Hatena::ブログ(Diary)

RCaO1.0

2007-12-28

今日は志紀島啓さんの「記念日」ではなかったかな。

2007-12-26

(ピクチャレスク/承前)


バークの審美分析に共感してはいたものの、ジョージ・メーソンによって性格化されたバークの「教条とシステム」を、プライスははっきりと拒絶する。ナイトから見れば、バークもプライスも「感覚印象」を強調し過ぎており、これはまったく審美的熟考には向かない、まったく構造化されていない審美経験に結果するものだった。ラディカルな経験主義に向かう、かくも直接的ではかない印象主義では、感覚刺激のあいだの結合を説明できなかったのである。審美的反応を結合すると同時に、記憶や、想像力や、情熱を説明できる方法をナイトは要求した。システム化された組織による専制を回避したいという彼らの考えがあったとしても、しかしこうした構造が簡単に退けられるわけではあるまい。

議論を見守る同時代人の一部には、プライスとナイトの議論は些細なことに見えたかもしれない。しかし混合の保存に関して彼らは共通していたように、この議論を通して我々には見える。彼らは相手の議論に、システムとの潜在的妥協をそれぞれ見ていたのである。一貫した構造と変わり行く感覚刺激のあいだのバランスを決定することにおいて、ナイトは構造を多く含み、プライスははかない刺激を多く含んでいた。専制と放縦のあいだのバランスをどこに取るかのまさに一点において、プライスとナイトは異なっていたのである。ナイトは専制を恐れずに放縦を恐れ、プライスは放縦を恐れず、専制を恐れたのだった。

ピクチャレスクによって推奨された、自然と人工の混合とは反対に、庭園術のある著述家たちにとっての自然自体は、失われた起源として、回復すべきもののモデルとして表象されるものだった。彼らにとって混合や混乱のいかなる提案も、まったく不自然に見える風景構成でしかなかった。エルムノンビル侯爵R.L.ジラルダンは一七七七年に出版され、一七八三年にデイビット・マルサスによって英訳された書において、この議論に貢献したフランス人である。デイビットは人口増加の予測者にして経済学者の(トマス・ロバート)マルサスの弟である。英訳版『風景論』序文において、マルサスはジラルダンを支持しているが、それはこれがウィリアム・メーソンの「とても美しい詩」や、庭園術に関するホレス・ウォルポールの保守的コメントに提携するものだったからである。マルサスはジラルダンの書を敬愛していた。人間の自然に対する関係の起源を取り戻すという、ジラルダンの欲求に対してだった。ルソーのパトロンにあってこの欲望は、もちろん驚くべきものではなかろう。美と有益を結び付けることで、意味という層における優雅な批評に、あるいは表象批評ともに、マルサスは関わらなかった。文化規範の正統性は自然規範との並行性にあるという、当時の議論との関連でユウェナリスや、キケロや、テオクリトスや、ウェルギリウスの古典の断片を、マルサスは引用する。古典の先行者たちによる荒れた自然への悦楽はもちろんよく知られていた。ホレスはその書簡で、森や、田舎暮らしや、ウェルギリウスによる対話形式の田園詩や、ゲオルギカの農耕詩が薦める質素な生活を切望しているが、イギリス・ジェントルマンはこうしたイメージを自家薬籠中のものとしていた。

ドライデンによるユウェナリス風『風刺詩』を引用することで、マルサスの序文は「原生植物」に対して「大理石の洞窟」を対置する。前者はまた「地場の天然石でできた壷型装飾」によって優雅に装飾されてもいる。もともとの植物が自然の産物とすれば、いかなるものであれ人工物はそれに対立するものだろう。ただし地場の石でできたものは例外である。人為によって適所から引き剥がされているにせよ、自然素材は自然らしさへの鍵なのである。洞窟が自然を示唆しても、大理石製ならそれは自然への侵犯である(もちろん地場のものは例外である)。自然の徳を確立するにあたってキケロもまた、引かれる。法についての第二対話でアッティカ人は修辞的にキケロに問う。「これらの自然の滝、そしてこれらの自然の河川はかくも素晴らしい対比をなしている。マーカス、これらを見た者は我々の壮麗な東屋を侮辱しなくなるだろう。逆に人工ナイル川や、大理石の海を嘲笑するようになるだろう。このあいだの議論で君は全てを自然へと帰した。とりわけ想像上のものについてそうした。だとすれば彼女(自然)はわれわれを支配する女王なのではないか」。幻想に関する古典のあり方は、それを構成している世界から発している。ローマ人たちは「地中海沿岸に形成された世界庭園内にかくも多くの駅(今日の旅行者にとってと同じ意味で)を有する風景世界」のなかに、住んでいていたのである。詩人たちはそれらを見てまわり、自分たちが見たものから詩篇を構成していたのである。

古代ギリシア人や古代ローマ人たちは自然の元々の状態に近いところにおり、おそらく自然を変える能力もあまりなく、自然の場面をただ選択し、ただそれを崇めるだけだった。古典の風景を知るにはもっぱら詩を通してであるが、それは穴掘りの道具ではなく、幻想を強調するものである。「現代庭園術が自然を模倣し、構成し、あるいは創造さえすることに栄光あれ」。古代の先人たちとは異なり、一八世紀イギリス人は自分を受動的とは思っていなかった(もっとも選択や崇拝は、今日のイギリスの新しく便利なハイウェイを動き回る旅行者も同じであるが)。いまや庭師は古代モデルに霊感を受けつつ、もっと直接的に介入する。手始めに三つの介入のあり方が列挙される。模倣、構成、そして創造である。起源(オリジン)から乖離していながら、いまやオリジネーションの最高位へと上っていくのである。

伝統的な古典教育はイギリスのジェントルマンに、詩篇のなかの描写と、馴染み深いイギリスの情景を結合するための踏み台を与えた。キケロの一節は「イギリス庭園の最も完璧なもの」となったのである、ダービーシャーにあるマトロックは「多くの的確な性格において(テッサリアの寺院がある)古代のこの有名な谷に似ている」。

古典文化の伝統および自然はそれぞれ、安定し、かつ真実味ある審美的構成のための土台としてあった。この限定された参照源への訴求は、人間の慣習と、自然のあいだに矛盾を起こすように見えると議論できるかもしれない。しかし古典文化も自然もいずれも、その無条件な信頼性という主張を、自己模倣的な構成の認知に置き換えようとしているわけではない。目に見える変化の背後にある一貫した均質化を阻止するように見える点においてのみ、混合自体が安定し、最善の条件であると提案され得るだろう。現象を全体として絶えずこうして再フレームしていくことは、確実性の慣性を克服するのに寄与もしている。

詩集『風景』の二年後に『文明社会の進歩』(一七九六)を著したとき、ルクレティウス的あり方を称揚することで、ナイトは混合の理想に忠実であり続けていた。古代ローマのエピクロス派によるラテン語は見かけの平易や俗語を禁じながら、「超自然的崇高」を無理して求める莫大な尽力は避けているように、ナイトには見えた。尽力自体は一瞥において明らかであり、見かけの平易や俗語もすぐさま見出されるゆえ、ナイトはピクチャレスク的不確定、あるいはピクチャレスク的神秘とも呼ぶものを提唱する。全資源を一気に消尽することなく、かつ能力を出し惜しみするわけでもなく、労力と資源のあいだの不均衡に注意を向ける詩篇を、ナイトは引用する。見かけの平易は〈さりげなさ(sprezzatura)〉ではないし、俗語は何気なさではない。

農業のためであれ、風景のためであれ、土地の改良は、この労力と資源の考えにほぼ似た理想によって実行され得る。その最大のものの一つはレスター伯爵が気付いていたように、意図と結果のあいだに現れることがあるずれである。ホーカムでの彼の大仕事が完成するに当たって彼は補足するように述べる。「自分の領地で見渡す限り自分の家しか見えないというのは憂鬱である。周辺を食い尽くした大城のなかの大城である」。これはロバート・ポッターの『哀れな法の観察』(一七七五)の注のなか、ホーカムと似た状況にある村の村人の視点を明らかに代弁した「荒れた村」というオリバー・ゴールドスミスの作品について言及したあとに述べられている。もしも自分だけの構成を制作するなら、混合や差異の抑圧は理に適ったことに見えるかもしれない。しかしながら全てが排除されれば、現れるのは空虚である。構成を完璧にする過程で自分の力を出し切らないことは最初は奇妙に見えるが、しかし一度全てが完成されてしまえば、抑圧された混合へのノスタルジアのようなものとして、力を抑えておくべきだったという欲求がむくむこと起こってくる。

混合はシステムに反対する。ナイトもプライスもともに、庭園術だけでなく、文明社会においてもシステムがもたらす壊滅的効果に反対だった。詭弁はナイトにとって専制システムのモデルだった。その唯一の特徴は冷血である。抽象的理性は冷たく機械的で、選択や偏差を認めない。利己的で、限定的で、自分しかない。それは「活気を痙攣させ、情熱に冷水を浴びせる」。「幻想や物語を殺」しもする。これを解毒できるのはミューズの歌声である。死と厳格な規則に反対し、生命と技芸が協働する。幻想や物語は排除されず、信仰への欲求も冷たく抑圧されることはない。心温かく十全に働き、それでいて疑義や対立する欲求のおかげで無節操というわけでもない。充分な数の物語を吟味すれば「真実」がそこから近似され得ると想像するのは、ここから遠くなかろう。

複合性は生気のしるしである。「込み入った利害から込み入った法が生れる。先見的な知恵で計画された場合より、もっとバランスがとれた共和国を生み出すのはこれである」。文明の構造の蓄積や、変わり行く環境にどんどん適応することを、ナイトが支持する臆見は正当化する。ある時点におけるこうした関係複合性のみで物事を構想することは、浅はかというものだろう。こうした浅はかな傲慢のあり得る唯一の結末は、なければならない差異を平均化し、生気に満ちた混合を抹消するしかできない専制的な抽象体である。民主的構造を支持するものとして生起するもののうちにプライスが見出したものは、国家的規模での混合である。「それぞれがそれぞれの場所を、自然や絵画から引き出された一般概念に従って改良すれば、改良様式の多くの多様性がいずれ生れるだろう」。

