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RCaO1.0

2009-11-30

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芝豆腐屋うかいでの村野藤吾研究会クロージングパーティにお誘いいただく。同会の会長で私と同郷の建築家・菊竹清訓氏と名刺交換させていただく。そもそも村野藤吾自身、同郷(だいたい)で、地元には生前の村野を知る人がまだ少なくありません。福岡県出身の建築家といえば、松田軍平、岸田日出刀、村野藤吾、菊竹清訓、松畑強、これはなんとも大物揃いです。

他にもいろいろな先生方に知己を得たり、旧交を温めさせていただいた。

ところでこの芝豆腐屋うかいというのは凄いですね。東京の中心に2000坪の敷地、そのうち1500坪が庭園であるとか。料理は豆腐懐石料理でした。

2009-11-19

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広尾交差点近くにある建築家・渡部英彦氏の事務所にお邪魔する。ランチタイムに始まり夜の9時に終わるまで、ノンストップの濃密なカンバセーション。プライベートな会話を電網与太話にするのはいかがかという考えもあるでしょうが、差障りないと思われる範囲でいくつか。

まず氏の生立ちから。渡部氏の祖父は日本画家、父は建築家であったという。中学高校時代の英彦氏の鉛筆画、水彩画、油彩画も見せていただいた。うまい、お上手です。筆の速度や運びに日本画的な面もあるように見え、また大学以降のスケッチにはおなじく筆勢がある。話はそれるが、概して最近の若い建築家さん達には、建築設計の基本の一つであるデッサンやスケッチを疎かにした傾向が見られる気がしなくも、まぁない。

父は文字違いの渡辺、渡辺仁事務所に勤務されていたそうで、そこで皇居前の第一生命館、銀座の服部時計店(和光)などを担当されたという。第一生命館の担当者は松本与作とされることが多いが、それは違うのではとのこと。話はふたたびそれるが、渡辺仁事務所といえば歴史的には様式建築時代の終焉あたりに位置づけられる。様式が多少崩れている場合でも同事務所の作品がカッチリして見えるのは、基本に古典主義があってプロポーションやディテールがしっかりしているからではなかろうか。

さて、英彦氏の作品には東京女子医大日本心臓血圧研究所研究棟(1960年代)、学習院創立百周年記念館(1970年代)などがある。後者はアプローチや外構、ホワイエなどの計画がなんとも奥ゆかしく、またアルヴァ・アアルトの作品を彷彿させるところがあり、

「上品というか、品がありますね」

「増田(友也)先生にも同じことを言われた」。

反対運動に遭ったり、30年とたたないうちに取壊される建築もあるなか、30年大事に使われて続け、今なお使われているというのは、建築家冥利につきるのではなかろうか。銀座の和光にも、同じ性質のものがあるかもしれない。

ところで氏の高校時代の友人の一人が石原慎太郎氏(現・東京都知事)で、大学時代のクラスメートの一人が黒川紀章氏(建築家、故人)であった、と書くと、黒川氏を石原氏につないだのは・・・などと邪推しそうになる。

「私にとって黒川君はいい友人だった」

と言って見せていただいたのは、2007年2月14日に黒川氏から手渡された腕時計の贈物であった。人生最後のバレンタインデーに男友達に自分のデザインした腕時計を贈るところが、なんとも黒川さんらしいというか。

「黒川君の代表作は何だったと思う?僕は中銀カプセルタワーが黒川君らしいって本人に言った。本人はそれを否定して、クアラルンプール国際空港だって」。

窓の外が暗くなる頃には話は1960年代にまで遡り、午前2時の増田友也研究室の逸話や、同じく午前2時の丹下健三研究室の逸話までも、会話にのぼる。

丹下健三氏の代々木オリンピック体育館。シビルエンジニアリングからエアロダイナミクスまでの工学を用い、また手の込んだ操作的デザイン、さらに歴史的・文化的言説によるイコノロジーの構築、そして舞台となるのが東京オリンピック。こんな建築は百年に一度くらいしか登場しないのだろうな、と思う。石原慎太郎氏が「東京オリンピックの感動を・・・」と言っていたのも、まぁ分からなくもない。

