ビッグフット女房譚 ゴリラ女房の周辺を散策する

 

 「ゴリラ女房」という民話が沖縄にある。あるのだ。細かいことは、たとえばtera(西)さん【妖怪図鑑】新版TYZのゴリラ女房の項を参照されたい。

 この「ゴリラ女房」、妖怪数寄の中の一部には以前から知られていたが、世間への知名度は低く、なにしろ二十年前にその存在を知った京極夏彦氏がディープな妖怪マニア「妖怪馬鹿」を自認する友人の村上健司・多田克己両氏に話したところすぐには信じてもらえなかったというほどなのである。

 そんな「ゴリラ女房」が、先日深夜番組とはいえラジオで取り上げられ、世間の耳目を集めたということで私の周囲のゴリラ女房好きたちも騒然としている。

 私はかつて、同人誌『空亡 年末号』(2018 亀山書店)においてゴリラ女房の類話としてUMA「ビッグフット」が人間の男をさらう話を把握しようとする試み『ビッグフット女房譚』を発表したことがあった。『空亡 年末号』はすでに版元の亀山書店にも在庫がなく、また再版・重版などは行わない「現代のカストリ雑誌」というコンセプトであるため、今からゴリラ女房に興味を持った方には入手がほぼ不可能である。この機会に拙稿をウェブ上に公開し「ゴリラ女房」研究の広がりの一助としたい思いを亀山書店CEOが理解し公開の許可を下さり、今回ここに再録・公開できることとなった。ここに感謝の意を表します。

 以下、『空亡 年末号』に収録された『ビックフット女房譚 ゴリラ女房の周辺を散策する』を掲載する。「ゴリラ女房」という奇妙なおはなしが持つ広がりを知っていただければ幸いです。

 

 

「ゴリラ女房」というエクストリームなタイトル(と内容)の民話については、この『空亡』の愛読者である諸氏にいまさら詳細を語る必要はないであろう。しげおか秀満氏による「ゴリラ女房の周辺」シリーズをすでに読者諸氏が読んでいる前提で、今回はひとつゴリラ女房の周辺も周辺、いわゆるUMA(未確認動物)であるビッグフットのおはなしを紹介してみたい。それは意外なところからゴリラ女房というおはなしの輪郭を浮かび上がらせるものなのではないか、そのような淡い期待を筆者は抱いているのである。

 

 ゴリラ女房については現在も日々新たな情報が発見・発掘され、単に酔っぱらったインフォーマントが熊とゴリラを取り違えて語った民話だと単純には片づけられないような状況を迎えている。そんな中で、北海学園大学中根研一教授twitterにて「衝撃的な結末も含め、これとほとんど同じ物語が、現代中国の未確認動物〈野人〉の話として複数採集されている」「古来、中国に「野女掠男故事」は多く、似た結末を持つ話は『夷堅志』(12世紀)にも見える。」と言及された。中根教授はさらに「もし仮にこれらの話が沖縄で「ゴリラ女房」に化けたのだとしたら、非常に興味深い」と、ゴリラ女房の構成要素の一つに「野女掠男故事」がある可能性を示唆されている。この研究の今後の進展に期待したい。

 さて、中根教授のこの指摘に対して筆者はふと、別の未確認動物の話を思い出したのである。それは、ビッグフットが人間の男性をさらい、短期間ではあるが生活を共にしたというショッキングな内容であった。そう、それはさしずめ「ビッグフット女房」とでも呼び得る、すこぶる奇妙な話なのである。

 

 ビッグフットとは、北米大陸で目撃される多毛の人型未確認生物であり、その名の由来である大型の足跡も多数発見されている。またネイティブ・アメリカンの伝承に登場する獣人「サスカッチ」と同一の存在とされることもある。ビッグフットを撮影したとされる「パターソン・ギムリン・フィルム」(1958)は世界中に衝撃を与えた。その真偽等について本稿では深く立ち入る余裕はないが、興味を持たれた読者諸氏は『UMA事件クロニクル』(2018)での加門正一氏の検証記事を参照されたい。同書にはさらに前出の中根教授による「野人」の記事、あるいは本誌寄稿者のひとり廣田龍平氏の手になる「ニンゲン」の記事などが収録されており、お化けや妖怪を好む読者諸氏も楽しめること請け合いの好著である。なお筆者もツチノコ警察(実在派)や付喪神特高に配慮しつつツチノコの項を担当したり、広く世に河童懲罰概念を知らしむるプロパガンダ活動の一環として河童の項を執筆したりしていることを付け加えておく。