フランス革命の暴力的平均化にもはや耐え切れなくなったエドマンド・バークは、社会的・政治的複合蓄積をシステム的に破壊するというまさにその点で、抽象的な政治理念を攻撃した。長年の友人であり、議会での同僚だったチャールズ・ジェームズ・フォックスから、この攻撃は彼を隔てることになる。フォックスはフランス革命を支持していたからである。それも臆病な英国人たちが何の手立ても防衛もしなかったときの話ではなく、ずっとたってからもそうだった。ホイッグの二人の政治家のあいだのこの鋭い違いは、混合に対する異なるスケールでの彼らの支持に帰されるかもしれない。フォックスはより幅広く、より確信に満ちたスケールで、一方でホイッグの高官のなかでは新参者だったバークは、より狭く、よりびくびくしたスケールで混合を支持していたというわけである。個別の現実の出来事がはっきりとした計画なしに蓄積していくというバークの考えは、ピクチャレスクな構成の理念に並行しているように見え得る。イギリスを今日の姿へといたらしめた歴史的出来事はひとえに、まさにその土台をなすと称する抽象性/一般性によってのみ危くされる。何であれそうした主張自体が、確固とした現実を、信頼できない機械的な精神へと置き換えようとする邪まな試みでしかなかったからである。フォックスの確信はシステム的な冷淡へと容易に転化していくものだが、バークのものは、必要でなければいかなる連続性をもたえず断ち切っていけるものだった。フォックスは個人的なレベルではいい友人である。しかし抽象原理へのそうした小スケールでの結合を、バークは喜んで犠牲にできたことを認めるなら、この対極的相違が見えてくるはずである。

混合には、混合されるべきものが既になくてはならない。ランドスケープ・デザインではこれは二つの所与を結ぶことを意味する。自然と、そして人間による人工物が、その二つの所与である。少なくとも自然が変化し、時間が経るに従って現れてくる不規則性と調合された、あるいはそうした不規則性と対比をなす形態配列の痕跡を、典型的にピクチャレスクな景色は含んでいる。自然の側か、あるいは人間の側のいずれかの起源とされるものからピクチャレスクは始まり、徐々にいわば移行していくゆえ、真性起源を追及する無窮後退に陥ることはない。その結果、確固としたアイデンティティを生み出そうというきわめて無駄な試みがやるような内的証拠によって、ピクチャレスクは自らを定義することもない。そもそもの始まりから自らが必要とする要素を得ることでそれは機能し、自由に組み合わせ、配列もする。こうした自由は、オリジナリティに訴える何かユニークなものから始めねばならないという主張に固執する者からは、雑多に過ぎないという非難を浴びるものでもあろう。

こうしたことは二○○年間の考察による解釈のみから来るわけでもない。混合の議論にほとんど避け難く続いた誤解に、ユベデール・プライス自身も苦しんでいた。ランスロット・ブラウン同様、ハンフリー・レプトンは自分が理想とする庭園術に従って掘り、水を入れ、植樹を指揮していた。彼にとって考察など不要であり、おそらく迷いでしかないものだった。『ピクチャレスク』初版後にプライスに宛てた書簡で、絵画や哲学の思考のいかなる拡張をも嘲り、人工物と自然を混合しようとすることに生起する矛盾に、レプトンはプライスを嬉々として捉えようとした。プライスはこれにこう応える。「私の本を読んだことがなければあなたの書簡を読んだ人は皆、私が密林のなかで人生を過ごし、動物以上に柔らかい自然の美など知らない、まるで虎か何かのようにおそらく思うことでしょう。また違った種類の非難にも私は晒されています。頭のおかしなギルピンさんの友人たちによって、何ら荒さも、唐突さも、ピクチャレスクもない滑らかさに恋に落ちてしまった者であると私が紹介されても、驚くべきではないのですから・・・彼は私を偽の友人とあしらうかもしれませんし、家の近くが小奇麗で便利であるべきことを認めた輩が、ピクチャレスクを真に愛する者たり得るだろうかと訊いてくるかもしれません」。あるものが優勢である形態と、その優勢を壊すべく混合された形態の評価の反転は、いかなる絶対的読解をも掘り崩す。構成を取り巻く状況が変われば、その構成部分の評価も変わる。結果、真のゴールを求めて変化する無駄な行為の累積に見えるものへと、プロセス全体が容易に転化もする。「平等は奇形であると言うにほとんど近いかもしれない」という観察は、ピクチャレスクが実際に何であるかという全体概念がいかに馬鹿げたものかを、証明するように見えるだけである。

もしもプライスが、荒さ、不規則性、唐突な変化以上の何物でもないと誤解されているピクチャレスクの提唱者とすれば、これら諸特質とその対極質とのいかなる混合も、この薄っぺらな確信の明白な証拠である。とはいえレプトンの誤解は、プライスが当初語ったことから全くかけ離れているわけでもないとは言っておくべきだろう。レプトンの混乱を理解するのは難しくない。荒さ、苛立ち、そして新奇をプライスがいかに評価するかを読んだのち、住宅のまわりを描写するのにレプトンは次のように続ける。「技芸(建物)から簡素で飾らない自然に一気に出れば、それは突然過ぎる移行であり、何かグラデーションや適切なものが欲しい。これは通常、眼や心を楽しませるのに必要なものである」。荒さ、不規則性、唐突な変化がそれ自身においてのみでなく、混合にとってもなぜ重要なのかをプライスが明確にする機会を、レプトンの書簡は喜んで準備したのだった。あまり目に留まらず、曖昧で、概して美しくもないものに拘ることで、ある人たちは、プライスを「単に粗野でピクチャレスクな情景が好きなだけでなく、他のもの全てを排除した」と主張していたのである。

さらなる誤読を解こうとしてプライスは結局、自分の作品の「最終目的」は、滑らかさ、くっきりしたもの、形式性といったものの質を、その質を廃棄することも無視することもなく、「まったく対極質の・・効果」と、混合することに落ち着くと述べる。「この混合は、いかなる狭隘な排除のシステムよりも優れ、明白な主張を持っているように見える。それゆえリベラルで教養ある精神の人々のあいだで、そうしたシステムが存続するとは思えない」。

リベラルで高度に教養ある精神の人々への訴求は、ランドスケープ・デザインにおける議論と、この主張がいかになされ、いかに支配されるべきかというもっと広い問題の結合を強調する。

 

自分自身の独断的意見を確立するために他の専制的な意見と戦ったと疑われていることを、私は大変申し分けなく思わねばならない。だが病気の種類にも病気の程度にも医者は考量せねばならない。そして不毛地、単調、結合の欠如は、モダンな改良による重度の病気なのである。もしもこれと対極のシステムが勝利していたら、(そして流行が依拠している改革では、そうかもしれないが)いかなる種類であれあらゆる建物が樹木を纏っていたら、あるいはピクチャレスクの大流行によってそれらが異なる高さや空きの絶えることのない多様性をもって、あるいは不規則な集中や疎隔をもって素晴らしくデザインされていたら、今度は壮麗さ、優雅さ、単純さからかくも隔たっていることに対し、同様に有名な建築家や画家の作品のなかから私は自分の議論を始めねばならない。一方での平板や単調、他方での気まぐれな多様性を最もよく保つ手立ては、建物ともどもいかなる物においても、壮大さ、美、ピクチャレスクを構成しているものを注意深く研究することである。


プライスのこの抗弁は視覚刺激における構成と、社会構成のあいだの並行性を示している。ランドスケープ・デザインに関する彼の推奨はすぐさま、社会構成に関する推奨として読めるものである。ある領域を別の領域と直接関連させるというもつれによって、彼の論点は誤解される。主要なものは一つではなく、それゆえそれは他によって描写される。構成という議論は両者に訴求するものなのである。

議論を可能な限り明白にするなら、プライスは部分そのものにおいてではなく、部分間の関係において自分の作品を位置づけたと言える。ピクチャレスクは荒さ、不規則性、唐突な変化の内在的価値に関するものではなく、より大きな構成に貢献するものと認めるのは、唐突かもしれない。その動機は周縁的な特質を失うことなく、混合によって物を生き生きと保ち、生気を維持し、いかなる選択形式のシステム的適用であれ、それが専制化する傾向に抗うことにあろう。

2007-12-25

(ピクチャレスク/承前)


ピクチャレスクは過剰条件への明確な応答である。過剰な刺激によって感覚器官の鋭敏さが失われることは、ある条件が過剰にもたらされれば、緩和や変化が必要とされることを示している。許容量に達する感覚器官はあきらかに小さめのものである。すぐに飽きる。個人鑑賞者として知られるこの小さめの経験体は、感覚刺激の割合の増加に対応している。新奇は素早く理解され、そして素早く忘れ去られる。多様性が積極的価値となろう。だがシェンストンが警告するように、多様性もある種の規則性や予測可能なパターンとなれば、それは大きなスケールでの単調さへと転じてしまう。「装飾を際立たせるには・・・無装飾な空間が充分になければならない」。過剰条件の大きさがどれくらいであるべきかは、この議論にとって重要な要素である。いまは感覚受容者のレベルで大きさを考えているが、やがてそれは鑑賞者の自然に対するスケールや、他の人々とのスケールで再考されるものである。

要素単体から連続する要素パターンへのスケールの移行は、ピクチャレスクが結合の重要な問題を扱う方法の一つである。次のように書くとき、シェンストンはスケールの問題を直接的に述べている。「もしも宇宙を理解できたなら、我々はおそらくそれを均一で規則的と見出すかもしれない。だが我々が見ているその一部は、我々の想像をその対極へと慣らしていく」。部分と全体の変わり行く関係性への彼の認識は、ピクチャレスクを知覚の新しい枠組みとして強調する。人間が大きなシステムの特性と思っているものを少ない事例から判断すれば、それは構成描写を問題あるものとする。

