Hatena::ブログ(Diary)

アジア雑語林

2017-08-24

1030話 ワンダーフォーゲルの事などから その1



 若者の旅の歴史を考え始めて、もう数十年になる。なぜ若者なのかというと、仕事や家族など社会の枠が低く弱いからだ。別の言い方をすれば、比較的自由に動ける可能性があるから、若者の旅を調べるのはおもしろそうだと思ったからだ。
 若者は、何をきっかけに旅に出ようと思ったのか、若者の心を刺激したのは何か、それぞれの時代の文化、政治や経済との関連など、手に負えないほどの調査項目を抱えて、日々資料を探し、読み、考えている。
 バックバッカーの源流は世界にいくつもあるだろうが、いろいろ考えていて浮かび上がってきたのは、ドイツに太い源流がありそうだということだ。
 ドイツやその周辺には、中世から遍歴職人という制度がある。いまでも細々とだが、残っている。職人の世界には、見習い、職人、親方という序列があり、独立して営業するには「親方」(マイスター)の資格を必要で、親方は職人を使うこともできる。職人から親方に昇格するには、3年間諸国を巡り歩き、技術を磨き、心を鍛えることが最低条件とされる。職人だけでなく、諸国を巡る学生の存在もあり、遍歴学生とか遍歴学者などとも呼ばれた。こういう制度を支えているのは、「旅は人を鍛える」という思想である。
 そのドイツで、19世紀末から20世紀初めにかけて、のちの時代に若者の旅に大きな影響を及ぼす動きが姿を見せた。ユースホステル活動と、ワンダーフォーゲル活動だ。小学校教師であるリヒャルト・シルマンが、夏休み期間の学校を子供たちの宿舎として開放して、子供たちの野外活動の拠点にしたいと考えたのが、ユースホステル活動の始まりである。のちに、学校だけでなく城も宿舎として開放され、その活動は世界各地へと広がっていった。
 ユースホステル活動が、当初小学生を対象としたのに対して、ワンダーフォーゲル活動は10代後半の、高学歴の若者が対象だった。大学入学前の若者たちに、速記を教える組織があった。速記は大学でノートをとるのに便利だったというだけでなく、会社や役所でも重要な仕事だったので、速記の技術があればかなりのカネを稼ぐことができた。速記学校の生徒を集めて野外活動を始めたのが、ワンダーフォーゲル(「渡り鳥」の意味)活動誕生のきっかけである。
 速記研究会を設立したヘルマンホフマンとその友人カール・フィッシャーが指導者となり、「ワンダーフォーゲル・学生遠足委員会」を結成したのが1900年だった。「遠足」という訳語にはなっているが、仲間とハイキングといった会ではなく、結社と言った方がよかった。古典教育への反発からうさ晴らし活動であり、鉄道という「近代文明」への反発もあり、山を歩いた。キャンプをして、歌をうたうといえば和やかなもののようだが、フィッシャーは厳しい規則と階級をこの会に持ち込み、「ハイル!」(万歳!)と挨拶しあう規則も作った。ワンダーフォーゲル活動をしていた少年が青年になると、OBを中心に「自由ドイツ青年団」を組織して、若者の教育を始める。1930年代になると、10~18歳の若者は「ヒットラー・ユーゲント」(ヒットラー青年団)に参加することが義務となり、ワンダーフォーゲル活動もこの組織に飲み込まれることになった。その時代に、立教大学に日本最初のワンダーフォーゲル部が誕生する。
 ユースホステルの歴史などの資料は、『ユースホステルに託した夢 リヒャルト・シルマン』(佐藤智、パレード、2006)や、『歩々清風 金子智一伝』(佐藤嘉尚、2003)などがあり、ドイツと日本の詳細な歴史がわかるのだが、これ1冊でワンダーフォーゲルの歴史がわかる本は見つからない。『ドイツ青年運動―ワンダーフォーゲルからナチズムへ』(ウォールター・ラカー著、西村稔訳、人文書院、1985)が比較的わかりやすく書いてあるものの、分量としては足りない。ドイツになにも興味がないし、知識もないのだが、乗りかかった船だから、このところ20世紀前半のドイツ社会史の本などを読むことになってしまった。ドイツは、「まったく行く気のない国」のひとつなのだが、そういう国に関する本をまとめて読むようになるとは思わなかった。