渡部氏自身や黒川氏の仕事術やビジネスの方法についても、いくつか教えていただいた。


「増田先生が言っていたことだが、人生には自分にも信じられないような機会に遭遇することがある。それまでの日々の努力を怠らなかったかどうかが、勝負。君と僕の年齢は30くらい違うが、30年なんてあっという間だ。じゃ、お疲れさま」。

「お疲れさまです」。

2009-11-13

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“The Palestinian Question, the couple of Symptom/Fetish, Islamo-Fascism, Christo-Fascism, mieux vaut un desastre qu`un desetre”

Slavoj Zizek


ある方に「読め」と言われ、手渡されたスラヴォイ・ジジェクのペーパー。こちらと重なる論旨もある。今年(2009)春にパキスタンパレスチナで起きた出来事も引かれているので、最近書かれたものと思われる(lacanian inc.からのDLか)。

冒頭で書かれていることは古典的マルクス主義では何度も述べられてきたもので、目新しいものは、とくにない。

半ばあたりからは、ベンヤミンの「ファシズムとは革命の失敗の指標である(ファシズムは左翼の失敗にとっ替わったものである)」という謂いが通奏低音のように、繰り返されていく。もっとも、レーニン主義の「党」として始まったアルカイーダがイスラム原理主義の武闘組織になっていったという例などは、フランス革命後のジャコバンにまで遡行できるだろうし、1920-30年代初頭のドイツ共産党とナチの関係も、これまでも様々なところで議論されてきたものである。

パレスチナ関連の発言への批判、たとえばフランシス・フクヤマやベルナール・アンリ=レビらによる「イスラモ・ファシズム」という造語に対する批判や、ホルクハイマーの「リベラル・デモクラシーやその高貴な原理を(批判的に)語ることを欲しない者は、宗教原理主義についても語るべきではない」を引きながら、「リベラルはとっくに失効している」として、リベラルの欺瞞を批判する論理も、とくに新しいとは思えない。

このペーパーの肝は、「中東摩擦にもしも二つの秘密があるとしたら、どうだろう。世俗的なパレスチナ人とシオニズムの原理主義者という、二つの秘密である。世俗言語で語るアラブ原理主義者と、神学的合理化に依拠するユダヤの世俗的西洋人である」という、一般的な臆見を転倒したあたりから始まる終章にあるだろうか。この終章はサイードと対称的な視点から(パレスチナを)よく見たものであるようにも見える。

「奇妙なことは、宗教観念にかくも神を持ちこんだのは世俗的なシオニズムであり、つまりある意味でイスラエルの本当の信者は、非・宗教的である」「(それゆえ)悲しむべきことに正統派ユダヤがいまや、ますます自らが実際、神を信仰していることを確信しているように見える、ということである」。「イデオロギー的なこの捩れによる逆説的な結果は、いまや自身への関係の極点に達する反ユダヤ主義の最終版に、我々は立ち会っているということである」。

著者によればナチによる反ユダヤ主義の特徴の一つは、ユダヤとは国家の外部にあるとすることであり、それゆえマダガスカルからパレスチナのどこかにユダヤの国民国家を造ればいい、という主張があったことであるという。逆説的なことにイスラエルには、これと重なるところがないわけではなかろう。そして「理性の公的活用」領域におけるユダヤの特権的位置は、まさに国家・権力から一歩身を引いたところにあるという。イスラエルの国家・権力から一歩身を引くユダヤ、あるいはユダヤにおけるユダヤ、ユダヤのなかのユダヤ、彼らこそがスピノザの最良の後継者である。

