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RCaO1.0

2008-01-06

f:id:madhutter:20080106163643j:image:left:w160 LIGHT YEARS AHEAD, THE STORY OF THE PH LAMP, edited by Tina Jorstian and Poul Munk Nielsen, color photography by Bent Ryberg, translated by Tam Mcturk, translation centre, University of Copenhagnen, Louis Poulsen, second edition 2000







ポール・ヘニングセンの3シェードPHランプがルイス・ポールセン社のカタログに登場するのは1926年であり、それゆえPHランプは1926年作とされる。もっともそれ以前、前年のパリ装飾博でのパリランプや、未完に終わったトルバルセン美術館での1923年の照明設計において、PHランプの原型はかなり出来上がっている。パリランプで初めてルイス・ポールセンと協働し、またトルバルセンの仕事はコーア・クリントからのものだった。クリント派の線ということでは、のちの建築家ヨーン・ウツソンによるシドニーオペラハウスの当初案が思い起こされる。まるでPHランプのフィッティング(シェード)さながらのロガリズム曲線風フリーハンドラインの重畳による案である(のちに半径の異なる球体部分の複合へと翻案された)。

第二帝政時代のパリにおいてガス灯が普及したが、このことは都市の夜景を一変したといわれている。19世紀後半にはケロシンランプが登場し、さらに世紀末には電燈が登場する。それまで家庭内においては暖炉や蝋燭など、光源と熱源はだいたいにおいて同一だったが、このあたりから光源は熱源から独立したものとなっていったという。光源による煤や酸欠の問題もなくなった。これはちょうど20世紀におけるベンチレーターの登場が、採光と換気という窓の機能のうち、後者を部分的に窓から奪っていったことと類比できるかもしれない。

電燈はカーボンフィラメントのものからメタルフィラメントのものへと移行していき、白熱灯(incandescent bulb)が電燈(electric bulb)の代名詞となっていく。

電燈が抱える問題はそのまさに発光体としての性質にある。発光体表面の単位面積あたりの光束量が多いことが人工照明の性能の証明だが、これはまた同時にグレア現象の原因でもあるからである。

グレア解消の方法は大きく二つある。ひとつはバルブを乳白色のものとすること、もうひとつは、そしてこれがPHランプがとった解だが、フィッティング(照明器具)によって最も効果的に散光を制御することである。3シェードの場合、最初のもので50パーセントを、残り二つでそれぞれ25パーセントを意図した方向に無駄なく散光していくという。

1927年にヘニングセンはいわば近代照明の三原則のようなものを表明している。

1、器具による無グレア化。

2、必要とされる方向へと光を効果的に向けること。

3、用途にあわせた光色を選ぶこと。これはまたコストの問題でもある(一般に暖色光は電力消費が大きいので)。


照明装置ともども、発光体(電燈)についてもヘニングセンは考察を残している。電燈の機能は発光にあるが、ただ単に光束量を増せばよいというわけでもない。室内における人工照明の光量は同じ条件における太陽光のせいぜい1/100から1/200という。人工照明に求められることはそれゆえ、対象(物)の表面の色彩や肌理が肉眼にとって最も見えやすくするということである。これは光束量の問題ともども光のスペクトル構成の問題でもあろう。いわば演色性(the ability to reproduce colors and textures)の問題でもある。経済的な観点も加味するなら、暖色域の端が最も効果的なのだという。

ところで太陽光は日の出から日没まで、大気中の通過距離/入射角によって色や光量を変える。暖炉や蝋燭の炎もたえずそのスペクトルを変化させる。人工照明にはしかし、そうした多様性はない。あらかじめ設定されたスペクトルと光束量をただ均質に発光するだけである。

最も豊穣な光は反射光であると、ヘニングセンは考えていたという。


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2008-01-02

f:id:madhutter:20080102175707j:image:left:w120H.D.Harootunian, “America's Japan/Japan's Japan,” Japan in the World, Duke University Press, 1993, edited by Masao Miyoshi and H.D.Harootunian









ハリー・ハルトゥーニアンによる戦後日本論である。”contemporary Japan's economic success”といった記述は、本論が書かれた時代を髣髴させる。直前の論文はフレドリック・ジェイムソン夏目漱石論である。また実際にはコモドア・ペリーや第一次大戦後のアメリカ文化(モダニズム)受容も述べられているが、実質的には戦後論といえる。大雑把に述べて前半でAmerica's Japan、後半で戦後日本の文化人によるJapan's Japanの諸視点が概観されていく。

アメリカの対日政策というと、占領下における占領政策がまず想像される。本論でもそれについては述べられているが、占領政策が占領下においてなされたものである以上、その物語性については自覚的になり得るものだろう。むしろ無意識下において強力に作用したのは、本論から受ける印象では、東西冷戦下において形成された「ケネディ=ライシャワー・ドクトリン」等ではないかと思われる。

