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RCaO1.0

2008-02-24

岡倉覚三の『日本の目覚め』(村岡博訳、岩波書店)には岡倉のいう「江戸三学」についてたしか書いてあったと思い、あらためて見ると「国学」の部分では本居宣長は苗字の「本居」とだけ、それも一度しか登場していない。つまりほとんど言及されていない。ちなみに「三学」とは、古学、陽明学、国学であり、岡倉によれば「第一の思想は探求することを教え、第二は行動することを教え、第三は行動の目的を教えてくれた」とされる。古学や陽明学は御用学や御用学者からすればあくまで異端であり、薩摩や長州をはじめ、のちの討幕派/外様において命脈を保っていたとされる。国学はしかし、徳川治世初期において徳川氏自身の名を高める歴史刊行とともに始まったといい、さらには「御門(天皇家)は支那の聖人の後裔であることを証明せんとしていた」という。しかしながら「18世紀の初頃には言語学研究の方面で純然たる新しい見解が現れてきた。契沖阿闍梨によって唱導せられ、本居、春海の名著にいたって隆盛の極に達したこの運動はわが国古来の詩歌と歴史に新生面を開いた。18世紀末には考古学の研究が非常にさかんになって、徳川幕府や富裕な大名は珍本や美術に関する百般の刊行物の蒐集を競ったものである」「歴史的知識の修得の結果は神道の復活となった。この古来の祭式の純清は陸続として押寄せた大陸の影響の氾濫にあって、ついにほとんどその本来の性質を失ってしまっていた。9世紀には単なる秘密仏教の一派となり、神秘的象徴主義を楽しんでいたが、15世紀以降はその精神においてまったく新儒教的となり、道教の宇宙観を受け入れた。しかし考古学の復興とともにこの異国的の要素を失うにいたった。19世紀の初めに明確な形質を与えられた神道は神代から伝わっている往古の純潔を崇める一種の祖先崇拝の宗教である」「神道は日本が支那およびインドの理想に対する盲目的服従から脱して、己を恃むことを要求した」(48-49頁、現代語にしてある)。おもしろいのはほぼ同時代のヨーロッパにおいても考古学が発展し、そこでは古代ギリシアが見出されていったことである。岡倉の古学についての記述はヨーロッパにおけるプロテスタントについての記述を髣髴させることころがあり、あるいは国学についても西洋史を念頭において述べているのかもしれない。

岡倉が国学の部分で大きく述べているのは頼山陽である。後醍醐天皇と楠正成の有名な「七生報国」の話が反仏教的な侍精神として引かれる。さらには「正成の子正行が代々忠勤の御褒美として、正行に深く思いをよせていた宮中第一の美人を賜る旨おおせ出されたときに、わが一生は死のためにあって愛のためになき訳を申上げ、これをご辞退した」云々などは、サムライ・サブライムな戦士共同体の気風ではないかと思える。

岡倉がこの文章を書いていたのは40歳前後のころ、また日本が日露戦争を戦っていたころである。

この章の結語近くは

「夢が行動に移される時期が到来していた。そして剣は静かな鞘を離れて、電光石火のごとく抜きはなたれるようになっていた。

不思議な私語が町から村へと伝わっていった。蓮華は立ち騒ぐ水の面に震え、星は黎明の光その輝きを失いはじめた。そして来たらんとする暴風の前兆を物語るかの粛然たる静寂が国民の上に降りてきた」

と述べられる。

岡倉はやはり面白い。紙芝居のヲイチャンたちより断然面白い。

2008-02-23

その看板屋のおにいさんは「簡単ですよ」といって、高いビルの屋上から袖看板へと命綱もつけずにひょいと飛びのった。わたしは少しだけ後悔した。高いところの採寸にはレーザーを使う方法もあるのだが、「あんな高いところどうやって採寸するのか、いやぁ見てみたい」と言ったのだ。「簡単ですよ」、そういって幅が20センチあるかないかのステンレスのつるつる看板のうえに、彼は軽業師のように飛びのったのである。