という読みに反対するジャン=クロード・ミルナーの言説が、次に引かれる。「近代ヨーロッパにおけるユダヤ人の解放は、彼らをタルムードの研究から普遍的(科学的)探求へと向かわせた」(一神教的普遍性による知のユダヤの登場。さらにユダヤ系知識人のあいだにマルクス主義が浸透しているのはそれが「科学的」だからという)。「啓蒙主義はそれゆえ、ヨーロッパのユダヤ人に、その名、伝統、ルーツを無視しつつ、科学的知による普遍性のなかに自らの居場所を見出す機会を与えた。しかしながらこの夢は残酷なことにホロコーストとともに終わった」。「20世紀に起こったのは、ユダヤの名の回帰」である、という。

ここから1950年代と60年代の状況が一瞥される。

1950年代のサルトルと1968年(その最良の思想家はドゥルーズである)ののち、(ベニー・レビーらは)ユダヤの名への忠誠を選び、他はキリスト教的精神を選んだという。著者によれば、ミルナーの著作の核はこのあたりの分析にあるという。ミルナーはさらにマグリットによるだまし絵の比喩を用いつつ、ファシズムの真の敵は左翼などではなくユダヤ(つまりユダヤの名)であることを、プロレタリアート左翼は直視しようとしないと言う。

この先、著者は部分的にミルナーのこうした主張を認めつつも、ペーパーのタイトルにあるおそらくSymptom/Fetishを再度用いつつ、結語部分に向かってミルナーに批判をくわえていく。「この事実はしかし、何を意味するのか? 古典的マルクス主義の観点からこれは解釈できないのか、つまり「ユダヤ」という文字の反ユダヤ主義とは階級闘争の比喩的代用である、とは。階級闘争の消滅と反ユダヤ主義の(再)登場は、同じコインの両面である。というのも「ユダヤ」の文字にある反ユダヤ主義の現前は、階級闘争の不在という背景においてのみ理解可能だからである」。

ベンヤミンの言葉が最後に繰り返される。ベンヤミンへの、この信頼。


以上のような読解でよろしかったでしょうか。


それにしてもアメリカでは、ドゥルーズ、デリダジジェク・・・という流れになりつつあるのだろうか。

2009-11-09

井上章一 『法隆寺への精神史』 弘文堂 1994


大雑把に言って法隆寺の柱の「エンタシス」と伽藍配置を主モチーフにしながら、学説がそれぞれの時代の「精神」のなかでいかに動いていったかを見た書、といったところでしょうか。展開はしかし、cultural / inter-cultural という軸で動いているように見えます。

ギリシア建築の円柱におけるエンタシスと法隆寺の柱の胴張を結びつける考えは明治時代、アーネスト・フランシス・フェノロサから始まった、という。4世紀のアレクサンダー大王東征によってヘレニズム(後期ギリシア文化)がガンダーラに達し、唐を経て6世紀以降、日本に到達し、法隆寺や正倉院はその証しということに、いったんなったという。フェノロサのbrainchildから始まったこの説、ということになるのだろうか。

「フェノロサはヘーゲリヤンにして」と言ったのはフェノロサの弟子である岡倉覚三だったが、「ヘーゲリヤン」である以上、審美的にはギリシア文化を高く評価していたはずである。おもしろいのはその岡倉が『東洋の理想』において、東洋史において肝心のガンダーラより西を完全に切っていたことである。本書ではこうしたことが20世紀初頭のインドの独立運動や、そうした思潮のなかで登場したアーネスト・ハベルらのインド固有美術論との関係という「精神史」から見られていく。

また岸田日出刀や太田博太郎といったモダニストになると、胴張も伽藍配置も、inter-culturalな側面がまったくなくなり、culturalな部分のみ強調されていったという。

一般的に見て歴史遺構を考えるばあい、「言葉」と「物」の一致が鍵ということになるのではなかろうか。この点で、本書に登場する伊東忠太の大同(雲崗石窟)の発見や、石田茂作による法隆寺境内の発掘から導かれる結論は、説得力のあるものとされる。伊東はこの発見によって、現存する法隆寺建築への影響が唐経由で天智期に来たものではなく、北魏経由で推古期に来たものであるという説を確かなものとし、また石田による法隆寺境内の発掘は、現存する法隆寺は創建時のものではなく、『古事記』にあるように焼失したのち再建されたものであり、かつ伽藍配置も創建時のものと異なり、四天王寺式から薬師寺式への変遷期を示しているという説を確かなものとした、と言える。

