Hatena::ブログ(Diary)

アジア雑語林

2018-09-09

1191話 キャッシュカード大事件 後編



 銀行待合室にいる世話係りは、定年退職した元行員なのだろう。そのひとりに声をかけ、キャッシュカード再発行の書類をもらった。新しい暗証番号を書く欄がある。今年は「2018」が一番多いのだろうか、それとも自分以外の誰かの誕生日だろうかなどと考えた。アメリカでは、コンピューターなどで使うパスワードでもっとも多いのは、”password”だそうで、記入欄にpasswordと書いてあるから、忘れることもなければ、綴りを間違えることもない。
 キャッシュカードの4桁数字はそういうわけにはいかないので、今度は根拠のある番号にした。これで忘れるようでは、住所氏名に電話番号を刻印したペンダントに暗証番号も加えて、首からつるしておくしかない。
 番号札を手にして順番を待っていると、「渉外係り」という名刺を持った人がやって来た。投資国債の「ご案内」だという。国債100万円を買うと1000円ほどの収入になるとかなんとか言っているが、もとより関心がないので上の空。銀行内だから行員を追い出すわけにもいかず、ぎりぎりまで耐える。
 順番が来た。再発行申請書類を出す。身分証明書は、運転免許証がないので、健康保険証を出す。
 「顔写真が載っている証明書はお持ちですか?」というので、そういうこともあろうかとパスポートも出す。
 「キャッシュカードの再発行には1080円の手数料がかかりますが、クレジット機能もついているカードに変更すると、手数料はかかりません」と資料を出した。visaやMasterはすでに持っているが、Amexという文字が見えた。旅行保険付きで、しかも、年会費無料。
 「はい、みずほキャッシュカードアメックスもつけるなら、年会費は無料です。カード再発行手数料もかかりません」
 これは「みずほマイレージクラブカードセゾン アメリカン・エキスプレス・カード・ベーシック」とい長い名前のカードで、年会費無料なのに、死亡・障害で1000万円、傷害治療100万円などとなっている。アメックスカードはいちばん安い年会費で12000円。ANAと提携しているカードで6000円だ。それが無料なら、得だ。「障害100万円」となっているが、「疾病」とはなっていないあたりがポイントなんだろう。
 この日、帰宅してすぐに、天下のクラマエ師こと蔵前さんに、「みずほでは、アメックス付きキャッシュカードだと年会費無料だよ」とメールを送ったら、「へー、無料か。でも、審査があるんだけどね、フフフ」と返信があった。そうなんだ。キャッシュカードアメックスの機能も付くシステムがあるからと言って、この前川が審査に通る保証などまったくないのだ。
 過去に蔵前さんとはクレジットカードを巡る話は何度かしていて、最初は私がパソコンを導入しようかどうか考えていた時で、プロバイダー料金の支払いをクレジットカードでやるのだが、貧乏ライターは審査に通らないとグチを言った。知り合いのライターは妹のカードを借りていた。別のライターは、銀行員の「大丈夫です、お任せください」というしつこいセールスに負けて、クレジットカード申請書を出したら、ひと月後に「今回は残念ながら・・・」という返事が来た。大学講師もしている友人のライターは、正業についている妻のカードを借りていた。「学生でも持っているのになあ・・・」と寂しげであった。香港物で知られるかの山口文憲氏は、クレジット機能付きの西友のカードを申請して拒絶されたという体験談を書いていた。私はクレジットカード付きのイトーヨーカドーポイントカード申請しようか考えていた時なので、ショックだった。そういう時代だったのだ。
 クレジットカードについて、ちょっと前にも蔵前さんと話をした。旅行保険のことだった。年齢が高くなると、旅行保険料も高くなるというようなことを私が言ったら、「旅行保険って、入っていないんだ。クレジットカードに旅行保険がついているから」
 「カードの保険じゃ、大したことないでしょ」
 「普通のカードならそうだけで、ゴールドカードだとちゃんとしているよ。前川さんも持てばいいじゃない、ゴールド」
 スーパーのポイントカードのように簡単に言うが、貧乏ライターが「じゃあ、入ろうかな」と入れるわけはない。会社社長といっしょにしてはいけない。万が一持てたとしても、高額の年会費を払う気がない。ネット情報では、アメックス・ゴールドカードの審査はそれほど難しくないというが、年会費は29000円+税である。旅行保険料のほうが安い。
 話が横道にそれたので、元に戻す。
 みずほキャッシュカードアメックスカードがついているのは魅力だなあと思いつつ、行員の説明を聞いていた。「手続きにはひと月ほどかかりますが、いかがでしょう・・・」と行員は言うが、この機会に、アメックスカードを申請してみようか。
 「ところで、このカードはなんですか?」
 パスポートといっしょに提出したキャッシュカードを手にして、行員が聞いた。
 「以前使っていたカードで、変更になっても捨てずに持っていたので、再発行の資料に使えるかもしれないと思って持ってきたんですが・・・・」
 行員はそのカードを左手に持ち、パソコンで調べている。
 「このカードは、現行のものです。使えるはずですが、試してみましたか?」
 「いえ、・・・、ええ? 使えるカードなんですか?」
 「紛失したとおしゃっているカードは、もしかして、これではないかと・・・」
 あーーーーーーーー、わかった。思い出したぞ!!!
 新座駅コンビニで現金を引き出した後、キャッシュカードを毎日持ち歩いている必要はないぞと思って、そのカードを貴重品袋に入れて、引き出しにしまい込んだのだ。それを、すっかり忘れていた。キャッシュカードを持った20代から40年以上、日本にいる限りカードは財布に入れていたので、ATM機の前で財布にカードがないと気がついて、呆然自失。動転、狼狽、動揺。思いがけない事態におののいて、理性を失い、慌てふためき、どこかでカードを無くしたに違いないと思い込んでしまったのだ。だから、引き出しの中にあったカードを、「過去の使えないカードだ」と思い込んでいたのだ。
 「過去の使えないカード」だと思っていたキャッシュカードで現金を下ろした。これが秋の旅行資金だ。私はクレジットカードでの支払いやキャッシングというのは嫌いだ。現金のほうが使いやすいという古いタイプの日本人だ。
 
