常夜灯に関する記述(市川市の出版物編)

常夜灯や新河岸について、市川市の出版物ではこれまでどのように記述されてきたかを整理します。調査した資料は以下のとおり。

  1. 「市川―市民読本―」市川市教育委員会、昭和41(1966)年3月
  2. 「いちかわの文化財市川市教育委員会、昭和49(1974)年3月
  3. 「いちかわの文化財市川市教育委員会、昭和50(1975)年5月(2刷)
  4. 市川市文化財要覧 市川の歴史と文化財市川市教育委員会、昭和53(1978)年9月
  5. 「市川―市民読本―[改訂版]」市川市教育委員会、昭和54(1979)年3月
  6. 市川市文化財要覧 市川の歴史と文化財市川市教育委員会、昭和59(1984)年10月(改訂版)
  7. 「市川の歴史と文化財市川市教育委員会、平成元(1989)年3月
  8. 市川市文化財完全ガイド いちかわ時の記憶」平成15(2003)年3月

「市川―市民読本―」1966年

常夜燈 本行徳
 寛永9年(1632)江戸幕府は、下総行徳河岸から日本橋小網町に到る渡船を許可し、毎日明け六ツから暮六ツまで江戸と行徳の間を往復した。
 これは行徳の名産塩を江戸に輸送することを目的としたが、軍事上にも大きな意味をもっていた。
 この長渡船は、文化・文政ごろから旅人の利用が多くなり、とりわけ成田不動尊の参詣路として発展は目覚しかった。
 現在本行徳町河岸にのこる高サ4.31mの常夜燈は、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷講中が、航路安全祈願のため、成田山に奉献したものである。文化9年(1812)の建立。
昭和35年10月7日指定)(pp.347-348)

「いちかわの文化財」1974年、1975年(2刷)

常夜灯に関する記述の部分は、第1刷も第2刷も同じです。

19. 常夜灯(市指定文化財・昭和35.10.7)1基
所在 本行徳1番地先
 高さ4.31mのこの常夜灯は、寛永9年(1632)、江戸幕府によって渡船が許可された行徳河岸から日本橋小網町に、渡船の標識として文化9年(1812)、日本橋西河岸と蔵屋敷講中が航路安全祈願のために成田山へ奉献したものである。
 現在たてられている位置は往事より多少移動しているが、それは昭和45年、堤防拡張工事により移築されたものである。(p.21)

「市川市文化財要覧 市川の歴史と文化財」1978年、1984年(改訂版)

19. 常夜灯 1基(建造物)
指定 昭和35.10.7
所在地 本行徳34番地先
 寛永9年(1632)江戸幕府は、下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで江戸と行徳の間を往復しました。
 これを長渡船と呼び、文化・文政(1804〜1830)のころからは旅人の利用が多くなり、とりわけ成田不動尊の参詣路として目覚ましい発展をとげました。
 現在本行徳河岸に残る高さ4.31mの常夜灯は、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷講中が、航路安全祈願のため、成田山に奉納したもので、文化9年(1812)の建設です。
 昭和45年、堤防拡張工事のために位置が多少移動しています。(pp.30-31(初版)、p.32(改訂版))

「市川―市民読本―[改訂版]」1979年

常夜燈 1基 (建造物)
所在地 本行徳34番地先
指定 昭和35年10月7日
 寛永9年(1632)幕府は、下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、毎日明け六ツから暮れ六ツまで、江戸と行徳の間を往復した。これを行徳船または長渡船と呼び、文化・文政ごろからは旅人の利用が多くなり、とりわけ成田不動尊の参詣路として行徳河岸の発展は目覚しかった。
 現存する常夜燈は高さ4.31メートル、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷講中が、航路の安全祈願のため、成田山に奉献したものである。(pp.352-353)

「市川の歴史と文化財」1989年

タイトルは1978、84年版と同じですが、冊子の大きさやデザインはがらりと変わっています。説明文も大幅に変化しています。

常夜灯
 寛永9年(1632)江戸幕府は下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、その航路の独占権を得た本行徳村はここに新河岸を設置しました。現在残る常夜灯は、この航路安全祈願のために、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷講中成田山に奉納したものです。
高さ4.31m、石造り、文化9年(1812)に建てられましたが、昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置が多少移動されました。
 この航路に就航した船は「行徳船」と呼ばれ、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。行徳特産の塩を江戸に運ぶのが目的でしたが、成田山への参詣路として文化・文政(1804〜1830)のころからは旅人の利用が多くなり、当初16艘だった「行徳船」も幕末期には62艘にも増え、江戸との往来の賑やかさがうかがえます。なお、渡辺崋山の『四州真景図巻』、また『江戸名所図会』や『成田土産名所尽』などの絵画にはこの常夜灯が描かれています。(p.42)

「市川市文化財完全ガイド いちかわ時の記憶」2003年

常夜灯 1基(建造物)
昭和35年10月7日指定
高さ4.31m
実施地(ママ):本行徳34地先
航路の安全を願う
 旧江戸川の堤防沿いに立つ巨大な石灯籠で、文化9年(1812)に建てられました。行徳特産の塩を江戸へ運ぶ「行徳船」の航路安全を祈願して、成田山に奉納されたものです。
 行徳船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)のことです。航路の独占権を得た本行徳村は、この地に河岸を設置。行徳船が毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。
 やがて文化・文政期(1804〜1830)になると、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増え、江戸との往来がますます盛んになりました。
 なお、渡辺崋山の『四州真景図巻』、また『江戸名所図会』や『成田土産名所尽』などの絵画にはこの常夜灯が描かれています。(p.74)

分析は次回。