Hatena::ブログ(Diary)

RCaO1.0

2009-05-25

2009-05-19

私の留学時代の同級生でもある姜鎬元さんのお誘いで、中原まりさんのレクチャー@東京電機大学にお邪魔する。中原さんは現在アメリカ国会図書館のアーカイビストをされているそうです。前回お目にかかったのではかれこれ4年前で、麻布十番のイタ飯屋で故人である日本の某有名建築家アーカイブの図面保存管理の杜撰さを嘆いていたのが、なぜか個人的には印象に残っています。いずれにせよ今回はInformation literacy and architectureと題し、建築アーカイブについてのまとまったお話です。

前半は、data, information, knowledge, wisdomからなる層状構造といった図書館学的な話を、ご自身のMMW(マッキム・ミード・アンド・ホワイト)研究などを例として解説。後半はおもにデジタル・アーカイブについてのお話。日本でもアーカイブとか図書館情報学という言葉をちらほら耳にし出しましたが、お話を聴いているとこの分野における日本の状況は20年くらい遅れているような気がしてきます。


ところで以下は建築アーカイブとは異なる話で、個人的な与太話。

戦前の日本の公共図書館閉架式の有料閲覧で、戦後のアメリカン・センターでの開架式・無料閲覧が戦後の日本の図書館の基本になっているとききます。開架式で現物を手に取って見ることができ、さらに貸出が可能という「気前のよさ」に、当時の日本の人たちは驚いたかもしれません(のちのロストウの「経済成長段階説」までが髣髴される)。

戦後図書館建築の転回点としてしばしば語られるのは鬼頭梓氏の1973年の日野市立図書館で、この建築が図書館関係者からの評価が高いであろうことは分かり、また東京郊外の住宅地に相応しいコージーでコンパクトなものであることもよく分かります。もっともそれ以前から戦後型の図書館は造られています。鬼頭氏は図書館建築の基本はフラットフロア・ノンステップとどこかで語っていた気がしますが、オフィスや工場建築の基本も、それは同じです。書架をheavy dutyと見做せば、抽象的な設計原理は同じかもしれません。

ところでかれこれ10年くらい前に林望さんたちによる「(公共)図書館は無料貸本屋か?」といった議論があったと思います。本を書架に並べ、それを貸出する、確かにそれは文化に貢献してきたでしょうが、しかしリクエストに応じていると結局ベストセラーの比重が多くなり、そうなると公共図書館の役割とは何か?といった議論だったと思います。最近では書籍や雑誌だけでなくDVDを扱うところも多くなり、TSUTAYAが企業活動として行っていることを公共サービスで行うのかという議論もあるかもしれませんし、娯楽と教養のあいだの一線をどこで引くのかという議論もあるかもしれません。

今年一月に東京都立中央図書館の利用方式が、まず入口でバーコードのついた入館証を受け取り、館内の処理はすべてこのバーコードで行うというものに、変わりました。処理方法を簡略化し統一すれば、あとは多様なメニューが提供可能です。もっともこれは東京都立中央のようにスケールメリットがあるゆえに可能なことで、また逆に建築アーカイブや建築ライブラリーのようにカテゴリーがはっきりしている場合も、まだ話は明快かもしれません。しかしそうでない一般的なライブラリーの存在意義のようなものはどうなっていくのか、いっそのことメディアテークのような路線に走っていくのか、その運営方法はどうするのか、まぁいろいろと議論はあるのでしょう。

2009-05-14

チェコセンターでの「チェコ建築としてのキュビズム 1911-1914 - プラハで生まれた奇想天外な建築様式」展関連企画、建築史家の藤森照信氏のレクチャー「チェコ・キュビスムの建築」にちぇこっとお邪魔する。事前宣伝はあまりなかったのですが、女性ファンが多かったですねぇ。展覧会の方ははヤナーク、ゴチャール、ホホルという三人のチェコ・キュビズム建築家の作品を中心としたもの。以下は個人的な備忘録。