しかも「ぐらぐらする古い看板に比べると、たいしたことないですよ」と余裕を見せ、あたりの景色を満喫するかのような仕草をする。高所恐怖症の人なら下を見ることさえできないだろう。

そのうえもうじゅうぶん採寸しただろうと思われるのに、マニアックなディテールの採寸まで始めるではないか。ここで突風が吹いたり、足がすべったり、もしかしてこのおにいさんが花粉症でくしゃみでもしようものなら一貫の終わりではないか、とこちらが心配してしまう。それはスピルバーグの映画を見ているより、はらはらする時間であった。

比較的大きな住宅の上棟時、幅120ミリしかない大梁の上を、体操選手よりも軽い身のこなしで、鳶のヲイチャンが走るでもなく歩くでもなく滑るでもなく、命綱もつけずにひょいひょいひょいと移動していくのを初めて見たとき、「をぉっ」と思ったものだ。

こうしたことはたぶん、もう早い時期に身につけておかないとできないのではないかと思う。脱サラで鳶やりますとかでは、あまりいい鳶にはなれないのではないだろうか。


ずいぶん昔に読んだのでうろ覚えだが、宮大工だった西岡常一はその一連の書で、やはり宮大工だった祖父か父による教育について述べていた。個人的に印象に残っていることのひとつに、常一少年を農業学校に進学させたということがある。「大工をやろうと思えば、まずは農業を勉強すべし」という考えからである。

こうしたことは、あとになってじわじわと分かってくることではなかろうか。

2008-02-19

古事記』(福永武彦訳、河出文庫、2003)の第一部では、「米/稲種」に関する話は二度ほど登場する。一度目はアマテラスオホミカミ(天照大神)とタケハヤスサノヲノミコト(建速須左之男命)による「うけいの勝負」のあとである。うけいの勝負に勝ったスサノヲノミコトは調子にのって「姉君が手ずから作っている田の中に踏み入って、畔をめちゃめちゃにしたり、田に水をそそぎ入れる溝を埋めたり、またその年の新嘗をいただく神聖な御殿に、糞をして廻るというような、狼藉の限りを尽くした」(63頁)ことになっている。

二度目は、その乱暴狼藉者のスサノヲノミコトが高天原から追放され、オホゲツヒメノカミ(大気津比売神)を殺したところ、その体から「五穀」(蚕、稲種、粟、小豆、麦、大豆)が生まれた、というくだりである。

前後関係からすると矛盾するように見えるが、高天原にはすでにあった米/稲種が、オホゲツ姫殺害と同時に地上にもたらされたということなのだろう。

アマテラスは名前の通り太陽神で高天原を治める女神だが、稲作と関係が深いことが最初に示唆される。また「五穀」は(蚕を「穀物」とするかどうかはともかく)数えるとここでは「六穀」である。

『海上の道』の柳田は南西諸島の記録記憶(「おもろ」、『中山世鑑』ほか)において「ニルヤ(海の隠れ里)」から人界にもたらされたもののなかでとりわけ重要なものとして、「火」と「米/稲種」を挙げている。「米/稲種」はほかの「五穀」に比べ、特別なものであることが示唆される。「注意すべき一つの特徴は、最初白色の壺に入れられて、火高の浜に漂着した五つの種子の中には、稲の種はなかったという点である。それでアマミキョは天に祷って、ワシをニライカナイに遣わして求めさせたら、三百日目に三つの穂を銜えて還って来た云々と『御規式之次第』にはあり、奄美大島の方では鶴がその稲穂を持って来たことになっていて、伊勢の神宮の周辺にあったという言い伝えともやや接近している」(81頁)「(沖永良部島では)その時ニラの大主は是にこたえて、まだお初祭をしていないから物種は出すことができぬと言ったというのは、すこぶる我邦の新嘗の信仰とよく似ている。島コーダ国コーダ(島建国建)はそれにも構わず、折角きたのだからただ戻ることはならじと、そっと稲の穂を摘み切って袂に隠し、遁げて帰ろうとしたが、ニラの神に追いかけられて打ち倒されて、ニシントー原アメノカタ原という処に、目こぼれ鼻こぼれして死んでいった。天の神は心配して使を遣り、薬を飲ませて生き返らせ、稲の穂は再びニラの島に持参して元の穂に接ぎ、初穂の祭りがすんで後に、改めて同じ種を乞い受けて来させた」(82頁)。

