Hatena::ブログ(Diary)

宇宙塵(ウチュウジン)

2017-09-04

最近ふれ、好きになった作品紹介

08:13

小説部門


中村文則『掏摸』


闇社会に生きる者たちの現実、悲しさや、恐ろしさを、掏摸の主人公を通して描く。すごいドライブ感を持った小説。一気読みせずにいられない、どんどん加速度を上げていくストーリー。僕的には久々に、メディアに広く露出している作品にふれ、世間にはこんな面白い作品がゴロゴロしているのか! と、『目から鱗』後の、インプット期間に入るきっかけを与えてくれた作品でもあります。


森下くるみ『虫食いの家』


私小説的作品。森下さんの文章は『東京荒野』でしか読んだことはありませんでしたが、その根に、自分に対して嘘をつかない姿勢、つまり、読者に対して自分のありのままを提示する姿勢があり、そこに信頼にも似た感情を頂きつつ読み進めました。

『虫食いの家』は、かなりハードな内容ですが、余白感のあるシンプルな言葉でつづられたそれらには、不快な重さはなく、そのしなやかさに驚かされました。それは作者のしなやかさでもあるように思いました。



児童文学部門


はなみねかおる『そして五人がいなくなる』


甥っ子がこの本を、読書感想文の宿題に持って来ていて、僕が隙間で借りて、一時間くらいで一気読みして泣きまくり、です。

物忘れの激しい名探偵のおっさんと、活発な三つ子の女の子が織りなす事件簿。

オープンしたての遊園地を舞台に、犯人が天才少年を次々に予告誘拐するお話。犯人が盗んだものと、子供にとって大切なことは何か? が、重なる瞬間に涙。社会風刺、問題定義が巧み。


はやみねかおる『都会のトム&ソーヤ』


幻のゲームを探す二人の中学生男子。その目的は、自分が世界一のゲームをつくる際に、幻のゲームと自作のゲームが似てしまうことを避けるため。

推理小説のスタイルを取りつつ進む物語。サバイバル能力に長けた、おちゃらけキャラの内人と、頭脳明晰のクールガイ、創也。この二人のコンビが、互いに長所短所を埋め合いながら、ジリジリと幻のゲームとゲームデザイナーの実体に迫る。

こんなに自分に合う作品があるなんて! の衝撃! 二十代の頃、ゲームデザイナーをフリーでやっていた時期の情熱が、フラッシュバックしました。



漫画部門


園田小波チョコミミ


夏休みに姪っ子が泊まりに来て、少女漫画をたくさん紹介してくれたのですけど、どれも作品としてのレベルが高く、刺激になりまくり! 特にこの、『チョコミミ』という四コマスタイルのラブ・ギャグマンガが最高でした!

中二の男女グループを中心にした作品なんですけど、キャラのつくり込み方や、グループ構成の設定・バランス感が突き抜けて素晴らしく、とか、語りたくもありますが、ただ、みんなかわいい、に尽きる。あれだけ個々が濃いのに、誰にも嫌悪感が生まれない系(システム)。


シタラマサコ『おそ松さん


甥っ子には、噂の『おそ松さん』を借りました。「カラ松が一番好きだ」と知り合いの女の子に話したら「カラ松は男子に人気なんですよー」とのこと。わかる! 基本、男のカッコつけは痛いし、滑稽を通り越してギャグ。本人だけが気付いてない様も最高! あ、僕のことか? ビバ・ナルシス!

おそ松さん』のカラ松は、尾崎豊に憧れている設定らしいけど、僕は全然聴いたことがない。けど、時間の概念がどうとか、宇宙の先端がどうとか言っている時点で、その痛さ、面倒くささは、カラ松の類似品。尾崎豊も、たぶん、生と死の哲学だろうしね←こういう一言がカラ松!