2017-08-17

1029話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その20


 やむなく、続編を書くことに・・・  その2


 フランス郵船MMに乗って日本を出た人たちの旅行記は、私が買っただけでも自費出版のかたちで何冊かある。『カンボジア号幻影』(恵原義之、新風舎文庫、2005)は、1945年生まれの著者が1969年におもに南アジアを巡った旅行記。落ち着いた文体で、参考になる。『想い出の欧州航路 古き良き時代の航海日記 1967~1968』(寺尾壽夫・寺尾節子、文芸社、2007)は、東大病院医師ドイツに留学するときの航海日記。1967年12月からひと月半の旅だった。こまごまとしたことが日記に書いてあるので、当時の旅行事情がわかる。そして、もう1冊。『愛しの貴婦人 ヴィエトナム号 ―1964年フランス郵船極東航路定期船渡航記』(長谷川照子、新風舎、2003)があるのだが、この本は今姿を消していて、見つからない。アマゾンを見ると、最低でも2万1762円の値段がついているが、それほどの本じゃない。
 そうは思いつつ、あるはずの本がないと気にかかるので、ありそうな場所を捜索すると、おいおい、出てきたぞ。ちょっと前に大捜索隊を編成して探したにもかかわらず見つからなかった本、”On The Road Again”が出てきた(1026話)。こういうことがあるから、見つからなくても再注文しなかったのだ。
 すぐさま、気になっていた1962年カルカッタ安宿事情をどう書いているか探したが、その記述はまったくなかった。ああ、徒労。
 さて、話は立松の旅のエッセイ集『僕は旅で生まれかわる』に戻る。インド旅行の話が出てくるのだが、よくわからない。時の表記がバラバラなのだ。「カトマンズへの道」(1987年発行「すばる」の原稿)という文章で、1971〜2年にインドネパールに行ったと書いている。ところが、同じ文章で、「二十二、三年前のこの旅は・・」と書いている。1987年の23年前は1964年で、立松は17歳である。「インド混沌」という文章では、「私がはじめてインドにいったのは、二十二歳の時であった」と書いている。ということは、1947 年生まれだから、1969年か70年ごろということになるのだが、フランス郵船でタイに行った1969年の旅は、タイまで行くカネしかなかったと書いているから、インドには行かなかったのだろうなどと考えると、訳が分からなくなる。立松は、こういう時系列の話がきちんとできない人なのだろう。旅を繰り返していれば、いつ、どこに行ったという旅の歴史はいちいち覚えてなんかいられない。しかし、旅のことも書くライターなら、初めの数回の旅くらい、時期と場所は覚えているだろうと思うのだが。
 立松のインド亜大陸への旅が、1971年から72 年にかけてだった仮定して、話を進める。この時代、もはやフランス郵船MMはない。船で日本を出ることは可能で、ヨーロッパまで行く船はあったが、豪華クルーズ船だ。インドまで行く安い船はないから、立松は飛行機を使った。もはや学生ではなかったが、学生ということにしてもらい、羽田バンコク・ラングーンそして、カルカッタかデリーに行く航空券を学割料金で買ったと書いている。それが片道切符だったか往復切符だったかはわからない。