米/稲種はほかの穀物に比べ、特別なものとしてあろう。

国民経済学の書(つまり『国富論』)では、狩猟採集(日本語/漢語の「狩猟採集」は英語の“hunting foraging”からの造語/訳語ではなかろうか)をしていた人類は、やがて獲物を手なずけて家畜化することで食物の入手を確かなものとし、さらに家畜は生まれてから食用になるまで数年かかるが、穀類を人工的に栽培すれば毎年確実に食物が手に入ることを見出し、さらにその穀類のなかでも、じゃがいもから小麦へ、小麦から米へと、単位あたりのカロリーが高い種の栽培へと進んでいった、という記述をしていた。稲はまた二毛作も可能である。

米(稲種)は長い時間をかけて見出された、特殊な穀類なわけである。



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2008-02-14

『テクトニック・カルチャー』には、日本語の「島(シマ)」と「締(シメ)」の関係について述べたくだりがある。ただし英語の“knot”や“nexus”との類縁が示されるだけで、詳述はされていない。

「島」は陸上から見るとただの陸の塊だが、海上で見ると交通の結構(結節)点である。島伝いに海を渡っていたかつての日本人にとって「シマ」は行程の「シメ」であり、それゆえ“knot”であり、“nexus”の結構点をなしているわけである。またシマを目指して洋上航行している船から見れば、その島影は空と海のあいだの水平線上にまさに「シメ」として(かつ「シミ」としても)見えてくるものだろう。

ロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい、東南アジア建築人類学』(布野修司訳、学芸出版社、1997)によれば、原・日本人は現在の中国南部あたりから台湾、南西諸島を経て日本にやってきたのだそうだ。「おや」と思う人もいるのではないだろうか。狩猟採集生活をする「縄文人」がいて、稲作農耕文化を持った「弥生人」が北方から渡来してきたのではなかったのだろうか。

ウォータソンと似た仮説を唱える人はほかにもいる。『海上の道』の柳田国男である(岩波文庫、1978)。同書において柳田は、日本が海洋国であることに着目し、大陸からの陸上ルートではなく、海上ルートを経て稲作文化を持った原・日本人が黒潮にのって漂着したと見ている。この思考の契機になっているのは日本の海岸には南方のココ椰子が自然と漂着するということであり、『古事記』や『日本(書)記』の中巻(人皇の部)の始まりをなしている「神武・東への道」が宮崎の高千穂から始まっていることである。高千穂にやってきた彼らはそれではどこから、なぜやってきたのだろうか。ココ椰子のようにただ黒潮にのって漂着しただけだったのだろうか。

柳田の仮説によれば、徐福伝説に見られるような東方浄土信仰や蓬莱扶桑神話ももちろんあるが、しかしそれ以上に着目すべきはひとつは宝貝であり、もうひとつが稲作であるとされる。沖縄は世界有数の宝貝の産地であった(ある)という(日本は真珠の産地である)。宝貝は呪術的な含み(1000年前までの日本では、数珠つなぎにした首輪をかけることが普通だったという)を持っており、これがいわば大航海時代重商主義時代における貴金属と同様なアトラクターとなったのではないか、という考えである。そしてもうひとつは、各島で開墾された水田が次第に手狭となり、過剰となった人口が隣の島に本格的に住まうようになり、徐々に移動していったという考えである。

同書に付された大江健三郎の解説に引用された中村哲夫の文では、「稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島に及ばないために、考古学の領域は、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし黒潮の流れにそった『海上の道』を終生の課題とした彼は、この最後の遺書ともいえる問題の書のなかで、原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とつながりをもつことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある」と述べられている。