 

UMA事件クロニクル

UMA事件クロニクル

  • 作者:ASIOS
  • 出版社/メーカー: 彩図社
  • 発売日: 2018/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 ビッグフットは(現時点では)未確認動物なのであるが、未確認動物の多くがそうであるように、その住処として現実の空間以外に「おはなし(伝承)」の中に生きている。そもそもビッグフットという存在がご当地アメリカやカナダに広く知られるようになったのは、ヒマラヤの雪男という獣人UMAの存在が先行して広く知られるようになってからなのである。実はこれから紹介する「ビッグフット女房」も、1957年(前出のパターソン・ギムリン・フィルムの一年前)に新聞に掲載されて知られるようになったが、実際に事件が起きたのは1924年のことだという。ビックフットは、1950年代になってようやく「俺たちの国にもヒマラヤの雪男みたいな怪物がいるらしいぞ」とアメリカ国民やカナダ国民の多くに認識されるようになった存在であることは注意を要する。

 

 1924年、カナダの探鉱者アルバート・オストマン(当時31歳)はカナダのブリティッシュコロンビア州のトバ・インレット付近を訪れていた。探鉱のみならず伐採もこなすオストマンだが、この地域を訪れたのは仕事ではなく休暇のためであったという。この地を旅行中、彼は原住民の古老から「サスカッチ」と呼ばれる獣人の話を聴いていたのだが、そんなものは古びた伝説にすぎないと思っていた。ところがある晩、野宿していたオストマンは何者かによって寝袋ごと担ぎ上げられ、そのまま三時間ほど森の奥深くへと運ばれてしまった。ようやく下されると、台地の上に彼を運んできたものをふくめて四頭の獣人がいた。どうやらその獣人たちは家族のようで、大人のサスカッチが二頭(男女・夫婦か?)と、若いサスカッチが二頭(男女、兄妹か?)という構成であった。大人のサスカッチは身の丈が2・4メートルはあったという。オストマンは寝袋の中にライフル銃を入れておいたが、獣人たちが自分に危害を加えようとはしていないと判断して大人しくしていることに決めた。そうして、オストマンとビッグフット一家の生活が始まったのである。

 オストマンは六日ほどこのビッグフット一家と暮らしたという。彼の世話は若いビッグフット(女)の仕事であるようだった。彼女は食糧としてとても美味な草を持ってきてくれたという。オストマンは彼女について「とても大きなヒップでガチョウのように歩いた。美しさやスピードとは無縁の存在だった」と情け容赦ない正直な語りを残している。

 さて、ビッグフットたちと暮らし始めたオストマンはそのうちあることに思い至った。

「ひょっとして、俺はこの若い雌のつがいになるためにさらわれてきたのでは……?」(赤い回転灯が頭上でくるくる回る演出)

さすがにこの台地を終の棲家として、草ばかり食べて生きていくのは勘弁してほしいと思ったオストマンは脱出の機会をうかがい始めるようになった。なお食糧として肉は生・加熱を問わず一度も出されなかったという。

ついに六日目、オストマンは自由な世界への逃避行を試みた。一番の障害になると思われた大人の雄ビッグフットに嗅ぎタバコの葉を与えて朦朧状態にさせた後、威嚇としてライフル銃を空に向けて撃ってから台地から逃げ出したのである。この作戦は功を奏し、彼はビッグフット一家の婿養子生活から逃げ出すことに成功した。

 事件当時はこんなことを話しても狂人倶楽部扱いされるだけだと口をつぐんでいたオストマンだったが、50年代になりビッグフットに関する記事が新聞にも載るようになってきたので彼も自分の体験談を新聞社に話したのだという。

 

 この話はビッグフットとの「接近遭遇」のショッキングな形としてカナダやアメリカで話題になったが、その真偽という点ではそれほど高い評価は得られていない。アメリカを代表する未知動物学者ローレン・コールマンはオストマンの話について

「このおじいさんの話さあ、どうにも信用できないんですな……まずね、ビッグフットが一家で生活しているとかいう話はこのおじいさんの話以外報告されていないワケ。あと草食べてるとか言ってるけど、そういう報告も他には見当たらないです。俺ジナル感にあふれているっていうかねえ…… さらに、事件があったとされる地域の環境からするとビッグフット四頭が生息するのは食糧的に厳しいのでは、というツッコミもあります。宇宙人と仲良くしている、って自称する人たちのこと『コンタクティー』って言うんですけどね、私はこういうビッグフットと交流したと主張している人たちのことを『ビッグフット・コンタクティー』と呼んでますよ、ハハハ!」