審美経験のゆっくりした蓄積は、差異や新奇の刺すような鋭さや衝撃に道を譲っていく。アディソンは文学表現によく似た混合表現を見出している。「高貴な隠喩は利点としてそのまわりに輝きを放ち、そして一文全体に光を放つ」。輝かしい光はそのまわりのあまり明るくない部分に、ロンギヌスの崇高な「雷光」よりは随分と小さなスケールで一条の光を投げる。その光は素早く鋭い。その苛立ちは感覚刺激のパターンを中断し、精神または目は、すぐさま唐突な変化へと追従する。予期せぬ唐突さが新奇をもたらすのである。

新奇による不連続や唐突さはまた慣習的な期待を混乱させ、不満ももたらす。一七一二年九月七日の論文でアディソンは「もしも初めてわが国を見る外国人が、この国に訪れてすぐ私の庭園に連れてこられたとすれば、互いに入り混じり、分かち難くなっている果樹園と花園、キッチンと花壇の混乱は自然で野生のものであり、それゆえわが国の未開の部分を見ていると思うだろう」と描写している。それは「最も大きな多様性を構成するだろう」とも言う。ピクチャレスクの核心原理である混合の配列に、訪問者として登場するものの知覚精神の新鮮さを、この描写は追加している。

この旅行者は新奇なものを探している。すでに知悉しているもの、馴染み深いものは眼中にない。「外国人」は終わりなき驚きを求め、好奇心を追求するものである。彼は心地よい刺激を求めて動き回るもののことである。自然世界のさまざまなものを一箇所に配列して混合すれば、休暇中の者ならともかく、明確な範疇に基づいて日々忙しく生活している者には、混乱をもたらす。混合はそれ自身「自然野生」の記号だろう。旅行者が見ているものは彼にとって初めて見るものでもあるゆえ、それはそういうものだと彼が想像していることに欺瞞がある。用心深い旅行者ならそこにやらせがあることを見分けるだろうし、少なくともそういう可能性があると思うだろう。現地の住民が欺かれることはまずない。混合が造作された構成物の結果と気付くだろうからである。これらの基準から結果するものは実際、紛らわしいとはいえ、しかし野生の自然ととられることはないだろうと思われる。

新奇が持つ多様で込み入った効果を、「快の普遍的源泉」へとプライスは格上げする。とはいえ荒さへの自らの快を、普遍であるとする教条性からは彼自身は一歩引いていた。自分の感覚が他人のものとは異なっているという慎重さが、もっと一般的命題へと彼を強いていった。プライスが明らかに動揺したように、ピクチャレスクな情景に囲まれて生活している人々は、それとはまったく対極の性格をもった情景を有難いと思っていたのだった。ウェールズでいくつもの自然の滝を抱いた「ロマンティックな」場所を歩きながら、その喜びを土地の所有者に彼は正直に告げた。しかし「私が感じた喜びに、彼はまったく困惑した。さらにそれら情景への私の敬愛を無駄であると反発しているようにも見えた。『ここで止まらないでくださいよ』と彼は言った。『見るべきものを一つ一つお見せしますからね』。そして切石が三段積まれた下へと小川が導かれている場所にやってきた。『ここですよ』、彼はおおいに勝ち誇ったように言ったのである。『これはわが国屈指の丁寧な石造物であるポンティ・プリッドを造ったエドワードの作です』」。この出来事は二人の距離を物語っている。その経験が限られているために、自然への支配をある程度示す証明として、自然に堅く抵抗し、丁寧に造られた物に価値を見出すようになった者と、経験豊かでなおかつ、旅行者としての立場から生活が犯されることなく荒くルーズなものを楽しめる趣味を持てる者との、距離である。

フランス式あるいはオランダ式庭園設計の堅く厳格な幾何学性のヘゲモニーを、ルーズでもっと「自然な」パターンによって掘り崩す戦いは、一八世紀末にはだいたい勝利がついていた。プライスやナイトにとって混合に対する敵は、いまやランスロット・ブラウンだった。イングランドの大地を「改良する」という彼の流行の成功は、風景構成の反復システムを生み出していたのである。幾何学からのブラウンの離反は多様性を生み出すことはなく、個々の庭園においてだけでなく、全庭園を通して同一性をむしろ生み出していたのである。ブラウン好みの特徴の一つである木立は、プライスによって、ピクチャレスクな混合から遥かに遠いものとして描写される。ブラウン好みの「木立は全て同じ樹種、同じ樹齢のものが円を描いて植樹されており、異なる樹種や、異なる大きさや、薔薇やモチノキと一般樹木との混合や、豊穣な多様性や、空きや空洞や、若木や老木の混合や、近付いたり遠ざかるときの変化や、新しい組み合わせや、光と影といったものの対極にあるものである。木立はしかし、兵士の小部隊のように全方位からの攻撃に耐えるものだろう。どこからでも見えるし、周回できるし、空きはないし、空洞もないし、落伍もない。まったくの軍隊的な意味でそれは『全方位に向けられている(ils font face partout)』」。軍隊の参照によって、混合の敵がシステムであることが強調される。「ブラウン氏が州長官だった頃、彼の付き人がだらだらしているのを見たある悪戯好きの者が、ブラウンを誘い出した。すると彼はこう言った。『諸君、整列!』」という話を聞いたことがあるのを、プライスは覚えていた。ブラウンのランドスケープ技術は「機械的な整地操作」となっていたのである。彼の木立を周回しても「多様さはなく、ただ終わりのない変化」、アイデンティティの防御的保存しかないのである。

ある特定のランドスケープ・ガーデニングにおいてのみ混合が問題となるわけではない。ある範疇内のいかなるシステムの境界を越えることも、ある者たちには興奮を与え、別の者たちには恐怖を与える。後者にとってもしも境界が必要でないとすれば、物事のアイデンティティが失われ始め、そのはっきりした評価も不可能となろう。一八世紀末から一九世紀初頭にかけてのピクチャレスク文献を読むと、絵画や、風景や、詩や、政治の境界がいとも容易に越えられている。これは不快なことかもしれないが、しかしこれらの議論自体はある程度は混合に依拠している。文学と庭園のあいだで行われる比較は、一方の領域の特徴を他方へと移しかえる。この結合はそもそもの始まりからはっきりしていた。アディソンは詩の種類を数え上げる。風刺詩、小抒情詩、英雄詩、ピンダロス詩。庭園術の種類も数え上げる。花壇、グロット、ワイズやルノートルらの庭園。グロットと小抒情詩の共通域は気安く気まぐれな領域であり、これはピクチャレスクにおける議論多い部分である。

ランドスケープ・デザインは絵画から得るものがあるという提案は、ピクチャレスクに関する大きな争点の一つだった。この提案は、感覚的な構成と知性的な構成の双方ともに、さまざまな領域にまたがって適用可能な原理に依拠しているという仮定に基づいている。ピクチャレスクについての議論が進んでいくにつれ、庭園、絵画、文学、そして音楽が自由に交わるのである。持続における対立するものの混合の必要性を説こうとプライスが試みたとき、彼は絵画と音楽の例を引く。「精神は・・・刺激されるとともに癒されることを要求する。多くの例においてともども、ここにおいて絵画と音楽の強力な類比があろう」。目に訴える光と影の幅広い効果は、耳に訴える調音に等しい。「これらはともに心地よい安らぎを与える。穏やかで慎ましい悦び。これはしかしもっと多様なものによって緩和されなければ、しばらくして嫌悪と退屈へと沈んでいく」。

音楽の発展をランドスケープのモデルとしてプライスが引くとき、音楽とランドスケープ・デザインは同様に描かれる。「テラスやアベニューが解体されていたのとほぼ同じ時代、音楽におけるフーガと描写音楽が時代遅れとなり始めていた・・・ヘンデルを最高とするのちの巨匠たちの何人かは、庭園の改革者たちがなしたかもしれないことをなした。庭園改革者たちはシンメトリーを捨てずに、それを野生や不規則なもの(とりわけ付随物=伴奏)と混合していた」。ヘンデルのオラトリオ『エフタ(Jepha)』の一節が論点を明確にするために引かれる。「目と同じく耳もまた、流れるような同じ調べが反復されれば飽きる。何か新しいもののしるしが欲しい。ある作曲家の旋律において甘いものともども、的を得たもの、オリジナルなものが求められる」。

厳格な境界を好むものには、本来別の範疇であるものの勝手気儘なこの混合は当惑を与えるだろう。サンファイア保険会社重役として、ジョージ・メーソンは出来事と責任の鋭い線引きへの嗜好を持っていたに相違ない。彼は『現代庭園論』(一七六八)の著者だった。庭園術について語る者たちは「形而上学的言辞を弄ぶ白日夢」に自失するほどの愚かさを見せていると、彼は危惧した。道草それ自身が誤っているわけではないが、それはルーズで含蓄あるものに限るという。「想像上の快楽と精神的情動のあいだには強い類比があるのかもしれないし、それを跡付けるのはリベラルな理解として有意義かもしれない」。「ある領域の全部分を、他の領域の対応物にシステム的に移し変え」ようとするとき、侵犯が現れるという。構成された道草は多すぎる境界をただ単純に越えるだけである。

メーソンの一七九五年に公刊された二番目の『庭園論』は大幅に拡張され、さらに三年後の補遺は一七九四年のプライスの論考に直接的に応答することで、ピクチャレスク論争を盛り上げている。プライスはメーソンの詩を勝手に使っていたが、この詩は「こうしたこと、あるいは詩一般に興味がある人には有名であり、つまり二つのコンマのあいだにある単語が主にそこからとられたことをわざわざことわる必要はない」からだという。プライスのこの称揚ぶりはしかしながら無条件なものではなかった。メーソンはホレス・ウォルポールと政治的に近かったが、ウォルポールは一八世紀を通して隠然たる支配力を保った王党派ホイッグであり、つまり保守派を意味していた。リベラル派ホイッグのプライスにとって、これは相容れないものだったのである。