詩集部門


最果タヒグッドモーニング


この詩集は、実験精神旺盛な、自身のフレームをまだ知らない芸術作品。最新詩集『愛の縫い目はここ』は、完成されたフレームをステージにして高みに達していた。僕は、荒削りでスリリング、故に広大な、この処女詩集が好きでした。


最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』

今から自殺しようとしてる人の目前に、その高まるテンションに合わせ、自殺に適した状況が展開される様を、最果タヒさんは『自殺』ではなく『他殺』と言い切った。その一行にたどり着いた瞬間、最果タヒさんを好きになりました。



ちんすこうりな『女の子のためのセックス』


この作品が、最高過ぎて、好き過ぎて、はじめて書評というものを、連続的に二つ書かせて頂きました。

詳しくはこちらを↓


『男の子のためのセックス』

http://d.hatena.ne.jp/macromoai/20170803/1501746716


『伝言ゲーム』/『女の子のためのセックス』

http://d.hatena.ne.jp/macromoai/20170805/1501889805




他にも結構色々と、紹介したい作品はあるんですけど、今回はこのあたりで。ではでは。


植岡勇二

2017-08-06

カタワラノ永遠 即興ライブ 2017.7.30『先端』

| 09:42

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『カタワラノ永遠 即興ライブ 2017.7.30『先端』』


先日の東京創造芸術祭、動画がアップされました!

ライブ・3本目の即興『先端』。

『最果て』というテーマで数年やって来ましたが、いつの間にか回り込み、それは『先端』に変わっていました。

未来の宇宙からやって来た『白シャツのドラえもん』こと、植岡勇二と、未来の道具をいじり過ぎて『進化し過ぎたのび太』・織田理史による即興ライブ炸裂! 

よかったら、観てみてください。よろしくお願いします!


ライブレポートはこちら↓

http://d.hatena.ne.jp/macromoai/20170731/1501459621


それにしても、俺の手の握り方とか、輪郭とか、すごいよね。。今日もドラえもんを肉体に憑依させ即興だっ!



&この日のライブ、約30分間のステージを録音した音源があります。

すごく音質が良い訳ではありませんが、もしご興味あれば、データで送らせて頂きますので、欲しい方はメッセージください!


mikromoai@gmail.com (植岡勇二)




『カタワラノ永遠』

https://katawara-no-eien.tumblr.com/

2017-08-05

『伝言ゲーム』/『女の子のためのセックス』書評02

| 08:36

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『伝言ゲーム』/ちんすこうりな詩集・『女の子のためのセックス』書評02


 日本は経済的に豊かな国である。それは、日本より貧しい国を、なるべく表沙汰にならないように搾取するという側面からも成り立っているように思う。そしてその搾取は、日本の富裕層から、日本の低所得層に対しても行われている側面もある。

 日本の様々な企業が、戦争兵器を生産し、それで経済を回している側面があることを、多くの子供たちや、大人たちが、意外と知らない。それは、なるべく表沙汰にならないように、表面はクリーンなイメージで、広告で、隠されているという側面もある。


 僕らは、いや、少なくとも僕という『個人』は、日本という国に住んでいる限り、他国を搾取し、富裕層から搾取されつつ、戦争兵器の生産費に加担している。原発を回し、電気を消費し、それでテレビやネットをつけ、芸能人やマスコミ容認し、広告に洗脳され、商品を買い続ける。


 それを知っているなら、他国へ逃げるなり、経済の輪の中から外れるなりすればいいのかも知れないけれど、僕は、それを知りながら、完全には、それを見ない、見えない、見ようとしない毎日を送っている。当たり前だが、生きることは罪に直結しているな、と思いつつ、またスマホをする。

 日本に暮らすには、ほとんどの場合、日本経済というシステムへの強制参加が求められる。もちろんそのシステムに乗らない生き方もある。しかし、僕にはそれができない。

 何故なんだろう?


