「これらの諸論文はコーリン・ロウとマンフレッド・タフーリのあいだに一つの位置を占めようという試みであるとも議論できるかもしれない。彼らのあいだに隔たりがあるのは疑いないことだが、私の仕事はタフーリの歴史性から隔たった文脈に、時代精神に対するロウの敵意を抱くことなく内的自律性を置くものなのである。同様にしてそれはあらゆる生産形式は資本主義の生産サイクル内で共謀しているというタフーリの位置を受け入れることなく、ロウのフォルマリズムを拒絶することでもあろう。事実ここにおいても他においても、建築が批評的文脈であるためにはつねに時代精神を踏み超えねばならないと、私は議論することだろう」と述べ、ピーター・アイゼンマンはみずからの位置をコーリン・ロウとマンフレッド・タフーリのあいだに定めようとする。しかし最後の「つねに時代精神を踏み超えねばならない」というのはタフーリ的でもある。この謂いの少し前で述べる「アルベルティの『建築十書』の歴史はそれゆえ、ウィトルウィウスの『建築論』の批評として構想された。ウィトルウィウスが1世紀に著したとき彼の説明は歴史的なものとは思われず、むしろ敷地や素材の「適切な」使用法とみなされる条件の具体的な説明のようなものだった。ウィトルウィウスの考えは明らかに表象の何がしかの形態を含意していたにもかかわらず、アルベルティとは異なり、彼は建築を何か別のものの表象形式とは描写しなかった。ウィトルウィウスの仕事とは、構造的に強く快適で美しいという適切に説得力のある概念のうちに存在する、自らのまわりに見える世界に全体的な説明を与えようとすることだったのである。
15世紀ではそうした具体的なカタログではもはや不十分となる。建築と芸術を説明するため、アルベルティは「歴史(istoria)」、文字通りの歴史あるいは物語を要求したのである。当然ながらこの歴史は建築と芸術ではまったく別物でなければならなかった。芸術については物語的な慣習はすでに何世紀ものあいだに確立されており、一方で建築においては、こうした歴史的な慣習はちょうど始まったところだったのである。アルベルティによる歴史の創造とは、現在において世界がいかにそのようなものであらねばならないかを、過去を用いて説明するという表象の新しい考えの始まりでもあったのである。ウィトルウィウスは強・用・美に関心があったのだともしも述べ得るとすれば、アルベルティが15世紀ののちにこれを繰り返したとき、それは単に強さそれ自身だけではなく、強さというものの必然的な「表象」をも意味したのだった。建築は単に強く機能的で美しいというだけではなく、その強固さ、機能性、美の「表象」でもあったのである。科学が15世紀と16世紀においてそれ自身のための歴史を発明したように、建築も似たような手つきでこれと並行した歴史を組み上げたのであり、そうすることで歴史そのものに重要性を与えたのだった。古代ローマ帝国における人間の働きを基にして現在の建築が作られたとするなら、人間のつくるものは神の摂理によって説明できるものではなく、その主要な条件によって説明できるものとなるのである。この歴史において、もっと適切にはこの文脈においては、この外部性が建築の最初の意識的な内的自律性となったわけである。かつてウィトルウィウスが異なるオーダーとその使用の適切な規則を定めた一方で、アルベルティにとってはこのオーダーのまさに使用が、オーダーそれ自身を超えてこの外部性を喚起したのである」(Peter Eisenman、Inside-Out、Yale University Press、2004)は、マンフレッド・タフーリの1960年代の著作『建築の理論と歴史(Theorie e Storia dell`architettura)』の冒頭章「歴史・蝕」のモチーフとまったく同じである。建築はアルベルティとブルネレスキにおいて歴史という表象として始まったというタフーリの謂いのモチーフである。タフーリのこの言説はヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をパラフレーズしたものだったと、アンドリュー・リーチは指摘している。ベンヤミンが工業化と都市化の文脈において語ったものを、タフーリはルネサンスに遡行して語ったというのである。タフーリの『球と迷宮』の最終章ではアイゼンマンをはじめとしたアメリカの建築家たちを小馬鹿にするかのように述べているにもかかわらず、アイゼンマンのタフーリへの傾倒はいずれにせよはっきりしていよう。
