906話 イベリア紀行 2016・秋 第31回

 荒野のバス旅行


 昼食を食べて、バスの客となった。SDCで買ったミシュランのスペイン地図を広げて、道路を確認する。レオンからも、引き続き西から東に進む旅なのだが、いままでの鉄道の旅と風景がまったく違う。これほども違うのかと疑わしくなるほど、車窓風景が鉄道とバスでは異なる。鉄道は疎林のなかを走ってきたが、バスは荒野や畑を抜けていく。木などほとんどない。畑は、収穫を終えた麦畑や牧草地が多いが、枯れたままになっているトウモロコシも見える。おそらく家畜用だろう。同じように畑で枯らしているのがヒマワリで、これも油をとるので枯らせているのだろう。アンダルシアで必ず見かけたオリーブとオレンジの林は見ない。「オリーブオイルを使うスペイン料理」というのはスペイン南部の習慣で、北部でオリーブオイルを使うようになったのは、それほど昔のことではない。
 枯れ葉色の大地のなかに建っているのは風車だ。しかし、それはドン・キホーテ的な風車ではなく、風で電気を作る風力発電の塔だ。風力発電は環境にいいというが、世界のどこででも、風景になじんでいるとは言い難い。あと50年もたてば、当たり前の風景になるのだろうか。かつては蒸気機関車の鉄道も「異物」であったのだから、時が意識を変えるのかもしれない。。
 収穫を終えた麦畑に黒い小山がいくつも見える。一定の間隔でできている小山は、おそらく牛糞から作った堆肥だろう。畑には、わずかに緑も見える。ホウレンソウのような背の低い植物だが、高速で走るバスからでは、どういう植物かはわからない。
私の席は、最前列の右側という「おのぼりさんシート」だ。風景が良く見えるので、できることなら、どこの国でもこの席を取る。追突事故でもあれば、ここは「もっとも危険な席」でもある。ここからは左手下に座っている運転手の行動が良く見えるだけでなく、メーター類もよく見える。道路の速度制限は、「80」から「120」までの表示が路肩に立っているのだが、運転手は最高でも100キロは超えない。「巡航速度」は90から100キロの間だ。車の数は少ない。20分以上、対向車もバスを追い抜く車も見ないこともある。そういう風景の中、巡礼路を示す道路標識が見える。バスが小さな街で止まると、巡礼者姿の人が乗ってくることがある。街で用を足して、また巡礼路に戻るのだろう。
 そういう荒野の道を、私はただバスの柔らかいシートに座ったままで見ている。このあたりも、あのあたりも、そのあたりも、かつてはすべて森だったはずだが、スペイン人が荒野に変えてしまった。植林をせずに。数百年たった。そういう歴史を考える。
 旅に出ると、私は「臨場読書」というものをする。旅先で、その地を舞台にした本を読むという行為で、今回は珍しく司馬遼太郎の『街道をゆく 南蛮への道Ⅰ』『同Ⅱ』の2冊を持ってきた。「珍しく」というのは、私は何度かこの『街道をゆく』シリーズを買っているのだが、読了したことがない。私は司馬遼太郎とは相性が悪い。このシリーズに限らず、今まで司馬の本を最後まで読んだことがない。退屈で、投げ出してしまうのだ。ところが、今回はちょっと違った。日本で一気に読んでも頭に入らないので、旅に持ち出して少しずつ読んだ。ザビエルやイエズス会について書いている主要部分はまったく興味はないが、スペインの風景を読みとるという部分は、私が感じたことと同じことを司馬が書いているので、「そうだよなあ」と相槌を打った。資料は旅行前に読んでも、頭に入らない。旅の直後に読むのがいい。
 だから、私は旅をしながら、司馬の旅を少しずつ追っていった。
 夜9時半、バスはバスクの中心都市ビルバオに着いた。
 
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 バスのフロントガラスは、「洗うのは週1回」と決まっているかのように、汚れきっていた。ガラスに追突した虫の体液や落下したトリの糞やほこりなどは、ときどき降る雨で多少は洗い取られる。遠くに、風力発電機の林が見える。