1014話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その5

 イエローカードと両替


 旅券を取ったら、予防注射。コレラの予防注射と種痘(天然痘の予防接種)が必要で、アフリカに行くなら黄熱病の予防注射も必要だった。旅行ガイドの基本編で読んだ情報をもとに、有楽町の交通会館にある宮入内科で予防注射を受けた。料金の記録も記憶もないが、安くはなかったと思う。資料によれば、宮入内科は保健所に比べて高額で、「2000円だった」としているが、これが種痘とコレラの両方の合計額かどうか不明。
 スポーツに興味も知識もない私にとっては、Jリーグの報道が盛んになるまで、イエローカードとはこの予防接種証明書のことだった。日本でサッカーがブームとなったころには、すでに予防接種の証明書はほとんど必要ではなくなっていた。インターネットでイエローカードの件を調べると、昔の若者が「サッカーのイエローカードじゃないよ」と、私と同じことを書いているのには、笑った。還暦を過ぎた旅好きにしかわからない冗談だ。
 1976年にWHOは種痘の義務の緩和を宣言したことにより、海外渡航の際の種痘証明は求められなくなった。コレラの予防注射に関しては、具体的な資料が見つからないのだが、各種ガイドブックで調べると、1977年ごろには、「コレラ流行地を経由した旅行者」に求められるだけになった。
 私が最後に受けた旅行用の予防接種は、1982 年、アフリカに行く前の黄熱病注射だった。
 旅行準備の最後の作業は、両替だ。あの当時、外貨持ち出し限度額は3000ドルで、翌74年のオイルショックの影響で1500ドルに減額されたのだが、そんな規則など私には何の影響も拘束もなかった。
 今と違って、当時は両替すると、その金額と両替日時を旅券に記入された、総額3000ドルを超えないようにするための規制だった。しかし、問題はあった。例えば1000ドル両替して出国したとする。旅先でカネが足りなくなって日本から送金してもらおうとしても、もう両替できないのだ。出国してしまったら、パスポートの両替記録を記入できない。両替できないから、送金もできない。「日本円を送金」もできない。もし手紙で日本円を送っても、その日本円を両替できるのは香港以外ほとんどなかった。そういう時代だ。
 前回紹介した『実用世界旅行』には、1970年当時、両替には「海外渡航のための外国へ向けた承認・許可申請書」を書いて、パスポートには、そのときの両替記録が記入される規定だったらしいが。私はそういう書類の記憶がないが、多分、書いたのだろう。
 スクラップブックに、1973年の平和相互銀行の「通貨交換計算書」が挟まっている。夏も冬も工事現場で危ない思いをして働いたカネで、飛行機代を支払い、残ったカネを持って、まず虎ノ門アメリカンエキスプレスに行った。370ドル分のTC(トラベラーズ・チェック)を作り、残った全財産で40ドル分(1万1160円)を平和相互銀行で両替した。1ドルが279円の時代だ。3000ドルの持ち出し制限など、貧乏人の私にはまったく関係がない。
スクラップブックに、デリーで発行された両替証明書が貼ってある。銀行など「正しい場所」で両替すると、この証明書が発行される。インド・ルピーから外貨への再両替にはこの証明書が必要だった。当時のインドには闇両替があり、公定レートよりちょっといいという程度だっただろうかはっきりとした記憶はない。ビルマやアフリカのいくつかの国のような、とんでもない闇レートではなかった。
1973年のデリーの両替証明書を見ると、トラベラーズチェックの20ドルを両替して、150ルピーを得ている。1ドルが7.50ルピーで、1ルピーは37円ということになるが、私は、「1インド・ルピー35円で、ネパール・ルピーは25円」という記憶があり、取り締まりの結果、闇両替が冬の時代だったのかもしれない。1976年の資料では、1ドルが8.9 ルピー、1ルピーが33円になっていたようだ。
 どういういきさつで手に入れたのかはわからないが、スクラップブックに、デリーのSkyway Guest House(Bengali Market)のカードが貼ってある。これによれば、ドミトリーが8ルピー、シングルが20ルピー、エアコン付きダブルルームが45ルピーだ。これは、私の基準では、やや高いホテルだろうと思う。エアコンなんかがついているのだから。
 ★調べたいことがあって、名著『つい昨日のインド 1968~1988』(渡辺建夫、木犀社、2004)を再読していたら、著者が初めてインドに行った1968年の事情が目に入った。このとき著者は25歳、月給3万3000円をもらうサラリーマン。横浜からフランス郵船でセイロンのコロンボまで3万円の片道切符を買って、日本を出た。所持金は500ドル(18万円)。インドを旅した後、中近東・ヨーロッパと旅して、半年後シベリア鉄道でナホトカ、そして船で横浜という旅をした。この本は、天下のクラマエ師がインドに現れる以前の、日本人旅行者とインドの関係を克明に描いた名著だから、<「ゴーゴー・インド」30年の旅の記憶展>に興味がある人は、必読。