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RCaO1.0

2008-08-19

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Anthony Grafton Leon Battista Alberti Master Builder of the Italian Renaissance, Harvard University Press 2000


イタリア・ルネサンスの巨匠のひとりレオンバッティスタ・アルベルティについての最新の評伝的書物である。

冒頭ではこれまでのルネサンスとアルベルティ研究が手際よく纏められている。嚆矢はもちろんヤーコプ・ブルクハルトにあり、その後のゴンブリッチやパノフスキーらのウォーバーグ派の研究、手短にいえば科学と芸術の融合としてのルネサンス観といった研究を経て、今日の主流をなしているらしいマンフレッド・タフーリらのルネサンスとアルベルティ研究が、瞥見されていく。タフーリらのものは著者によれば、仕えた宮廷や教会に対してシニカルであったといったアルベルティの暗い側面を、掘り返したものだという。これに対して著者は、そうしたことはブルクハルトも承知していたが、彼のルネサンスとアルベルティ像を描くにあたりあえて取り上げなかったとし、さらにタフーリの言説については本書の末尾の方でも比較的長く批判がくわえられている。

少年時代のレオンバッティスタはルネサンスの人文主義者の多くがそうであったように、パドバ大学でしばらく学んでいる。当時の学問は医学と法学で、その基本に据えられていたのは「論理学」であり、つまりは徹底した“inference”というわけである。感覚とか感性とか曖昧なロゴスは幻惑でもある、というと1970年代のコンセプチュアルアートにおける議論を彷彿させるかもしれないが、後期中世からイタリア・ルネサンスへの転機のひとつになったのは、こうした論理性の徹底でもあったのかもしれない。

論理学の基本はアリストテレスの『論理学』であり、これをアラビアの哲学者アヴィセンナや14世紀の哲学者ピエトロ・ダバノを通して学び現代に応用することが、それまで一般的であったという。日本語でいう「温故知新」のようなものかもしれない。このいわば温故知新的な中途半端な方法に根本的に異なる方法をとったのがフランチェスコ・ペトラルカであり、その方法は徹底した原典回帰であったとされる。一切の二次解釈や三次解釈を退け、原典に忠実に、そこからひとつの体系を組み上げる方法というべきであろうか。この方法ともども、ルネサンスはラテン語復興にもおおきく関与している(日本語訳の「文芸復興」や「人文主義」や「人文主義者」は、このあたりのニュアンスを汲み取ってのものだろう)。ラテン語とイタリア語で書かれたアルベルティの『絵画論』は建築家のフィリッポ・ブルネレスキに献呈されたものではなく、彼への校訂冊として書かれたとされ、こうして人文主義者たちはみずからの書いたものを互いに校訂(emendation)することがあったという(“proof reading”でも“correction”でもなく、“emendation”である)。

もうひとつ、ルネサンスを準備したものとして、それまでの技術の発達も一瞥される。有名なヴィラール・ド・オヌクールの画帳に見られるように、後期中世において技術は個人の手仕事の領域からすでにより高度な領域へと進みつつあり、高く聳えるゴシック聖堂のように、そして実際に高度なものとして建設もされていたのだった。またルネサンスの少し前にはカノン砲も発明されている。

アルベルティの初期の代表作のひとつが『絵画論』である。この書のなかでアルベルティは遠近法について述べている。それはユークリッド幾何学における三角形の相似を用いたもので、この点ではこれはいたって単純なものである。またアルベルティが遠近法を示すために用いた穴の開いた箱はこれまでカメラ・オブスクラと考えられてきたが、そうではなく、箱のいっぽうに絵を描いたガラス(あるいは複数枚のガラス絵?)を固定し、反対側にあけられた一点から覗くと、絵が効果的に三次元的に見えるというものであったという。これも、ブルネレスキがフィレンツェの洗礼堂前で披露したという、鏡を用いた手の込んだよく知られた装置に比べると、いささか単純な気もしなくもない。