本書の趣旨から外れるかもしれないが、言葉だけならすべてbrainchildとして言える、ということになるだろうか。



法隆寺への精神史

法隆寺への精神史

2009-11-08

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京都、徳力みちたか氏(西本願寺絵所13代だそう)に版木等をいろいろ見せていただく。「伊藤若冲の現存する2枚の版木はミホ・ミュージアムに貸出中で残念ながらいま見られませんが、これはですね、角倉了以の書簡です」。

脈絡のない話になるが、「家庭教師で行ったごく普通の家にあった絵が伊東深水だった」という話をきかされたことがあり、国宝とか文化財とかなにがしかの工芸品がそこいらにある街では、まぁある。

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三条通りが昔と変わったという話をきいて、歩く。ここはもともと町屋や戦前の近代建築が残っていて立地もいいという、観光資源としてのポテンシャルの高かったところである。欲を言えば週末くらい歩行者天国にしてもいいように見えるし、電線の地中化もむかしより安くでできますぜ、京都市景観・まちづくりセンターさん。

脈絡のない話になるが、今年から来年にかけて、着物を着て観光すれば各種料金が無料または割引になるという試みもきいた。

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またも脈絡のない話かもしれないが、妙喜庵(臨済宗)待庵を拝観する。以下は個人的な印象。

こうした茶室はほんらい仮設的な建物なのか、壁や屋根の基本骨格を竹で編み、地面に敷いた束石に置かれただけである。強風で飛ばされそうにもかかわらず400年以上も存続してきたのは、妙喜庵という宿主に固定され、また周囲の樹木や生垣が防風しているからなのだろう。特徴的な連子窓の連子は、木舞壁の土をかきとった部分に露出している竹によるもので、そこから窺える壁厚はわずか3センチ程度という薄さである。開口四隅はクラック防止のためにアールをとっており、これは室内室壁のアールに対応もしている。その土壁は外面は平滑に仕上げながら内面は粗く仕上げるという、通常とは逆の操作がなされている。一連の開口は大きさ、比率、高さがすべて微妙にずらされており、その一つはわざわざ竹の柱型と重なるように配されるという計算ぶりである。柱型は内部の畳の長辺と短辺に対応してほぼ1対2のリズムを形成しているものの、これらもすべて微妙にずらされている。茶席の二畳台目はよく言われるが、全体としてみると平面形状は水屋から控え、茶席、床と、綺麗な比率をなしながら螺旋状に展開している。襖は廻縁も手掛もなくシンプルなデザインである。こうしたデザインやpicturesqueでrusticな構成がモダンであると評価されてきたのかもしれないが、自意識過剰なほどに操作的にも見える。まるでミケランジェロの作品のように。

たまたま行われていた青蓮院(天台宗)の青不動御開帳を拝観する。この寺院には伝・小堀遠州の庭園もあるが、遠州風庭園は夜間ライトアップをするといささかべたな観光地に見えなくもない。青い光はもしかしたら青不動にかけているのかもしれないが、昔の「あお」と現代の「青」は、同じ色であっただろうか。


そうだ、京都行こう、JR韜晦。

2009-11-01

井上章一 『伊勢神宮 魅惑の日本建築』 講談社 2009




どうでもいい話であるが、個人的な話をさせていただくともう23年前の夏、京都大学建築系図書室の書庫の奥にある机で一日の大半を過ごしていたころのことである。その当時売り出し中だった井上章一氏がたまたま書庫に入ってきて調べものをして出て行こうとするところを後ろから、「あのう、もしかして井上先生ではありませんか。先生の本、ぜんぶ読みました」と不躾にも声をかけさせていただいたことがある。すかさず「それは有難うございます」と頭をお下げになったのには恐縮した。そのご「論文はキン(以下略)」とか「全国の学位論文を(以下略)」とか、京都人らしいブラックユーモアを語られていたと記憶する。

