中上健次『鳳仙花』

maggot2004-02-21

 秋幸の母親フサの十五歳から三十代に至る半生。兄吉広との死別、勝一郎との出会い、出産、死別。また幼い泰造を死なせてしまう。そして浜村龍造との出会い、秋幸の出産と龍造との別れ。繁蔵との出会い....
 三人、兄吉広も含めるなら四人の男の間で激震する女の心(あえて女心ではなく)、そのような女の心を、描き出す中上健次の小説家の底力に絶句。これまで読んできた中上健次がどれも龍造、秋幸に代表されるごつごつした男のせかいだったのに、せつなすぎる。こんなに涙腺が緩みっぱなしになるとは。
 →まごまご日記

 台所に引き返そうとしてふと塀の脇に鳳仙花が一本丈低く生え、三つほどひらいているのをフサは見つけた。
 スズに向かってその花弁でまだ子供の頃、母に爪を染めてもらった事があると言おうとした。ふとフサは思った。ミツはあんなにきらって悪口を言っている木馬引きを、好きで、恋しいと思っているのかもしれなかった。フサは胸がしめつけられ息苦しくなった。フサは母を思った。フサが四歳の頃の母の齢と、今のミツの齢格好は似ている。そうなら、そのときの母も、恋をするのに遅すぎる齢ではなかった。古座の家の前に生えたその花の花弁を集め、指でつぶし、フサの小さい爪に塗る。爪は薄い桃色に染まった。母はフサを孕ませたその男、フサの男親を、憎いとまだ思っていたのだろうか。フサの男親には妻子がいた。その男が孕ました子供であるフサに鳳仙花の赤い花弁で爪を染めながら、何を考えていたのか、母の気持を知りたかった。
 井戸の水を汲みながら、フサは新宮に来てはじめてつらいと思った。
 汲みあげるとあふれ出てくる井戸の水は確かに古座につながっている。ここは古座から兄の幸一郎や吉広が出かけるような遠い土地ではないが、フサはまた母に打たれ殺されようとしたあの光景を思い出した。裏切られ羞かしめられたと炎を噴きあげるような母の怒りをなだめる方法は、その時も今も、なかった。流しの水がめに水をあけ、その音を呆けたように耳にした。


 水が菜に当り、勢いよく撥ね、顔にかかった水滴を手で拭い、ふと見るといつか植えかえた貧弱な鳳仙花が見違えるほど育ち幾つも花をつけている。何の気なしに手をのばし、自分で何のためそんなことをするのか分からぬまま身を屈めて鳳仙花の茎ごと折り、それを活ける器をさがしている自分に気づき、フサは吉広が本当に死んだと気づき、息が詰まった。
 日が鳳仙花の花弁にあたり、その紅が溶けだして茎を持っているフサの指を染めるような気がし、フサはその紅の花弁に唇をつけた。紅が血なら日に溶けて流れ出すそれを舐めて、傷を塞いでやりたかった。花弁に唇を押しつけてあるかないかの日の粉末のような花のにおいをかぐフサの眼に、鳳仙花は火焔のように日を浴び、光る血のように生々しく見えた。
 その火焔が吹き上がるように流れ出る血を洗い浄めようとするように、フサの眼から涙がとめどなく出る。フサはこらえきれなかった。何かの罰にあたったように吉広が死んだ。フサは鳳仙花の花を手にささげ持ち押しいだくように顔を寄せ、声を殺して泣いた。日がフサの体にあたっている事も、今、眼いっぱいにふくれあがった涙を通して見える新宮の空も、佐倉の家の板塀も、台所の方から駈けてくるマツも今のフサを救ってくれない。その花もそうだった。フサは鳳仙花を棄てた。地面に落ちたそれを見て、ふと吉広の顔を思い出す。


 秋幸がフサを呼んでいた。
 海の音はせり上がり、耳に音がこもった。
 黒い水にくるぶしをつけ、砂利の土堤を海岸に廻り込もうと、深みにはまり込まないように足でさぐって歩いた。くるぶしから下が冷たい水に溶けたように思え、さらに海の波が当たっている方に行こうとして、フサは川底の石を踏みそこない、水の中に倒れた。水を飲み、あわてて起き上がり、秋幸が黒い影のように汀に立っているのを見て、「綺麗な魚おる」とつぶやいた。「みてみやんしょ、秋幸。夜になったら水温まってきて、赤や黄色の模様のついたの、ようけ来とる」フサはほどけかかった髪が首筋にまつわるのをかきあげ、「母さん、もう行こう」と言う秋幸に、まるで先ほど自分をからかった事をなじるように、切迫した取りつく島のない声で「みえんのかん? こんなに綺麗なの来とるのに」と言う。
 秋幸は汀の向うでおろおろ歩きまわりながら「綺麗やねえ」とフサに合わせて嘆声をあげる。
 フサは「嘘言うなん」と小声で言い、汀の方に身を向けて水につかったまま、秋幸に手を差しのべた。まるで母と子で人の道を踏みはずす事をしようとしているみたいに、フサは自分の体からヒタ、ヒタと水が落ちると思った。秋幸は、手を差しのべ、フサの手を握った。

(1980 作品社)