シモン・デビューボ続報

 ご好評をいただいているシモン・デビューボについて、詳細です。
 問題となっている論文は、「正論」2002年10月号掲載の「脱・家庭崩壊社会への胎動 フェミニズムの害に目覚めたアメリカリポート」という題名で、米国からの最新レポートというかたちを取っている。著者のエドワーズ博美氏は「メリーランド大学講師」で、経歴には「メリーランド大学アジア学部卒、同大学院心理カウンセリング修士課程修了。カリフォルニアコースト大学心理博士課程在籍。メリーランド大学、セントラル・テキサス大学講師。本職は母親業及び主婦業」。これだけ見ると、米国で学問を究めつつある人だという印象を受けるけれど、メリーランド大学やセントラル・テキサス大学というのは日本校のことだし、カリフォルニアコースト大学というのは遠隔教育の学校。日本にずっと住んでいる人が書いた文章を、まるで米国からのリポートと見せかけている時点でまずちょっとおかしいのでは。わたしはオレゴン州に住みながら日本についての情報もそれなりに集めているけれど、だからといってこちらで「日本リポート」と称する記事を書いたらおかしいでしょ。
 この論文のだいたいの内容は、米国におけるフェミニズムの深刻な「汚染」と、それに気付いて抵抗しつつある民衆という、古典的なサヨク的モチーフの流用。その具体例については一応ソースがあるのだけれど、右派シンクタンクからの引用などばかりで間違った情報や極端に偏った情報をそのまま報告している。以下に具体的に見ていく。

 一昨年十一月、アメリ労働省の要職にあるフェミニスト達は、石油会社テキサコが男女間で不当な賃金差を付けたとして、賠償請求が一切ないにも関わらず女性従業員百八十六人に三千百万ドルを支払うよう同社に命じた。
 労働省の不当な支払い命令は、テキサコのみならず政府と取引のある他の会社にも命じられているとハドソン研究所のエバン・ガー氏は報じている。
 「…同等の給料等級内でも職種内容の違いで給料差があるのは当然の事であるが、労働省の論理は、命懸けで仕事する消防士も、一日中机について仕事する図書館員も同じ給料を支払われるべきである、という事らしい。…」

 ここにはいくつもの間違いや省略がある。まず、支払いを求めたのは労働省の Office of Federal Contract Compliance Programs という部署で、連邦政府が契約する業者に労働基準をきちんと守らせるためのもの。特に女性問題だけを扱っているわけでもないし、フェミニストが集まっているという根拠もない。「賠償請求がない」というのは裁判が起こされていないというだけで、差別的な扱いを訴え出る人がいたからこそ労働省が乗り出したのね。テキサコは労働省の要求が不満なら裁判であらそうこともできたけれど交渉によって支払いを受け入れたのであって一方的に命令されたというのも違うし、何より金額が正確には310万ドルと一桁も間違っている。
 ハドソン研究所というのが保守系シンクタンクであるのは言うまでもないけれど、そこのエバン・ガー氏の言うことはさらにおかしい。テキサコの件では、まさに「職務内容が同じ」もの同士を比べた結果、ほとんど全ての職務カテゴリにおいて女性従業員の給料が低いことが分かったから問題となったのだ。消防士と図書館員のように全く職務内容の違う者同士の給料を比較したわけではない。それなのに、そうした極端なまったく該当しない例を挙げるのは間違っているし、それをそのまま引用するエドワーズ氏も同罪だ。普通に事件について調べれば分かるのに、ガー氏の批判を読んで「これは使える」と内容の確認すらせずに記事に書いたのだろう。