本書でかなり頁を割いて論じられる浅川滋男氏もそこで見かけた。司書の方と親しいらしく「勝手知ったる・・・」と言いつつ受付の机のなかにむんずと手を突っ込んでいたのを、何故かよく覚えている。わたしもしばらく入り浸っていると、「あのね、登録されてないけど岸田日出刀さんの本がまだあるのよ、オットー・ワーグナー。借りていく?」と、司書の方にお声をかけていただき、思わずにやけてしまったことも何故かよく覚えている。ほんとうにどうでもいい話であるが。

いずれにしても『南蛮幻想』あたりから著者の本を読むのをやめた。「邪推する楽しみ」を目的としたこれはちょっと高級な娯楽であって、あまり生産性がないようにも思えたからである。それゆえ、私にとってひさしぶりに読ませていただいた井上本である。

ところで本書にはまた丸山茂氏の名前もたびたび登場し、あとがきでは「丸山説をしりぞけた以上、私も私なりの代案をしめすべきだと、考えた」という記述も見える。丸山氏と言えば、在地信仰から神社という形式が成立したのではなく、在地の伝統を官社制のなかで神社という形式として中央が整備していったという、「画期的な」神社建築史論を近年となえた方である。丸山氏が自説で集中砲火を浴びせたのは文字通り、在地信仰が神社へと発展していったとする説をとなえた福山敏男である。つまりかつての京大歴史研教授で神社建築の権威とされてきた人物で、いっぽう丸山氏は東大歴史研のご出身である。神社建築史における内ゲバのように見えなくもない。通説である福山説もそうなのかもしれないが、丸山説も根拠のある説ではなく、本書でも「丸山は、後者にたつ津田や福山が、論証していないと言う。しかし、前者の史観が正しいとあかしだてることも、できないだろう。ようするに、どちらもひとつの史観でしかないのである」(352頁)として、退けられている。東大寺国分寺のネットワークによって外来の仏教が実質的な国家宗教の地歩を固めつつあった時代、なぜ神社というもう一つのネットワークを築こうとしたのか、いろいろ説はあるようだがこの点に関してこれといった説がない方が、個人的には興味のあるところではある。

本書の冒頭ではまた、丸山氏らをはじめとした「じゅうらいの神社建築史に反省をせまる史家」の勇み足が諌められている。「最近は、旧来の「虚構」がくずされつつあるという。では、なぜこれまで、そんな「虚構」がまかりとおってきたのだろう。だれがこういうものをつくったのか。山岸は、伊東忠太の名をもちださない。「虚構」が定着したのは「明治以降の国家神道の影響」によると、述べている。個人の名前より、一時代をおおっていた観念に、重きをおいた。だが、けっきょくは、「明治以降」に鍵があるという。その点では、明治期の伊東が画期をもたらしたとする黒田や丸山と、かわらない。どちらも「虚構」の起源が江戸時代へさかのぼりうるとは、思わなかった。そもそもその可能性をさぐろうともしていない」(90頁)。

天地根源造を建築の起源に置く説は江戸時代にすでにできていたことや、18世紀初頭には合理主義的な建築論が芽生えていたことなどを上げ、伊東の日本建築史は江戸時代にできていた歴史観を敷衍したものであって、明治期に「虚構」として造られたものでないことを、著者は冒頭で述べていく。またこうした説は20世紀半ばにおいて登呂遺跡の復元によって終焉していったことも、述べられていく。つまりこれは18世紀に始まって20世紀半ばに終焉した範型なのであって、「明治期以降の虚構」であるとする考え自体に根拠がない、というわけである。

著者はまた、実証性よりも「想像力やイメージに重きをおく」1980年代以降のニュー・アーケオロジーにも手厳しい。なにかと「聖性」を持ち出す傾向には、江戸時代に流行した神学との共通性をも見ている。「旧石器捏造事件」というのがあったが、もしかしたらこうしたものも、ニュー・アーケオロジーの負の側面を戯画的に見せたものだったのかもしない。