 というわけで、この秋も世界のどこかで過ごすので、このブログはしばらく休みます。夜の時間をもてあそんでいる方は、バックナンバーでもお読みください、秋の旅の話は、冬になったら、このブログに書きましょう。皆さま、お元気で。
 Vamos ,amigos!

2018-09-08

1190話 キャッシュカード大事件 前編



 カネを下ろそうと銀行に行った。自宅近くでも下ろせるが、通帳記入もしておきたいと思ったから、電車に乗って遠くの支店に行った。鄙で暮らしているから、ウチの近所に都市銀行の支店はないのだ。
 みずほ銀行に着いて、ATM機の前に立ち、左手に通帳と財布を握り、キャッシュカードを出そうとしたら・・・・・、カードがない! ホントかよ! そんなわけはない。キャッシュカードはずっと財布に入れてあるはずだ。ショルダーバッグのどこかにかるかもしれないとバッグの底をあさると、ATM機が「画面上に物をのせないでください」の表示が出し、よけいに慌てさせる。どんなに探しても、キャッシュカードは見つからない。誰かが財布からキャッシュカードだけ盗むとは考えられないから、自宅のどこかに置き忘れたのか。あるいは前回ATM機を使ったときに置き忘れたのか。盗まれたカードで、現金がすでに引き出されているかもしれないという不安があり、恐る恐る通帳記入をしたら、心当たりのない引き出しはなかったから、まずは安心。
 カネを下ろせないまま、また電車に乗って帰宅した。銀行類のカードが入っている袋にあの銀行のキャッシュカードも入っているが、それは以前使っていた変更前のものだ。ということは、やはり置き忘れか。通帳を調べてみれば、6月15日に引き出している。武蔵野線新座駅構内のコンビニNewDaysで引き出しているから、そこで取り忘れたのか、落としたのか。忘れ物か落とし物として、カードが届いてないかどうか、コンビニに電話してみた。
 「7月分以前の遺失物台帳は駅の方に提出するので、今すぐに調べがつきません。明日の午前中に調査結果をご連絡します」という実にていねいな対応をしてもらった。紛失したのがキャッシュカード単体だからまだいいが、クレジット機能付きだとえらく面倒なことになる。
 翌日午前、前日に私の電話を受けた店員から電話があった。「6月中旬にキャッシュカードが落とし物として届けられていますが、お客さまのカードはどちらの銀行ですか?」
 「みずほです」
 「はい」
 おお、あったか。よかった。これから電車に乗って受け取りに出かけるか。
 「こちらに届いているキャッシュカードみずほのものですが、ただ、問題がありまして、カードの名義は女性名なんですが、お心当たりはありますか?」
 「いえ、まったく」
 「では、これじゃないですね」
 一瞬のぬか喜びのあと、すぐさま、銀行に行った。再発行の手続きだ。
 私が初めて銀行のキャッシュカードを持ったのは、コック時代だ。当時勤めていた銀座の店が、銀行との付き合いで全従業員がその銀行で口座を開設することになり、給料天引きで財形貯蓄もさせられることになった。だから私の口座は今も「銀座支店」にある。
 厨房の先輩たちはすでにカードを持っていて、暗証番号に関するアドバイスを受けた。
 「誕生日や自宅電話番号はやめろ」という基礎。
 「1111とか5555、1234なんていうのも、やめたほうがいい」
