784話 インドシナ・思いつき散歩  第33回


ベトナムカレー

 散歩の途中で見つけた露店のコム・ビンザンは、路地にあった。あらかじめ作った何種類もの料理をバットに入れている大衆食堂のことで、客は好きな料理を指さすだけで注文が終わる。コム・ビンザンについては、別の機会に詳しく書く。ちなみに、ステンレスなどの四角い容器であるバットはvatと綴ることを今初めて知った。さらにインターネットで調べると、vatは給食や食品工場で使うような大鍋のような意味で使われることが多いようで、“cooking vat”で調べても、ステンレス製の四角い皿の画像が出てこない。このまま話が横道にそれると戻れなくなるので、ここまでにしておく。
 そのコム・ビンザンで食事を始めた時から、たった今見た料理が気になっていた。注文が終わったところで、料理を並べたテーブルの左側に黄色い料理があることに気がついたからだ。カレーのような気がするが、井之頭五郎じゃないのだから、「食後にカレー」など食べられないが、本当にカレーなのか確かめたかった。どうしても気になったので、食事を終えてから、「これ、カレー?」と聞いたら、「はい、カリガです」という返事だった。ベトナムでは、カレー(英語curry)はcaryあるいはca riだということは知っている。gaはトリ肉のことだから、「カリ・ガ」はチキンカレーの意味だ。ベトナムでは、少なくとも都市部ではカレーはすでに路地裏まで進出していることがわかった。
 カリ・ガに初めて出会ったのは、20年前のサイゴンだった。食堂のメニューに”ca ri ga“というのがあって、もしかしてカレーかもしれないと思い注文した。テーブルに出てきたのは、丼に入ったカレー汁で、バゲットとともに食べた。カレーといっても黄色い色とささやかな香りはあるが、辛みはない。カレールーなどなかった時代の小学校の給食のカレーに似ていた。
 ベトナムのカレーの歴史をインターネットで探ると、「インドの影響を受けた」とか、ベトナム中部にあったマレーやインドネシア系のチャンパ王国の影響だとするものもあったが、どうも信用できない。インドではあの料理を「カレー」とは呼ばない。英語でcurryと呼び、その英語がフランス語に入ってcurryやcariになり、ベトナム語のca riとなったと考えるのが順当だろう。だから、「カレ」や「カリ」という料理は、インドの直接の影響とは考えられない。
 まったくの仮説なのだが、こういう図を想像してみた。インドの辛い汁を“curry”と呼んだイギリスが支配したのが、マレー半島。ここにもカレーが伝えられた。マレー語やインドネシア語には、kareあるいはkariという料理があって、日本人が考えるインド風のカレーである。インド料理だけではなく、マレーで生まれた辛い汁にも、カレーの名をつけた。しつこいようだが、もう一度書く。「カレー」という名はイギリス人が名づけたものであって、インドには「カレー」という料理はないから、「カレー」の名がついていると、インド人の手でインドから直接伝わったのではないという証拠でもある。
 「カレー」がタイに伝わり、ケーン・マサマンやケーン・カリーというカレーが生まれた。トリ肉とジャガイモのカレーだ。ケーン・カリーは、真っ黄色のペシャペシャカレーだ。ケーン・マサマンの方は、もっと多種大量のスパイスが入り、しかも甘い。この系統のカレーはカンボジアに入り、やはり「カリー」の名で呼ばれている。ジャガイモかサツマイモにトリ肉が入ったカレーだ。そして、ベトナムにもca riがある。ジャガイモとトリ肉のカレーだ。伝播がこの順だったかどうかはわからないが、それぞれがまったく無関係だとは考えにくい。
 実は、ベトナムのカレーはどういうものかという説明は簡単ではない。その一例は、これ。さまざまな作り方をしているほど、ベトナム人にとってもカレーは身近なものだとも言えるし、あるいは「定型」や「標準形」がまだできていないとも言える。どちらかはわからないが、ベトナムの食堂や露店の飯屋にもカレーはある。
https://www.youtube.com/watch?v=G_t5GlTeOW4
 サイゴンで食べたものはカレー汁だが、ハノイのコム・ビンザン(大衆食堂)で見たのは、ジャガイモとトリ肉のカレー煮という感じで、汁気はまったくなかった。そこで、インターネットで調べてみると、上で紹介したようにユーチューブに情報がいっぱいあった。ベトナムの料理番組もあれば、ベトナムアメリカ人(多分)が紹介しているものもある。そこに登場する料理は一様ではなく、汁が多いものとほとんどないものもある。汁の量には違いがあるが、トリ肉とジャガイモは共通点だ。ジャガイモはフランス支配時代に伝わったものだろうし、一般のベトナム人が口にするようになるのはもっと遅い時代だろう。そう考えると、インドシナのジャガイモとトリ肉カレーは新しいもので、もしかすると第2次大戦後に生まれたのかもしれない。ただし、タイ南部のケーン・マサマンはジャガイモではなくキク科のイモを入れているものもあり、ジャガイモ伝来以前からこのカレーがあったとも考えられるが、どっちみち19世紀末から20世紀のことだろう。
 世に、自称「カレー研究家」は何人もいるが、食べ歩きと店紹介だけに熱心で、思考が狭い。インドからなかなか出られない。フィールドワークと文献調査が乏しいのは、日本人読者がそのレベルで満足しているからだろうか。