火星の月の下で

日記がわり。

水木しげるマンガの思い出

水木しげる氏の訃報を聞いていろいろと思い出すこともあったのでそのあたりを少しだけ回顧。
かつて水木先生は「代表作なんてない。すべて精魂込めて作り上げた作品なので、どれか一つを選ぶなんてできない」と書かれていた。
従って代表作としてではなく、ワタクシの一番好きだった貸本版『悪魔くん』について少しだけ思うところをのべておく。
水木しげる」の名前が世間一般に広く知られるようになったのはモノクロ版『ゲゲゲの鬼太郎』(第一作)のアニメだったろうと思う。
私も強く印象づけられたのはこのときだけど、それ以前に水木まんがは読んでいた。
それがこの貸本版『悪魔くん』で、なにぶん幼かったこともあり、はっきりとは覚えていなかったのだが、妖怪漫画の始祖*1としてクローズアップされ始めると、比較的早く貸本漫画の復刻などはなされ、その初期の頃はかなり粗悪な復刻ではあったが*2、この貸本版『悪魔くん』なども復刻されていた。
その時「ああ、『ゲゲゲ』以前にこれ読んでたなぁ」と思いだしたのでありました。
年少の頃の記憶としては、人が妖怪めいたもの(ヤモリビトやカエル男)にすり替わっていく恐怖や、中盤から次々現われる異界の住人(サタン氏や八仙など)が心に残っていたが、その復刻で読み直したとき(たぶん70年代の大学生の頃)にいちばん印象深かったのが、召還された悪魔が普通の人間でした、というあたりで、まさに戦慄を感じたものだった。
悪魔くん達が危機に陥ったとき、この呼び出した悪魔に「いまこそあなたの力を見せてくれ」と言うが「実はなんにもできないのだ」と悪魔は答える。
そしてさらに悪魔くんが「本当の悪魔なら、人間にできぬ力があるはず」と問い詰めても
「ところが人間にできることしかできないのだ」
と答え、カエル男にソロモンの笛で脅されるや、
「俺はケチでガメツイ、それと演技がうまいだけだ」とその能力を吐露する。
この段階で悪魔くんとカエル男は「こんな力のない悪魔を呼び出すことがそんなに価値のあることだったのだろうか」と不審に感じる。
一方、ヤモリビトに化けて悪魔くん達の中に潜り込んでいた佐藤はこの情景を見て、
「呼び出された悪魔は只の人かもしれない」
「悪魔とはそれを呼び出す力を有するものがとりもなおさず悪魔ではないか」と心に思い描く。
この段階で、人類の叡智を極めた悪魔くんでさえ、その召喚した悪魔の本当の意味を理解していなかったことになる。
それは読者も同様で、ひとまずは佐藤の解釈に同意し、そしてお話は悪魔くんの死によって唐突に終わる。
だが最終章で、悪魔の本質がチラリと現われて、読者は戦慄を感じることとなる。
ヤモリビトの仮面を脱ぎ捨てた佐藤の前に悪魔が現われ
「世の中、ズルイものが勝つよな」
と語って、会社を興したことを告げ、佐藤を雇うことになる。
だが三年後、佐藤はからだを壊してしまって悪魔に捨てられ、その巧妙な手口を今更のようにかみしめることになる。
「ケチでガメツくて演技がうまい」その本質が、現代の社会にマッチし、今や世界中の会社が悪魔をもうけさせるためだけにロボットのように働いていることが最後に語られ、カエル男と佐藤のことばでしめくくられる。
悪魔くんは七年後に必ずまたよみがえることになっておる」
「ではこの理想の戦いはまだつづくのですか」
「そうじゃ、地上天国がくるまではやめられん」
この幕切れにそうとうに衝撃を受けて、ここにも本作の本質、テーマの一環があったのか、とふるえあがったものだった。
悪魔くん』に描かれた悪魔がまさに人間そのもので、それ故に恐ろしく、それ故に深淵で、悪魔くんその人と戦い、あるいは関係を持つかに見えたサタン氏やフラン・ネール氏などよりもいっそう恐ろしく、一見すると小者のような存在が実は人間社会のシステムの中で、最も深く根をはる怪物、まさに悪魔そのものだったことが語られる。
こういったプロットはそれ以前の18世紀後半から19世紀にかけてのドイツ幻想文学にその萌芽が見られるが、マンガという形式をとっているがゆえに、『悪魔くん』のわかりやすさ、底知れぬ恐怖は群を抜いていたように感じたものだった。
水木マンガの凄さ、奥深さは多にもあるけど、私が一番最初に感じさせられたのは、この悪魔の性質とその後だったのだ。

*1:ただ、第一作のアニメ化当時においては、必ずしも水木漫画だけがクローズアップされていたわけではなく、楳図かずお古賀新一といった両巨人もほぼ同列に見られていた。このあたりのことは機会があれば「妖怪マンガの思い出」もしくは流行とでもして、稿を改めたいと思う。

*2:今、手元にないので出版がどこだったか確認できないが、貸本からの複製で、おそらく貸本として借り受けた児童のラクガキであろうものなどがうっすらと残っていたものもあった。