 「オレ、部屋の番号にしてたんだけど、その後何回か引っ越して暗証番号がわからなくなって、ATMでいろんな番号を押しているとカードが戻ってこなくてさ。大変なことになって・・・」
 そういうアドバイスを聞いたので、何の意味もない適当な番号にした。だから、困ったことが何回かあった。アフリカ方面に1年ほど旅をして帰国してすぐ、当面の生活費を引き出そうと銀行に行ったが、暗証番号を思い出せない。「これだったか・・」と入力すると、「暗証番号が違います」の表示がでて、別の番号を入れても、受け付けない。「3度やると危ない」と言われていたので、しかたなく帰宅したのだが、思いついただけの根拠のない番号だから調べようがない。コック時代の手帳に番号が控えてあったのだが、その手帳が見つからない。引き出しの中などを小1時間ほど探し、やっと手帳を見つけた。意味のない暗証番号にすると、こういう不便なことがある。
 私は数字が覚えられないタチだ。今年の4月のことだが、大学の図書館で利用カードの更新書類を書いて提出したら、「電話が変わったんですね」と言われたが、そんなことはないので、その書類をよく見たら、郵便番号を記入していた。記入欄を間違えたのではなく、郵便番号の4桁を電話番号として記入していたのだ。ああ。
 キャッシュカードを再発行したら、暗証番号が変わる。今度は覚えやすい番号にしよう。

2018-09-06

1189話 大学講師物語 その18


 異文化体験を想像する


 今年のレポートも異文化体験を想像するというスタイルにした。具体的にはこういうものだ。

 モンゴルの草原で2か月間ホームステイをすることになりました。モンゴル人家族とともにゲルで暮らし、牧畜を手伝い、モンゴル語を学びます。ゲルは、電気・水道なし、スマホ圏外です。まず、モンゴル人の生活をよく調べて頭に入れ、そこで自分が過ごすと、あなたの頭と体はどういう変化を起こすでしょうか。その想像の異文化体験を2000字で書きなさい。

 このレポートテーマには、いくつもの要素が入っている。「モンゴル生活を書きなさい」だと、学生は資料の引き写しをするしかない。そんなものを読んでもおもしろくない。学生にコピペさせるようなテーマを与えてはいけない。だから私は、モンゴル生活する自分を想像せよというテーマを与えた。自分に受け入れられる事柄と、なじめない、あるいは拒絶する事柄、そしてどうしても必要な事柄などを考えてもらおうというのが私の出題趣旨だ。
 その場所をモンゴルとしたのは、モスクワだろうがサンパウロだろうが、大都市なら日常生活生活落差はそれほど多くないと思った。アマゾン奥地やニューギニア山中だと、落差があまりに大きく、レポートがほとんど同じになるだろうと思った。モンゴルの草原だと、基本的に肉とミルクの食生活で、電気水道なし、風呂トイレなしなど日本人には障害が多いが、食い物は充分にある。だから、「異文化のなかの自分」を考えるにはちょうどいいかと想像したのである。
 いままでレポートは1000字程度だったが、今年は2000字にした。1000字だとそれほど想像力(創造力)を発揮しなくても書けそうだが、2000字となると、モンゴル生活をしっかりと頭に入れ、そこでの自分をじっくりと考えないと書けない。学生にとって、想像で2000字の文章を書くというのはちょっとした負担だろうと思った。その負担を回避する方法があるので、レポートテーマ発表時に、こう釘を刺しておいた。