『古事記』や『日本(書)記』の上巻(神代の部)での世界創生は、イザナギ・イザナミが海のなかに入れて掻き回し取り出した天沼矛の先から滴り落ちて生まれた島々が、(当時の)ヤマトであるとされている。沖縄の天地開闢神話もこれとほぼ相同なのだという(アマミキュ・シネリキュが掻き回した矛先から滴り落ちて生まれた島々が・・・)。

ところで島尾敏雄奄美を「道の島」と呼ぶ(『ヤポネシア考−島尾敏雄対談集』、葦書房、1977)。それはヤマトから見れば南の島であり、沖縄から見れば隣の島であり、行程における文字通りの「シマ」なのである。名に付されている「奄美」は当て字ではないかとはしばしば言われる。柳田の『海上の道』では「天見(アマミ)」という言葉も出てくるが、天(アメ)と海(アマ)とするなら天海(アマミ)ともとれる。「道の島」はまた、「天」と「海」という二つの霊界のあいだの文字通りの結構点でもあるのだろう。古・日本語の天(アメ)と海(アマ)がほとんど同じなのも、洋上では水平線を対称軸としてこの二つが鏡像のように見えるからではないだろうか。

建築論でしばしば登場するハイデッガーの「四謂集」(空と大地と死すべきものと・・・)なるものは、ここでは「天(アメ)」と「海(アマ)」と死すべきものと・・・となるのかもしれない。


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2008-02-09

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柴又帝釈天に散歩にいく。

帝釈天のうしろには日本庭園、さらにそのうしろには矢切の渡しと一体化した寅さん記念館なるものがある。それはいかにもという感じの公共建築である。箱物行政批判は、等閑な設計とも無意識において関係しているのではないだろうか。もっとも「設計にお金をかけるなど無駄遣いだ」という議論があるとすれば、その結果としての等閑な設計が、けっきょくは(税金を)さらに無駄にしていると言える。1970年代、「設計料」は独占禁止法に抵触する(自由競争にせよ)と言われだしたあたりが、もしかしたらひとつの転機だったのかもしれない。

ある経済関係の審議会では課題として上位に上がってくるのは「コミュニケーション」や「チームワーク」であり、「設計」や「プログラム」などは下位にとどまるのだそうだ。こうしたところは、昔からなにも変わっていないのですね。

帝釈天とか西新井大師などはちなみに江戸からみれば鬼門の方角に位置している。ただし京都の延暦寺の位置に相当するものは、つまり鬼門よけに相当しているのは、浅草の浅草寺であるという。

足立における西新井大師は、葛飾における帝釈天に相当しているように見える。北野武さんは西新井大師近くのご出身とお聞きする。「足立区のタケシ」は「葛飾柴又の寅さん」に匹敵するといえよう。

オフィス北野のみなさま、北野記念館はいかがですか(揉み手+擦り手+上目遣いのスマイル)。

2008-02-05

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「結構」という言葉が支那からきているとして、思い出されるのは12世紀初頭の宋代において著された『営造方式』である。ここでは伽藍建築のひとつの完成形がハンドブックとして表されている。有名な伽藍の断面図では、セラミック(瓦)のルーフワーク(屋根)、石のアースワーク(基礎/基壇)、そしてそのあいだの木組みのテクトニック(結構)が図式的に示されている。こうした形式は12世紀宋代において、だいたい完成していたわけである。

ずいぶんむかし学生時代、太田博太郎の『日本建築史序説』や川勝政太郎の『古建築入門講話』などを片手に「あれは三手先、これは禅宗様」などと、近畿あたりの日本の古建築を見てまわったものだが、こうした断面をいま見るとまた違って見えてくる。

蛙股や斗拱といったものは、ブラケットや複合ブラケット・システムをなしているように見える。木造結構のフレーム(ラーメン)構造は、基本的に木のめり込みによって外力を吸収する仕組みになっているとされるが、こうしたブラケットの二次システムを用いることで、反力や応力を分散させ、また一次部材を保護しているのだろう。ところで木がなぜめり込むかといえば、木はセルロース繊維からできているからである。