と、厳しい評価を下している。懐疑派の超常現象研究家ジョー・ニッケルも

 「この話、回想じゃなくて空想ですヨ」

とバッサリである。

 

一方、生前のオストマンにインタビューして本を書いたジャーナリストのジョン・グリーンは「彼は信頼のおける人物。話した内容にも矛盾点はない。彼は真実を語っている」と高評価している。

 

 本稿の主眼はこの話の真偽の判定にあるのではなく、ビッグフット一家の婿としてさらわれてなんとか逃げおおせた、という語りが1950年代の北米でマスメディアを通じて広まった、ということを紹介するところにある。ゴリラ女房の周辺に、「異類婚姻譚」というコトバを使って把握するべきなのかどうかはともかく、このような話が位置しているのである。それは今後、野人の伝承とゴリラ女房の関係の研究が進展していくとき、その二十世紀北米版としてとらえることが可能になるのではないか。筆者はそんな淡い期待を持っているのである。つまりは、ゴリラ女房は沖縄の民俗というフレームを超えて世界的な、人類共通の大きなおはなしとして存在しているのではないかという見通しの提示である。

 

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ビッグフットの婿になりかけた男アルバート・オストマン

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事件の再現イラスト

 

チャールズ・デルショーwikipedia訳

 本日、『何空』ファン本打ち合わせ二次会の席上で少し話題になったチャールズ・デルショーについて、以前に英語版wikipediaのデルショーの項を訳したことがあったのでメモ代わりに載せておきます。


Charles Dellschau –wikipedia


チャールズ・オーガストアルバート・デルショー(Charles August Albert Dellschau 1830年6月4日〜1923年4月20日)はプロシア出身のアメリカのアウトサイダーアーティスト。


・生涯


 デルショーは小売りの肉屋であったが、1899年に引退すると、少なくとも13冊のノートいっぱいにファンタジックな飛行船の素描、水彩画、コラージュを描いた。彼はテキサス州ヒューストンのアパートの屋根裏部屋に住み、また活動していた。デルショーの最初期の作品として知られるものは1899年の日付の日記で、最後期の物は1921年から1922年の日付のある80ページのほどの本であることから、アーティストとしての彼の経歴はこの21年の期間であるとされる。デルショーの作品の大部分は彼が会員であったと主張する「ソノラ・エアロ・クラブ(Sonora Aero Club)」の活動の記録としてのものである。デルショーはこのクラブについて、19世紀中頃にカリフォルニア州ソアラに集った熱狂的な航空ファンたちだと書き記している。会員の一人はデルショーが「NBガス」と呼ぶ反重力燃料の製法を発見したという。彼らの目的はNBガスを揚力兼推進力とする世界初の操縦可能な航空機を設計・建造することであった。デルショーはこの飛行機械を「エアロ」と呼んでいる。デルショーはこれらの航空機のパイロットであったとは一切主張しておらず、自らをソノラ・エアロ・クラブの製図者と認識していた。彼のコラージュには当時の最新の航空技術の開発や事故に関する新聞の切り抜き(彼は「押し花」と呼んだ)が組み込まれている。


 デルショーのノートを隅から隅まで埋め尽くす素描の中の暗号化された物語によると、ソノラ・エアロ・クラブはNYMZAという名だけが知られる、より巨大な秘密結社の一部門なのだという。国勢調査記録や選挙人名簿、死亡届などを含む徹底的な調査にもかかわらず、コロンビア墓地の幾つかの墓石に記された名字以外には、この組織の実在を立証するものは何も見つからなかった。ヘンリー・ダーガーの『非現実の王国で』のように、ソノラ・エアロ・クラブはデルショーによるもっともらしいフィクションなのだと推測される。


