃになった地面を綺麗に照らしたり、死体の上をカニが心地よく歩いたりするシーンが続くんだよね。つまり、「それでも世界は美しい」とか「地獄のような状況でこそ光る美しさ」とかいったシーンが続くんだよ。
これ、同じような描写を、東日本大震災を題材にした日本映画がこの先やるかどうかということを考えれば、『インポッシブル』の凄さが分かって貰えるんじゃないかと思う*1*2


古来より、文学は様々な病や怪我を隠喩として利用してきた。移民はコレラチフスを運び、美少女は白血病を患い、資本主義者はHIVに感染する。生まれ育った田舎を出て戦争に行けば大怪我を負い、片腕や片目を失う。そして怪我を負った若者は成長する。病は烙印や聖痕の象徴であり、怪我や喪失は戦争や近代社会の隠喩であった。そして、病や怪我や喪失は成長に繋がる。
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本作のルーカスも、成長する。当初は見ず知らずの他人を平気で見捨てようとした子供が、他人を助けることに喜びを見出す青年への道を歩む。感動的だ。地震が彼を成長させたのだ。実に感動的な「物語」だ。
だが、映画館を出て、東日本大震災に思いを馳せると、こうも思う。東日本大震災で傷ついたり、肉親や友人を失ったりして、それを糧に成長した子供たちが一杯いる。彼らは自らの成長を幸福と感じているのだろうか。あまりにも情報量の多い現実を、なんとか混乱せずに受け止めるための工夫が「物語」だ。だから順序が逆なのだが、それでも敢えて考えてしまう。ひょっとすると、成長と喪失を天秤にかけた場合、成長しない代わりに、肉親や友人を失わないままでいることの方を幸福と考えるのではなかろうか。地獄のような状況下で光る人間愛はとびきり美しいけども、そもそもそんな状況に置かれないことこそ幸せなんじゃなかろうか。


しかし、それでは映画にならないし、「物語」にならない。喪失と成長の無い「物語」は物語ではない。平穏な日常もひと皮剥けば地獄になりえるし、「物語」は地獄でも倫理や道徳を失わないための予行演習であるともいえる。だからこそ「物語」というものは残酷だし、残酷でない映画に客は入らないばかりか、存在価値が無いともいえる。
「物語」は、本質的に残酷なのだ。


この残酷さを少しでも軽減するために、文学は病や怪我を記号化した。「傷口」と書いた時、そこには漢字二文字が存在するだけだ。
だが、映画は違う。そこには生身の肉体が存在する。映画の中で誰かが転んだとする。それは俳優が演じた演技ではあっても、過去、この世界でその俳優が転んだという物理的事実は存在したのだ。CGや特殊メイクはそういった過去の「事実性」を補完する技術に過ぎない
つまり、たとえよくできたメイクだと知識では分かっていても、感情では違うのだ。事実性や現実性のある肉体損傷や人体損壊をそのままスクリーンに映す映画には、記号で語る文学には無い力がある。肉体や身体が侵された時にこそ、肉体性や身体性を感じるのだ。そして、ナオミ・ワッツの膝裏からべろりと垂れ下がった肉には、その力があった。


後半、この映画を支配しているのは、ナオミ・ワッツの凄惨な傷口や、土気色の顔から滲み出てくる何かだ。この支配から脱するためには、ある意味生き返らなくてはならない。だからこそ、手術のシーンがあのような描写になったのだろう。
しかし、スマトラ島沖地震でも、東日本大震災でも、死んだ人間は生き返らない。失った手足はそのままだし、癒えた傷口は元のままではない。残酷だ。
されどしかし、だからこそ残酷な映画が、もっと観たい。

*1:宮崎駿はあくまでも東日本大震災の隠喩としての関東大震災を題材にしてやりそう

*2:そういや『永遠のこどもたち』でも怖い話を美しい映像で語っていた