ヤン・レツル、ホイエルシュタイン、レーモンドといった日本で活躍したチェコ人建築家から話を起こし(意外と多いですね、日本で活躍したチェコ人建築家)、ヨージェ・プレチニクの独特のアールヌーボー建築を一瞥し、その後登場するチェコ・キュビズム建築を解説、チェコ・キュビズムの特色として独特の斜線の使用について述べられる。さらにキュビズム後の建築の一つとしてアドルフ・ロースのミュラー邸が、突発的な過激派による作品というチェコ建築の特色の例として示される(ロースはモラビア出身)。最後にふたたびヤン・レツル、ホイエルシュタイン、レーモンドの人物と建築に話を戻してまとめ、といったところでしょうか。

ところでこの展覧会の背景になっている1911-14年のチェコはまだオーストリ・ハンガリー帝国の地方扱いで、「チェコ建築としての」というタイトルには、そうであってもチェコ文化の特色として、という意図が込められているのかもしれません。

藤森氏は、チェコでは精密機械産業が発展しつつあり、そうした産業から当時のチェコの人たちの向上心のようなものがあったのではないか、チェコ・キュビズムはその「建築的証拠」ではないか、と仮説的な結論を提示。


カレル・タイゲのアンソロジーのなかにも、戦前チェコはヨーロッパの重工業の中心の一つであったといったようなことが書いてあったと記憶します。その後のコンストラクティビズムやアバンギャルドに続いていく話です。


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2009-05-11

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ハンネス・マイヤーって若い頃はかっこいいなぁ。

それがヲッサンになるとこうなる。しかも帽子は禿隠しだったりして。


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じつはマイヤーは経営者としても教育者としてもデザイナーとしても、優秀な人だったのではないかと思えてくる。

http://www.thorstenklapsch.de/blog/?p=222

2009-05-09

1929年にフランクフルトで開催された第2回CIAMはミニマム住居を主題としていますが、タイゲらのミニマム住居はいわゆる安普請ということとは異なり、他方、このとき出展された有名なフランクフルト・キッチンに彼らは批判的だったようです。「ミニマム」という意味には「剰余価値のない」という意味もあったとか。

タイゲらはソ連の建築に失望しますが、たしかソ連の建築技術で進んだものにプレファブ技術があり、黒川紀章が学生時代、モスクワでの世界建築学生会議に出席し、そのとき持ち帰ったものに当地のプレファブ技術他のテキストがあったと思います。ミニマムをプレファブでという点で、のちのカプセル建築やカプセル・ホテルといったアイデアの本を辿っていくと、意外と初期CIAMあたりまで遡行できるかもしれません。

2009-05-06

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KAREL TEIGE/1900-1951 L`ENFANT TERRIBLE OF THE CZHECH MODERNIST AVANT-GARDE

Edited by Eric Dluhosch and Rostislav Svacha、 Introduction by Kenneth Frampton、 The MIT Press 1999


チェコアバンギャルドカレル・タイゲについてのアンソロジーである。タイゲの論文「ポエティズム」および「モダン・タイポグラフィー」などの英訳を併載。序文はケネス・フランプトンによる。

チェコ・アバンギャルドが再び知られるようになったのは1989年のベルベット革命以降、ただしタイゲの再評価はチェコ国内ではそれ以前から始まっていたという。個人的には二つの点に興味がいく。

ル・コルビュジエ」を正史とする近代建築史では、タイゲはCIAM(近代建築国際会議)やムンダネウム論争においてル・コルビュジエにいちゃもんをつけたような扱いになっているが、それは「いちゃもん」であったのか。

1939年にチェコがナチス・ドイツに併呑されるとタイゲらアバンギャルドは公的活動の道を閉ざされ、戦後共産党政権下において一時的に「進歩的」と見做されたものの、一党独裁政権下において再び公的活動を閉ざされ、晩年のタイゲは廃人同然となり51年の生涯を閉じた、という評価の妥当性。

この二つである。

まず初期タイゲの「ポエティズム」論文を一読すると、「ポエティズム」概念は即自的なものではなく「コンストラクティビズム」の対概念になっており、伝統的な西洋哲学における「プネウマ」(気)と「ロゴス」(理)の対概念のそれぞれ敷衍と読める。「コンストラクティビズム」はロシア・アバンギャルドの「コンストラクティビズム」概念の輸入によるものと思われる。また19世紀とは雑多なイズムの時代であり、明確なスタイルを欠いていたという時代認識は、同時代アメリカの論者たちのものと同じである。いずれにせよタイゲにとって建築はコンストラクティビズムに属し、これはロシア・アバンギャルドだけでなく、ドイツのノイエザハリヒカイトとも近かったといえる。