 『売春』という言葉ある。

 ある作家は、そのブログ記事で「売春を好きでやっているのは日本くらいで、他国は売春なしに生きられない状況下から、それを行っている」と書いていた。そして、「売春正当化するのはどうかと思う?」「売春する側の根本には、お金の問題があり、そこから逃げられないことが問題」と結んでいた。


 僕は、売春はやったことはないけれど、日本経済のシステムの上で生活している。「金は天下の回りもの」で、僕の使ったお金が回り回ってどこに流れ込むか、どんな悪行に使われるか、また、どんな善行を生み出すのか、僕には直接的にはわからない。

 しかし僕も、日本の経済を回しているのは確かだ。それがネガティブな側面を多々秘めているとしても。僕は、日本という国に身体を売る売春婦のように、その作家のいう、経済の問題から逃げられないし、国に、身体を売り続けて暮らしていく以外の選択肢を想い描けない程、国に飼いならされているのかも知れない。


 それを誰かに指摘され「お前は日本に身体を売るな」「日本に身体を売っておきながら、創作活動を行い、作品を世に出すな」と突きつけられても、正直、困ってしまう現状がある。それを突き付けて来た相手に「あなたも、日本経済を回している以上、売春してますよね?」ってことは言えるけれど、それは互いの救いにはならない。しかし、問題定義がなされた分、そこからの発展性はあるのかもしれない。


 ちんすこうりなさんの詩集『女の子のためのセックス』をもう一度ひも解く。

 そこには、僕のように、日本経済システムという場で、その生活の中で絶望し、でも生きることを選んでいる女の子や、男の子がいる。嘘を重ね、身体を重ねなければ生きれらない人々がいる。

 その姿は、日本経済に加担するすべての日本人のメタファーかもしれない。現実を回している社会システムの負の側面を直視しないことは、嘘を重ねることと同意だし、身体を重ねないければ生きていけないのは、経済に身体を売り、消費活動をしなければ生きてい行けない生活者のそれと同意だ。


 みんな、何かから『逃避』している。しかし著者は、誰よりも『逃避』を直視している。『逃避』している自分や、自分たちの悲しみや寂しさを直視している。

 著者のすごいところは、この『逃避』を極めたところにあるともいえる。誰よりも加速し、その逃避の果てにある自由を、つかみ取ったはじめての現代人が、もしかしたら、ちんすこうりなさんなのかもしれないな、とも感じられる。が、もちろんそれは、なかなか容易なことではないこともわかる。


 この社会に暮らす限り、『逃避』する者は、追われるからだ。だから、ちんすこうりなさんは、加速し続けなければならない。そういう状態に入ってしまった以上、減速や停止は、魂の死と同意であるから。


 詩は、その詩感という余白の中に、多くのものを包み込む力を持っている。ちんすこうりなさんの詩は、その詩感の中に、たくさんの人たちの生活の真実、葛藤、絶望、希望、あらゆる感覚を包み込んでいるように思う。

 この詩集のそんな詩感の中に身をゆだねる時、読者は、詩に包み込まれ、そこに自分を発見し、重ね合わせ、許されるような感覚を覚えることもあると思う。

 それは、この詩集や、詩という文学が持つ特性であると思う。逃げ切ったものだけが提示することができる、それは魂の癒しであり、著者の加速が切り拓いた『道』のようなものでもあるから。

 

 前記した作家が、遠くの国の売春婦たちや、日本の売春の現状を問題定義し、言葉で救いたい、というものわかる。それはある意味、日本や世界の経済システムに対する問題定義とも取れる。

 僕は、抜け出さなければならない。または、システムを変えなければならない。

 しかしそれは、容易ではないであろう。そんな風に、動けない僕を救ったのが、著者の詩集である。

 

 その作家から見れば、著者の詩は、気休めでしかないのかもしれない。その『詩に許された感覚』に、あらゆる人が浸かってしまうことを危惧しているのかもしれない。

 でも、果たしてそれは、本当に不必要なことであろうか?