・死後生じた評価


 大量の作品はすべてテキサス州ヒューストンのごみ埋め立て地に廃棄されてしまっていたが、捨てられたカーペットの束の下にあったのを、幸運にも中古家具商のフレッド・ワシントンが倉庫へ回収していた。聖トマス大学(訳注:日本の大阪の同名の大学ではなく、カナダの大学の方)のメリー・ジェーン・ヴィクターは、大学で航空についての物語を上演していたが、そこに展示するために、ワシントン氏にデルショーの作品の幾つかを貸してくれるよう依頼した。展示された素描は、テキサス州ヒューストンのライス大学の美術教官であり、また州内有数の美術品収集家でもあったドメニック・デメニル女史に深い感銘を与え、女史はワシントン氏からデルショーの4冊のノートを買い取った。コマーシャルアーティストでありUFO研究家でもあるピート・ナヴァロが残りを獲得した。後にウィッテ博物館とサンアントニオ博物館(訳注:ともにテキサス州)が4冊ずつをナヴァロから買い取っている。残りの4冊は最終的にはニューヨークの商業画廊に二冊が売却され、パリのABCDコレクション(訳注:アールブリュットの研究機関abcd協会によるアール・ブリッュト作品のコレクション)が1冊を所有し、もう1冊は個人蔵となっている。


 デルショーの死の約75年後に、彼の初の個展「チャールズ・デルショー ――航空学ノート」が、1998年にニューヨークのリコ・マレスカ・ギヤラリーで開催され、併せてその目録が作成された。


 彼のノートの内何冊かは、ウィッテ博物館(デルショーとダ・ヴィンチの作品を「想像力の航空機たち」として展示した)やサンアントニオ博物館(「飛行か、それとも想像か? ――チャールズ・A・A・デルショーの隠された生涯」と題した個展を行い、またフロリダのメニロ博物館でも開催した)、メニル・コレクションといったテキサス州の博物館に収蔵されている。デルショーの作品はまた、フィラデルフィア美術館やパリのABCDアール・ブリュットコレクションにも、そのまま一冊のノートの形で収蔵されている。アトランタのハイ美術館や、ニューヨークのアメリカン・フォーク・アート美術館、アメリカやヨーロッパの個人蔵のコレクションにも収蔵がある。デルショーの作品の展示はイベント「the Museum of Everything」の中でも行われており、2009年のイギリスのロンドンと、2010年のトリノでのこのイベントで展示されている。


・評論分析


 デルショーはアメリカにおけるヴィジョナリー・アーティスト(彼の作品はまたしばしば「アウトサイダー・アート」であるとも評される)の最初期の一人とみなされている。彼の作品は、新しい技術が人々の世界の見方を変えてしまうという楽観論的な視座の証拠である。飛行とは、デルショー以前の時代においては人間の悲哀や、為すべきではないことへの無力さの象徴であった。また、デルショーの作品は、しばしば繊細な色合いの濃淡の展色剤として水を使っており、あざやかな水彩画の展色剤の使い手として非凡である。


 ピート・ナヴァロのデルショーについての理論はUFOの目撃報告との関連を含んでいる。『デルショーの秘密』(デニス・クレンショー、ピート・ナヴァロ)はデルショーの物語と彼の作品に隠された秘密について書かれている。ナヴァロはデルショーの作品と手記について27年間の研究を行なった。ナヴァロによれば、ソノラ・エアロ・クラブとその活動について、デルショーの作品の中に巧妙に暗号化されたバラバラの文として隠されているのだという。今日ではデルショーの12冊のノート(およそ2500点の作品)は個別のページ毎に解体され、世界中に散らばってしまったため、作品全体を通しての研究を困難にしているとナヴァロは述べている。


 デルショーの作品にはサーカスの縞模様の影響がみられ、中心的な主題と装飾的な縁取りとして使われており、しばしば宝石のような輝きをもって描かれている。1998年のリコ・マレスカでの展覧会では、ニューヨーク・タイムスは以下のように評した。


 『彼のイメージとはすなわち、エキセントリックな気球や飛行船、あるいは空飛ぶ馬車、しばしば登場するこれらのパイロットや乗客たち、見覚えのある乗り物たちなどで構成された艦隊によって明確に定義される。モンティ・パイソンを思い出させるスタイルのリッツォーリ(訳注:リッツォーリはニューヨークに本社のある、有名な美術系出版社)が精巧に作り上げるように、言葉、名前および数と同様に数多の縞によって組み立てられて、デルショーの作品は宇宙のほとんどすべてをほのめかす』


 デルショーが飛行船の絵を描き始めたのは、1896年から1897年の「謎の飛行船」の集中目撃報告のすぐ後だと信じられている。謎の飛行船の目撃報告は今日では議論の的となっている。デルショーとソノラ・エアロ・クラブ、そして1896年から1897年の飛行船の目撃を関連付けた説は、クレンショーとナヴァロの『デルショーの秘密』の中で展開されている。