ムンダネウム事件あるいはムンダネウム論争はそれゆえタイゲ単独によるものではなく、オランダのマルト・スタム、ドイツのハンネス・マイヤーソ連のエル・リシツキーらと歩調をあわせたものであったという。

ドイツ語におけるArchitektur /Baukunst /Bauの三層構造はシンケルの時代にはすでにできていた。ドイツ工作連盟(Werkbund)以降議論されるのはArchitekturよりBauであり、デッサウに設立されたのも建築大学(Architektur Academie)ではなくあくまでバウハウス(Bauhaus)であり、戦後ハイデッガーがヴェルクブントにおいて語るのもArchitekturではなく、バウエンについてであった。

バウハウスの二人の校長、ハンネス・マイヤーとミース・ファン・デル・ローエの考えはともに、この概念上にあったと言える。マイヤーにとってバウはノイエザッハリヒカイトにおける概念であり、またミースにとってはバウの最良のものがバウクンスト(Baukunst/建物芸術)となる、というものだった。ミースの思想としてバイナーエ・ニヒツ(Beinahe Nichts)があるが、この考えほどル・コルビュジエならやるだろうモニュメント性から遠いものはなかろう。彼らのこうした概念は建築、あるいは反・建築的建築とでも言うべきものだったようにに見える。ミースは議論には加わらなかったが、バウハウスやオランダや東欧系の建築家たちと、「建築は芸術である」「建築をめざして」と早々と語っていたル・コルビュジエとでは、最初から目指す方向が根底的に異なっていたわけである。文化の相違もあったかもしれない。

タイゲは当初ル・コルビュジエの作品を高く評価していたが、やがて鋭敏にもそこに古典主義の残滓を嗅ぎ取っていく。古典主義の残滓だけでなく、換気や日照を優先すべきと考えられるところで造形を優先するのもフォルマリストに見え、さらにサロン・ドートンヌでの『300万人の現代都市』計画では意図してかどうか土地の投機的価値をも勘案しているように見えたという。

「モニュメントではなくインストゥルメントを」と唱えていたタイゲたちにとって、「ムンダネウム」はあり得ないものだったのである。

本書に引用されているハンス・シュミットの一文では、CIAMは各国からくる若いメンバーたちに従い、もはや公然とそのマルクス主義的基盤を認めるべきだろうか、それとも自律した組織としての活動を続けていくべきだろうか、といったCIAM内部の不協和音について述べられている。この時点までCIAMはその影のようにタイゲに従っていた、とも述べられている。タイゲは声がでかかったのだろう。CIAMを仕切っていたのはギーディオンやグロピウスたちだった。彼らがどう采配したかはよく知られている。フランプトンと論者はしかし、ナチの政権獲得や、アメリカ発の大恐慌の影響がヨーロッパにもじわじわと現れ、建築家たちはそれどころではなくなってきていた、という当時の社会・経済状況の反映も見ている。けっきょくドイツやオランダや東欧のマルキストの建築家たちがCIAMから退いていったあと、イタリアからのファシスト建築家の存在感が増し、このドサクサにまぎれてル・コルビュジエが地中海に軸足を移して『アテネ憲章』をまとめたことも、よく知られている。ここまでのCIAMではしかし、高層か低層か、高密度か低密度か、片側接道か両側接道か、陸屋根か勾配屋根か、戸建か集合住宅か、といった主要な主題や、テクノロジー、家族/住宅、現代都市、といった主要なプログラムが議論されており、実質的な議論の場としてのCIAMはじつはこの時点ですでに終焉したのかもしれない。

