542話 台湾・餃の国紀行 3

 安全旅社 2

 安全旅社は、ほかの旅社とはかなり違う構造になっていた。台湾の旅社は1階が食堂か商店で、階上が客室になっているものが多いのだが、ここは一戸建てだった。路地裏の細い道を入って行くと、庭のある一軒家が見える。レンガを積んでモルタルで塗装したありふれた建物だ。ロビーというには大げさで、大きめの玄関と言った方がいい空間が一階にあり、その脇の階段を上ると2階が客室になっていた。日本風に言えば、四畳半か六畳くらいの部屋が5部屋ほどあり、私の部屋は履物を脱いで上がる板敷きの床だった。おそらく、畳の部屋を板の間にしたのだろう。部屋の脇に布団がたたんであった。窓辺に文机があったような気がする。そういえば、この時代は、地方に行けば畳の部屋がある旅社がまだ残っていた。
 宿の正面から脇の庭を抜けていくと、裏口に出る。裏から見る安全旅社はまったく別の建物で、1階部分は中央に通路があり、その両側に小部屋がいくつもあった。1畳半からせいぜい3畳くらいの部屋が並び、たまたまドアが開いていたときにちょっと中を覗くと、山積みの商品が見えた。露天商の宿のようだった。台湾の安宿は商人宿と連れ込み宿を兼ねているのだが、ここは完全に商人宿だった。表側と違い、裏側一帯の建物は壊されてがれきの原っぱになっていて、人家がないので夜は暗く、だから静かだった。そこは、大都会台北の洞(うろ)だった。あの頃、台北にも洞はいくらでもあった。
 2階で長期滞在している陳さんとすぐに仲良くなった。父とあまり変わらない年齢の台湾人だ。陳さんは台北帝国大学の卒業生だが、卒業したら大陸からやってきた国民党軍が台湾を占領し、国民党政府は陳さんのような本省人(台湾生まれの台湾人)を冷遇したために、官僚への道が閉ざされた。しかたなく故郷の南部で製糖工場を経営していたが、製糖はもはや時代遅れの産業であるのは明らかで、陳さんは台北に出てきて将来の道を探っていた。図書館や役所で資料を集め、人と会っているようだった。
 台北にいる間、毎夜陳さんと雑談をして過ごした。私にとって陳さんは、台湾現代史の講師であり、台湾に関するすべての雑学の講師でもあった。陳さんにとって私は、訳のわからない謎の日本人だっただろう。陳さんの知っている日本人は、日本時代の支配者層としての人間であり、戦後はカネを持った観光客だった。当時26歳の私は、髪とひげを伸ばし、カネはなく、特に職業もなく、将来のことなど何も考えず、ただふらふらと旅をしていた。そんな日本人など、陳さんの想像力を超えていただろう。私は、陳さんの知っている「ちゃんとした日本人」でも、「よく働く立派な日本人」でもなかった。
 私に関する疑問・異議・違和感・反感は数多くあったと思うが、旅に関してはふたつの疑問があったようだ。ひとつは、なぜひとりで旅をするのか、ひとりでは寂しくないのかという疑問だ。日本人を除くアジア人の多くは、今もひとり旅を嫌う。集団のなかで生きている人は、ひとり旅の孤独感に耐えられないのだ。陳さんのもうひとつの疑問は、旅を商売に結び付けないという当時の私の旅だ。商品のバイヤーとか、市場調査とか新聞記者というなら、旅が商行為につながるから理解できるのだが、好奇心だけで旅している私は、理解の範囲を超えているようだった。
ある夜、陳さんは藁をもつかむ心境だったのか、こんなことを聞いてきた。
「今までいろんなところを旅行して来たでしょ。その経験から、台湾でやったらうまくいきそうだと思う商売とか、輸入したら儲かりそうな物だとか、そういうのを知りませんか?」
 さて、何だろう。何も思い浮かばない・・・。
 「あえて考えれば、ハンバーガー屋かなあ。陳さん、ハンバーガーって、知ってます?」
 「ああ、雑誌や新聞で読んだことがあるよ。パンで肉を挟んだもんでしょ」
 「はい、そうなんですが、日本ではアメリカの影響ですが、ハンバーガー屋が実に多いんですね。アメリカの会社と契約してやるのは、とんでもない資金が必要ですが、自分でやるなら、その辺の食堂と同じ開店資金でやれますよ」
「そういう食べ物って、おいしい?」
陳さんは顔をしかめた。
 「おいしいとは思いませんが、商売としては悪くないと思います」
 「駄目だよ。台湾じゃ、そんなの食べなくても、安くておいしいものがいっぱいあるでしょ。パンとコーヒーの店なんて、台湾じゃはやりませんよ」
それからだいぶたって、台湾にマクドナルドが進出したと知った。
 上に書いた陳さんとのやりとりは、『いくたびか、アジアの街を通り過ぎ』(講談社文庫、1997)に書いた。35年後の台湾は、きっとタイのようにファーストフードのチェーン店で埋まっているのではないかと、今年の旅では予想していたのだが、そうでもなかった。あくまでタイと比べてだが、台湾がアメリカや日本のファーストフード店で満ち溢れているという印象はなかった。陳さんが反論したように、台湾では外国のファーストフード店はそれほど浸透していないように見えた。
 今回台北の本屋で台湾関連書を片っ端から立ち読みしていて、マクドナルドの台湾進出が1984年だとわかった。同じ時期にKFCも出店している。アメリカの圧力に耐えられなくなったのだろう。たしかにマクドナルドも、KFCもサブウエイもスターバックスも、吉野家など日本のチェーン店も出店しているのだが、街にあふれているという感じではない。「街にあふれている」のは、便利商店、つまりコンビニである。しかし、10年先はファーストフード店が街にあふれているかもしれない。
 明らかに増えたと思われるのは、生ジュースや各種お茶の販売スタンドだ。カウンター席さえない販売店が、街のあちこちに出来ていて、買った人は自宅か勤務先か公園などで飲んでいる。