Charles A. A. Dellschau: 1830-1923

Charles A. A. Dellschau: 1830-1923

  • 作者: James Brett,Thomas McEvilley,Tracy Baker-white,Roger Cardinal,Tom D. Crouch
  • 出版社/メーカー: Lucia Marquand
  • 発売日: 2013/03/31
  • メディア: ハードカバー
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The Secrets of Dellschau: The Sonora Aero Club and the Airships of the 1800s, a True Story

The Secrets of Dellschau: The Sonora Aero Club and the Airships of the 1800s, a True Story

『第八の塔(The Eighth Tower)』裏表紙てきとう訳



心かき乱す、『モスマンの黙示』の追跡調査


 全ての宗教やオカルト、UFO現象の背後には、ある同一の知性を持った勢力が存在しているのだろうか?
 奇怪な存在の顕現は古代から人類を脅かしてきた。輝く光線、天からの声、”小さき人々”、神々と悪魔、幽霊と怪物、そしてUFO……我々の歴史や伝説の中に深く刻まれたものたち。
ジョン・キールはこれらの現象を調査し、宇宙的な陰謀の中で過去人類が置かれてきた立場と、人類の未来の運命に関する衝撃的な真相を解き明かす。
 我々は宇宙的なゲームの駒にしか過ぎないのだろうか?
 東洋では古来より、七つの塔の伝説が語られてきた。この城塞は人間の眼からは巧みに隠されており、世界を滅ぼそうとする悪魔崇拝者たちの集団が集うという。むろんこれはただのお話にしかすぎない――そしておそらくは、何らかの真実がこの話の背後にあるのだ。
しかし、ここに第八の塔が――善でも悪でもない、無限の力を持つ塔があるとしたら? 
もし我々の運命の全てが、謎めいた目的を持つ宇宙からの力によって支配されているとしたら? 
そしてUFOなどの超自然現象の顕現は単に、我々が演じるべく宿命づけられている宇宙の中での役割を果たすように操作し、導くための道具に過ぎないのではないか? 
とどのつまり、おそらくは、我々は自由な存在などではなく、それどころか、第八の塔によって生み出された奴隷なのだ。

 
 ジョン・A・キール(1930年5月30日〜2009年7月3日)はアメリカ出身のジャーナリストであり、『モスマンの黙示』の著者としてよく知られる著名なUFO研究家である。控えめに言っても彼の最大の業績である『第八の塔』は、『モスマンの黙示』の中の未解決の素材からもたらされた。キールの初の著作である『ジャドー』、そしてキールによる画期的なUFO研究書『トロイの木馬作戦(UFO超地球人説)』もAnomalistBooksより絶賛復刊中である。

The Eighth Tower: On Ultraterrestrials and the Superspectrum

The Eighth Tower: On Ultraterrestrials and the Superspectrum

青銅のマスク事件あるいはモロ・ド・ヴィンテム事件(3)

 ヴァレの『コンフロンテーション』の紹介は今回で完結します。


第三段階の捜査とは、予想されるように、ミゲルとマヌエルの未解明の死に対する、人々のフラストレーションから生まれた、とっぴな推論や馬鹿馬鹿しさ、非常手段としての強引な説明、といった特徴を持つ。


ブラジルのある心霊主義者たちは木星人とチャネリングによりコンタクトしていると主張している。木星人からのメッセージによると、被害者たちの死は円盤からの指示がある前に(彼らを乗せるためにやってきた円盤の中に)走り込もうとしたために生じたものだという。チャネリングによると、木星人たちはみな女性で、人間よりも平均身長が30センチほど高く、口が縦長についていて、手の指は四本だという話だ。誰もこの「暴露」を信じようとはしなかった―被害者たちが走っている途中で死んだ証拠など何もなかった。

密輸と自動車窃盗で服役中のハミルトン・ベザーニという男の自白は、より興味深い。彼は警察に、ミゲルとマヌエルに対する殺人について彼が深く関与していた旨の供述を行った―ベザーニは、彼らを殺すために雇われたのだという。ベザーニとさらにあと三人の暗黒街の住人たちが彼らから金を奪い、丘の頂上へと連れて行き、銃口を突き付けて毒を飲ませたのだそうだ。警察は、ヴィンテム丘事件でベザーニを逮捕する寸前までいった、と語っている。しかしヴィンテム丘事件でベザーニが逮捕されることはついになかったし、長期の懲役刑に服役中の囚人のこのような疑わしい発言を真に受ける者はいなかった。


