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RCaO1.0

2008-05-26

人がいないところや人工物のないところで断層が隆起したり、地面が揺れたり、土砂崩れが起こったとしても、それは自然現象のひとつです。震災と呼ばれるものは人間側から見た現象、あるいは都市的現象です。

関東大震災の様子を、あぁ東の方は大変なことになっているな、とのんびりした感じで記した文章が、村山知義の『演劇的自叙伝』にはあったと思います。村山は当時下落合に住んでいて、その頃の下落合は震災の及ばないのどかな田園地帯だったのでしょう。

関東大震災の記録を見ると当時の東京主要部、つまり皇居から東側はほとんど廃墟と化しているのですね。最大の原因はもちろん火災です。昼食準備時に地震が起こったことや台風による強風が作用したこともありますが、木造密集家屋が多かったことも「地獄の業火」とも形容したくなるすさまじい火災の原因だったと思います。西側は皇居が延焼防止帯として機能し、東側の一部は荒川を飛火したところで対岸の消防が消し止めています。直後に撮影された写真を見ると正視にたえぬ焼死体の山が次々に出てきます。東京大空襲による被害に匹敵するか、それより酷かったのではないでしょうか。

江戸の街は、アムステルダムベネチアなどと同じく、だいたいこの時代に出来た街の特徴として、運河がめぐらされていました。運河の役割はもちろん物流にあったわけですが、木造家屋が多かった江戸の場合、延焼防止帯や消火用水の供給装置としても機能していただろうことは容易に推察されます。火災とは関係ないですが、気化熱による夏の気温上昇抑止の機能もあったかもしれません。

今日の東京では運河も延焼防止帯も大量の水の供給装置も姿を消しましたが、木造家屋の密集地帯、いわゆる木密が山手と下町を問わずなくなったわけではありません。

日本の文化人には、モダンな建物はよくなく、江戸情緒の残る木密こそ素晴らしいとおっしゃる方々がいらっしゃいます。もちろん「江戸情緒」や「下町人情」などは理解できます。とはいえ何年か前のThe Japan Timesのコラムで皮肉られていたのですが、こうした言説は部外者からみれば無責任で紋切型の奇異なものに見えることもまた事実だろうと思います。ついでに言うとこうした発言は1960年代以降に登場してきたのではないかと、個人的には推測します。ジェーン・ジェイコブスが『アメリカ大都市の死と生』において語ったことを東京において平易に翻案すると、そうとも言えるからです。スノビズムですね(繰り返すようですが殺伐とした建築や街ではなく、情緒とか人情のある建築や街はどうすれば可能あるいは維持できるのか、というのは真面目に考える価値のある主題であると思います)。

さて、耐震補強をするにはいくらかかるのか、とはよくきかれる質問です。答えはどこまでやるかによってピンキリです。基礎の部分まで補強しようと思えば家が一件建つほどかかるでしょう。主に木造在来工法の住宅を対象に自治体などが補助金を出している場合では、数千円から50万円程度の補助となっています。倒壊の危険がある木造住宅の場合、八隅を鋼板とラグボルトで補強すれば、とりあえず最初のPS波による倒壊は免れるという案もあり、これだと60-70万円程度ですむともされます。

また鉄筋コンクリートだから大丈夫というわけでもありません。1970年代に建てられたいわゆる旧耐震によるマンションやオフィスビルは当然、耐震補強が必要です。1970年代に建てられたものだとすでに減価償却を終わったか、終わりつつあるものなので、テナントさんが入っている場合はオーナーさんの社会的責任ということになります。しかしながらなかには「嫌なら出て行けばいい」というオーナーさんももいらっしゃるようです。なんだか「これはおれの財産だから何をしようとおれの勝手だ」といって、多くの芸者を焼死させた関東大震災のときの吉原の置屋の経営者が彷彿されます。

また耐震補強すればすべてがさらに利用できるというわけでもありません。「リフォームをしたいんだけど」と呼ばれ、一等地の瀟洒なマンションにお伺いしてさえ、話を聞いているとこれは躯体の鉄筋の錆化が進行しているのではないか、と思えるものはあります。さらに構造だけでなく、見ていくとアスベストが露出していることさえあります(アスベストが社会問題化するのは1980年代以降です)。