タイゲに最も近かったのはハンネス・マイヤーのバウハウスであったという。タイゲはマイヤーに招かれバウハウスで文学とタイポグラフィーについて講じ、またマイヤーをチェコ・アバンギャルドのサークルに招いている。のちにアメリカに渡ったミース・ファン・デル・ローエが仕事に恵まれたのに対し、同じくのちにソ連に向かったマイヤーが仕事に恵まれなかったことはよく知られている。しかしたんに仕事に恵まれなかったのではなく、スターリンの登場によって当地ではアバンギャルドはみな冷飯を食わされはじめており、ソビエトパレス・コンペにおけるボリス・イォファンによる新古典主義風の案の採用はまさにその象徴的な転回点となったのだった。このコンペの結果はマイヤーをしてモスクワを去らせ、タイゲをして建築に失望させた、という。

建築に失望したタイゲが向かったものとして述べられるのが、シュルレアリスムである。1930年代後半、タイゲはパリのアンドレ・ブルトンらに接近し、いっぽうでプラハ言語学サークルの構造主義言語学者ヤン・ムカジョフスキーに接近している。

晩年のタイゲは374枚のフォトコラージュを制作し、その一部は「シュルレアル・ランドスケープ」と名づけられたという。ある論者はここにヘーゲル的観念論とマルクス唯物論と仏教超越主義のアマルガムという、晩年のタイゲがいたった境地を見出そうとしている。ル・コルビュジエであればムンダネウムにおいてそうしたように、あるいは晩年その傾向を強めていったように、モニュメントといういささかポピュリズム的なやり方で行ったものを、タイゲはシュルレアル・ランドスケープというあり方で行ったとも言える。タイゲの「園中園」という謂いは西谷啓治の世界への主体のあり方を述べた言葉を髣髴させ、また近年お目にかかる“built environment”とか“cultural landscape”といった言葉をも、彷彿させるかもしれない。

2009-05-03

西谷啓治著作集 第4巻 創文社 1987


「ニシダ・ニシタニ・キョウトスクール」の西谷啓治の著作である。前編には第二次大戦後まもなくに書かれた宗教論、後編には戦時中に書かれまた「近代の超克」や「世界史の哲学」といった議論の一角を形成していた文字通り「世界史の哲学」および、戦後まもなくに書かれた文章が掲載されている。戦後-戦中-戦後という構成になっている点では三部構成とも言える。

京都学派の学風として述べられるものに「自由の学風」というのがある。自由とは何かと問われれば、他に拘束されない、つまり他から離れてある、つまりab・soluteと言いそうであるが、西谷の文を読むとそれは歴史的に見える。西谷はベルリン大学の創設について「(この大学は)今までの大学が神学科を中心としていたのに対して哲学科というものを中心に置いた所にある。ところがこのことはただ科目の問題ということだけでなしに、大学の根本精神というものが全く違ったものになったといふことです。といふのは、哲学科が中心だといふことは、大学の研究といふものが自由の立場での研究であるといふことを意味しているわけなのです。神学科を中心とする精神は、キリスト教の信仰できめられた教がどこ迄も根本であつて、学問的研究はその枠から出ることができないという精神です」「哲学といふものには枠がない。哲学は、研究する以前に何かを真理と信じてそれから出発するといふようなことはしない。つまり前提のない立場、前提を決めてかからない立場である。信仰の立場から真理として如何に深く信じられているものでも、それを前提として研究するのは独断的、ドグマティカルである。自由な立場で研究した結果真と認められない限り、すべては疑がふべきものである、といふのが哲学の立場であります」(44頁)と述べる。つまり神学に代わるものとして哲学を置くということであり、これは西谷のいう「世俗化」とも関係している。それにしても例示されているベルリン大学が、西谷自身が説明しているようにナポレオン戦争のトラウマから出てきたものであったとは。

前半の宗教論では宗教哲学に造詣が深かった西谷らしく宗教の特質が手際よく述べられている。宗教にはユダヤ教のような民族宗教と、仏教やキリスト教やイスラム教のような世界宗教があり、前者が属人的で世俗的であるのに対し後者は普遍的・個人的、また創始者が存在し、経典と教団があり、そして超世俗的であるという。中世においては世俗的生活面をも含め宗教によってすべて統一されていたが、近世において「民族」が「国民」に変貌していく過程で国民国家が登場し、「世俗化」が始まったという。これはまた「国家の世俗化」でもあり、逆説的にもその結果国家がその手中に収めきれないものとして当の(世界)宗教が残されたとされる。信仰ではなく理性に基盤をおく近世以降の文化も宗教と対比させられる。