1999年3月には、「マサチューセッツ工科大学サイエンス学部における、女性教授の地位研究」と題する記事が同大学発行の教授向け学校誌に掲載され、アメリカ全土のマスコミ各社は研究の科学的信用性を確認もせずに、「権威ある大学における性差別」として競うように報じた。事の発端は、上記大学のナンシー・ホプキン教授が研究用のスペース拡大を大学側に要求したが却下された事で、ホプキン教授が同じような不満を持っている者が他にいないか一部の女性教授に打診したことだった。
 …
 研究用スペース拡大却下に関して(アラスカ大学のジュディス・)クレインフェルド教授は「女性教授のみならず、男性教授の間でも多分に却下されるもので、判断の基準には教授の経歴年数や研究成果などの諸々の条件が考慮される。却下されて憤りを感じるのは、なにもホプキン教授だけに限らないが、教授はこの憤りを「男女平等」という名目に置き換えて、20%の給料の値上げ、三倍の研究用スペース、その他諸々の特典を手に入れた。…

 ここで引用されているクレインフェルド氏の分析は、文中に示されていないけれども Independent Women's Forum という右派団体によるレポートに記されている。 IWF はフェミニスト団体への対抗策として保守系シンクタンクの資金で設立された「女性」団体で、男性の保守論客がとても口に出せないような極端な「反フェミニスト、反リベラル」な主張を堂々と述べることで知られる。
 ここでエドワーズ氏が避けているのは、「女性教授の地位研究」の論文で示された結論は、発表されると同時にMITの科学学部長(男性)によって受け入れられたということだ。つまり、単にひとつの論文が発表されたというだけでなく、MIT自身が「性差別はあった」と認めている。だからこそ、それだけ大きなニュースとなったのね。
 クレインフェルド氏の指摘の中には、頷ける部分がないこともない。例えば、性差別の有無を調査した研究者グループの半分以上が同大学の女性教授であり、かれらは「差別があった」と結論付けることで個人的に利益を受ける関係にあったという点については、確かに外部の研究者に委託して調査してもらった方が良かったのではないかと思う。あるいは、結論を導き出すために使用したデータのうち、それぞれの教授の給料や研究スペースの面積といった情報が発表された論文では伏せられているという点も、プライバシー保護の観点から言えば仕方がなかったのだと思うけれど、もともと結論に懐疑的な人から見れば「何か隠しているのではないか」という印象を与えたことは間違いない。
 ただ、それらは生きた人々を研究対象とすることの難しさであり、その程度の理由で結論が無効だと決めつけてしまっては社会科学の成果の多くが無効になってしまう。自然科学における実験のような厳密さは欠けていても、学部長が差別の存在を事実と認める程度の説得力はあったのだ。
 ホプキンス教授の給料が20%あがったとか研究スペースが3倍になったとか聞くと何か大幅に女性優遇措置が取られたかのような気がするけれど、要するにこれまで彼女の給料は同じクラスの男性研究者より17%も低く、3分の1の研究スペースしか与えられていなかったということだ。もちろん能力や実績によって差をつけられるのは当然だけれど、MITと言えば科学分野では世界最高クラスのエリートが集まる大学であり、そこで教授にまでなった男女のあいだにそれほどの差があるとは思えない。というか、個別に飛び抜けた才能の持ち主はいたとしても、男女の集団として見たときにそれほど差は付かないだろう。
 …と言いつつ、あんまりエリート過ぎる世界なんで、MITの件は昔からあんまり興味ないです。ごめんナンシー(笑)
 続いて、エドワーズ氏は夫婦別姓推進論者が「多様な価値観」を主張することを批判するために、以下のようなことを言う。

 昨年十二月十三日付ボストン・グローブ紙に,「反逆への道」と題する記事が掲載されていた。ジェフ・ジャコビイ記者は、裕福な家の子として生まれたジョン・ウォーカーがどうしてタリバンのテロリストになったかを彼の成長過程に焦点を当てていた。ジョンの両親は、父がフランク・リンド、母がマリリン・ウォーカーと言い、「多様な生き方」を信奉する別姓カップルだ。彼らは、ジョンが十六歳で高校を中退すると言った時も、マルコムXの自叙伝を読んで突然回教徒になると言った時も、生のアラビア語を習いたいからイエメンに行くと言った時も、ジョンの新しい友人にチェチェンでロシア人相手に戦った兵士がいると知った時も、彼の行動に対して「ノー」とは言わなかった。…そして一つだけジョンに押し付けた価値観があるとすれば、「どんな価値観も押し付けられるべきではない」という価値観だった。