ところでモダニズムとの関係では、著者は本書においてもっぱら掘口捨巳に集中砲火をあびせ、岸田日出刀にはほとんど言及しない。「岸田が戦前からモダンデザインをささえてきたことは、あらためて言うまでもないだろう」(364頁)として、式年遷宮でデザインが変えられる話で言及されるに留まる。

さて、そんなに岸田に『建築学者・伊東忠太』(相模書房、昭和19年)という著作がある。同書において岸田は「わが国の建築は古来外国の建築を摂取してこれを同化することによって発展してきた。・・中略・・余は以上の見地から、わが国の建築が明治以来しきりに外国の模倣に腐心してきたのは当然であると思うと同時に、早晩模倣の域を脱して同化時代に入ることを信ずるのである」(131頁)という伊東の言説を引き、そこに岸田は同意と微妙な批評をくわえている。伊東忠太が設計した建築はブリティッシュ・ビクトリアンを基本としながら、インド建築やムガール様式をピクチャレスクに折衷したエクレクティック・クラシシズムであったといえる。これは同時代の傾向であったとともに、「開国」というトラウマからきた明治時代人のコスモポリタニズムの表れであったとみることもできる。いっぽうで昭和の岸田はモダンデザインを支えつつ、著者の言葉に倣えば「自閉的な」国粋主義と本書では関係付けられるものである。同じ範型の歴史を共有していても、様式建築とモダニズムのこの捩れは、個人的には興味のあるところである。

著者はまた「中国では、黄河文明の基壇建築が、長江文明の干闌建築をおしつぶしていった。彼地で両者がまざりあい、生まれかわった例が、どのくらいあったかのかは分からない。しかし、洗練の美が語れるほどの遺構は、もう見当たらなくなっている。いっぽう、日本では、神宮に、黄河文明と長江文明がとけあった様子を、読みとれる。日本的な独自性があるとすれば、そういう場を提供しえたことではなかったか。黄河文明が長江文明を、駆逐するにまかせるのではない。前者で後者をみがきあげた例が、とにもかくにもあらわれた。そこにこそ、私は日本建築史の個性を感じたい」(361頁)と、みずからの仮説も述べている。これもまた仮説の一つというわけである。

黄河文明と長江文明の争いといえば『三国志』を思い出す。黄河流域の陸上騎馬集団と長江流域の水上集団のこれは戦いでもあり、東国の陸上騎馬集団と西国の水上集団の争いである日本の源平合戦とも、まあ似ている。与太話ついでに書けば、明治のコスモポリタニズムがシルクロードという陸上ルートを辿ったとすれば、戦後は柳田国男の『海上の道』のように、黒潮を遡行する海上ルートが辿られたとも、言える。本書のうしろで登場する浅川滋男氏の説にも、こうした傾向と重なる部分もあるのではなかろうか。その浅川氏の説とは同じではないが、シンガポールのロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい、東南アジア建築人類学』(邦訳は学芸出版、1997)では、インドネシアのトラジャ人の建物と伊勢神宮が関係付けられていたように思う。両者に共通して目をひくものの一つが「千木」であり、トラジャ人のものの方の原型は、水牛の角とされていたのではなかったろうか。べたな精神分析からすればこれはファルスであり、日本語でいう「うだつ」ということになる。

まったく話は飛ぶが、むかしラテンアメリカを旅していて、ジャングルの奥へ入っていくと急に視界が開け、稲作水田とテクトニックな木造家屋が散在する風景を見て、「ここはアジアか」と思ったことがある。アメリカ先住民は基本的には東洋人である。

太平洋の海流は北半球では日本の脇を通ったあと、ハワイあたりまで中継点がない。しかし南半球であれば、オセアニアからラテンアメリカまで島伝いで行けないものかと、妄想してみる。


伊勢神宮 魅惑の日本建築

伊勢神宮 魅惑の日本建築