1961年のケネディ政権発足後に駐日大使として赴任してきたエドウィン・O・ライシャワーによる『日本近代の見方』は、当時の日本において広く読まれたという(しかし決して英語版は登場しなかった)。この本が依拠していたのはウォルト・ホイットマン・ロストウの『経済成長の諸段階』であったという。ロストウのこの書はソ連(当時)以外の近代化と経済発展を比較発展の文脈で捉えたものだったが(邦訳、『経済成長の諸段階』木村健康+久保まち子訳、ダイヤモンド社、1961)、ロストウが経済に重点をおいて語ったもの(ロストウは経済発展が政治上の民主主義をもたらすとした)を、ライシャワーは政治に重点をおいて語り、国家資本主義と社会民主主義の再肯定を強調したのだという。ロストウは反共主義者だったが、ライシャワーは生涯を通して反マルキストを宣言していたという。本論で引かれる大使就任直後のライシャワーの言葉では、「この古典的マルクス主義が日本におけるわれわれの真の敵である。機会があればいつでもそれを必ず叩き潰す。もちろん、そんな風には言わないだろう。私が用いる言葉は『歴史の新しい見方をとろう』である。彼らはいまや過去の遺物なのだ。われわれこそが未来なのだ。このようにして私は絶えず闘争を継続してきたし、彼らマルキストはそれに気付いているはずである」。

東西冷戦下の戦略において日本を反共防波堤かつショールームとするにあたり、しかしながら日本の国家資本主義とソ連型システムを区別しなければならない。この点においてライシャワーの戦略として登場するのが、日本特殊論である。日本は江戸徳川時代において高度な文明社会をすでに経験しており、日本が近代化を容易に遂行できたのは、このおかげであるという論である。この論はソ連型プロセス(政治革命ののちに経済発展と近代化を遂行する)をモデルとする諸国から日本を分けることになる。さらに第二次世界大戦において日本が進出した東南アジア諸国からも日本を隔て、日本をアメリカへとひきつけることになる。

面白いことだが、というより当然というべきなのか、こうして東西冷戦下において形成された日本型国家資本主義論と日本特殊論は、東西冷戦の終結とともに、ソ連崩壊後に残った唯一の官僚型国家資本主義は日本であるとか、日本は異質であるという論調へと、容易に反転するものでもあろう。

他方で竹内好が援用され、日本側の戦後状況も瞥見される。1955年には自由党日本民主党が連合してLDP(自由民主党)が成立する。さらにイデオロギーにおいては「1960年安保」を軸に、モダニストがマルキストから袂を分かっていく。このモダニストはフレドリック・ジェイムソンならポストモダニストと呼ぶかもしれないタイプである。今日からみれば、ケインズ主義者とかフォーディズム・ケインズ主義者とか福祉国家主義者と呼ばれるタイプである。当面の目標は「所得倍増」であり、当面のメルクマールは1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博だった。

いずれにせよアメリカ側の「ケネディ=ライシャワー・ドクトリン」と日本側のこの「モダニズム路線」の結合はじつにうまく機能したし、予想以上の成果を上げた。1970年代に入る頃には所得は倍増し、80年代に差し掛かる頃には冷戦で疲弊したアメリカを横目に、日本が世界のスーパーパワーへとのし上がっていく。

今日から見れば、それにしても、とも思える。明治日本は日清日露戦争の勝利を梃子として不平等条約の撤廃へと進んでいった。1980年代にこれほどの成果を上げておきながら、戦後日本は次の布石を何も打たなかったのだろうか。

本論の後半では、清水幾太郎江藤淳三島由紀夫小林秀雄といった戦後日本の文化人の言説が検討されていく。興味深いのは清水幾太郎と小林秀雄の分析である。

日本の文化人としての清水幾太郎にはさまざまな側面があるが、ここでは歴史における「現在主義者」として見られている。日本は石器時代から今日にいたるまで、そして未来においても、ただ現在の反復があるというものである。清水は歴史哲学にも造詣が深く、これは清水の結論のひとつなのかもしれない。現在の反復だけがあるという謂いはたとえば「西洋のゴシック聖堂はenduringなモニュメントだが、日本の伊勢神宮は式年造営を通じてeternal repetitionとしてある」といった説明として、日本の建築家が外国において日本の建築の特質を述べるときにもしばしば使用するものである。本論において”eternal repetition”はまた天皇制においても見出されていく。

小林秀雄の分析では、日常性の美学化が批判的に検討されている。「戦前の作家や思想家においては文化・・精神・・はテクノロジーと商品化の過剰に対して、機械と商品形式に対して、最善で最後の防衛として召還されたが、戦後の・・」(221頁)という謂いで、戦前の作家や思想家とも、小林は対比的に(批判的に)検討されている。ここでいわれる戦前の作家や思想家が誰のことを指しているのかは定かではない。京都学派かもしれないし、そうではないかもしれない。とはいえ岡倉覚三の名前も挙げてもいいのではないかと思える。岡倉にとって「文化」とは、最善にして最後の防衛線として召還されたものでもあったように思われるからである。桜花の狂ったような舞いに「春よさらば、われらは永遠へと旅立つ」という精神性を見ることは、最善にして最後の防衛線の召還だったといい得るかもしれないからである。小林にとってはしかし、桜花も茶の湯も、ただ日常の美学化でしかないということになるのだろう。

ところで建築家は「文化」という言葉をしばしば用いる。「日本の文化」という言葉も用いる。その「文化」は最善にして最後の防衛線といえるものなのだろうか。「文化」という言葉を持ち出せば、そこで思考が止まってしまう傾向があるといえなくもない。日本がこれまで経験してきた過去からも、日本がいまだ見たこともない未来からも目を閉ざし、現在の”eternal repetition”(という文化)に自閉することは、Japan's JapanがAmerica's Japanの反響でしかないことを単に証明しているだけではないのか、といった趣旨の一文は、傾聴に値すると思われる。

2008-01-01

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