ところで耐震診断は建築構造事務所などでは、10万円程度でやってくれるところもあります。弊事務所でも受け付けています。よろしければどうぞ。

2008-05-17

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『新しい住まいの設計』(扶桑社)7月号をいただく。よく見ると表紙は拙作ではありませんか。光栄です。表紙を飾るとは設計者冥利につきます。内容の方は「今月の気になる家」というコーナーでの登場です。「編集部がジャンルにとらわれることなく選んだ至極の住宅集。建築はもちろん、インテリアも参考にしたくなる物件だけを厳しい目でここにピックアップ!住み方とデザイン次第で、家はもっと楽しくなる」、をぉっ。

ちなみにこのコーナー、わたし以外にはルイジ・ヴェラーティさん、荘司毅さん、鹿嶌信哉+佐藤文さんが登場されています。ほかにもためになる情報やきれいな写真やポップなイラストが満載。これで1000円はお買得!

建主様、編集の皆様、有難うございました。


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2008-05-05

フロイトは「住宅とは母胎の代理物である」といったことを述べている。

日本の住宅の設計者がまず読む本のひとつに宮脇壇の一連の著作がある。私もかつてひととおり読んだ。うろ覚えだが「住宅とはデレデレする場所である」(幼児退行願望)、「住宅の天井は低い方がよい」(胎内回帰願望)、「子供部屋を作るな」(母親の視線の貫徹)など、精神分析的にみても興味深い記述があったように思う。理想のリビングとは大きなテーブルがあってその縁でお母さんが子供に宿題を教えているようなところ、といった趣旨のコメントなどは直截的である。大きなテーブルは胎内または臍の緒の代理表象であり、それを通じて母親と子供が一体化している胎内の光景だからである。

ついでに言うと子供のころに読んだ少年少女文学に『家なき子』というのがあり、「私にも八歳のころまで、スカートのなかに匿ってくれる女の人がいた」といった感じの一文があったように思う。この場合の「スカート」は胎内と家の代理表象であり、また「家なき子」は「母なき子」へとここで微妙にずらされている。

おそらくこうしたことと対照的なものは、西山卯三の言説ではないだろうか。寝食分離論は有名だが、親と子は就寝を分けるべしという就寝分離論も示唆的である。「今晩からお前は自分の部屋で一人で眠るのだ」ということは「今晩からお前の人格を認める」ということでもあろう。西山の方は、法と秩序とロゴスの父性的世界である。

フロイトの元弟子でのちに破門されたオットー・ランクは、建築家のリチャード・ジョセフ・ノイトラに影響を与えたひとりである。彼の「出生外傷説」とは、不安と神経症の源は出産の瞬間、つまり母胎から取り出され、臍の緒を切られる瞬間に見出されるというものである。臍の緒を切られ、個体として世界に投げ出されたことが人間の原・トラウマというわけである。この説は医学的には証明されていない。ともあれランクがここから発展させたものがショートタイム分析である。

精神分析における被分析者のうちには分析が終わる二分前あたりから重要なことを語り出すケースがあると言う。分析時間を短くして被分析者が重要なことを語るようもっていくとともに、さらに被分析者との別離の回数を増やす、つまり原・トラウマ=分離の模倣を繰り返すという方法とも言え、これがアメリカ的消費文化に迎合したとしてフロイトに批判されたものである。

いずれにしてもここでは一体化/分離が鍵概念としてあろう。

実際には一体化/分離といってももう少し複雑で、たとえば母体の免疫機能は胎児をあくまで外部として認識し、抗原抗体反応によってこれを抹殺しようとするゆえ、胎児を母体の抗原抗体反応から保護する機能が必要である。そしてそれをなしているのは実は、父側から送り込まれて胎内に形成された内膜であると、むかし読んだマーク・C・テイラーの本には書いてあった。

フロイトはそれまでの癲狂院におけるような治療の物質性を排除し、言葉のみを経路とすることで(実際にはたとえば自由連想を喚起するようその部屋を設えたように、必ずしもそうではないのだが)近代的な精神分析を可能とした。最初から物質性や環境を念頭においているノイトラやランクはそれゆえフロイトから見れば、いささか度し難いものだったかもしれない。

みずから設計したドライブイン・チャーチにやって来た車の中で授受乳する母子のノイトラのスケッチとその解説、「触覚的な形が現れ、弾力性のある乳房が小さな唇によって捉えられ、ほどよい粘りと甘みのある液体が舌の原・味覚部分へと注がれる」について、シルビア・ラビンは以下のように述べている。「ノイトラにとってこのイメージはレヴィ=ストロースにおけるインセスト・タブーのような役割を果たしている。これは自然と文化のあいだの分割線であり、本能と美学のあいだの分割線なのである。ノイトラにとって、母と子はそこにおいて一体として作用しながら、形としては別々であり得る部分へと構築された関係へと入っていく。このとき、口と乳房はいわば複合体でありつつ単一の生産体をなしているのである」。