立松は前回のタイ旅行と同じように、バンコクユースホステルに泊まっているときに、西洋人旅行者から「カルカッタに行くならモダン・ロッジ」という情報を得たという。この時のバンコクユースホステルはチュラロンコーン大学構内にあるといった情報は、おそらく「インターナショナルユースホステル・ハンドブック」で知ったのだろう。この私だって、初めてタイに行くときは、このユースホステル以外の安宿情報は持っていなかった。1993年カルカッタを再訪した部分を「永遠の百円」から引用してみよう。
 「当時泊まっていた安宿モダン・ロッジにもいってみた。ドミトリールームと呼ばれていた大部屋のベッドひとつが、一晩三ルピーであった。南京虫の棲み家で、朝起きると腕が腫れて倍くらいにふくらんでいた」
 「一ルピーは公定レートで約四十円だったが、街にいくらでもいる闇ドル買いと交渉すると、約三十円だった。モダン・ロッジの一晩は約百円だったのである」
立松が再訪した1993年の宿代を聞いたら、日本円にすれば20年前と同じ百円なので驚いたと書いている。
 私は、1974年のパラゴンホテルのドミトリーが、「6か7ルピーだった」と書いたが、日記に間違って書いたのだろうか。モダン・ロッジがパラゴンの半額ということはないだろうから、ちょっと気になった。先に紹介した『カンボジア号幻影』の著者も、1969年カルカッタモダン・ロッジに泊まっているが料金は書いていない。
その時代のモダン・ロッジの宿泊料金を調べる術はないかなと考えて思い浮かんだのが、1971年の旅行記だ。
 旅行会社トラベルメイトが作っていたサイトの旅行記「田森君西へ」に、出ていた。
 http://www.travelmate.jp/tamori.htm#tamo_001のなかの、カルカッタの次の文章
 http://www.travelmate.jp/ryokoki/honbun/tamo_216.htm
 これで、1971年モダン・ロッジのドミトリーが5ルピーだったことがわかった。だからと言って、立松の記憶が間違いとは言い切れない。モダン・ロッジにしてもパラゴンにしても、部屋によって料金の違いがあっただろう。このあたりの話は、天下のクラマエ師が詳しそうだ。
 「安宿事情とか部屋代なんか、どーでもいいだろ」と思っている人は多いかもしれないが、重要なのは部屋代そのものよりも、部屋代がいくらだったか調べていくことで、いくつもの資料を読み解くことなのだ。自分の知らない時代を、自分の想像力のなかに取り込む行為なのである。微を見て巨を想像するというのが、ライターである私が旅行記を読み解く基本である。紀行文学の鑑賞には、まったく興味がないのだ。
これで、インド話は本当に終える。誰がなんと言おうが、もうインドには戻らない。新資料が出てきても、知らん顔をしておこう。