 モンゴルの説明は必要ありません。長々と説明して行数を稼がないように。

 想像の文章が書けないと、ネットにいくらでもあるモンゴル情報を取り込んで行数を稼ごうという学生が多く出てきそうな予感がして、こういう注意書きを書き添えた。それにもかかわらず、注意を無視するかのごとく、モンゴル気候だの歴史だのモンゴル語の説明を書き続けたレポートが数多くあった。したがって、そういうレポートはD判定(不可)である。本にもネットにもない話を自分で書き上げるというのは、難易度が増す。だから、こういうレポートにしたのだ。
「なんだ、つまらん」と言いたくなるレポートが3割くらいあった。ひとまとめにすれば、こういう文章がレポートの最後の部分にある。

 「最初のころは、私にとってはつらい異文化体験でしたが、滞在するうちに慣れてきて、モンゴルを去るころには楽しい思い出に変わっているでしょう」

 なんだよ、このとってつけたような終わり方は。つまらん。友人の教授によれば、こういう結論は就活の学習成果なのだという。企業の人間が納得するありきたりの、もっともらしい結論というのが、就職試験の必勝法なのだという。ダークスーツを着た人間に、リクルートスーツを着た学生が発する文章あるいは話は、こういうきれい事がぴったりなのだろう。気が重くなる。こういう結論だからと言って減点することはないが、けっして加点はしない。
 モンゴルでの滞在地を「スマホ圏外」としたのは、日本との関係を一定期間断つとどう反応するのは知りたかったからで、案の定スマホ依存症」患者からの苦痛の声が寄せられた。それでわかったのは、繋がらないスマホは何の役にも立たないと思っていることだ。「写真が撮れない」とか「音楽が聴けない」、「果ては、時間がわからない」といった苦情が書いてあって、スマホを持たない私を驚かせた。電気がなくてもソーラー式携帯バッテリーなどを持っていけば充電はできる。インターネットにつながらないだけで、音楽を聴くことができるし、写真も撮れる。どこにでもコンセントがある環境にあると、コンセントがないと充電できない、だからスマホはまったく使えないと考えてしまうらしい。
 「スマホが使えない」ことは嘆いても、真正面から孤独感を考えた学生は極めて少ない。その数少ない学生は、いままでにひとり旅したことがあったり、留学を経験していたりして、外国での孤独感を実体験していることが文章からわかる。だから、話し相手がいない、周りの会話が理解できないという孤独感は、わざわざ想像しなくても、はっきりと記憶している。言葉が通じないというのを「不便だ」とは理解しても、「孤独だ」という想像がないのは、いままで何度か外国旅行をしていても、日本人と一緒だったからだろう。
 こうした異文化体験を想像するというレポートを、いままで何度かテーマにしたことがあったが、興味深いことに、「なんとか対応できる」という趣旨よりも、「そういう異文化には対応できない」という趣旨のほうが、内容的にも文章力でも優れているのだ。「どんな異文化でも、努力すれば克服できる」とするおりこうさんのレポートは、総じて出来が悪い。ろくに現地事情を調べなくても、肯定的な文章は書けるからだ。
 考えてみれば、本や映画の評価でも、「あー、おもしろかった」と書くなら、ネットの書評や広告を見るだけで書ける。しかし問題点を指摘しようと思えば、ほかの資料を読んだり、じっくり考えないといけない。私のレポートも、それと同じように、架空の滞在記を否定的に書くなら、それ相応の準備と文章力が求められるということだ。
 私の成績判定は、異文化に対してどういう態度をとるかで成績を判定はしないので、「モンゴルなんて行く気がしない」という内容でも、その理由がきちんと書いてあれば評価している。
 これが、講師最後のレポートとなった。
 今回で「大学講師物語」は終了します。