プライス同様、メーソンも長男であり、土地や遺産の相続と法学院(Inner Temple)弁護士会への加入は、彼をジェントルマンの世界と混合させることとなった。彼の父はポーターの土地を伝統的なイギリスのやり方で相続権の原則に則って手に入れたが、これは社会的地位を獲得するにはどうしても必要なことだった。現金は消えてなくなってしまった。社会的境界線をますます取り除いていく近代的な社会に依拠して自らの身を立てていながら、その社会条件の中で上昇し、正統性を確立しつつあった者に違わず、メーソンもまた保守的な好みに注意深かったのである。

プライスの人生もまた地主のジェントルマンのものだった。一四歳の時、ヘリフォードシャー西部の郡部を長男として相続していた。イートン・カレッジではリベラル派ホイッグのチャールズ・ジェームズ・フォックスと親しい関係になり、フォックスの実家であるホランドハウスで一七六一年に開かれた演劇に参加し、さらに一七六七年のイタリア、スイス、フランスへの旅行でフォックスに同道している。リチャード・ペイン・ナイトもまた若くしてヘリフォードシャー西部の郡部を遺産相続し、ヨーロッパを旅してまわり、自らのダウントン城を領地に建てている。プライスともども、彼もまた議会においてフォックス支持者として活動した。一○、○○○エーカーに上る領地には祖父が始めた製鉄所があったが、天然資源の活用よりは審美的鑑賞のために、自らの望む仕掛けを作って蓄えた経済資源を使った。ヘリフォードシャーそのものが混合の一例になったと言える。小地主、小ジェントリーに分割され、農業、工業が散在する混合の例である。

ヘリフォードシャーとシュロプシャーの境界上に位置したナイトの荘園は、混合の考えられる限り明快な例である。一七七三年から七八年にかけての彼のイタリア旅行時代に着手されたこの荘園は、田舎の地所をその平面計画とアウトラインにおいて不規則なものとした最初の例だろう。それまでにも連続付加という手法で建築を不規則なものとすることは、あるにはあった。ダウントン城はゴシック建築を真似しようとして失敗した例であると、ナイトの同時代人には映っていた。この非難は主要諸室に足を踏み入れたときに多かったが、それらは少しも中世的でも田舎風でもなかったからである。古典のオーダーと幾何学的形態をした諸室は、部分に分割して理解するのが不可能な複合的全体を示していたのである。ナイトは竣工後三○年たってこのことを・・・今だったらもっといい仕事ができたのに、と描写している。「ゴシック塔と呼ばれるものや扶壁で外部を装飾し、内部はギリシア風の天井や、円柱や、エンタブレチュアで装飾するのに」と言う。彼の実験結果は「ピクチャレスクなオブジェであり、優雅で便利な住まいである」とも言う。蜂の巣型リブ付ドームを戴き、ゴシック風の窓と、煉瓦壁にヘゲ石ライニングを施した三つの交錯する部屋からなる「古代ローマ風の浴場」を建設することで、この混合を彼は拡大している。「ロマンティックな」森のなかを逍遥し、毎朝のように改良を計画し、実行していたナイトを思い浮かべる時、彼がロンドン時代にソーホー広場に面した上品な全くの都会的住居に住んでいたことを忘れるべきではない。荒さと不規則性は田舎には相応しいものだがしかし、都会生活の節度と慣習は、都市的な古典形態を要求するものだろう。

ピクチャレスクな不規則性は都市のものではないことを、プライスもまた感じていた。都市の只中では純芸術の成長に必要な富や、模倣や、競争が開花する。しかし田舎においては文化的蓄積にそれほど巻き込まれるわけではない。田舎の住宅はその環境に応答せねばならない。特定の敷地への適応は、慣習的規則の構成からの逸脱や、特異性を生む。風景と建物は「互いに馴染み、引立て合う」。文脈適正の議論は、ピクチャレスクが物の関係に関するものであることを強調する。

ピクチャレスクと政治の関係は後述するが、混合のある特定原理についてはターバビルによる時代が下っての二つの評価を引いておきたい。一つは「ホイッグ主義はその本質において典型的にイギリス的である。それはラディカリズムと保守主義という、対立するものの矛盾した組み合わせなのである」というものである。もう一つは議会におけるリベラル派ホイッグの代表であるチャールズ・ジェームズ・フォックスの宣言についてである。「絶対君主制であれ、絶対貴族制であれ、絶対民主制であれ、あらゆる絶対統治に等しくフォックスは反対していた。彼はあらゆる極端に反対したのである。混合された統治だけが彼に近いものだった」。政治的構成とピクチャレスクのこの並行性は的を得ているだけでなく、全体に対する部分の特定の配列方法への深い共感を、ともに明らかにしているだろう。

一八○○年前後にユベデール・プライスとリチャード・ペイン・ナイトがピクチャレスクに関して議論を交わしていた頃、それが誰に向かってのものだったのかを述べるのは難しい。自分の領地にピクチャレスクな構成を今まさに造ろうとしているジェントルマンに向かってなのか、それとも同じくジェントルマンや、もっと身分が下の者も含め、ウェールズや、ダービーシャーや、ヨーロッパ大陸において、既にある自分の庭園について審美的考察に耽りたい者に向かって書かれたものなのかを述べるのは、難しいのである。この混乱はピクチャレスクを巡る論争の多くに油を注ぐこととなった。ピクチャレスク庭園をこれから造ろうと手引書としてアプローチした者には、それは矛盾に満ち、漠然とした方向性しか見出せないものだった。一方で哲学的あるいは文学的論文を読んでいると思っていた者には、風景の特定の改良方法が散見される少し高級な読み物としか映らないものだった。もちろん明らかな混乱は、風景のパターンを構成の一般様態を通して政治組織と結び付けるという、漠然としていて、そして複雑な議論をなそうとしたことから自ずと起こってくるものである。

ピクチャレスクな混合は、そのまわりにある素材から引き出される。対立する審美的範疇を共にする言葉の必要性は、そもそもピクチャレスクを同定する理由の一つだろう。とりわけ一七五六年の『美と崇高(邦訳:崇高と美の観念の起源)』において二つの範疇を分けたことで、エドマンド・バークにとってこの両者の共通構成を描写する、中間項の創出は急務だった。プライスはバークの分析を概ね気に入っており、明らかにこの「美と崇高のあいだに」ピクチャレスクを挿入した。この調停的な立場により、二つの対立する範疇は「調合され、それでいて完全に分離される」。美なるものと崇高なるもののあいだの空虚は、「美の倦怠、あるいは崇高の恐怖を正す」言葉によって充填されたわけである。

風景改良の埒外に見える巨大さや広大さに、崇高は根拠を置いている。人為の届かないその遠さは、対極範疇である美へと人間の関心を持っていく。美とピクチャレスクの区別は注目すべき議論を生んだ。イギリス国内旅行の様々な解説文と、スケッチや絵画による極めて親しみ易い推奨によるウィリアム・ギルピンによるピクチャレスクの大衆化は、ナイトやプライスをもっと複雑な含みを持つものへと駆り立てた。ギルピンにとって美そのものは、感覚の何か鋭い「苛立ち」を含むものだった。プライスにとって美は、滑らかさや柔らかさそのものだった。暖かく、日差しのいい一日におけるような、滑らかで不満のないもののことだったのである。「心を動かすつもりも、ほとんど考えるつもりもない。ただ感じ、喜ぶ欲求だけがある」。美とは受動的なものである。こうした性格化はもちろん、もっぱら鋭く唐突なものとしての修正案を彼に思いつかせる。野性的でロマンティックな状況における、刺すような空気によって筋肉が引き締まった時、あるいは精神と肉体の活動がほとんど一体化し、絶壁の岩肌に手を入れる窪みを探りながら必死に登っていく時、こうした時の能動的快楽の追求は、またいかに異なったものであろうか。これが美とピクチャレスクの相違である」。ギルピンともども、ナイトもまた、プライスの美は明らかに牽強付会な結論を導くための「偽の藁人形」であると見た。

中間項としてのピクチャレスクの、境界や限界を画定することは難しい。独立項ではなく、それはただ混和物として、中和剤としてのみあろう。想定される課題と充分な相似性を持ってのみ中和剤が有効であるとすれば、美につくか崇高につくかの状況によって、ピクチャレスクも変わってくる。こうした理念に独立したアイデンティティを与えることは危険なのである。

ピクチャレスクを巡るプライスとナイトの論争は、バークの議論の異なる評価から部分的に発展してきている。プライスは概ねそれを認めていた。しかしナイトはそうではなかった。バークの範疇をプライスが認めたことについて、ジョージ・メーソンとプライスはともに言及している。ナイトが拘ったのは、彼によればバークもプライスも、美の分析において深刻な混乱をきたしているという点だった。「滑らかで波打つような表面、流れるような線や色」という彼らの定義は、「物の知性的特質」ではなく、慣習によって美と観念連合した可視的な物の美へと、取り違えるものだと指摘する。「プライスはバークを信じ、それを糾しも批判もせず、ただ美の定義を受容したゆえに、プライスはバークを修正してピクチャレスクを発明した」と、スコットランドの哲学者デュガルト・スチュワートは見ていた。プライスはバークの範疇を受容し、その再構造化によってではなく、バークによる二つの言葉のあいだに新しい言葉を付加したため、議論を扱うのにプライスは困難を見たと言う。付加によるこの変更は、構造的な刷新による明確化ではなく、さらに複雑な混合を生み出したというわけである。スチュワートは観念連合主義者のトーマス・リードとアーキボールド・アリソンの追従者にして友人であり、趣味分析のほぼ核心に心的過程の働きを置いていた。網膜上の原刺激に続く心的過程のはっきりした構造が不明なことが、物的対象の不変のあり方、あるいは感覚器官に基づいて固定した基準を、審美的問題に関してバークやプライスに措定させたと言う。刺激に連続する心的構造の欠如が、感覚経験を構成している二つの部分、つまり視覚と視覚対象の固定性によって補償されているというわけである。これらの要素は還元不能であり、多様な解釈を受け付けまい。観念連合主義者のアリソンともども、ナイトもまた心的過程に何がしかの構造を要求したが、そうでなければ異なる人々や、異なる文化によって審美嗜好が多様に異なることが説明できないからだった。ナイトにとって構造は、プライスによれば彼がそれをなしていると非難した混合の平均化のためではなく、混合の保存に向けられていた。プライスは観念連合の問題について述べ、感覚の刻み込み=印象と精神の考察とを、知覚は結合する立場を認めている。とりわけ「有益性」との絡みで観念連合が、風景への人間の反応に影響することを認めることで、人間の下等な経験側面への観念連合の適用を強調した。