2017-08-16

1028話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その19


 やむなく、続編を書くことに・・・  その1


 私のインド話は前回で最終回にして、これで身も心もさっぱりして、新しい生活が始まるはずだったのに、なんてこった。
 最終回のブログ原稿をアップして、「さて、自由に読書だ」と、机の脇に積んだ本の山に挑んだ。本は未読と既読が混じりあっているから、整理を兼ねて未読本を脇にどけていったら、下のほうに『僕は旅で生まれかわる』(立松和平PHP研究所、1993)があった。日本の若者の海外旅行史の資料になるかもしれないと思い、内容もわからず注文した本だ。
 立松の旅行エッセイを読んだことはあるが、感心も感動もなく、教えられることもなく、だからこの本が自宅に届いても、封を切っただけで、そのまま本の山に積んでいたのを発掘したというわけだ。
 せっかく買ったのだから、ちょっとでも目を通しておこうとページをめくったら、「カルカッタ」、「モダン・ロッジ」の文字が見えた。1972年の思い出話か。インド話はやっと終わらせたのに、そのとたんに、これだ。ああ、インドの亡霊が私の肩に手をかけて、「もう少し書け」と命じている。どうやら、続編を書かなければいけなくなりそうだ。
 立松和平(1947〜2010)の最初の海外旅行は、韓国だった。はっきりした年はわからないが、大学生だった1960年代後半だろう。東京から夜行列車を乗り継いで下関に行き、関釜フェリー韓国に渡った。この時の旅がまとまった旅行記になっているのかどうかわからない。
そして、次の旅だ。
 「私にとって最初の東南アジアはタイだった。フランス郵船のラオス号に乗り、横浜から出帆した」
 「横浜からタイまでの旅費は、エコノミークラスで百ドルだった。三万六千円、ちょうど大学新卒初任給ほどであった」
 銀行の大卒初任給を調べてみると、1969年は3万3500円、1970年は3万9000円だ。この時代、立松は早稲田の学生だから、「大卒初任給」と比較したのだろうが、高卒初任給なら、3万円になるかどうかというところだろう。
 「横浜からバンコクまでは、途中香港に丸一日停泊して、一週間かかる」このフランス船の航海は、これが最後だった。立松の旅がいつなのか明記していないが、フランス郵船の極東航路は1969年9月に廃止されたので、おそらく、立松の旅は1969年ということだろう。
 フランス郵船を、当時の旅行者はMMと呼んでいた。Messageries Maritimes(メサジュリ・マリティム)の頭文字を取った略称だ。ヨーロッパ、特にフランスに向かう留学生がよく利用していた。1960年代末になると、シベリア鉄道経由でヨーロッパに向かうルートが人気になった。1967年の料金の差を書いておく。参考資料は、『世界旅行あなたの番』(蜷川譲、二見書房、1967)。
 横浜シベリア鉄道ヘルシンキ  9万0000円
 横浜シベリア鉄道ウィーン   11万5000円
 横浜フランス郵船→マルセイユ 15万4216円
 私の想像だが、自費旅行者は旅費の安いシベリアルートを使い、公費留学生など旅費が支給される者は、船でフランスなどに向かったのだろうと推測できる。立松の前年にMMでフランスに向かった東大生が、奨学金を得た玉村豊男である。実は、以前から「MMと日本人」といったテーマに興味があって、いまその資料を注文しているところだが、そういう資料を読み始めるとこのコラムがまた長くなるので、本が届く前にこの文章を終わらせよう。
 MMの話をもう少しする。参考資料は、次回に紹介する『カンボジア号幻影』。この船会社は、フランス本国とその植民地を結ぶ郵便船として就航したようだ。だから、「極東航路」(エクストレム・オリエン)に就航していたのが、ベトナム号、カンボジアそしてラオス号という名の三隻だったというわけだ。フランス船なのに、フランスと関係のないタイやシンガポールに寄港したのは、1967年にインドシナ半島紛争が激化して、旧植民地に近寄れなくなったからだ。1969年に極東航路を廃止したのは、中東紛争スエズ運河を航行できなくなり、喜望峰経由では運賃の点で飛行機には勝てなくなったからだ。
 船であれ飛行機であれ、航路は政治的なものだから、調べていけばいろいろな歴史が見えてくる。

