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magasanの日記

2018-08-15

黙とうに思う

 73回目の終戦記念日を迎えた。今日は家にはばあちゃんと二人きりで、昼食の天丼を作っている途中でサイレンが鳴り響いて黙とうの時刻を迎えた。


 我が家には二人の戦没者がいる。一人は、祖父伝八の弟で谷夫さん。もう一人は父、春次の兄、勇さんだ。彼の墓石には「昭和20年3月1日、西部ニューギニア、マノクアリにて戦死享年27歳」とある。


 マノクアリ戦線については、日本軍が壊滅寸前の末期的状況にあって、送り込まれた2万数千人が戦いもできずに餓死している。勇叔父もその一人だ。

 ブログで見つけた、その状況を、コピペさせてもらって、孫や子に知らしめて供養としたい。

【以下は参照】

<日本組織の欠陥 マノクワリ死の行進>

 

 太平洋戦争末期、1944年、熱帯のニューギニア西部の要地、マノクワリには多くの日本軍後方部隊が駐屯していた。米軍は連日マノクワリに猛爆撃を加えると同時に、近々、上陸するという予告ビラをさかんに空から散布した。日本軍司令部の高級官僚は、ここで全滅するよりは、ニューギニア南部にあるといわれる食用植物生産地まで移動して、自給しようと判断した。「マノクワリから南部の地までは直線距離で1週間程度である。自分の食料だけを担いで移動すればなんとかなるであろう」これが頭脳優秀と言われた高級官僚の発想であった。




マノクワリから2万人の日本兵ニューギニア奥地に向かって出発した。ニューギニアジャングルは食用になるものなど一切なかった。道なき道をかき分けて進むのにも大変な時間と労力が必要であった。2週間たっても到着しない。日本兵はじきに持参した食料を食べつくした。次々と周りの人間が倒れて行った。しかし、ここから引き返すと途中で餓死してしまう。前進するよりほかはない。力尽きた兵士は横たわり二度と起き上がらない。先に進んで倒れた兵士は白骨化し、そのうえをよろよろと歩く亡霊のような兵士がみられた。ところが、かろうじて到着した目的地には、食用植物など全くなかった。2万人の日本兵は一人も帰還しなかった。司令部の官僚は、兵士達を見捨ててとっくに飛行機で安全な後方地帯に逃亡していた。



日露戦争旅順を攻撃した乃木将軍は、無謀な肉弾攻撃で大勢の兵を死なせたと非難された。その旅順攻撃の戦死者は1万5千人である。マノクワリでは、1発の弾を撃つこともなく2万人の日本人、故郷へ帰れば一家の中心となる人々がジャングルで餓死している。

司令部の高級官僚は、米軍のビラ(偽情報)に攪乱され、南部に食料生産地があるといううわさを、確認もせず真に受けて、持参する食糧の計算もせず、2万人の日本人を無為に死なせてしまったのである。信じられないことに、それでも誰一人責任を追及されていない。

日本社会の組織の欠陥、試験をパスし上司のうけの良いものがリーダーとなる弊害、無責任、情報に対する無知、は過去の話ではない。将来、自衛隊が海外に派兵されたときにも充分起こり得るのである。マノクワリ死の行進にみられるような、日本的欠陥リーダーによる自衛隊員の犠牲が再現されなければ良いが・・・

2018-08-14

喧噪の後のキエルケゴール

 昔は「キエルケゴールか気抜けビールか」と、祭りのあとの消沈を例えたもんだ。キエルケゴールはデンマーク哲学者でウイキにも出てるが、今は「キアゲゴー」と発声するのが正しいと書いている。

 昨日まで22人の来訪があったと書いたが、あと、叔母がもう一組と、弟夫婦が17日に来るので27人になると思う。


 妻は、午前中に近所の初盆のお参りをしてくれて、午後には実家関係のお参りに出かけて、夕方4時ごろに帰ってきた。明日も妹の嫁ぎ先の初盆の法事に出かけるので、ばあちゃんのお昼は私が担当だ。


 夕方に、井戸水を5リッターのペットボトルに汲んで、お墓の水を替えてきた。19年前に旅立った親父に、感謝の言葉を述べて手を合わせた。

 



 

2018-08-12

大阪のおば達も墓参

 今朝、長女優一家が帰路に着いた。残るのは3男将一家の4人。ところが、昼前に従弟の洋次郎一家3人が墓参と川遊びに来た。彼らは、その後に日高川で遊び、さらにフェリーで徳島に渡り、明日は阿波踊りを見るという強行軍だ。

 お昼を過ぎて熊取の叔母一家4人が墓参、しばらく母と懐かしく歓談した。これでこの夏我が家を訪れたのが22人になる。

 この里では珍しい、というかありえない来訪者だが、ファミリーとしては健全な形ではないかと思う。

2018-08-11

ぼちぼち帰る人も

 徹兄さんが午後4時半にみどりが送って行って帰った。その前にかなみちゃんの6歳の誕生日だったのでお祝いをした。来年は小学生だという。

 今日も、早朝の海釣り、スイカ割りなどで「ぼくの私の夏休み」を綴った。マイ川、マイ小学校のグラウンドと、我が物顔で遊びの場とした。

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2018-08-10

初のBBQ

 剛ファミリーを関空まで徹と二人で送って、帰りは下り線が渋滞のため海南東で高速を降りて海南高原越えで有田に降りた。

 湯浅で42号線の込み具合を確認しながら広岡で夕食の肉類を仕込んで、西広経由で混雑を避けて帰った。

 子供たちは、午後4時ごろからプライベートリバーサイドで川遊びし、5時半に戻った。その間、ジョージはBBQの下準備をしながら待った。

 焼き方は徹と将が担当し、びっくりするほど食べる5人の子供たちの腹を満腹にさせた。親たちはその後に、落ち着いた炭火でおいしい肉を焼き、故郷のBBQを堪能した。

 

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ヤモリで遊ぶ子供たち】