 

 その作家の思想が、ブログから発信され、世に問題定義し、行く行くは世界を変える可能性もあるかもしれない。言葉とは『伝言ゲーム』的なものであり、その『伝言ゲーム』が語り継がれ、どう膨らむかなんて断定できないから。

 著者の詩が、読者に読まれ、直接的な即効性を持って、読者を救い上げることもあるだろう。読者の現実を変えることもあるだろう。ギリギリのところで生きている人の、死を止めることもあるだろう。詩集もまた、『伝言ゲーム』的なもので、どう拡張するかは誰にもわからない。


 詩集が世で出た時点で、それ自体ひとつの問題定義であると思うし、この詩集に登場する女の子や男の子たちの現実・生活の記述が、世界の視野を広げる可能性も、僕には多々感じられた。果たしてそれは、不必要だろうか?

 その作家の思想と著者の詩、この二つは、これからの時代を変えるにあたって、切っては切れない関係にあると思うのだが、いかがなものか?


 最後に、同詩集の巻頭に配置された『詩』というタイトルの作品を引用して、この書評を結びたい。僕らは、どんなに嘘にまみれても、どんなに人に傷つけられても、生きていくことを選択している以上、この『詩』のようにあるべきだと思うから。

 誰がどう感じようが、この『詩』が僕を救ったという事実の方が、僕という『個人』にとっては圧倒的に重要で、その事実は、誰にも傷つけることはできないし、誰にも傷つけさせない。そういった感覚を、僕は『芸術』だと認識しているから。

 ある詩人が、この『詩』を、著者の『戦闘宣言』だと言った。今はそれが、良くわかる。

 僕は『芸術』と、この作品を守る。

 






わたしにとって

すべては暴力で

わたし

すべての暴力を

受け入れる

そして

なにものも

わたし

傷つけることはできない

2017-08-03

『男の子のためのセックス』:『女の子のためのセックス』書評

| 16:51

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ちんすこうりな詩集

『女の子のためのセックス』書評


『男の子のためのセックス』




言葉とは何だろうか?

心という透明な音楽に、言葉という音色で、一旦形を与えること。


詩とは何だろうか?

そうやって形を与えられた、言葉という殻をまとった心を、もう一度、裸にすること。


詩人とは何だろうか?

言葉を脱がし、心を裸にし、読者の心と直接、性交する人。

読者が、裸の音楽に接した時、そこで交わされる感覚の交換を、射精や受胎を、人は『文学』、または『芸術』と呼ぶ。




  詩




わたしにとって

すべては暴力で

わたし

すべての暴力を

受け入れる

そして

なにものも

わたし

傷つけることはできない




この詩集の中で、僕が一番心を惹かれたのは、巻頭に配置されたこの『詩』という作品だ。それは、何度も繰り返し読んだこの詩集をループさせる、そもそものスイッチであり、シンボルでもあるように僕には映った。


五年前、ある男の子の友人が、人を殺そうというモードに、シリアスに入っていて、僕は言葉で、いかにそれが彼自身に不利益を被るかと言及したことがあった。

詳細は省くし、色々と誤解も生まれそうだが、結果、友人にほんの少しだけブレーキがかかった。しかし、そう簡単に、彼の荒ぶる感情は鎮火する訳がない。最早、身体全体が、嵐の表像であるかのように、荒々しくゆらめいていて見えたし、邪心が充満した空間は、重く歪んで見える程だった。