2018-09-04

1188話 大学講師物語 その17


 私の旅行史研究 (5)


 石毛直道さんは1958年京大入学、吉村文成さんは2年遅れて1960年入学し探検部に入った。吉村さんの大学生時代は8年間にわたるので、在学中の1964年に海外旅行が自由化されることになった。すると、京大探検部員も従来の探検・冒険派と、ただ自由に旅をしたいだけという学生の2派に分かれた。自由化以前は、日本人が外国に行くためには、その渡航が日本にとって有益であると認められる必要があった。政府の許可がないと、自由渡航ができなかったのだ。だから、渡航する大義名分をでっちあげ、企業を回って寄付を集めるというのが、いままでの探検・冒険であり、それはとうぜん団体行動であった。1964年の海外旅行自由化以後、大義名分は必要がなくなった。探検部に入らなくても、旅行費用をなんとかできれば、個人で海外旅行ができるようになった。
 吉村さんは、従来の探検や冒険から距離を置いた最初の部員のひとりだった。自由化前には、「カナダエスキモー学術調査」というもっともらしい名目をでっちあげて北アメリカ旅行をして、在学中に『アメリカ大陸たてとよこ』(吉村文成・島津洋二、朝日新聞社、1964)を書いた。北アメリカから帰国してしばらくすると、「外貨規制が解除され、だれでも海外観光旅行ができるようになりました。私は単身で東南アジアに出かけ(意外に安上がりなことを発見して)しばらくの間、インドヒッピーとして暮らしました」という学生だった。引用した文章は、あとで触れる『京大探検部』。
 吉村さんより2年後の1962年京大探検部員になった鳥居正史は、1964年に海外旅行が自由化された喜びをこう書いている。「私にとって、IMF八条国移行(海外旅行自由化のこと。前川注)ということはあまりに衝撃的だった。先生や先輩が組織した探検隊に加わらなくても、自分一人の力で海外に行ける時代になったのだ。怖いもの知らずの私が個人で海外に飛び出すことを決心するのに時間はかからなかった」。そして、1964年5月、神戸からヨーロッパに向かって船出した。探検部員が、北欧で皿洗いして旅行資金を稼ぎヒッチハイクの旅をするようになる。そのいきさつは、『一九六四年春 旅立』(鳥居正史幻冬舎ルネッサンス、2012)に詳しい。上に引用した文章もこの本から。ヘルシンキにいた1965年小説家の卵がやって来て、皿洗いで旅行資金を稼いでいる若者に取材したという話がでてくる。小説家はその時の取材をもとに書いた小説でデビューする。五木寛之の『さらばモクスワ愚連隊』である。
 そうしたいきさつは、『京大探検部 1956〜2006』(新樹社、2006)に詳しい。この本は、戦後の若者がいかにして日本を出て行ったかを知る名著だ。日本のバックバッカー研究の必読書だ。普通の読みものとしても、すばらしくおもしろい本だ。この『京大探検部』と若者の旅の話は、2012年にこのブログ448話ですでに書いている。
 海外旅行が自由化された1964年以後、海を渡った若者たちの装備は、留学生や移住者を別にすれば、登山部と同じだった。リュックサック(横長のキスリング)と寝袋やテントだ。貧乏旅行のノウハウは、登山部やワンダーフォーゲル部のものだ。国内を旅する若者は横長のキスリングのせいで「カニ族」と呼ばれ(おもに1970 年代)、北海道に大挙出没した。外国を目指した若者は、キスリングを背負ってシベリア鉄道フランス郵船に乗った。ただし、カニ族と海外貧乏旅行者とはどうリンクするのか、私にはよくわからない。カニ族のうちどれくらいの若者が外国に出たのか知りたいが、そういう資料や証言を知らない。根拠のない想像なのだが、インド帰りとシンクロするのは北海道ではなく沖縄奄美諸島だ。奄美沖縄東南アジアインドというルートのほうが、私の想像力を刺激する。
 日本には、バンコクの安宿カオサンに行って旅行者にインタビューする程度の学者はいるが、旅する若者の大潮流を調べてみようという人はどうやら私以外にはいないようだ。それが、針の先のようなマイナーなテーマだとは思わないのだが、残念ながら若き研究者を刺激するテーマではないらしい。