 

2007-12-24

まったく野暮な話ですが、試訳(粗訳)を載せておきます。別のところ(9月18日)でも書いたことですが、「ピクチャレスク」という概念はあまりまともに(少なくとも日本では)理解されているようには見えません。この概念の語用は軽蔑的なニュアンスを込めて使われることもあるので、たとえば私の作品に「ピクチャレスク」と言われると私自身はいい気分はしないかもしれませんが、しかしながら18世紀以降のイギリスの美学やロマン主義を理解する上では概略くらいは知っておいた方がいいだろうと思います。古典的にはクリストファー・ハッシーによる1927年の論文やデイビット・ワトキンによる1982年の『ジ・イングリッシュ・ビジョンズ』などが挙げられるわけですが、1991年のシドニー・K.ロビンソンの『ピクチャレスク探求』(Sidney K. Robinson, Inquiry into the Picturesque, The University of Chicago Press,1991)の冒頭の章「混合(mixture)」の粗訳をあげておきます。後ろの章にはフランス革命とか貨幣のこととかそれぞれ興味深いことが論じられていますが、まるまる一冊は版権の問題もあるでしょうし(まるまる一章というのもきわどいところですが、学術書だし、ロビンソンはコロンビアの建築出身というし、大目に見てもらいましょう)、「混合」という主題を劈頭に持ってきたところも時代を感じさせると思います。この論文が唐突に出されると田舎学者の癖学問と思われるかもしれませんが、研究を支援したのはポストモダンの建築家と見做されているスタンリー・タイガーマンです。そういえばロバート・ベンチューリが書いた論文に「ラチェンズから学ぶもの」というものがあります。ラチェンズはいうまでもなくエドウィン・ラチェンズ、ブリティッシュ・ビクトリアン最後のマスターアークテクトのことです。

参考になる範囲でご利用ください。



第一章 混合

一八世紀末、「古臭い」庭園術を改良すべく期待された若いユベデール・プライスは、リチャード・ペイン・ナイトともども、ピクチャレスクの主要な提唱者となった。彼の改良は「古臭い」ものを「モダンなもの」に完全に置き換えることだった。のちに『ピクチャレスク』(一七九四)においてこのことを振り返りつつ、「モダンなものと混合することで、古いものも利用できたかもしれないのに」とプライスは後悔し、嘆いている。プライスはこの時までにすでに一書を著しており、ピクチャレスクはもはや「モダンなスタイル」ではないとも述べている。それは対立するものを混合するという態度の問題であると、彼は理解するようになっていた。同書ののちの版(一八四二)にはリチャード・ペイン・ナイトがポウィス城で似たことを行った話を、プライスは加えている。起伏のある広大な土地を、芝生を植生した滑らかなものへと体系的に破壊したという話である。ナイトはしかしながら、後悔の必要をまるで感じていなかった。なぜなら岩をどける必要はなく、ただその荒さを享受すればいいのだと、持ち主のジェントルマンをしてうまく説得していたからである。

間違ったことをしてしまったというプライスの告白は、混合をピクチャレスクの中心特性として打ち立てる。対立するものを探し出す構成とは、自らと異なるものを徹底して排除する首尾一貫という伝統的な理念から、重要なことに出てきている。プライスによる混合の推奨に関連する諸理念とそれが暗示するものについて、以下に見ていきたいと思う。

プライスはピクチャレスクな構成の一種を「分け隔てる明白な線」を持たず、「全てが混合され、一緒に調合されている(blended)」ものとして思い描いている。だがこう述べることで彼は、ピクチャレスクのこれとは全くの対極に位置する各部分間の「唐突な変化」という条件をさえ同定していく。各部分別個の性格というものはそれが「不断に混ぜ合わされた」としても、妥協しあうというものではない。それら個別の本性は容易には分離できない。しかしどうにかすると分離可能でもある。何が調合されるのだろうか、どの割合で調合されるべきだろうか、一八世紀後半の書物や雑誌記事に登場した審美的・政治的構成に関する論争の、どの程度までをそれは占めているのだろうか。

時間の蓄積と変化というのが、ピクチャレスクが提唱するある種の混合のモデルである。ナイトがピクチャレスクを建築に適用するとき、彼は「連続する時代を通してばらばらに、異なる民族や国家によって建てられ、混合された様式、・・・突出した特定の様式や装飾を持たず、あらゆる雑種を許容する様式」を推奨する。ピクチャレスクの強さと弱さの双方がこの雑種性に出自している。規則が固定してしまわないよう、ピクチャレスクな構成はさまざまな条件に変幻自在たり得る。反対にその選択において許容度が大きいことは、この構成が乱雑な背景へと消滅してしまう危険をも犯している。

自らと異なる他の主張や、漠然とした背景に吸収されまいと力を集中することは、まさにアイデンティティの欲求である。ピクチャレスクはこの点で一つの積極的な主張なのである。自らのアイデンティティが絶えぬ適応を要求するものであってさえ、背景との相違だけが意味を与える。それが完全に行使されると自己解体にいたるという雑種性の肯定は、一つの逆説であろう。ピクチャレスクの議論へと混合されるように折り込まれている、漠然なるものと、はっきりした矛盾のほとんどが、このアイデンティティの問題に出自している。

経年変化による効果は以前の組織状態と比較されて初めて分かる。時間が経過したのちに味わういかなる満足をも凌ぐ労力が、最初に組織的に注がれねばならない。プライスはイタリア滞在時、もともとのシンメトリー性が曖昧になっている庭園を見て喜んだ。古さと無制限な生成のこの混合は、さまざまな放置を適度に受けたルネサンス庭園の明快な構造に根拠を置くものだった。ここには二つの形式性があり、一つはそれが偽装であるゆえよいものであり、もう一つは剥き出しであるゆえ悪いものであり、この両者は何がしかのピクチャレスクな構成をそこに認めるという点からは分けられるべきものという。「公式の特有性を持った形式性と、現実であるにもかかわらず気楽で気まぐれに満ちた雰囲気を持った形式性のあいだには、大きな相違がある」。気まぐれという雰囲気の仮定は、ピクチャレスクらしさを確定しようという問題を、簡潔に要約している。

いかなる幾何学性にも基づかない庭園計画や公園計画へのイギリスの好みは、一八世紀初頭において発達したものである。とりわけジョセフ・アディソン、バーリントン卿、アレクサンダー・ポープといった人たちは、庭園芸術において「自然主義」を大なり小なり提唱したジェントルマン名簿の筆頭にあげられてきた。「自然主義」とは正確には何なのかという問題は、簡単には結論の出ない議論の始まりとなった。簡略化された議論ではこれは、人工物はどの程度まで自然の外観、あるいは自然の見えない法則に従うべきなのかに焦点を当てた論争としてあった。明快な伝統的幾何学による人工物と、自然から派生した不規則で曖昧なものを混合するという中間地点を占めようと、ピクチャレスクは試みた。自然の外観は参照項だったがしかし、設計者は樹木や岩を理想的構成にしたがって配列する自由を手放さなかった。

何気ない一瞥においては、植物学的あるいは地質学的な自然は、形や、色や、肌理において多様に見える。生成し、変化もする。人間の理想型に照らし合わせれば、自然はあらゆる明快な規則から派生したものに見える。混合をピクチャレスクの審美的推奨の特筆すべき性質とすることで、ピクチャレスクの構成に感覚刺激が導入されたが、この感覚刺激とは理念化された自然の探求において混乱を招くものであるとして、伝統的に排除されてきたものだった。

ある人たちによれば、ピクチャレスクは自然を欺瞞的に利用するものだった。それは自然を参照はしたが、自然は従順ではなかったからだという。人間による構築物を導くものとして自然の昔ながらの権威ある関係に訴えようとした人たちは、自然や社会に対する既成の、それも多くの場合支配的な関係を正当化するためか、さもなければピクチャレスクな混合が要求する自然と人工物のあいだの終わりない問いを避けるために、そうしたのだった。

一七一二年六月から七月にかけての『スペクテーター』紙におけるアディソンの諸論文は、より包括的な審美的見地を紹介している。これら諸論文において彼は、当時大きくなりつつあった「自然の荒く意図せぬ筆さばき」への関心を、伝統的な「技芸による装飾的で柔らかな筆さばき」へと繋ぎ合わせる。「偶然が設計効果を有しているように見える」という新しい悦楽のアディソンによる発見は、審美的という点からみた構成の理論と呼べるだろうものの初期段階における展開である。審美的対象における荒く意図せぬものを真面目に検討することは、それまで皮相な作品を切り捨てるためにピクチャレスクを考えていた人たちには、複雑な含みをもたらした。

初期においてもっと自然な庭園を主唱したもう一人の人物はロバート・カステルである。彼の『古代の邸宅』は一七二八年に出版され、この書はまたバーリントン卿に捧げられたものでもあった。同書において彼はローマ庭園の三つの発展段階を分類している。第一段階は荒く素朴な段階である。第二段階は規則と直線に従って配されるという。第三段階は「自然の忠実な模倣である。この段階では各部分は大いなる技芸によって処理されてはいるが、不規則性はまだ残っている。その結果、手法は手業に満ちた混乱などと不届きにも言われるものではなく、熟練の技による外観でもなく、自然な形態をした岩や、滝や、樹木が用いられる」。最初の二つの段階は直接的な言葉で明確に述べられ得る。第三の段階はしかしながら、例外や婉曲を要している。「されてはいるが」や、「まだ」や、「不届きに言われるものではない」といった言葉の使用は、それを理解するのにその外観をもってするのは不充分であることに注意を促している。この第三段階は「自然形態」を想定させることで、人為から注意を逸らしているのである。カステルによる段階説は、支配の獲得と行使は最終的に内省的自己意識と確信の域に到達し、これがノスタルジアからであれ、新たに獲得した洗練からであれ、初期段階を表象することを選ぶことを認める。