アルベルティの『絵画論』の大きな特徴はしかし、“historia / storia”という概念を絵画に持ち込んだことにあるようである。この言葉を彼はかつてのプリニウスらのラテン語とは異なる意味で用い、口伝家の最高作品としての“historia”という概念から引き出し、いわば絵画の根本原理のようなものとして用いている。絵画は単純に物質的な描画の問題ではなくなったわけであり、これは近代的な絵画観の萌芽であると言っていいのかもしれない。そしてほぼ同様のことはウィトルウィウスの『建築十書』を批判的に読むことで成立した『建築論』においても起こっている。

ラテン語に堪能であったアルベルティから見れば、古代ローマのウィトルウィウスの『建築十書』は文法的には誤りだらけであり、文体もちぐはぐであり、幼稚な「作文」に映ったようである、という。しかしこの懐疑はもっと根本的なところにまで行き着く。なにかコンセプチュアルなオーダーが欠けているのではないか、という疑問である。類型に即した平板な技法解説が続いていくウィトルウィウスの『建築十書』に対し、“firmitas”“utilitas”“venustas”を、アルベルティは建築の主要概念に据えた、とこう書くと、「をやぁ」と思われる方もいるのではなかろうか。「古代ローマのマーカス・ウィトルウィウスによって建築の根本原理は強・用・美にあるとされた」と人口に膾炙しているし、日本語版のウィトルウィウス建築書の冒頭の方には、じじつ「強・用・美」という言葉が載っているからである。ウィトルウィウスとアルベルティの相違を際立たせる著者の筆法かもしれないが、あるいはそうしたウィトルウィウス読解自体が、じつはアルベルティによる「脱構築」経由のものでもあるのかもしれない。さらによい建築の中心的特質とは“concinitas”であるといわれ、これは、全体を損なうことなしに付加も削除もできない諸要素の相補的関係のこととされる。

アルベルティの建築論についての著者の記述からは、少なくとももう二つの特質が言える。ひとつは古典様式を理想形として確立したことであり、これが18世紀にいたるまで西洋建築の軸となったということである。もうひとつは建築家のあり方である。建築術(architektonike techne)は直訳すれば棟梁術ということになろうが、こうしたウィトルウィウス的概念に対し、建築家とは創造的哲学者(creative thinker)であるという概念を提出したことである。ここにはまた近代的な建築家像の萌芽があるのではないだろうか。

アルベルティの晩年の作品であるマントバのサンタンドレア教会やサンセバスティアーノ聖堂やリミニのマラテスタ寺院などは、こうした彼の建築論を踏まえたものでもあるだろう。のちのマニエリズム/バロック時代のミケランジェロによる“angular pose”や“serpentine figure”と呼ばれる動的な構成や意図的な操作とは程遠い、初期ルネサンスの理知的で静謐なものともいえる。少なくとも表向きは洗練された宮廷人だったアルベルティらしい作品とも言えるのかもしれない。

ローマが都市としてのその相貌を整えていくのは、のちのバロック時代のインノケンティウス10世期、建築家のベルニーニらによってである。晩年のアルベルティは法王ニコラス5世の「ローマを新エルサレムとする」という、聖都建設の黙示録的構想にも共感していたともいう。当時のローマはまだ治安が悪く、ホームレスが転がっているようなまちであった。

2008-08-06

暑い日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

羽田発福岡行きの始発便に搭乗すると、午前8時ごろ、高度1万メートルで広島上空を通過します。夏の午前8時はもうすっかり日が高く上り、高度1万メートルからは地上がじつにクリアに見えます。太田川デルタの上に形成された広島という都市の全体像がつかめるとともに、ひとつひとつの建物はもちろんのこと、動いている列車や自動車まで識別できるのです。63年前のこの時間、この高さから見えたものも、これと似たものだったのでしょうか。