ベザーニの自白も木星人からのチャネリングによる暴露も、この殺人事件の細部を説明できていない。私たちは、医学博士にして、超心理学関係の専門的な参考人として法廷に招致され幾つかの心霊主義者関係の事件を解決してきたシルヴィオ・ラゴ教授と、教授の自宅で長時間話をする機会を得た。ラゴ教授によると、被害者たちは、超自然的存在が顕現するとされるような一連の交霊会に参加していたのだろうということだった。カンポスでの実験やアタフォナ海岸での爆発の後、マヌエルは現場で火薬を見つけている。マヌエルは、(おそらくはエルシオを含む)他のメンバーたちが、“超自然的存在”の実在をマヌエルにたやすく信じ込ませられると思ってでっち上げを仕組んだ、と怪しんだのだろう。しかしながら、Soares刑事は、被害者たちが”超自然的存在”との三度目の接触を企てたとするのは疑問であるとの見解を示した。被害者たちの背後には、より高位の人物がおり、その人物の指示に彼らは従ったのではないか――おそらくその人物がノートにあの指示を書きつけたのだ、というのだ。
私たちは今まで述べてきたような、事件の細部についての再検討を現場で行っていたが、私はふと、死体が見つかった場所だけは地面に植物が育成していないことに気が付いた。私は現場の正確な位置がこの場所で間違いないか、尋ねた。死体の目撃者は、近くに立っている杭を示して、あの杭が目印となって正確な位置が今でもわかるから、間違いないと言った。


ミゲルとマヌエルには状況を操っていた「インテリな師匠」がいる――この仮説の根拠はノートへの書き込みだ――という、Saulo刑事の問題提起に話は戻る。


「『カプセルを摂取せよ』という表現は被害者たちの語彙の中にはなかったものです」
刑事はそう推論した。
「同様に、『効果が出てきたら』というのも彼らにしては少々洗練されすぎている。この書き込みは、誰かが彼らに書き取らせた指示のように読めます」
「強盗事件説をとるつもりですか?」
私は訊ねた。刑事は肩をすくめてみせた。
「どうやったら、彼らが大金を所持していたなどと見ただけでわかると?彼らはついぞ車や電子部品を買ったりはしなかった」
「この話には隠された裏がある、と考えているのですか?」
私は刑事に訊いた。
「ミゲルのいとこは、ミゲルがこの旅行に行くのを止めさせようとしていました。何の儲けにもならないから、とね。そのいとこに話を聞きました。ミゲルはこう答えたそうです、『車を買うなんてのはこの旅行の本当の目的じゃないんだ。俺が心霊主義を信じていようがいまいが、戻ってきたら話してやるよ』と」
カンポスの自宅で見つかったという本はどのような内容のものでしたか?」
「一般的な心霊主義の本です。著者はベゼッラ・デ・メネゼスという男です」


ジャニーヌは、被害者たちがカンポスで使っていた仕事部屋について訊ねた。
「小さな部屋でした」
刑事は答えて言った。
「4メートル×3メートル程度の大きさで、ミゲルがTVを修理するのに使っていました。我々はそこで特殊な素材が置かれている棚を見つけましたが、特に怪しいものはありませんでした」


「銅のマスクについてはどうですか?」
「彼らは銅のシートからハンマーで叩いて、マスクを打ち出したのです。とても粗いつくりの、どう見ても手製のマスクでした」


私はベザーニのいわゆる告白に立ち返ってみようとした。刑事は笑って言った。
「やつは宝石とタイプライター専門の泥棒です。あいつのあだ名はPapinho de Anjoと言いますが、これは詐欺師って意味です。ベザーニはそれまで二度ほど脱獄歴がありましてね。その後に再逮捕されて、厳重なことで定評のあるサンパウロのヒッポドローム刑務所にいたんですよ。やつはニテロイ留置所に移送されるかもしれないという望みを抱いて、そんな話をでっち上げたのでしょう。ニテロイ留置所からなら簡単に脱獄できると、皆知っていますから!もっとも、ベザーニは殺人について『自白』した時に、ミスを犯しました。死体を別の山に捨てたと言ってしまったんですよ。そのせいであいつはヒッポドローム行きになったわけですが、その後どうなったと思います?奴は結局、ヒッポドロームからも脱獄したんですよ!」