 ボストン・グローブと言えばリベラル系の新聞として知られるけれど、ジェフ・ジャコビイ氏は同氏で唯一の保守系コラムニスト。記者ではない。わたしはこの記事を実際に入手したけれど、エドワーズ氏の引用には明らかにおかしな部分がいくつもある。まず、このコラムの題は「American Taliban: Blame Lindh's Permissive Parents(アメリカ人のタリバン/リンドを放任した親を責めろ)」であり、「反逆への道」という題ではない。次に、ジョンの名前はジョン・ウォーカー・リンドであり、ミドルネームの「ウォーカー」を省略することはあっても、「リンド」を省略して「ジョン・ウォーカー」と呼ばれることはない。フェミニズムを批判するために、父親のラストネームである「リンド」を省き母親のラストネームだけをつけたと読者に印象づけようとでも思ったのだろうか。さらに、「ジョンの新しい友人に〜」のくだりは原文には全く存在しない。それどころか、チェチェンという言葉は文中に出て来ないし、ジョンに兵士の友人がいることなど両親は一切告げられていない。つまり捏造だ。一応、同日に別の記事が掲載されていた可能性も調べたけれど、この日のジャコビイ氏のコラムはこれだけであり、そもそも同一論者による論旨がほぼ同じコラムが同じ日の新聞に2つも掲載されるわけがない。これだけ引用上の間違いがあるということは、おそらくエドワーズ氏は実際にボストン・グローブの記事を読んではいないのではないか。
 それにしても、夫婦別姓の議論から突然タリバンの話に飛ぶあたり、さすが「正論」掲載の論文だ。米国では夫婦別姓の家族などいくらでもいるけれど、その中でタリバンに参加した人がどれだけいると言うのか。また、高校以上の年齢になった子どもが自分の意志でイスラム教徒になることやアラビア語を学ぶことにどうして親が反対しなくてはいけないのか。そもそもこの記事は、9/11事件の直後、極度にイスラム教徒に対する偏見が高まった時期に書かれたものであり、さまざまな論者がイスラム教やテロリズムに関連づけていろいろなものを批判するという論法を取っていた。そういう世論の沸騰を背景に、保守派コラムニストのジャコビイ氏は「最近の若者は親の躾けがなっていない」ということにジョン・ウォーカー・リンドの件を絡めて論じたものだけれど、まさかかれもそれが日本の雑誌によって「夫婦別姓反対」の文脈で引用されるとは思いもしなかっただろう。
 続いて離婚についてのエドワーズ氏の主張。

 筆者が会員になっている「ナショナル・カウンセル・オン・ファミリー・リレーション」から送られてくる電子メールニュースに興味深い記事があった。「離婚は人々を幸せにするか」と題する研究を紹介したもので、詳しい情報をウェブサイト (www.americanvalues.org) から引き出した。シカゴ大学社会学者リンダ・ウエイトを中心に、家族研究の権威者と言われる学者チームによってまとめられたもので、「離婚しないでみじめなままでいるのが最悪の結婚で、離婚して幸せになるべきだ」という通念を覆すものである、と報じていた。一九八〇年代末にインタビューした五千二百三十二組の夫婦を追跡調査した結果、不幸な結婚生活を解消して離婚した人は不幸な結婚生活を続けている人より幸せになっていないこと、そして、不幸な結婚生活でも、離婚をおもいとどまった人の十人に八人は五年後、幸せな結婚生活をしているという。…