沖縄・南西諸島には仏教が入ってこなかったので当地には近世(中世というべきではなかろうか)がなく、『古事記』『日本(書)紀』の世界がそのまま残っていたということを島尾敏雄は書いていたが、西谷はその仏教が無力であるのは仏教には近代がないからであるという。仏教とキリスト教を対比的に論じたあたりは戦後という時代を感じさせ、また同じ世界宗教といっても仏教とキリスト教ではその分布範囲に圧倒的な違いがあり、この相違の原因の一つを仏教の「慈悲」概念とキリスト教の能動的な「愛」概念の相違に西谷は見ている。

後半部分では「自我は空である」という謂いが登場するが、これは「主体は空である」とむしろ言うべきであるように見える。世界の内側にその否定として主体をおき、それが空であるとは「否定の否定」である。ここにおいてヘーゲルが超越的な神的理性と合一化して肯定へと転ずるのに対し、仏教においてはこの「否定の否定」をもさらに否定し、その「空」をも否定すると、西谷は述べる。このモチーフはまた後編の「世界史の哲学」では世界と国家の関係に翻案され、繰り返されている。

さて悪名高い「世界史の哲学」である。大雑把に述べると西谷の世界史は、地中海の時代、大西洋の時代、太平洋の時代と続き、太平洋の時代において世界は一体化するとともに日本の登場によってヨーロッパの円環が破られるのであると述べている、と言える。こうした世界史の見取図自体は近年の世界システム論やグローバルシティ論をも髣髴させるがしかし、マルクス主義経験者ならやるだろう物象化分析や近代化分析といったものはそこには当然ながら全くなく、世界システム論者ならやるだろう経済構造分析も全くなく、ヘーゲルやランケを批評的に読みながら思弁的に述べていくその記述は裏付けのない仮説のような危うさがあるように見え、そうした仮説が陥りやすいものとしての与太話すれすれの部分もあるように見える。またその思弁的記述もギリシア哲学やドイツ哲学や仏教哲学などは一通り述べられるものの、アメリカ哲学についてはまったく触れられず、そもそもアメリカについての記述はほとんど登場せず、二回ほど登場するその記述もわずかなもので、そのうちの一つは「アングロサクソン」の延長としてあっさり片付けられている。たしか当時のアメリカの最大多数派は「アングロサクソン」ではなくドイツ系アメリカ人で、「ニミッツ提督」はドイツ系アメリカ人だったように思う。いずれにせよ記述の批判的対象となるのは「ヨーロッパ」であり、アメリカについてはほとんど興味がないように見える。これが「聖戦」イデオロギーの一角をなしていたとするなら、日本(海軍)はいったい何と戦っていたのだろう。面白いことだがアントニオ・グラムシの『アメリカニズムとフォーディズム』では「日本」はアメリカニズムのサブシステムのようなものとしてわずかに触れられている。場所が異なると見方はこれほど異なるということなのだろうか。

西谷の世界史の構図が大雑把に言って三段階となっているのもヘーゲルの三項性から来ていると思われる。地中海世界とは個別的多を許さぬ普遍性の世界(ローマ帝国はその典型だろう)であり、中世ののち登場する大西洋世界は単一的普遍性を許さぬ個別的世界(つまりヨーロッパという枠組における国民国家=国際社会)であり、そしてこう述べてくると太平洋の時代とはお約束どおり「一即多、多即一」の世界となる、と言われる。考えようによってはしかし、移民によって成立しているアメリカは「一即多、多即一」の世界とも言える。

さて本書の末尾には「批判の任務とファシズムの問題」と題された戦後まもなくに書かれた一文が挿入され、そこでニーチェの「生に対する歴史の功罪について」が効果的に引かれている。だが途中から雑文めいてきて、フランクフルト学派や英米系のマルクス主義批評がやるような論究はなされない。

けっきょく西谷は仏教哲学者だったということだろうか。


余談。ドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』に登場する定冠詞付の「日本の哲学者」は道元のことだという。