2018-09-03

1187話 大学講師物語  その16


 私の旅行史研究 (4)


 日本のバックパッカー黎明期をずっと調べている。
 先日、旧知の吉村文成さんに会い、旅の話をした。吉村さんは京都大学にいた8年間探検部に所属して旅をしていた。卒業後、朝日新聞に入りインドインドネシア特派員もした。定年退職後の今は、喫茶店のおやじをやっている。
 吉村さんに会ったら聞いてみたかったのは、梅棹忠夫のことだ。この1年ほど、梅棹の本をまとめて読んでいて、「もしかして、日本のバックバッカーのひとつの源は梅棹忠夫かもしれない」と思い始めているので、長らく京大探検部にいた吉村さんの意見を聞いてみたくなったのである。
 バックパックとはbackpack(背・袋)であり、ドイツ語のrucksack(背・袋)を英語に翻訳したものだ。だから、バックバッカーとは「リュックサックを背負う者」という意味であり、主に野外行動をする旅行者をさしていた。今でも”backpacking”で検索すれば、アウトドア用品の案内や、キャンプの仕方などのノウハウが出てくる。
 バックパッカー関連の資料に、「小田実は日本のバックパッカーの元祖である」と書いているものがあるが、「それは、ちがうなあ」という違和感がある。バックバッカーという語のそもそもの意味を考えると、別の人を探したくなる。小田と野外生活は結びつかないのだ。
 梅棹は、もともと登山の人だった。少年時代から京都を中心にしばしば山登りをしていた。ところが、ある時期から「垂直移動から、水平移動へ」と変わっていく(『山をたのしむ』ヤマケイ文庫、2017)。『白頭山の青春』(1995)は、1940年旧制高校3年生の梅棹が友人とともに白頭山(現在は北朝鮮)に登った記録なのだが、登る前の話も長く書いている。これ以後モンゴルなど水平移動をするようになっていく。山には登るが、より高い山、より困難なルートを選ぶ山登りはしなくなる。
「人間とか文化に興味をもったからでしょうかねえ」と吉村さんに聞くと、
「そうだと思いますよ、きっと」と同意してくれた。
 水平移動に変わった理由はほかにもあると思う。山に登っているだけでは、研究者としてメシが食えないのだ。文化や動植物を相手すれば、研究者としての仕事がある。京都大学で探検部を作ったのは、山岳部員だった本多勝一だ。海外旅行が自由にできなかった時代、探検部には「探検」を口実に外国に行く方法を探している若者が集まっていた。のちに食文化研究者になる石毛直道もそうだ。高校時代の話を、石毛さんから直接うかがったことがある。
 「外国に行きたい」と強く願う少年だった。金持ちの子供ではないから、タダで外国に行くために船員になろうと思い、商船大学の受験を考えた。ただの若者が、さまざまな国にタダで行こうとしたら、船員になるのが手っ取り早い。かつてそういう時代があったから、私は船員の本も読書範囲に入れている。石毛さんは、特定の「どこか」に行きたいという若者ではなく、とにかくいろいろな国に行きたいと思っていた。それは学者になってからも変わらない。石毛さんは特定の地域や民族の専門家になる道を選ばなかった。だから、留学ではなく船員を考えたのだろう。船員志望と同時に、考古学を学びたいという希望もあり、結果的に船員として外国に行くという道をあきらめて、考古学を学ぶために京大に進んだ。入学した京大には、2年前にできた探検部があった。探検部に入ると、すぐさま外国(トンガ)に行くチャンスが巡ってきたというわけだ。
 海外旅行が自由化される前、なんとしてでも外国に行きたいと願う若者たちは、創意工夫をして日本を出た。『ボクの音楽武者修行』の小澤征爾であり、『どくとるマンボウ航海記』の北杜夫である。若き三島由紀夫開高健も、外国に行ける仕事を積極的に利用した。