僕は基本的に、女の子が大好きだ。

男の子ことも好きだが、それは精神的にであって、その好感を、肉体的に絡めたいとは思えない。

男の子の身体には、僕には抵抗があった。

しかし、その時はじめて、男性を、つまり男の子を、射精に導くために何かしらのことをしてあげたいな、と思う自分がいた。


セックスには、暴力的側面が多々ある。

男の子たちは、戦争を勃発させないために、女の子の身体を借りて、無意識的に暴力を振るい、内側で爆発しそうだった暴力性を、中和させてもらってきた。

女の子の身体には、セックスには、男の子の戦争を止め、暴力の牙を抜く能力がある。

暴力をしなやかに受け流す、奇跡的なやわらかさがある。


そんな風に考えていた節もあり、彼の戦争を止めたかったのだろう。

多様な性行為で、力の問題を解決・緩和する類人猿ボノボのように。

しかし僕は、勇気が出ず、

「女の子とセックスしたらどうかな? 女の子の身体は男の子の暴力を、受け流してくれる能力があるように思うから」

とだけ伝え、その場を後にした。

その後、いつくかの展開があり、幸い、男の子は戦争に行かなかった。良かった。


そんな一件もあり、僕は、ちんすこうりなさんの『詩』という作品にみる、セックスの本質に、女の子の本質に、詩の本質に、感動を覚えた。ちんすこうりなさんとのそれは、今までに交わしたどんな詩作品とのセックスをも凌ぐ、感動的なセックスだった。こんなに美しく、互いの全体性を満たすセックスを、僕は知らない。


こんな風に、詩という表現を媒介にしてしか、たどり着けないセックスがある。


僕が知る誰の作品よりも、ちんすこうりなさんの詩集『女の子のためのセックス』を、文学的であり、芸術であると感じたのは、詩でしか高め合えない、読者との感覚の交換を、ちんすこうりなさんという女の子が、きちんと意識し、創作しているからかも知れない。




植岡勇二



リンク:



『性の問題を力で解決するチンパンジーと力に関わる問題をセックスで解決するボノボ

http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/06/1147.html



『新次元(平居謙プロデュース ONLINE JOURNAL)』

第2号では、ちんすこうりなさんの同詩集の批評特集が組まれています。

http://gshinjigen.exblog.jp/

2017-07-31

東京創造芸術祭:『カタワラノ永遠・即興ライブ』

| 09:07

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東京創造芸術祭:『カタワラノ永遠・即興ライブ』無事、終りました。

この芸術祭は、「身体、造形、音楽、映像、等々あらゆる表現を持ち寄り楽しむ祭り」という主題で毎年行われているイベントです。

昨年の一月、『ポエトリースラムジャパン』という、言葉のバトルトーナメントの東京予選で、一回戦敗退したあたりから、ステージの面白味や、ステージにあえて僕が上がる意味がわからなくなり、書き物としての詩の活動などを中心に行っていたのですが、今回、相方の織田理史さんに誘って頂き、出演を決めました。

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音楽家である織田さんとの即興ユニット『カタワラノ永遠』は、最近縁あって知り合いになった織田さんが、僕のWEBサイトを観てくれ「僕も音楽をやっているんですよ」と、互いに曲を交換し合ったことから、その活動の種が生まれました。

『作品』というものは、つくり手の人生が圧縮された物質であり、『作品』を間に入れてコミュニケーションを交えると、瞬間で通じ合えることが多く、それはつくり手としての喜びでもあります。


その数日後、織田さんとはじめて遊ぶことになり、僕らはその遊び場を、立川の音楽スタジオに設定しました。

クールでミニマル、もの静かでしなやかな印象の織田さんが、「スタジオで、爆音で音楽を聴くのではなく、良かったらセッションして頂けませんか?」と、印象とはうらはらな積極的をみせてくださり、僕らは初回から、即興朗読と即興電子音楽セッションを行いました。


織田さんと僕の好みの接点である、ダークな音楽、ダークな側面、絶望を基盤に置きつつも美しさを求める性(かっこつけ過ぎ?)などが重なり合うセッションが、初回からすんなり展開され、僕らはその日からユニットを結成することにしたのです。それが5月中旬。

その後、二回のスタジオを重ね、昨日の本番に挑みました。

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はじめての『カタワラノ永遠・即興ライブ』は、内的感覚として、すべての記憶が、今この瞬間に一瞬で逆流し、それが毎秒毎秒、言葉と音になって時間を生成するかのような、スリリングなライブとなりました。

最近、友達になったばかりのある方が、僕らのライブをとても楽しみにしてくれていました。その方が、ライブ前に送ってくださったメールには「また音源とは違った、肌で感じるようなライブだといいなぁ」とあり、そうか、ライブで音源と同じことをやっても意味がないんじゃないか? という、強烈なフックになりました。