周囲に広がる広大な風景からの収穫として、私は現場周辺の地図を描き上げた。スケッチを確認しているとき、私は送電線と高い送電用鉄塔があるのに気が付いた。
「警察の連絡用に作られたんだ」私は言った「送電線は1966年当時にはなかった」


「もう一度、現場で何が見つかったのか、正確な状況を確認しましょうか」
 最初に死体を見つけた男が落ち着いた声で答えた。彼の語る内容は新聞で報じられたものとは微妙に細部が違っているようだった。
「何人かの少年が自分たちの凧を探していた時に、死体を見つけたのです。彼らは私の家まで降りてきて、そのことを話しました。私は彼らを警察まで送りました」
「死体は地面に直接横たわっていたのですか」
私は訊ねた。
「死体は草の葉のベッドの上にありました」


「臭いはどうでしたか?」
「いいえ、死体は臭ってはいませんでした。」
 男はそう言った。
「それに、死体は肉食獣に齧られたりもしていませんでした」


 大きく、威嚇的な黒い鳥たちが大勢、私たちの上で旋回している空を指さして私は言った――「あいつらはどうでしたか」
「やつらも、死体をついばんだりはしていませんでした」


 「新聞の報道によれば、少年たちは腐臭をいぶかしんでここにやってきた、とありますが、この点についてはどう考えますか」
「私がここに着いた時には、死体から腐臭はしていなかったのです」


 私たちは車を停めてあるピント通りへと、長い道のりを下り始めた。マヌエルとミゲルがついに歩むことのなかった帰路であった。刑事は、被害者たちは再び丘を降りて帰るつもりだったろうと言った。そうでなければ、なぜ彼らはミネラルウォーターの瓶のデポジット用の受領証などをバーで受け取ったのか? 刑事は事件から14年たった今でも現場には草が生えていないことを怪しんだ。そして彼は、滞空していた円盤については何の説明もしなかった。


 今日では、私のUFOデータのファイルは、14のぎっしりと詰め込まれた引き出しキャビネットでなんとか収まるほどに増大してしまっている。ファイルは国ごとに分けられており、ブラジルのファイルの中には、高度に熟達した探索者であったオラヴォ・フォンテスという名の医学博士が、癌で亡くなる直前に私に報告してくれたオリジナルの文書のシリーズが含まれている。


 フォンテス博士がシカゴの私たちの元を訪れてくれたのは1967年のことで、彼は事件の報告書の束をスーツケースから取り出すと言った。


「これを貴方に差し上げたいと思っております」


 フォンテス博士はそのとき既に、自分の死期が近いことを悟っていたのだろうか?彼が私にくれたのは、銅のマスク事件や、その他のニテロイ地区でのUFO目撃に関する、彼の個人的な調査報告書だった。


 その事件は悲劇の二か月前(訳注:これは計算間違いだと思われる。「悲劇」がヴィンテム丘事件のことなら8月だから五か月前)、1966年の3月16日の午後9時15分に起こった。発光する長円形の物体が高さ30メートルほどの空中に浮かんでいるのを目撃された。目撃者は54歳の電子機器会社の経営者で、工業技術者として訓練を受けた者だったが、彼が「陽気な」球体と呼んだもののスケッチを何枚か描いていた。彼はそれを妻と娘、娘の婚約者で国営ブラジル銀行に勤務する役人らとともに目撃したのだった。物体はニテロイのモロ・ダ・ボア・ヴィアジェムを越えて飛び去って行ったという。


 明らかにこれは、この地域でデ・ソウザ夫人の目撃した巨大な楕円形の物体と無関係ではない。物体の目撃と、不可解な物理学的、そして生理学的な効果―目撃者にとって悲劇的な結果になるようものを含む―との間に相関関係があるかどうかはわかっていない。UFOに関する文献の大部分はこのような事例について言及していないが、それは懐疑派とビリーバーたち双方への挑発だからだ。


 古い理論を脇に置いて、新しい証拠を調査する時がやってきたのだ。

 ――ジャック・ヴァレ『コンフロンテーションズ』(1990)プロローグより



△参考画像:遺体が所持していたノートの中の、謎めいた指示の部分

青銅のマスク事件あるいはモロ・ド・ヴィンテム事件(2)

