まとめに入るのはいつなのか

人生もそこそこになってきたので、編集者的な気質からか、そろそろ「まとめ」のページに入るのはいつなのかを考えなくてはいけないような気がしてきた。しかし「まとめ」をするなら、どんなふうにまとめればいいんだろう。
いにしえの森田公一が言うには(正確には阿久悠か)青春時代も後からほのぼの思うものであり、だいたいいつ終わるとも知れぬものをどうやってまとめるのかという話もある。しかしある程度の年齢になったら「まとめ」を書き出してもいいのではないか。そしてまだ余裕があるなら、さらにまた章を追加しても誰も文句はなかろう。

どんなふうにまとめようかなあ 辞世の句を作ってみるのも良い もしくは一文字で表現してもいいし、画像でもいい 歌ってもいいし、曲でもいい

どんどんつまんなくなっちゃうのかな そういう不安もある 別に無理して最後に面白いことを言いたいわけではないが、願わくば思い出したときニヤリとしてもらえるような、そんなまとめができたらいい。
ほんとそうだったらいいな。

今週のお題「名前をつける」

はてな今週のお題というのがあったので書いてみることにした。そもそも言葉というのはとてもコントローリングなブツである。「風邪だな」と言葉に出した途端、布団を敷いて寝たくなる。言葉によって人間はコントロールされている。だからこそ、名前をつければなんとなくそれはそういうものになってしまう。「花粉症」という言葉が出現してから、飛躍的に花粉症の人は増えた。ペットに名前をつければ、なにか自分とのつながりが出来たような気がする。しかし今日の気分で言えば、名前なんてつけたくありません。コントロールしたくもないし、されたくもない。名無しの根無し草の素敵さをもう一度見つめたい、そういう気分である。
しかし名前をつけるというのが自分の仕事であったりもするし、言葉と離れられない人間の性があるというのも事実なのである。自分の夢も常に言葉が出てくる。歌うことも然りである。歌には言葉がある。歌詞がないインストゥルメンタル音楽と比べると、言葉が加わった歌はアブストラクト性が薄い。どうしても何か意味を持ってしまう。歌詞がすごくいいから音楽が聞かれたものもあるし、余計な歌詞つけやがったなという音楽もある。
むかし聞いた話で、誰だったか忘れたけど作家が自分の子供に擬音を全く教えないようにして育てたと言っていた。その子供がはじめて雨を見たときに、「おかあさん、雨が●●と降ってるよ」(肝心の●●を忘れてしまった…意味なし)その子供が使った擬音がとても美しかったと。既成のものにとらわれず、自由に紡ぎ出された言葉はさぞ美しかったことだろう。でもその言葉も発せられた途端、意味を持つ。人間は結局、言葉にせずにいられない。名前をつけずにいられないんだろうなあ。言葉を持ったことは幸せであり、不幸せである。だからこそ生きてるうちは、「いい言葉」だけを使い続けていけたらいいなあと思う。自分の言葉は、自分そのものだから。

役にたつことばっかり!

これは褒め言葉ではなくて、喜んでいるのではなくて文句を言っているのである。自分にである。
最近、役にたつことばかりに時間を使おうとしすぎている。本棚に並んでいる読みかけ本も気づけば自己啓発みたいなやつばかり。これは非常に良くないような気がする。目的志向すぎるのである。すくすく良い子牛乳すぎるのである。もっと無目的にしてないと非常に自分らしくない。と思いながら、今日は昼間中寝てやった。気づいたら19時だった。ざまあみろのすけである。

ウェスタン三丁目の夕日

しばらく家族全員家をあけて旅に出ることになる。しかし心配なのは、いま飼っている犬を残していかなくてはいけない。そのほかにもどうやら鳥やら、牛やら、カンガルーやらいろいろ飼っているらしい自分。動物を置いていくのがとにかく不安。家を出て振り返ると、自分の家の門がやたらでかくて、しかもバックになぜかアメリカ中西部の切り立った岩山が見える。そして門の前に、お行儀よく馬が立っている。その馬が「大丈夫です」と目で語っている。ああ、そうかこの馬に任せていけばいいや、馬なら安心と思い、出かけていく。