その数日後、馬野ミキさん・チヒロさんが主催する『無力無善寺オープンマイク』に出演しました。

その際、8分間の枠の前半は『語り』、後半は『朗読』というステージを展開したのですが、ある詩人の方が、わざわざ誠意を持って率直に感想をくださり「あなたのステージは前半の『語り』の方が『朗読』より断然面白かったから、モヤモヤが残った」という言葉を与えられ、的を得ているな、と深く心の中で頷くことに。

ギター・大槻拓さんと、2010年から活動をはじめた即興ユニット『古代歌謡』では、すでに400曲近くの即興演奏アーカイブされているのですが、その中でも未だに一番輝いているのは『ステーンド・バイ・ミー』というタイトルの、語りからヘタクソな歌に展開するという形の、『朗読』ではない即興であり、上記の感想をくれた方の、鋭い指摘が強く響きました。

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そんな二つの大きなフックを意識しながらのライブ本番では、観客のみなさん、ひとりひとりを個別に意識し、ひとりひとりに感覚の触手を伸ばしつつ、語り掛け、朗読をし、また語り掛け、朗読をし、という混合的な展開を起こしました。観客の方を『みんな』ではなく『ひとりひとり』と捉えるスタイルは、先日の『TOKYOポエケット』にてライブを行った『URAOCB』さんから学びました。


お客さんからのお題、『空』というワードではじまった一本目の即興。

そこでは、朗読を展開したあと、お客さんのひとりに直接マイクを向け、語り掛け「『空』って何ですか?」という質問を発しました。そのお客さんは「『永遠』」と答えてくださり、次にまた違う方に、同じ質問を投げ掛けました。

質問を受けた男性は、複雑な顔をしたあと沈黙しました。30秒前後の沈黙があり、僕はその沈黙が『空』の答えだと悟り、挨拶し、一本目の即興を終えました。質問を投げ掛けたあとの、沈黙を怖れずに言葉を待つスタイルは、『手創り市』でライター・インタビューを行っていた際に学びました。

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二本目の即興は『夏祭り』というお題を頂きました。

今回の即興は、孤独の素晴らしさを知った狼が、群れからはぐれ、ひとり自分の中の『夏祭り』に入って行くのを、群れの狼が追い掛けるというストーリーです。これは以前、孤独について徹底的に考えていた時期に、『狼を探せ』という『孤独』をコンセプトにした企画雑誌を考えていたことに起因します。

「孤独から逃れようとすることが消費を生む」「祭りは宇宙であるために。身体を言葉を超えるためだけに」など、孤独を愛することによって、宇宙との一体化・祭りを体現していくという即興展開に至りました。

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三本目の即興は、お題はなく、織田さん作・コントロールによる、大画面の映像とのコラボレーションでした。

はじめに、先程このイベントに出演し、現代音楽家ジョン・ケージオマージュとしての曲も演じた、客席の小森俊明さんに語り掛け、僕がライブの感想を彼に語りはじめるところから即興を展開しました。

ピアノを一旦やめ、会場に無音(かすかなに響く音楽)を数分間生み出した小森さんの演出を受けて、気付いたんです。この世界にはもう、無音なんてないんだってことに。頭の中では常に思考が流れていることに。その音は止まらないということに。それは、言葉を発達させ、文明をつくり上げ、テクノロジーの進化を止められない人間の本質のようなものだって」

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こうして展開していった即興ライブでしたが、今回僕がやりたかったことをぶっちゃけて話すと、それは『コミュニケーションというアート』の可能性、その追求です。

他の出演者の方の演目は、全てを観ることができなく、それは残念だったのですが、観させて頂いた演目について言えるのは、作品(時間芸術)という無言の中に、受け手の想像や感情・感覚を宿らせるものだと感じました。

僕は言葉を持って、有言で、それを行う使命にあります。

言葉に『詩感』をまとわせ、そこに感覚的な余白や、開放された空間を空ける。

それが、傍らにある永遠に至る、抜け道だと思っているからです。

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最後に。イベントが終り、主催者の方にご挨拶をした際、「新しかったよ、面白かった」と言って頂けたことが、何よりの成果を表わしているような気がして、嬉しく思いました。

