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RCaO1.0

2009-12-17

小林美香『写真を〈読む〉視点』、青弓社、2005


「あたし関西系なんです」と言って、いきなり大阪弁で語り出す写真研究者の小林美香氏の著作。劈頭では写真史の論じ方がひととおり述べられ、また技術史でも表現史でも用法史でも写真家列伝でもなく、写真の見方見せ方の条件を「読む」視点を示すこと、あるいはそのような写真史を描くことが本書の主題であると、まず述べられる。このあたりはもちろん建築史にも、美術史にも通底する。

その写真を「読む」フレームとして提出されるのは、子供、性、広告/ジェンダー、戦争、紙面、美術館、現代美術・・とこう書くと最近の定番メニューが揃っているようにも、見えなくもないのかもしれない。個人的な印象のいくつか。

子供・・というと、フィリップ・アリエスの古典的著作『子供の誕生』があり、また古典的マルクス主義の視点からであれば、19世紀におけるブルジョワ家族の形成と家族写真や子供の写真について、正面から論じたかもしれない。ここでは19世紀における家族写真(やおそらく家族の変容)とダゲレオタイプやカルト・ド・ヴィジットの関係、および20世紀プロパガンダにおける子供の扱われ方とフォトジャーナリズムやドキュメンタリーの関係が、述べられていく。

さて、広告を「読む」ことはロラン・バルトの1957年の『神話作用』以降、1990年代のジャン・ボードリヤールの一連の著作を経て今日にいたるまで繰り返されてきたし、また避けて通れないものであるかもしれない。近年ではジェンダー論がこれに重ねられる。商品や消費や広告はジェンダーという観点から見れば、もちろん中立ではない。アメリカの若い建築史研究者の書いたペーパーに、19世紀ビクトリア時代における住宅の変容と生産(労働)と消費の関係をジェンダーの観点から論じたものが何年か前にあったが、こうした視点は住宅史や都市史においてもまだ論が尽くされていないと思われる。ところで本書107頁では(広告写真の)モデルの身体の断片化や「もの」化が論じられているが、古典的マルクス主義であれば、これらは疎外化(alienation)、物象化(reification)、商品化(commodification)といった鍵概念の議論に相応するだろう。

戦争とプロパガンダの問題というと、映画についてのポール・ヴィリリオの一連の著作が思い出される。ここでは写真に焦点をあて、ロバート・キャパの『LIFE』での写真に始まり、ハーバート・バイヤー+エドワード・スタイケンによるMOMAの展覧会『勝利への道』までをあげながら、戦場ジャーナリズムと小型カメラの発明の関係からもっぱら述べられている。

紙面・・では、パソコンのモニター上の「画像」と写真集(ポートフォリオ)という紙媒体上の写真の相違から論が起こされる。写真集では余白やサイズ、紙面構成、シークエンス、テクストが介在する。これらについて、ハリー・キャラハン、ラルフ・ギブソンウィリアム・クラインユージン・スミスという4人の写真家の作品集において、それぞれ分析されていく。「紙面での写真の構成方法の違いは、見開きや余白という印刷物に備わる要素の扱い方に結び付くものであると同時に、読者が本を手に取ってページを繰りながら写真を見たり文章を読みとったりするという身体的な行為にも結び付いている」(163-164頁)といったことは、今後ますます増えていく「画像」との基本的な相違のひとつであろう。

本書の後ろ近くで述べられるヴィンテージ写真をはじめとした美術館写真の議論は、他の分野でも述べられてきた美術館やギャラリーの議論とも、もちろん通底している。

ソシュールの謂いを転倒させて「言語学記号学の基礎である」とかつて述べたのはロラン・バルトで、視覚と(言語の介在する)視覚性を分けたのはラカン派であったように思う。ついでに述べると、写真についてはベンヤミンのような先行者もいる。今日の視覚をめぐる議論の一端はこうした議論の延長上にあると思われる。つまり本書のタイトルにもあるように、写真の分析は「見る」ことではなく「読む」ことにあろう。冒頭でも示唆させていただいたが、これらフレームは建築史(や美術史)とももちろん共通している。


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写真を“読む”視点 (写真叢書)

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