2017-08-12

1027話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その18


 雑記


 私のインド話も、今回が最終回だから、ノートを見ながら、思い出すままにいろいろ書いておこう。
 参考までに、カルカッタの路上で口にした飲食物と、その値段を書き出してみる。Pはパイサ、100パイサ=1ルピー=35円が目安。
 チャイ(ミルクティー)・・・・60P
 プレーンオムレツ・・・・60P  七論を路上に置いて、ベコベコフライパンで作る。できたオムレツは、木の葉の皿に盛る。
 サトウキビジュース・・・50P 100%サトウキビの搾り汁にライムと氷を入れる。
 カレー味のコロッケ1個・・・30P
 ジャガイモカレーチャパティーで包んだもの・・・40P
 食事は、1食だいたい3〜4ルピー支払っていたようだ。
 インドは広いから、小さな町に行けば、まだ素焼きの紅茶カップとか木の葉の皿なども現役で使っているかもしれない。タイを例にすれば、「もう、あれはないだろう」というものが、調べればまだあることがわかる。ここ30年でも40年でも、地下鉄携帯電話や銀行のATMのように、新しく登場したものはいくらでもあるが、消え去ったものはなかなか見つからないのではないか。長年にわたってインドを見てきた旅行者は、空港や駅で時間をつぶさないといけないときは、「インドから消えたもの」をあれこれ考えてみるのもいい。旅行者同士の雑談ネタとしてもいい。30年以上インドを見つけてきた天下のクラマエ師なら、そういうエッセイを書くにふさわしい人物なのだが、困ったことに、私が望むようなエッセイは書きたがらない人物でもある。
 カルカッタでは、日記に「氷 1kg 50P」という記入がときどきある。サルベーション・アーミーの裏手に氷屋を見つけたので、時々買いに行った。私の思いつきに乗ったもう一人のもの好き旅行者が、チャイ屋(紅茶屋)に行って濃厚なミルクティーを大きなカップに入れてもらって持ち帰り、私は氷屋に行って氷を買い、宿で両方を合わせて作ったアイスミルクティーを作り、がぶ飲みしていた。他の旅行者からは、「狂気の沙汰だ」、「絶対に下痢する」と忠告を受けたが、やめようとは思わなかった。あの時代のインドの常識では、あの氷は飲用ではなく、魚などを冷やしておくための氷だっただろう。氷の原料は、多分水道水だろう。普段、水道の水をそのまま飲んでいるのだから、氷になっていればより汚染が進むということはないだろうという推察である。
 食堂、飯屋で出てくるコップの水は、水道水だろう。それを毎日ガブガブと飲んでいるのだから、氷になったからと言って、特別汚染されていると考えるのは間違っている。水道水が嫌で、コーラと紅茶ばかり飲んでいる者もいたが、そういう旅行者は多くはなかった。そういう者は、たいていは、つい先日までひどい下痢に苦しめられていた旅行者だ。インドだけではなく、日本でもペットボトル入りの水など売っていなかった時代なのだ。旅行者の多くは水道水を飲んでいた。その心境は、「何も考えず当然のこととして」飲んでいた者もいれば、「これ、やばいかもしれない、心配だな」と思いつつ飲む者もいただろう。カルカッタでアイスミルクティーをがぶ飲みしていた我々ふたりの胃腸に、何ら異変は起こらなかった。
 カルカッタのことを書いていたら、パラゴンの日々をいろいろ思い出した。そういえば、洪水の日があった。前夜からの雨は昼頃にはやんだのだが、フリースクール・ストリートのあたりは、洪水になっていた。もうちょっと深いと、パンツも濡れるというほど道路が水没していた。そんな日は出かけなければいいのだが、航空会社に行かなければいけない用があり、たぶん休日の前日だから、どうしても出かけなければいけなかったのだろう。普段、このあたりの路上の至ることころで、人間も動物も、この世の生きとし生けるものすべてが排泄物を垂れ流していることは知っている。半ズボンをはいているのだからと覚悟を決めた私は、いたしかたなく、汚物の川に足を踏み入れた。蚊や南京虫に食われた脚は、掻くと膿み、いつまでも直らないのだが、その患部も水没した。旅行者の雑談によく登場する「インドの恐ろしき風土病」のことが頭をよぎったが、決してひるまず、航空会社へと歩き出したのであった。
 パラゴン付近を散歩していたら、路地で日本人旅行者と出会った。横浜から香港に行ったソ連船で出会った男が、モダンロッジに泊まっていた。パラゴンで出会った日本人旅行者と中庭で雑談していたら、突然私の後ろを指さし、「あっ!」と声をあげた。振り向くと、後ろに日本人旅行者が立っていた。「なんと、まあ、ここで会うかね!」。事情を聞けば、二人は3年前にニューヨークで同じアパートの隣りどうしに住んでいて、その後まったく連絡することなく3年が過ぎ、その日のカルカッタの安宿で、ふたりはやはり隣りの部屋に泊まっていたとわかった瞬間だった。この年、カトマンズで会った日本人と、翌年パリのオルリー空港でばったり再会した。旅をしていればそういう偶然があったのだが、30代から旅行者がいっぱいいる宿にはもう泊まらなくなったので、こういう劇的再会をすることはなくなった。
 カルカッタバンコクまでの切符を買った。カルカッタビルマ経由バンコク行きのビルマ航空便。97ドルなので、100ドル支払い、おつりはルピーでもらった。97ドルは29000円くらいだから、ペナン・マドラスの船賃よりも3000円ほど高い

 1978年に3度目にして最後のインドに行った。エジプトに行くために、ボンベイで乗り換えをしなければいけないのを利用して、1週間ほどいた。書きたいことは、何もない。インド話を書きたい人は多いだろうから、そういう人にお任せする。 
 昔のインドの話は、今回で終わり、しばらくは平穏な読書の日々に戻る。アマゾンで取り寄せた本が山になっている。