車で出たはずなのに、いつの間にか線路みたいなところを仕事仲間のIさんと一緒に歩いている。私のダンナのお母さんから電話が入り、いまから駅に向かうから、そこで待ち合わせようということになる。線路なのに直角に曲がっているところがあり、こんな角を電車が走れるのだろうかと考えている。

駅に着く。どうやら地元に近い駅のはずなのだが、見たことがない。木造でものすごく古いボロボロの駅舎。その周りをぐるりと取り囲んで、さまざまな露店が営業している。とにかくどの店も昭和。働いている人も昭和。ランニングにステテコとかはいてる。看板とかも昭和。ミシンを置いて営業しているのは仕立て屋かクリーニング屋だろうか。話しかけたいけど、コワモテすぎると思ってやめておく。ダンナのお母さんが言っていた目印「コロコロカレー」の看板がない。「テンカラットダイヤモンド店」の看板もない。でもこの駅で間違いないだろう、近所に競馬場もあるし、とIさんが言うので、とりあえず駅舎の中に入っていく。

地下鉄のホームまで階段で降りていく。いつの間にか、同行者Iさんに加え、小野寺昭がいる。「こんなおじさんで申し訳ない」とか言っている。意味はわからないが、謙虚な人だなあと思う。
地下鉄に乗ると今度は小学生が一緒にいる。私は「いつまで冬休み?」とか聞いてる。「8日まで」と答える小学生に、「おばさんはいつが冬休み?」と聞かれて、「雪が降ったら休みさあ」と妙にかっこつけて答える自分。
Iさんが座席に寝っころがってのびのびしているが、もう少しで降りなくてはいけない。でもいまどの駅なのかがわからない。というかこの路線で、本当に家に帰れるのかもわからなくなってくる。
ものすごい不安になって、とにかく止まった駅で降りる。まったく見覚えない、がらーんとした駅。駅名の表示もどこにもないと思って焦っていると、柱にものすごくでかでかと昔の広告のような書体で、この路線の駅名が並んで書かれている。
「ビリー座キッド」
「締め切りさ大学祭さ」
「カワードボーイ」
「魅惑の呂」
ビリー座キッドの駅名がツボに入って大笑いしていたら目が覚めた。

夢は気合いで見ろ

たまに参加しているワークショップのテーマが夢ということで、「今週見た夢を絵に描いてきてください」と開催2日前に言われる。えーっ最近面白い夢みてないし、あと2日で夢見られるかなと心配になったその夜、見られましたよ、これまたいかれた夢。すごいな夢、気合いで見られるんだね夢。それで下の夢の馬の場面の絵を描いて、事無きを得た。ちなみにそのワークショップで聞いたところによると、この夢の場合、馬は信頼できる相手のことを指しているらしい。

灰色と赤の夢

水辺にある美術館みたいなところにいる。大きくてちょっと古めの建築。
自分のいる部屋の外が灰色のコンクリートと水と一体化した庭のようになっている。
美しい風景。窓の外の景色を眺めながら、何かお題を解いている。
よく見ると外で着物をきた人をモデルに絵を描いている人がいる。
着物を脱いだり、着たりしててそれが気になって
お題がなかなか解けない。しかしいずれにしてもすごくかわいい人だと感銘を受けている。
その場にいたもう1人の女性も気づいて、画家とモデルの話になる。
「結局画家の好みでモデル選んでるから」とか下世話な話だなあと思いながら聞いている。

場面が変わってクライアントのところに呼ばれていくのだが大幅遅刻。
とっくに日が暮れているにも関わらず、着ていく服をゆっくり選んだり、コンビニによったり
していて、雨の中暗い道を急ぐことに。
途中に真っ赤な花火が空に広がる。
クライアントに宿題を出されていて、スクラップブックに挟んであったのを
思い出す。それを道中で考えておかなくてはいけない。
1 はさみのパッケージ パッケージ見本がすごく上手に作ってある このパッケージに沿った
            はさみのネーミングを考える
2 生姜の花と桔梗の花 これはお題だけで、まだ内容がよくわからない
3 映像のタイトルを考える 美しい鯉が猫に食べられていく映像
             ぜんぜんグロくなくてむしろその諦めた表情の鯉がとても綺麗で
             心が洗われるようなので「鯉のあらい」と考えてダジャレかよと
             自分つっこみをいれる

この先もなんかあって結構長編だったと思うのだが、思い出せない。