支那との関連はこの混合的な庭園設計を支持するもっと適切なものの一つである。一七二四年にフラ・マッテオ・リパによってヨーロッパに紹介された支那庭園の景色に対し、バーリントン卿や、自身支那に赴いた経験があるウィリアウム・チェンバース卿といった人たちは、その庭園芸術だけでなく、政治道徳性においても、儒教支那を共和制ローマに結びつけた。磁石に引寄せられた鉄屑のような絶対的配列から自由な部分を持つ新しい構成なるものが、市民個人と国家のあいだのバランス、自然の特質と人工物の配列の調和という、彼らが望んだものを満足させることに気付いたのである。

混合はその構成要素を同定することで始まる。各々の要素が受容されるべきかどうかを決めることは、混合の主唱者のさしあたっての関心事ではない。要素の選択という問題を、全体構成に貢献する多くのものを認めることへと、一足飛びに彼らは置き換えたのである。各々の要素自身からその要素間の関係へと、ピクチャレスクは関心をずらすのである。別の状況においては受容できない要素であっても、ピクチャレスクにおいてはすぐさま抹消されることはたとえそれが可能であっても、まずない。対立の範囲はそれゆえ広範囲にわたって許容され、要素を抹消することではなく、いかに配するかの議論となろう。

荒さ、唐突な変化、不規則性がピクチャレスクな構成の力、あるいは「原因」であるとプライスは同定していた。だがこれではまだ半分しか語っていない。ピクチャレスクはこれらの特質のみに拠るのではなく、これらの要素をその特質を欠く構成へと混合することにも拠るからである。これら特質を推奨するのは、あまりに滑らかで平均的と見做される構成が支配的であることに対してなのである。荒さ、唐突な変化、不規則性はかくも感覚的な刺激なので、混合というもっと魅力的原理を曇らせてしまう。

これら三つの視覚的特性のみに焦点を当てた者たちによって、プライス自身は誤解されていた。一七九四年七月一日付のハンフリー・レプトンの書簡への返信で、プライスはこう抗議している。「野性的で無作為なある種の情景を好意的に語ったことから、もしもその力があればあらゆる心地よい物を破壊するだろうと、私は誤解されてきた。(少なくとも私自身にはそこから始めるのが相応しい)砂利道や潅木には剪定の手を入れてはならず、背の高い草の露のおかげでびしょびしょになり・・・野薔薇や棘のあるブライアで服はちぎれ・・・轍のあいだで膝まで泥につかるよう仕向けるだろうと、私は誤解されてきた」。プライスの単純な主張が暗示しているものとは、ある極端をその対極に置き換えることは、混合のもっと根本的な原理を直接脅かすということである。荒さと唐突な変化を「対立する特質」と同定することで、プライスはこうした偽表象を先取しようとしたかもしれない。連続する荒さは連続する滑らかさと変わるところはなかろう。唐突な変化こそが混合を確かなものとする特質だからである。

一七六七年に始まり一七八三年に新版が出た『英国庭園』というウィリアム・メーソンによる詩は、混合をきわめて直接的に推奨しているように見える。メーソンとは庭園設計をめぐる議論に関わった二人のジェントルマンの苗字であり、もう一人はジョージ・メーソンである。ウィリアム・メーソンは議会改革にヨーク同盟から参加していることから、当初は政治的にはリベラル派だったものの、彼自身の評価によればフランス革命とその余波のなかでの四部五裂ぶりへの幻滅から、のちにイギリス貴族階級の強力な同盟者となった者である。「古代に倣った視界(ビスタ)を遮断すべき」かどうかを問われ、視線を枠付けている規則性のあらゆる痕跡を伐り倒すのではなく、一列に植栽されたナラに新しい樹木を散在的に付加することを、メーソンは提案している。相応しいとされる好みが拒否するパターンをも含む懐の深さが、ここで示すもっと複雑なピクチャレスクにメーソンを帰す顕著な立場なのである。その政治信条が変わったとしてもメーソンがとり続けた立場とは、不規則性という立場だった。懐深さの表現に先立ち、何であれ真直ぐなものは「流れるような曲線」へと溶解されるべきであると、彼は薦めている。第一書の注においてメーソンは一七世紀の建築家ヘンリー・ウッテンを、建物と庭園が異なることを示すのに効果的に引用している。「構造体が規則的であるべきように、庭園は不規則的であるべきである。あるいは少なくともきわめて野性的な不規則性に則って造られるべきである」。混合という考えは新しいものではなかったが、それを適用する大きさは違っていた。ピクチャレスクはそれをかつてない小さなスケールと、かつてない大きなスケールの双方で適用したのである。

哲学者のケイムズ男爵による『批判の諸要素』では、混合は最も大きな審美的満足の源であると認識された。類似における差異と、差異における類似の双方を結びつけることは、驚きをもたらす。しかしながらそれが何度も繰り返されれば、類似と差異の対立や変換はもはや驚きを生み出さないと、ケイムズはさらに続ける。壮大さと細かさ、規則性と野性味、愉快と憂鬱の入り混じりは音楽の構成においても、視覚の構成にもおいても成功をもたらす。混合を満足させる対立用法がケイムズの書において最も鮮やかに描かれるのは、その庭園術の描写においてである。「大都市近郊の庭園は人里離れた雰囲気を有」さねばならず、一方で大都市から離れた庭園は「自然の模倣を避け、並々ならぬ規則と技芸の外観をとら」ねばならないとされる。「よく手の入った環境」と「荒れた田舎」の対比的操作は「よい効果」を生み出す。ある地域全体における混合のスケールの鮮やかな例がここにあろう。

唐突な変化は、新奇によって混合を生み出す。感覚の中断から生ずる「苛立ち」のよい効果をリチャード・ペイン・ナイトは認識していたが、これも繰り返されれば「陳腐で退屈な」ものと化してしまう。「当初感じていた快を復元しようと、何か新しい印象を当然のごとく我々は探す」。だが新奇を推奨しながら、それに過度に耽るなら変化への欲求自身は病的で退廃的なものとなるという警告を、彼はまたすぐさま発する。刺激の不在、あるいは刺激の不表象というこの特質はもともとの感覚に訴えるあらゆる議論から、ピクチャレスクを分けるものである。混合はもともとの正しいバランスを回復させるものではなく、対立が連続するよう維持するものなのである。かつて新奇だったものは陳腐となるし、その逆もまた真だろう。構成要素の機能は時間の持続のなかで決まるのであって、その内在的本来性によって決まるのではない。

驚きや新鮮さを超え、新奇は好奇心を刺激する。新奇によってもたらされる多様性は少なくとも当分のあいだは、慣れ親しんだ退屈さへと構成が退化しないよう保つ。感覚刺激から結果する一つの結末は、いかなる一つの審美的刺激にも注意が長く留まらなくすることである。プライスにとって「苛立ち」は能動的でいきいきした快の源である。柔らかで穏やかな感情は「せかせかして、そわそわして、性急な」感情によって遮断される。よく仕上げられた芸術作品の長い熟考は、移ろいやすく、変わりやすく、落ち着かない活力や鋭い衝撃に置き換えられる。審美的知覚の速さも忙しいものとなろう。

対立する感覚刺激を混合する欲望は、風景の構成においてはすでに常套となっていた。一八世紀中葉の象徴庭園における新しい審美様態の主要な例と見做されていたリーソウズ風景庭園の所有者でもあった詩人のウィリアム・シェンストンは『庭園術の断章』(一七六五)において、「もしも野生の場面から目を転ずるのでなければ」広い芝生は「いかに美しいものであっても、うんざりして飽きてしまう。両者があって優雅で新奇なものとなり得る」と観察している。

予想される連続性を遮ることが、この遮断にオリジナリティのようなものを加える。唐突な変化は、それが新しい始まりのように見える刺激へと注意へ向ける。唐突な変化があまり唐突でなくなるにつれ、それはだんだん滑らかななものとなり、当初の連続体へと近付いていく。荒さは仕上げを必要とすると慣習的に考えられている。それを仕上げとも見做すピクチャレスク以外のところでは。

2007-12-20

f:id:madhutter:20071220081618j:image:left:w180Hal Foster “The Return of the Real,” The Return of the Real, The MIT Press, 1997









「あるハイモダニストたちが表象形象を超越しようとし、ある初期ポストモダニストたちが深みのないイメージに悦楽を見出そうとしたなら、ある後期ポストモダニストたちはリアルな物を所有したいと欲している。

このポストモダニズムの二極性はいまや質的変化に向かっている・・・純情動、無情動。〈私は傷つく。しかし何も感じることができない〉」(165-6頁)。


出版は1997年である。もう10年たつのかと思う。全体の構成はポップアート(アンディ・ウォーホール)の再解釈に始まり、スーパーリアリズムに一瞥を与え、シンディ・シャーマンとアブジェクトアートを経て、アブジェクトアートの先行者としてのシュールレアリスムを現代に引寄せて見るところで終わる。理論的な背景にはもちろんザ・リアル(現実界)をはじめ、ラカン精神分析のRSI(現実界、象徴界想像界)の見取図がある。