『営造方式』は継ぎ手の図解も載せている。そこには腰掛蟻継のような、今日の日本の大工が伝統工法として用いるものによく似たものもある。

日本の大工が日本の伝統工法と思っているものには、支那から仏教伽藍とともに入ってきたものも多いのかもしれない。それにしても『営造方式』から900年もの時間があったにもかかわらず、大きな改良も施さず、批評的な思考も働かさず、地震がくれば倒壊し、台風が来れば吹き飛ばされ、火事になれば燃え、支那でほぼ完成された形式をみずからの伝統技術と称し、“eternal repetition”のようにひたすら伝承することに、日本の職人衆は価値を見出して来たのだろうか(あくまで疑問形です、念のため)。そのいっぽうで外来種のように嫌われたツーバイ工法の原型とされるバルーン工法は、19世紀末の欧米における日本ブームにおいて日本建築の影響も受けているという説もある。

フランク・ロイド・ライトのプレーリーハウスなども、なかに入るとまるで日本家屋にいるような感覚を覚える。

ライトと日本の関係についてはケヴィン・ニュートの本に詳しい。そんなライトの自伝には、よからぬ日本人が一人だけ登場する。固有名は記されていないが、下田菊太郎ではないかと勝手に推測してしまう。


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2008-02-04

「“Der Stil”の既刊部分はテクスタイル、セラミックに主として充当されている。それにテクトニック、ステレオトニック(引用ママ)がつづくがこれらは建築的要素だけであり、最終刊で建築をその全歴史として検証する予定になっていたが、その四つの要素間に次のようなダイアグラムが充当されている。


I  テクスタイル(編組)−布―強靭材―囲い(平面)

II セラミック(陶器)―陶−可塑材−炉(彫塑)

III テクトニック(結構)−木―棒状材−屋根

IV ステレオトニック(石工)―石―堅硬材―壇(量)

(この後にVとして金属技術の項があるが、建築の四要素には直接対応する扱いでないため、ここでは省略する。)


 それぞれの要素は、a機能的/形式的、b技術的/歴史的という視点から、検討を加えられる。形態と作用、製法と歴史的事例が多くの実例を用いて説明されている。ここで特徴的なのは道具的な視点の重視と、歴史さえも民族学的な空間のひろがりのなかにおいて論じられている点でもある。それは技術史のようでもあり、建築の素材史のようにもみえる。少なくとも、もはやここには先行する決定的モデルとしての古代ギリシャはない。もちろんギリシャがもっとも参照される頻度が高い。セラミックにいたっては、ギリシャの壺についての本であるかにみえる程でもある。

 要素に分解することは、その作用因の全体とのかかわりについての確固たる関係が組みたてられていなければならない。ゼンパーにとって、その関係は函数である。

  芸術作品は何れも、種々の変数たる作因または力の函数として表すことができる。

  Y=F(x,y,z・・・・・)

Yは総合成果、x,y,z・・・・・はそれぞれの作因であり、その基本作用ないし相互の関係がFで示される。xが変わればYも変わるが、その変化は僅少に止まる。しかしFが変わる時、Yは根本的に変化する」 磯崎新『造物主議論』鹿島出版会、1996 97-98頁




難波和彦先生がご自身のブログで拙訳書にコメントをされています。コメントいただいたこと、まずはお礼申し上げます。

また翻訳の用語について、第三者の立場からのコメント、有難うございます。

“テクトニック(tectonic)”という言葉についてですが、「結構」と和訳することが、2007年10月21日の当ブログでも書かせていただいたように、やはり相応しいと考えています。大倉三郎や磯崎新先生といった優れた建築学者や建築論者の諸著作のなかでそう記述されてきたということもありますし、この言葉はもともと日本語において建築用語だったし、いまもそうであるということもあります。フーテンの寅さんが「結構毛だらけ猫灰だらけ」と言っても、やはりこの言葉はほんらい建築用語なのです。

『テクトニック・カルチャー』の冒頭の方にはハインリヒ・ボーバインの「テクトニックは結合の技芸となった」という一文で始まる引用文があります。“tectonic”においても「結」は鍵概念としてあると思います。また日本語のカタカナ表記は原則は固有名に対してであるので、相応しい漢語があれば、漢語に変換するというのは方法のひとつだろうと思います。「結構」は語源を遡っていくと実は中国語なので、“tectonic”を「結構」としても、日本語を素通りしていると言えなくもありませんが、漢語なしの日本語というのも不自由なものです(ちなみに(現代)中国語の「結構」は日本語の「構造」に相当します)。