 まず引用元に注意。 National Council on Family Relation は家族研究をする学者たちによるまっとうな学術団体だけれど、実際に情報が掲載されているサイトはこの団体のものではなく Institute for American Values という別の団体。ここに資金を提供している財団のリストを見ると、名の知られた保守系財団の名前が並ぶ。不幸な結婚をしている人は、離婚してもしなくても五年後の幸福度は変わらないというのがその報告だけれど、結婚していればいつかは幸せになれるというわけでもない。
 「離婚をおもいとどまった人の十人に八人は五年後、幸せな結婚生活をしているという」という部分は、幸せの度合いを1から10までの数値で表すような設問になっていて、そのうち1か2と答えた極端に「不幸せ」な人たちについての報告。しかし、不幸せが長く続いた人は高い割合で離婚するだろうから、離婚をおもいとどまった人だけを調べれば平均値として幸福度が上昇しているのは当たり前。また、統計学上の「平均への回帰」という現象(平均から大きく外れた集団を後に再調査すると、より平均値に近い結果が得られる)もはたらくと考えられるので、一般論として不幸な結婚をしていても離婚をおもいとどまる方が良いとは言えない。
 エドワーズ氏は、この保守団体のサイトにはこの調査の他にも「『多様な家族』論の正当性を否定する興味深い研究結果が発表されている」と書いているけれども、学術団体である National Council on Faimly Relation のサイトはあまりよく読んでいないようだ。こちらの方には、例えば「同性カップルの家庭に育てられた子どもは異性カップルの家庭で育てられた子どもと同じように育つ」といった報告が掲載されていて、「多様な家族」に肯定的だというのに。
 とにかく、これで「離婚は人々を不幸にする」と決めつけたうえで、エドワーズ氏は次にフェミニストによるドメスティック・バイオレンスへの関わりを批判する。

 フェミニスト達は、社会の問題を全て男女間の問題に置き換えてしまう。しかし、家庭内暴力が男女間の問題なら、同性愛者の家庭では暴力は起きないはずだが、異性愛者の家庭と同じ比率で暴力は発生している。また、男性イコール支配者、女性イコール被支配者というフェミニスト達の定義とは裏腹に、女性の男性に対する暴力が男性の女性に対する暴力と同率で発生しているとアメリカの専門家は指摘している。

 こういう時だけ同性愛者の家庭を「家庭」と認めるというご都合主義は笑えるけれど、最後の部分は端的に間違い。詳しくはエントリ「『女性から男性へのDVは男性から女性へのそれと同じくらい頻繁』というウソ」参照。

 初期のフェミニスト、ベティ・フリーダンは、「女性には、家庭にいて子どもを育てる選択肢があってもいい」と言っていたが、最近の過激フェミニストのシモン・デビューボは、次のように反論している。
 「私達は、女性に家庭を選ぶという選択はあるべきではないと思う。社会制度を根本から変えるには、女性にそうした選択肢を与えるべきではない。なぜなら、選択する自由があれば、多くの女性は家庭を選択するから」

 わたしは「最近の過激フェミニストのシモン・デビューボ」という人物を知らなかったのだけれど、少し考えて分かった。アルファベットに直すと Simone de Beauvoir、つまりボーヴォワールのことだったのだ。ボーヴォワールすら知らないような人にフェミニズム批判の記事を任せる「正論」もいい加減だ。もちろん、ボーヴォワールはフリーダンより前の人だから、「初期フェミニストのフリーダン/最近の過激フェミニストボーヴォワールデビューボ)」という対比も間違いで、あえて言うならどちらも第二波フェミニズムの初期に属するフェミニストだ。エドワーズ氏の「昔のフェミニズムは良かったけれど、今のフェミニズムは悪い」という論旨に合わせるには、無理矢理ボーヴォワールを「最近の」フェミニストにする必要があったということだろう。
 エドワーズ氏が引用しているやり取りは、1975年に「Saturday Review」誌上で行われたフリーダンとボーヴォワールの対談から取られている。「最近の過激フェミニスト」と言う割には古い記事というか、ボーヴォワールはとっくに亡くなってますね、はい。ところでボーヴォワールの発言についてはエドワーズ氏による歪曲が一カ所あって、それは「社会制度を根本からカエルには、女性にそうした選択肢を与えるべきではない」という部分。原文では、「社会制度は根本から変えなければいけない」「女性はそのような選択肢を持つべきではない」という2つの分だ。つまり、「社会制度を変えるためには女性に選択肢を与えてはいけない、とはボーヴォワールは言っていない。
 前後の文脈から考えてボーヴォワールの言わんとすることを解釈すると、フェミニストは家族形態や経済構造などを根本から変えるよう働きかけるべきであり、現状の家族形態や経済構造を温存したまま女性が主婦業に専念するか外に働きに出るか選択できるようにするのは解決策ではない、ということではないか。もちろん、そうであってもエドワーズ氏から見て彼女の主張が「過激」であることにかわりはないだろうけれど、批判対象の発言を歪曲して紹介するのはフェアではない。
 次は、大学における「女性学」について。