この論でいくと、哺乳動物はみな自然/文化、本能/美学のあいだの分割線を持つことになってしまう。あえてラカンのRSI図式を持ち出すなら、文化や美学は基本的に象徴界に属するものではないのだろうか。ラビンの論がいささか弱いのではないかと個人的に感じる部分のひとつである。

ところでノイトラは「住宅は住むための機械ではない。建築は生きるための舞台である」という発言をなしている。どこかで聞いたような言説ですね。そうです、アドルフ・ロースです。映画(二○世紀芸術)的なル・コルビュジエに対し、演劇(一九世紀芸術)的なアドルフ・ロースの住宅。家族という劇が演じられる舞台としてのロースの住宅。ランクがフロイトとの相違を見せる一方で、ノイトラはここでロースとの共振を見せる。一九世紀末ウィーンのブルジョワ家族像と二○世紀ミッドセンチュリーのカリフォルニア・ミドルクラスのファミリー像が、微妙に交錯する。



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2008-05-03

今年3月29日のところで“earth hour”というイベントについて触れましたが、日本からは地方自治体の杉並区が参加したとか。

3月29日では「趣旨の是非はともかく」とも書かせていただきましたが、たとえば電力会社の説明では夜間は余剰電力を抱えています。つまりもしも地球環境問題を考えよう、無駄なエネルギー消費をやめようという趣旨で夜間照明を消灯したとしても、ほとんど意味がないのではないかということです。照明は可視的なので電力消費の象徴に見えるだけで、実質的には昼間のピーク時の電力消費を落とさなければあまり意味がないことになります。発電タービンは重厚長大産業の産物のようなもので、いったん回転を始めると小回りがききません。

つまりイベントとしては自己満足的なパフォーマンスの域を出るものではないのではないでしょうか。アートパフォーマンスとしては面白いかもしれません(作曲家のカール=ハインツ・シュトックハウゼンは「9.11は究極の芸術作品だ」という発言をしている。必ずしもそうとは思いませんが)。

むかしアメリカで生活していたころ、大量のエネルギーを消費しなければ維持できないシステムを造り、また大量のカロリーを摂取していながら、「リサイクル」と称して古新聞等を大事にしている姿を見てその当時はいささか滑稽に思ったものです。こうした消費社会の姿はしかし、今は日本でも日常になってきているように思います。そして日常となると、それが当然のように思えてくるから不思議です。

もっともたとえば電力は事業用も家庭用も一括して生産し、それをはるばる高圧線で送って末端で変圧して使用しているものの、もっと効率的な流通のあり方があるのではないのかとか、個人的に勝手に思いつくことはあります。昨年の中越沖地震では柏崎刈羽原発における被害が注目されましたが、首都圏の電力消費の一割を日本海側の柏崎で生産し、本州を高圧線で横断して供給していたことを初めて知った方も多いのではないでしょうか。そのうえ原発の発電原理は蒸気機関と同じですから、エネルギー効率はせいぜい15パーセントです。すごいなぁ。

あるいは夜間電力を蓄電するシステムを開発して昼間に出力するとか、東京では東京電力東京ガスが競合していますが、ニューヨークでは確かコンソリデイテッド・エジソン社が一括してエネルギーの供給を行っていたように、実は電力とガスの効率的な棲み分けはあり得るのではないかなど。

消費側においては、たとえば冷蔵庫やエアコンやエコキュートなどは使用目的が異なるだけで原理は同じなのだから、ヒートポンプ・システムとして一括すれば効率的な熱運用ができるのではないか、といったことなど。もっともこうしたことは個人レベルの話ではありませんが。

うろ覚えですが学生時代に読んだ室田武の本では、地球はその表面において太陽熱を受け、熱要素が大気中を上昇して成層圏において断熱膨張する、これが地球のエネルギー収支であるといったことが書いてあったと思います(実際には反射とかステファン=ボルツマンの法則などが絡んでもう少し複雑になります。さぁ受験生の皆さん、ステファン=ボルツマンの法則とは何でしょう)。

地球自体が巨大なヒートポンプ・システムであるとも言えます。