いずれにしても2007年10月21日の当ブログにも書かせていただいた理由から、同じ著者の別の著書において“tectonic”を「構築的」と和訳するのは初歩的な誤りだろうと思います。誰にでも誤りはありますが、意図的だったり、売り文句にしたり、繰り返して強調すれば、いささか致命的だろうと思われます。

また「ステレオトミック(切石組積)」ですが、語源として「切る」を意味する「ステレオス」がかかっていることは本文に書かれているとおりです。「ステレオトミック」自体は同書の主題ではありませんが、「結」に対する「切」は含みを持っているのでしょう。単純に積んでいけば要素の大きさの誤差と強度の不均衡の累積によって、計画通りのものができない可能性がある。この点で「正確に切る」ことが重要となり、これはその出自において農業的である結構術とはいささか異なる工学術や都市文明を前提とするからです。また「構築(con- strata)/積層」という言葉は、どちらかといえばこの「ステレオトミック」という言葉の方が親和的だろうと思います。

ここから先は難波先生のコメントからは少しずれます。

フランプトンさんの文章は、関係代名詞や分詞構文やリモート法や倒置法や二重否定などが多用されるいわゆるアカデミック・ライティングです。情報を効率的に伝達すべく一文一行的な原則で単文を付加していき、どちらかといえば接続詞できりまわしていくジャーナリスティックな構文とは、文章の特徴は異なっています。この構文をいったんばらし、単純な文に並べ替えればあるいは読み易くなるのかもしれませんが、こうした方法は翻訳というよりは抄訳に近い方法ではないかと思います。

アカデミック・ライティングと書きましたが、『テクトニック・カルチャー』より練られたライティングは、もちろんあります。個人的なところではK.マイケル・ヘイズの文章の方が、練られたライティングだったような印象があります。いささかやっつけ的な訳だったかもしれませんが、あとがきには余計なことも書いていますが、本文の論旨は実に鮮やかなものです(K.マイケル・ヘイズ『ポストヒューマニズムの建築、ハンネス・マイヤーとルートヴィヒ・ヒルベルザイマー』拙訳、鹿島出版会、1997)。この書の論旨についてはフレドリック・ジェームソンによる、「マイケル・ヘイズはここで『ポストヒューマニズム』という新しい概念を生み出しているが、これはハイモダニズム内部にあった反モダニズムの潮流を、ポストモダンとはまったく違った精神から明らかにするものである」という説明がよく示しているように見えます。

1990年代、太平洋の両側でハンネス・マイヤー論と池辺陽論が出版されたとき、よく似たことをいう人たちがいるものだなと、思ったものです。また90年代の池辺論やマイヤー論に匹敵するものが2000年代に登場したか、それはなんともいえません。シルビア・ラビンさんのリチャード・ノイトラ論はいい書と思いますが、ポスト構造主義の諸理論が縦横無尽に駆使されているヘイズの論に比べると、理論書としてはいささか弱いかもしれません。

以下は個人的な考えですので、お気に召さなければ捨て置いてください。

ヘイズの仕事の主題は“class representation”にあると言われることもありますが、マイヤー論では物象性(reification)も鍵概念としてあります。同様の視点は池辺論にもあるように個人的には見えます。また住宅を手がけてきた建築家も、住宅産業とよばれるものも、もちろんこれまでもあったわけですが、作用因までを含めていったん物象的に捉えなおし、90年代において新たな作業仮説において組み直したことは、新鮮に見えました。「建築の四要素」という整理の仕方も、ゼンパーの四要素やアリストテレスの四因論との類縁性を髣髴させます。

さらにどんなによい作業仮説を組み上げても、それを実践することはまた別の次元での困難を伴います。仄聞するところではシリーズとして120あまりの住宅をすでに手がけられたとか。

私などにはとても模倣できないことです。