まずはウォーホールについてのポスト構造主義者とトーマス・クロウによる二つの先行する解釈に対し、トラウマ的リアリズムという視点が提示される。ポスト構造主義者による解釈とは、ロラン・バルトをはじめドゥルーズガタリや、とりわけジャン・ボードリヤールによるものであり、これは一世を風靡したシミュラクル論からポップアートを見るものだった。ポスト構造主義(この言葉自体はアメリカ発だが)のシミュラクル論とは、オリジナルのないコピー、シニフィエと断絶したシニフィアン、純粋記号の戯れといえる。これに対してトーマス・クロウの視点は表象的であり、古典的芸術作品への批評などではなく、ファッションや「セレブ」といった自己満足的消費文化が容赦ない事実によって暴かれることを、ウォーホールに見ている。

これら二つの視点を否定はしないが、フォスターはラカンを援用しながら「トラウマ的リアリズム(traumatic, troumatic, automaticがかけられてもいる)」という視点をまず導入するのである。

ウォーホールの「アメリカの死」とほぼ同時代に書かれたラカンの眼差しについてのセミネールに関し、「多く引用されてきたが、ほとんど理解されていない。男性の眼差しはあるだろうし、資本主義のスペクタクルは男性性に方向付けられているが、しかしそうした議論はラカンの〈この〉議論では支持されていない。ラカンにとって眼差しは、少なくとも最初からは主体に埋め込まれているのではない」「ラカンの言語にとってと同じことが、彼の眼差しについても言える。つまりそれは主体に先立ってあり、その主体は「全方位から眼差しに曝されており」、しかし「世界のスペクタクル」のなかでしみとしてある」(138頁)と述べる。

フォスターが用いるラカンの眼差しの図式はそれゆえ、複合的ないしはこれまでの眼差しの図式に転倒的なものである。ルネサンス以降の線遠近法的な眼差しの円錐に、光源(対象と同位置)の頂点と眼底(に反映した絵)の底面を持つ円錐を複合させ、なおかつ眼差しと呼ばれるものはその光源の位置を占め、表象における主体はこれとは対をなしている。その中間に「イメージスクリーン(つまり表象)」が位置する。イメージスクリーンは(想像界というより)象徴界に属するものだろう。

大雑把ではあるが、ラカンのRSI見取図をカント哲学に重ね合わせれば、「現実界」は物自体、「想像界」と「象徴界」は物の表象ということになろう。物の表象のうち象徴界はロゴスとか父の法とか言語と呼ばれるものにあり、つまりは人間の世界にのみ属し、想像界はそれ以外の表象、もう少し物自体に近い表象といえる。それゆえ想像界は動物にも属する。スーパーリアリズムに鑑みながら「動物は表層におびき寄せられ、人間はその背後にあるものに欺かれる。背後にあるものとはラカンにとって、眼差し、対象、現実界であり、それによって創造者としての画家が対話を試みるものである」と述べる。このあたりは西洋の古典的芸術論の議論も髣髴させるが、とはいえ完全なイリュージョニズムは不可能であり、スーパーリアリズムとは、現実界のいわばエンバーマー(embalmer)としてあるとされる。また、フォスターが「トラウマ」と呼ぶものはこのイメージスクリーンの孔に関しており、バルトが『明るい部屋』において述べた「プンクトゥム」とも親近性を見せている。もうひとつ、このラカン/フォスター的な眼差しのあり方は、結論近くで述べられる「アブジェクションのカルト史の主体がもしあるとすれば、それは労働者でも女でも有色人種でもなく、屍体である」の前提にもなっている。屍体はおそらくシュールレアリスムの『優雅な屍体』にもかけられていようが、こうした眼差しのあり方とアブジェクションに対する主体があるとすれば、それは屍体ということになるのだろう。主体は空虚なものであり、それゆえ傷なしには分からぬものであり、それゆえわれわれは(眼差しによって)みな傷ついており・・・そして屍体はまた、物自体に近いものでもある。

ところでアブジェククトアートとは、1993年にホイットニー美術館で開催された現代美術では有名な同名の展覧会からきたものである。理論的にはジュリア・クリステヴァの「アブジェクト(abject)」からきており、この概念はいろいろと説明されるが、ここではラカンが援用されながら、アブジェクトとは抹消主体、あるいは象徴界へと入り「私」というものになるためにそぎ落とされたものであると、とりあえず説明される。この点からさらにアブジェクトアートを、大きく二つに分類してみせる。ひとつはマイク・ケリーら主として男性アーティストによるもので、これには幼児的立場から父性的な法をからかう傾向があり(ということは象徴界に揺さぶりをかけるという傾向があり)、もうひとつはキキ・スミスら主として女性アーティストによるもので、これは父性的な法によって抑圧された母性的身体を探るという傾向がある(ということは象徴界によって抑圧された現実界を探るという傾向がある)と、整理される。前者はシュールレアリスムにおいては「中二病のヲッサン」ことアンドレ・ブルトンに先行者を見出し、後者は「糞哲学者」ことジョルジュ・バタイユに先行者が見出される。ちなみに「糞」はアブジェクトアートのモチーフのひとつであり、ラカン派精神分析では対象aの転移物と見做されるものであり、そしていうまでもなくフロイト派にあっては幼児の肛門愛と関連づけられるものである。糞哲学者の傍らで一瞥を与えられているのは『夜の果てへの旅』の作者でもあったルイ=フェルディナン・セリーヌである。セリーヌはしかし、アブジェクトをいささか古典的な芸術作品においてのように純粋化/昇華させたものと見られている。


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2007-12-15

構造家の大野博史さんの杉並永福の集合住宅のオープンハウスにお誘いいただく(建築(意匠)設計は中永勇司+高木昭良)。旗竿敷地であるゆえ、東京都安全条例の「長屋」形式で計画された(たぶん)建物。

バイカーを想定したという建築はシュールな中庭(安全条例・長屋の「巾2m以上の通路」)を持つもので、賃貸物件とは思えない仕上がり。剛性と遮音性と蓄熱性に富み、しかし断熱性には欠けるRCの湾曲界壁を構造体とし、外皮はALC板と曲面加工したボードで軽く薄くと、メリハリのきいた構造計画。中庭の曲面はバイクの回転軌跡というより、限られたなかで採光補正係数をとるのにききそう。その中庭に向いた各室の窓は視線がぶつかりにくいよう高めにとってある。いずれにせよこの立地でこの仕様でこの家賃は、お住み得だ。建築自体の設計監理はもちろんのこと、きっと利回り計画の立て方もうまかっちゃんに違いない。

株式会社アールエイジ伊藤さま、ぜひともご一緒にお仕事をしましょう(揉み手+擦り手+スマイル)。


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2007-12-13

f:id:madhutter:20071213210039j:image:left:w180黒川紀章「ホモ・モーベンス」『黒川紀章著作集1』勉誠出版、2006









過去の人が若いころに書いた文章を読むのは興味深いものです。私自身がちょうど30歳をまわったころ、その半世紀以上前に20歳そこそこの人が書いた文章(北一輝の初期論文)を読んだ時などは、のけぞったものです。

「ホモ・モーベンス」の初出は1969年ですから、40年近く前、黒川紀章が35歳前後で書いた書なのですね。40年近く経て大きく変わったことと、まるで変わっていないことにまず目がいきます。

本書に登場するメタポリスとかメガロポリスのあり方はその後必ずしも線形的には発達しなかったものです。たとえばアメリカでは1970-80年代に北部フロストベルト(スノーベルト)の重工業地帯から南部サンベルトへと産業の中心が移っていきました。日本では1970年代の大平政権下での「田園都市国家構想」、80年代の中曽根政権下での東京一極集中、90年代の大店法撤廃による郊外化、2000年代の中心市街地活性化/コンパクトシティ論と、無節操なほどの跛行性を見せています。

他方、本書でいわれる多種多様性の尊重、ピラミッド型システムからネットワーク型システムへ、廃県置州(道州制)、ハイブリッド性、サイボーグ論などは、のちの(あるいは今日の)ポストモダンと呼ばれる状況をおおきく先取りし、またそこから何も変わっていない(いまだに新しい)ものに見えます。

黒川紀章の都市論へのジェーン・ジェコブスの影響は本人の論及からもはっきりしていますが、明言はしていないものの何がしかの影響、あるいは反発があるのではないかと思えるものとして、スミッソンズの都市論があります。

黒川の「道の建築」は”eyes on the streets”コンセプトをはじめ、ジェコブスの概念の影響をいえそうです。もっともこの時代、「道」一般は大きな主題だったものです。その大きな理由のひとつは20世紀における自動車の普及でしょう。スミッソンズ(やルイ・カーン)の都市論における自動車はどちらかというと否定的なものです。できれば排除するか、分離するか、そうした対象としてあります。スミッソンズ初期のゴールデンレーン計画は、地上を自動車スペースとし、歩行者は基本的に空中歩廊を歩くという歩車分離がいわれています。ゴールデンレーン計画の特徴(面白さ)はこの歩車分離だけでなく、都市の成長にあわせて建築自体が増殖していくという、建築/都市のヒエラルキーとはまったく異なった建築=都市という考えにもあり、ヨナ・フリードマンやGEAMやメタボリズムなど、当時の世界的な動向との共鳴もそこには窺えます。それはともかく、ヨーロピアンとしてのスミッソンズにとってまず「街路(streets)」というものが都市のイメージとしてあり、「道路(roads)」は外挿的なものでしかない。街路は建築に属する部分としてあるが、しかし道路はそうではない。アメリカ旅行ののち、この考えは変更されたとも言われます。アメリカの自動車理想郷的状況もあったでしょうが、ルイ・カーンのフィラデルフィア計画の影響もあったでしょう。古典的な城郭都市のような囲われた“precinct”を形成し、車の海のなかの港のようなものとして構想された都市ビジョンです。スミッソンズののちのロビンフッドガーデンズでは、バックヤードのトラック用道路が地下に沈み込んでいるところはレベル差による歩車分離ですが、2棟の折れ曲がったスラブ状の建物によって内側に“precinct”を形成しているところなどは、それまでにはなかった(あるいはカーンの影響)ものだろうと思われるわけです。ちなみに空中歩廊という建築語彙はエドガー・シャンブルという建築家によって開発され、そのごル・コルビュジエの『300万人の現代都市』において多用されて一般的となり、1960-70年代の建築ではじつに多用されています。黒川紀章の農村都市計画(1960)をはじめとした計画にも、重要な要素としてもちろん登場するものです。