 アメリカで、過去数年感に数百の女性学の授業内容を研究したクリスティナ・ソマーズ哲学博士は、女性学が学問に値しないこと、この講座で洗脳された女の子の多くが父親を嫌いになり、母親を哀れに思い、健全な異性関係を築けなくなっていると嘆いている。この女性学講座では、一体どんなことを教えているのか。
 第一段階として、「女性は虐げられてきた」という考えを徹底的に植え込むことから始まる。そして、虐げられてきた女性の立場に対して怒りを持つこと、男性に対して敵対心を持つことを教える。そのために、生徒に、「男性社会」における嫌な体験をクラスの中で話させて、他の生徒と感情を共有する。個々で問題なのは、どんな体験でも、体験者の考え方、見方一つでは、抑圧体験になりうることだ。…

 ここで登場するクリスティーナ・ホフ・ソマーズ氏は、「Who Stole Feminism?」「War Against Boys」というアンチ・フェミニズムの古典の著者であり、先に述べた Independent Women's Forum の結成にも深くかかわった人物だ。「Who Stole Feminism?」を書いた当時は小さな大学で哲学を教えていたのだが、現在では保守系シンクタンクの研究員を務めている。エドワーズ氏はここで書籍名を挙げていないけれど、ボーヴォワールの件も含めこのあたりはソマーズ氏の「Who Stole Feminism?」からの孫引きの連続だ。
 ソマーズ氏が報告している「女性学」の上記のような内容は、70年代によく行われた「コンシャスネス・レイジング」というものだ。女性たちが集まり今の社会で経験しているさまざまなことを語り合うことで、お互いの話の中から共通の「女性としての体験」を紡ぎ出そうというのがその趣旨で、はっきり言っていまの女性学で教えられている内容とは全然違う。というか、女性学に限らずフェミニズムの運動全体を見回しても、コンシャスネス・レイジングなんて今どきやってない。全ての女性に共通する「女性としての体験」なんてものは存在しておらず、そう思われていたものは単に特定の社会階級の女たちのあいだに存在する共通体験に過ぎなかった、ということを明らかにしたことこそ、女性学の成果なのだからね。


 うーん、これでまだ、全10ページのうちの6ページまでしか検証していないけれど、もうだいたいこの著者のいい加減さは分かったと思う。はっきり言ってやってられない。ところが、こんな酷い記事でも、「正論」の他のバッシング記事と比べると1つだけマシなところがあって、それは多くの情報についてはソースが何なのか明記しているところ。その点、何の根拠もなくデタラメを書き散らすだけの論者に比べるとかなりマシだ。でも、彼女が引用するアメリカの論者たちが、実はそのデタラメを書き散らす種の論者なので(笑)、読者がウソを読まされているという点では同じ。困ったものだ。


【追記】
 このようにデタラメなエドワーズ博美論文を大絶賛して抜粋紹介しているブログが見つかった。もちろん「デビューボ」の部分もそのまま(笑) トラバ送っておこう。