タフーリの英語圏への実質的なデビューは1974年、ディアナ・アグレストによるプリンストン大学への招聘だったという。ディアナの夫君はいうまでもなくマリオ・ガンデルソナス、つまりピーター・アイゼンマンケネス・フランプトンともどもIAUS(ニューヨーク都市建築研究所)/オポジションズの中心メンバーだった人物であり、こののちタフーリは雑誌『オポジションズ』に論文を寄稿するようになる。
1960年代から70年代にかけてのタフーリ/ベネチア学派の研究のうち、近代建築研究という文脈では、第一次5ヵ年計画下のソ連の建築・都市研究、シカゴやニューヨークのメトロポリスをはじめとしたアメリカ資本主義における建築・都市研究、そしてワイマール・ドイツの建築・都市研究の三つがあった。当時はまだ冷戦時代でソ連アーカイブはアクセス不可能、マルキストを公言し実際1968年までPSIUP(イタリア社会主義プロレタリア統一党)の党員であったタフーリはアメリカでの行動を制限され、そしてドイツは東西に分割されていた時代であった。PSIUPについては「彼らはキューバや中国や第三世界について議論していたが、私の問題は郊外にあり、それで1968年に離党した」とタフーリ本人はのちに語っているらしいのだが、「カストロでも毛沢東でもゲバラでもなく、いまこここの労働と生産の具体的現実」という認識は1970年代イタリアのアウトノミア・オペライオ(やついでに言えばジャン=リュック・ゴダールの『ベトナムから遠く離れて』)の認識と共通するものでもあろう。いずれにせよこれら研究のうちアメリカの建築・都市についてのものは『アメリカの都市(La Citta Americana)』としてまとめられ、チウッチが「フランク・ロイド・ライトと農業主義」、フランチェスコ・ダルコーが「進歩主義イデオロギー」、マニエリ=エリアが「ダニエル・バーナムとシティービューティフル運動」、そしてタフーリがスカイスクレーパーについてまとめた、という。ちなみにベネチア学派のメンバーと看做されているのはほかに、マッシモ・カッチアーリ、デ・ミケーリス、カセッティ、マニエリ=エリア、それにジョージ・ティソらである。
タフーリのアメリカの建築・都市についての言説としては、「ヨーロッパ文化とまったく異質なプラグマティックなアプローチによって、フィラデルフィアワシントンD.C.といった都市はその動脈状のグリッドを当てはめ、そこで断片化した建築が「絶対自由」を享受している。これらの物は都市を形成しておらず、都市もこれらをその限界内でほったらかしにしている。アメリカの都市はそれを形成する二次要素に最大限の表現を与え、一方でそれを統御する法律が厳密に履行されている。この展開は建築の都市(より正確には都市計画)からの最終的な乖離を示しているだけでなく、広くいきわたった文化展開を保証もしているのである。このグリッド内において建築は何でもありであり、そして実際すべてになっているのである云々」(Leach ibid、P148での引用)などがあるが、いずれにせよアメリカの建築・都市についての鋭い分析と言える。
ところでレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』の前半は、コニーアイランドから論を起こし、マンハッタニズムを一瞥し、巨大複合体としてのロックフェラーセンターへと論を進めていた。コールハースの同書は奨学金を得て1970年代後半にやはりIAUSに滞在したことを契機として書かれている。タフーリらの研究は、同書の優れた先行研究としてあったはずであり、コールハースの分析はタフーリらから影響されているのではないかと思える部分もある。『錯乱のニューヨーク』は脚注をもった論文形式で書かれているが、その脚注においてタフーリらの文献が示されることはしかし、なぜかない。