かつてチーム10の会議に出席して天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたと黒川紀章は述懐しているゆえ、スミッソンズにもなにがしかの影響を受けているのではないか。

もっともいずれにせよしかし、黒川の自動車や道路に対する考えはスミッソンズとは異なり、かならずしも否定的なものではありません。「ル・コルビュジエはブガッティを愛車にしていた」と称し、みずからもアストンマーチンをぶっ飛ばしていた黒川紀章にとって、車は排除・分離すべきものではなく、「共生」すべきものであり、また生活空間の延長としての室内の一部であり、カプセル建築と相同的、あるいはサイボーグ的なものとしてあります。

ところで産業革命(工業革命/industrial revolution)というと製造業による変革のようにも見えますが、スミスの『国富論』などをむかし読んだ印象では、必ずしもそうではなかったのではないかとも思えます。蒸気機関も鋳鉄も原理的にはすでに知られていたのかもしれませんが、一般的に用いられて「産業革命」と呼ばれるものが登場するのは、流通革命としてあった気がするわけです。18世紀において都市は農村からの食料その他の調達を必要とし、いっぽう農村は都市の製造業を必要としていた。互いが必要としているもののあいだに高速大量輸送装置を設け、それ自身が産業化し、なおかつ他産業を刺激していく。重商主義は金属(金や銀)に価値を見出し、重農主義は農業生産に価値を見出し、後者が産業革命を準備していくわけですが、都市部の製造業、農村部の農業、漁村部の漁業と、まったく価値観の異なるものを再編するにあたってスミスが見出したものが、「労働」です。国民経済学は富の源泉に、「労働」なるものを措定する。製造業者や農民や漁民その他の行為に共約的なものとしての、「労働」という概念です。さらにここに「道」という物理的なものともども、不換紙幣の発行がくわわる。スミスは『国富論』において不換紙幣とは約束手形のひとつであり、これによってそれまで地上の道を歩んでいたものが、なにか危なげな空中の道を歩むようになったように見えると書いていた。歴史上はじめてのバブル経済である「海南島泡沫事件」は、イングランド銀行による不換紙幣発行直後に起きています。なおかつ不換紙幣発行の背後には印刷技術の発達があったでしょう。資本主義を準備した最大の要素は、工業一般もさることながら、印刷技術の発達だったのかもしれません。

19世紀後半は第二次産業革命期、別名鉄道革命期とも呼ばれますが、おもしろいのは当時の議論です。日本において鉄道を敷設するにあたって、かなりな議論が行われているのですね。「そんなものを作って何になる」「何も生産しないじゃないか」「軍艦を造る方が急務である」。当時の軍艦はいまはほとんど残っていませんが、鉄道はいまも残り、機能しています。鉄道敷設派は先見の明があったということでしょう。

この春の東京都知事選挙での黒川候補のマニフェストに、「東京-大阪-上海-北京をむすぶ航空路線を設ける」を見出し、のけぞったのは、私だけでしょうか。

2007-12-04

TOTO・ギャラリー間の迫慶一郎+松原弘典/REALIZE・立脚中国展開世界展オープニングパーティにお誘いいただく。迫さんは外山恒一と同級生だったのか。


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2007-12-03

f:id:madhutter:20071203212002j:image:left:w180ジクムント・フロイト「快原理の彼岸」須藤訓任訳、『フロイト全集17』岩波書店、2006












cultural criticism関係の本を読んでいると”beyond the pleasure principle”という言葉にしばしばお目にかかる。そのまま読み流していてもいいのかもしれないが、これは後期フロイトの有名な論文の題名である。邦訳は昨年出ているのですね。エロスとタナトスの二項がと言われることがあるが、死の欲動は「自我欲動」と呼ばれ、フロイト自身は「タナトス」という言葉は使用していない。またフロイトらしく明確な結論は提示せず「われわれの科学的認識の遅さについて」、詩人の箴言の引用で終えている(引用文における跛行性の肯定は「快原理」についての考えを改訂したことにもおそらく関係している)。1920年、つまりヨーロッパに天地がひっくり返るような価値観の転倒をもたらした第一次(欧州)大戦の直後に書かれ、また「死の欲動」という概念自体この戦争に触発されたと言われることもあるが、「戦争神経症」という言葉が登場するのは一度だけで、それもすぐに外傷性神経症として論じられる。有名な「オーオーオーオ」の幼児の例は論文の始まりの方で導入として示され、IVの冒頭において「以下は思弁である」として「快原理」別名「涅槃原理」の彼岸がこののち考察されていく。この論文の主題の一つである欲動(drive)に「死の欲動」と「生の欲動」の二項の欲動があるのは、ユングの一元論とは大きく異なっている(「それ以来、かつ以上に鋭く二元論的になっている。それに対し、ユングのリビード理論は一元論的である。彼が自分の唯一的欲動力をリビードと呼んだために、混乱が生じずにはおかなかったが、われわれとしてはこれ以上、そのことに引きずりまわされるべきではない。自我のうちには、リビード的自己保存欲動以外の欲動も活動していると、われわれは推測している」(110頁。ちなみに「快原理」自体は死の欲動に関係しているとされる)。さらに「死」の概念自体、生物(科)学の知見を援用しながら、無機物/有機物、原生生物/高等生物の対比のなかで吟味されていき、また「自然死」とは「概念」であるという。

それでは「欲動(drive)」とはなにか。「欲動とは、より以前の状態を再興しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫である。ただ、生命体はこの以前の状態を、障害を及ぼす外的力の影響のゆえに放棄せざるをえなかったのだ。欲動とは一種の有機的弾性である、ないしはこう言った方がよければ、有機的生命における慣性の表れなのである」(90頁)。

「したがって、有機体のあらゆる欲動は守旧的であり、歴史的に獲得されたものであって、退行を、つまり、以前のものの再興を目指すのだとすれば、有機体が進化してきた結果とは、妨害し逸脱させる外的影響のおかげだとしなければならない。初歩的生命体はその始めから変化を望まず、もし事情が同じなら、ただ同じ生の経歴を繰り返したことだろう。しかし、地球は進化し、太陽と地球の関係も進化する。結局のところ、この進化の歴史が有機体の進化のうちに刻印されて、われわれのもとにまで残されているに違いないのだ。有機体の守旧的欲動は、生の経歴に押し付けられたこの変更をことごとく受け入れ、反復すべく保存しておきながら、しかしまさにその結果として、それ自身が変化と進歩を追求する力であるかのような、人を欺く印象を与えずには済まなくなる。その実、欲動は以前からの目標を新旧のやり方で達成しようとしているだけなのである。あらゆる有機体が追求するこの最終目標についても、それが何であるかを言えないことはない。生命の目標がいまだかつて達成されたことのない状態であるならば、それは欲動の守旧的本性に矛盾することになろう。その目標はむしろ、生命あるものがかつていったん放棄したものの、あらゆる進化発展の迂路を経ながら帰り着こうとする昔の状態、生命の出発点である状態でなければならない。生命あるものはすべて内的根拠に従って死に、無機的なものに帰ってゆくということを、例外なき経験として仮定することが許されるなら、われわれは次のようにしか言いようがない。すなわち、あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。」(91-92頁)

2007-12-02

建築家の高橋堅さんの世田谷弦巻町の住宅オープンハウスにお誘いいただく。

一種低層一高地区(たぶん)の不等辺四辺形の旗竿敷地。四軸構成の複雑なプランと白を基調としたシンプルなデザイン。浴室ドアについていたオリジナルドアハンドルがもしかしたら株式会社ユニオンから製品化されるかもしれないとのこと。


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2007-12-01

自治体のまちづくり関連のイベントに出席。とりあえず一般的なことのみ。

各自治体にまちづくり課なるものがぼつぼつとでき始めたのは、最近のことだろうと思います。土地区画整理事業や公共建築などの箱物からソフトウェアの視点を取り入れた行政のあり方へとまずはいえるが、おそらくどこも手探り状態で何をすべきかはまだ見えてないのでしょう。一般論からいえば地域ブランドの確立が目的であるとすれば、各自治体によってやることは異なってくるのでしょう。ウェブ2.0時代の地域SNSをやったのは熊本県八代市だったと思いますが、まさにソフトの試みであるとはいえ、しかしそれは民間でもできるし、これまで地域ケーブルTVがやってきたことをウェブでやっているだけではないのかとか、旧中心部の高齢層(ウェブよりも旧メディアに親近感がある)と郊外の住民の格差をかえって拡げるだけではないのかとか、はたして産業や住環境にどれだけ貢献できるのか、いろいろとあろうかと思います。

地域経済が国民経済のなかでうまく機能していた時代も終わりつつあるのかもしれません。労働力市場においてはフリーターやニートワーキングプアなどが存在する一方、それでも外国人労働力は日本にやってきます。つまり労働力市場はすでに層状化しているわけです。この現象はヨーロッパやアメリカでは20年前から顕在化していたことです。当然ながら資本についても同じことがいえます。かつての日本は主要銀行を中心とした企業集団を形成していましたが、これが「ケイレツ」とか「閉鎖的市場」として叩かれたものです。もっとも企業コングロマシーというあり方ははもともとかつてのアメリカから輸入され、それが「ケイレツ」として日本独自の進化を遂げたのではないかと思いますが。

不動産開発などはいまや証券市場で資金を調達し、その市場はかならずしも国民経済の範疇にあるとは限らない。市場を通して渋谷における家賃収入がカリフォルニアの公務員組合の年金になったり、アメリカの住宅融資の問題が影響したり。

かつて企業買収が人目を引いたとき、企業は誰のためのものかという話題がありました。経営者のものか、株主のものか、そこで働く人のものなのか。これからはまちもそうなっていくのかもしれません。事業主体のものか、投資家のものか、そこで暮らす人のものなのか。どれか一つの対象しか見ない議論は、ナイーブな議論なのかもしれません。


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