今回、わざわざライブに足を運んでくださったみなさん、ありがとうございました。いつも応援してくれているみなさん、ありがとうございます。

作品とは、『無意識の表像』です。

僕ら『カタワラノ永遠』をイメージしてくださっている、みなさんの無意識が創り上げたのが、今回の即興ライブであり、みなさんの深い無意識があったからこそ、この時間は現象化されたのだと思っています。

ありがとうございました。

最後に、ともに舞台に上がる機会を与えてくれた織田さんへ。

織田さんが僕の後方に座り、音楽を奏で続けてくれたこと。『音』という無意識の領域でずっと通い合っていた感覚を、僕は忘れません。

これからもよろしくお願い致します。


植岡勇二


『カタワラノ永遠』

https://katawara-no-eien.tumblr.com/

『空想ノ楽譜展』とハルくん&名倉くん

| 06:23

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『小説・胡蝶の舟展示会 そりゅうしのうた』『絵本・常夏ピアノ展示会』と、以前、二回ほど企画展を開催させて頂いた秩父ギャラリーツグミ工芸舎・百果店ひぐらしストア』さんにて、ツグミさん家族の次男、ハルくん(小学六年生)が、展示会&演奏会を行いました。


空想楽譜展』


この展示会は、ハルくんの頭の中にある様々な形をした楽譜を展示したもので、どの楽譜も、リズミカルに形状が配置され、特殊なメロディーを奏でていました。

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(↑この楽譜には、ある法則にしたがった秘密が隠されているとのこと。探してみてください)

それは、子供の頃にずっと、頭の中で曲が流れていたことを思い出させてくれたり、『音楽』という言葉が表す本質、『音を楽しむ』というよりは、『音が楽しむ』という感触を受けました。

大人になると、僕らの『人生』という名の『音楽』はまさに前者であり、『音を楽しむ』という、どこか距離を置いた受け身的なスタンスで、世界と対峙しはじめるけれど、ハルくんや、子供の頃の僕たちは、『音』それ自体にぴったりと同化しながら、その瞬間、瞬間をともに『楽しんでいる』。

そんなことを、ハルくんの楽譜や音符を浴び、気付かされました。

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会場には、『手創り市』主催で、『常夏ピアノ・展示会』の展示も担当してくれた、名倉くんも来ていて、終始、どうしようもなく『くだらない』=『ハイセンス』という式が成立したギャグを連発し、ハルくんを交え笑い合っていました。

ハルくんに僕の詩集『うちゅうのうた』を渡すと、「400円! 400円!」と笑いはじめ、それを見た僕らが「ハルくんならこの詩集、いくらで買う?」という質問をしました。するとハルくんは、すかさず「平和円」と答えてくれました。確かに、いまの僕の生活のほとんどは、この『平和円』で回っていますから、その答えは、僕にとって本質的な響きを帯びていました。

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夜六時からは、ハルくんの楽譜から曲をイメージした二人の音楽家の方が、時折ハルくんも交え演奏するという、演奏会も行われました。

僕がハルくんの楽譜を観て、想像したり、聴こえて来たかのように感じた音楽とは、当たり前のように大きな差異がありましたが、後半の曲になるにつれ、音に子供的な余白が感じられ、そこに自分の中の子供を重ねることもでき、ワクワクしながら音を追い掛けました。


帰りは名倉くんと共に、二時間の電車旅。

僕が、「ハルくんの中で鳴ってる音楽と、音楽家の二人にイメージされた曲は、ハルくんにとって近かったのかな? どう思ったかな?」と名倉くんに聞くと「そんなこと、ハルくん考えるかね?」と、まるで子供のような鋭い視点の回答が得られ、ああ、名倉くんは相変わらずだな、と嬉しくもなりました。



植岡勇二


ツグミ工芸舎・百果店ひぐらしストア』

https://www.facebook.com/higurashistore/