もうずいぶん前に読んだのでいささかうろ覚えですが、アメリカの教科書的な本では、1945年夏についてこんな感じに書かれていたと思います。連日連夜にわたって日本に砲爆撃をくわえたが、士気は一向に衰えないように見えた。いっぽうで太平洋の弾薬庫は底を尽きつつあった。弾薬を補充するには全米の工場をフル操業しても半年はかかる。その半年のあいだに強固な陣地を日本が築けば、硫黄島や沖縄での経験から見て、日本本土に地上兵力を投入した場合の米兵の被害は100万に達し、そうなれば戦争終結の見込みはなくなる。唯一の有効な手段が原爆投下であった。ディテールはともかく、だいたいこんな感じではなかったかと思います。原爆投下によって戦争がようやく終わった、やれやれ、あるいは他に方法はなかった、仕方がなかった、あるいは原爆投下によって戦争が早く終わり、無駄な犠牲者がこれ以上増えなくてすんだ、めでたし、めでたしなど、解釈の巾はあるでしょうが、こんな感じでしょうか。アメリカだけでなく、日本以外の国ではもしかしたらだいたいそうした解釈になっているのかしれません。複雑で難しい問題です。

もうひとつ個人的に面白いと思うのは、圧倒的物量を誇るように見えた米軍の兵站も、限界に達しつつあったということです。

日米開戦直後に行われた「近代の超克」という座談会に、「われわれはこれまでヨーロッパについてはよく研究してきたが、アメリカについてはあまり研究してこなかった」といった主旨の発言があったと思います。1940年代初頭、世界の中心はまだヨーロッパにあると思われていた時代、日本もアメリカも辺境扱い。それにしてもよく知らない相手と戦争を始めたのか。

などと考えていると、「を、安芸の宮島だ」となり、しばらくすると「当機はこれより福岡国際空港に向けて着陸態勢に入ります。どなたさまもお座席にお戻りになり、シートベルトをお締めになって・・・」というお約束の機内アナウンスが始まります。

ところで福岡の目抜き通りであるい天神・渡辺通りでは、夏の18時頃にもなると、その幅広の舗道にワゴン車が乗り付けてきて、これって道路交通法違反じゃないのかと思ってみていると、あれよあれよという間に屋台がどんどん並び始めます。観光資源として定着しつつあるのかもしれませんが、むかしの屋台はぜんぜん別のところに出ていたのではないでしょうか。アナーキーな秩序が面白いとも言えますが、いささかあざといという気もしなくもありません。

2008-08-02

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横浜ZAIMギャラリーでの「横浜市先駆的芸術活動助成事業/パスポートお願いします。アーティストによって創作された自己証明書」展のオープニングにお誘いいただく。オープニング・パネルトークでは、在米日本人アーティストと在日コリアン・アーティストのバトルトークでも炸裂するのかとも思いましたが、環境系パブリックアートのいたって穏やかなトーク。

ニューヨーク時代の悪友のひとり・ミツオにお目にかかる。彼のアトリエは最も治安が悪かったころのディープ・ハーレムにあり、私も半月ほどでしたが「市街戦の気分で」そこで寝泊りしたことを思い出す。ハーレムもあれから変わったのでしょうね。

ところでパブリックアートという概念が登場し、一般化するのは戦後アメリカ、ジョン・F.ケネディ政権の文化政策においてです。日本では山口県宇部市が屋外彫刻展示として先鞭をつけたことが、だいたいパブリックアート関係の本には書いてあります。戦後建築の風景としての、モダニズムのビルとその手前のプラザ、そしてそこにおかれるパブリックアート(屋外彫刻)がいまではクリシェと化してしまいましたが、こうした状況自体はやはり変わるべきでしょうし、変えるべきでしょう。

それとこのZAIMというのは面白いですね。戦前の建物なのに耐震補強がされていないとかではなく、その名の由来であろう旧関東財務局のビルを活用し、横浜市の外郭団体が一棟まるごとアート関係の機能にあてていることが、です。横浜トリエンナーレの中心的機能を果たすとともに、アーティストインレジデンス施設やおそらく廉価なギャラリーなどをまとまった規模で揃えているようです。この建物が位置する日本大通り界隈も、戦前の建築をうまく活用している感じです。みなとみらいでは埋立地に収益性の高い現代的な超高層建築をまとめ、この日本大通り界隈では必ずしも収益性は見込めないものの、都市のプレスティージには貢献するかもしれないことを、戦前の良質な建物を活用して行う。横浜市のまちづくりの戦略性と懐の深さを垣間見たような気もいたします。