2017-08-11

1026話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その17


 Paragon


 パラゴンホテルがちょっと気になって、もうちょっと調べてみたくなった。
 1960年代イギリスからタイまで旅した少年が、1995年に同じ旅をしたという本に、この宿が登場するのか確認したくなったのだ。バンコクでは、かのタイソングリートに泊まったという話が出てきて、1960年代の安宿事情も分かる資料だ。その本、”On the Road Again”(Simon Dring ,BBC,1995)で確認しようと思ったのだが、ああ、見つからない。大きな本だから、見つけやすいと思ったのだが、ダメだ。「もしかして・・・」と、長い間「開かずの間」のようになっているインド関連書の棚、棚の前にいろいろ物を置いているから、ずっと日陰物のなっている棚を点検したのだが、目的の本は出てこない。『わがふるさとインド』なんて、おもしろかったなあなどと、棚のインド本を眺めただけの徒労であった。
 BBCが出したこの本は、えらくおもしろかった。著者は1945年生まれで、18歳でバンコクの英語新聞の記者になり、19歳でラオスなどを担当するフリージャーナリストになり、のちにBBCの記者になっているという経歴だ。今でも、アマゾンでこの本が1200円で買えるのだが、もう読んだし、もし買えば、どこかで見つかるに違いない。
 この本のことは、アジア雑語林373話で書いている。
 http://d.hatena.ne.jp/maekawa_kenichi/comment/20111213/1323738976?smartphone_view=0
 https://www.amazon.co.jp/Road-Again-Simon-Dring/dp/0563371722/ref=sr_1_29?s=english-books&ie=UTF8&qid=1502124769&sr=1-29&keywords=on+the+road+again
 https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Dring
 パラゴンのことが、インターネット情報で来歴などが出てこないか調べてみたら、世界のいくつかの町でParagonという名のホテルがあることがわかり、しかも結構な高級ホテルもある。それで初めて知ったのだが、Paragonは、英語だったのだ。
 1、手本、典型規範
 2、100カラット以上のダイヤモンド。あるいは完全円形の特大真珠
 なるほど、これで『カルカッタ真珠ホテル』の意味が確認できた。
インターネットカルカッタのパラゴンを調べてみると、驚いたことに今もまだパラゴンはある。情報源が、ホテル予約サイトのトリップアドバイザーだというのが時代だが、写真を載せているだけで、予約は受け付けていない(ちなみに、モダンロッジもまだあるとわかった)。
 ここ数年のネット情報を読むと、「日本人が多い」というものがあれば、「日本人は自分だけで、あとは韓国人と西洋人だ」というのもある。自戒を込めて書くのだが、旅行者の個人体験というのは、あまりあてにならない。長期間にわたってしばしば訪れている宿なら、客層の変化をある程度推測できるだろうが、ある年の数日の体験では、「日本人だらけ」の日もあれば、「日本人は自分以外誰も泊まっていない」という体験もあるだろう。私のカルカッタ体験は、ネパールに行く前と、戻ってからの合計10日か2週間ほどでしかない。だから、ある日には「パラゴンに日本人はいなかった」ということはあるだろうが、1974年なら「パラゴンもモダンロッジも、客は日本人ばっかりだった」ということは考えにくい。
 パラゴンは、ドミトリーが6か7ルピーくらいだったと思う。ベッドの広さしかない個室は14ルピーくらいだったか。ほかにもいろいろな料金の部屋があったかもしれないが、私は知らない。地方都市に行けば、個室が8ルピーくらいであった。もちろん、それより安い宿はいくらもあっただろう。視野を広げて言えば、カルカッタドミトリーは約1米ドルで、これがジャカルタなら2段ベッドのドミトリー料金で、バンコクなら天井から扇風機が下がりダブルベッドに水シャワー付きの大きな部屋とほぼ同じ料金で、東京のドヤ(労働者宿)のベッドひとつ、大阪ドヤ街の個室料金と大差なかった。1ドルが300円時代は、ノミ、南京虫だらけのカルカッタドミトリーと、大阪のドヤの個室とその料金はそれほど変わらなかった。
 ネット情報では、パラゴンはドミトリーをやめて個室だけにしたらしい、料金は最低で1泊300ルピーだそうだ。現在、1ルピーは1.8円くらいだから、300ルピーは540円ということになる。1974年の個室1泊14ルピーは、490円だった。こういう数字も示して、日本人のインド旅行体験史を、ライターの誰かがていねいに書く必要はある。プロのライターなら、個人体験の羅列だけでなく、実証も必要なのだが、インドの話はどうも情緒に流されやすい。写真でいえば、マクロレンズと超広角レンズの両方が必要だ。