 前回に引き続き、ジャック・ヴァレの『コンフロンテーション』のプロローグを。


 電話をかけてきた情報提供者の中に、グラシンダ・バルボサ・コウティニョ・ダ・ソウサという社会夫人(訳注:慈善寄付の受付・管理をする女性。ちなみにコウティニョ・ダ・ソウサは「ソウサの女伯爵」の意味にも読めるが、そのままにした)がいた。彼女は水曜日の夜、7歳になる娘のデニスを連れて、フンセカからアラメダ・サン・ボアヴェントーラ道路へと車を走らせていた、とベッテンコート刑事に語った。その時、デニスが彼女にモロ・ド・ヴィンテム丘の上の空を見るように言った。そこにグラシンダが見たものは、オレンジ色の、周囲を炎で縁取られた、“全方位に光を放っている”卵形の物体で、丘の上に滞空していた。彼女が車を止めて注意深く観察したところ、物体は3〜4分の間、垂直に上昇や下降を繰り返し、よく見える“青い光”を放っていた。グラシンダは帰宅した後、リオの証券取引所に勤務する夫に、この目撃について語った。夫はそれを聴いて車を出してみたが、変わったことは何一つ見つけられなかった。


 青い光を放つ、オレンジ色の卵形の物体をモロ・ド・ヴィンテム丘の上空に目撃したが、UFO事件と結び付けられて嘲笑されるのではないかとの恐れからすぐには報告しなかったと語る多数の電話が個別に、リオ市警に寄せられたので、すぐにグラシンダの話は嘘ではないと確証がとれた。物体は、死亡推定時刻ごろに被害者たちの近くにいたようだった。ここから、探索者たちは一見無関係と思われるような現場の細部の状況に注意を向けるようになった。


 例えば、銅のマスクの問題である。犯人は、被害者の目を何らかの放射線から保護しようとでもしたのだろうか? 警察はミゲル・ホセ・ヴィアナの自宅の作業場からも同じようなマスクと、残りの部分の銅を発見した。さらに、「科学的な心霊主義」の本が発見されたが、魂(訳注:原文ではSpirits。チャールズ・ボーウェンによるこの事件の記事を訳した日本GAPの文章では、この部分について「付随アルコール類」の訳をあてている)や激しい光、そしてマスクについての記述の部分に下線が引かれていた。ミゲルの妹に聴取が行われた。妹は、ミゲルが「秘密の使命」を行うと漏らしていたことを明かした。


 同じく、マヌエル・ペレイラ・デ・クルスの妻にも聴取が行われた。彼女の証言は、二人の被害者が、知られざる目的を持つオカルト集団―“心霊主義者”のグループの一員であることを裏付けるものであった。そのグループは他の天体との接触を企てているという噂がささやかれていた。エルシオ・コレア・ダ・シルバという民間パイロットもそのグループのメンバーだった。


 エルシオは、アタフォナの海岸や、カンポスのマヌエルの家の庭などで、被害者らと“実験”を行ったことがあると警察に話した。エルシオと、ヴァルディという別の男は、その“実験”で巨大な爆発を目撃したという。それはニテロイでの悲劇の二か月前、1966年6月13日のことだった。空中の光り輝く物体が爆発し、目もくらむような閃光が起こった。地元の釣り人は、空飛ぶ円盤が海に落下するのを目撃したと証言した。爆発はすさまじく、カンポスでもその音が聴こえた。だが、被害者の家族たちの証言は、この仮説をくじくものだった。アタフォナとカンポスで使われた装置はパイプと針金で出来た、手製の爆弾にしか過ぎなかったというのだ。


 警察は被害者の背後関係についてより深く掘り下げはじめた。被害者はともにサンパウロのフィリップ・エレクトロニクスやその他の会社が組織した団体に所属していた。彼らは複雑な機械を購入していたが、科学的な実験を行うような知識があるとは思われなかった。彼らがマカエ地区のグリセーリオ(訳注:サンパウロの北西にも同じ地名があるが別物、マカエ地区はリオ市内)にラジオの海賊放送局を持っているとの申し立てもあった。また、彼らが超常現象に興味を持っているという証言者もいた。マヌエルは死の数日前に、彼が“信者”であろうとなかろうと、“最終テスト”に参加することになっている、と言っていたという。


 マヌエルの妻は、エルシオと夫との間に喧嘩があったのを目撃していたと証言した。警察は捜査の進行具合を示さねばならないという重圧の下、手近なところで、8月27日付でエルシオを逮捕した。しかしエルシオが事件当日にカンポスを離れていないことがすぐ立証され、彼は釈放された。


 この事件で好奇心をそそられるもう一つの要素として、死体の隣にあったノートの中の書き込みがあげられる。そこにはこう書かれていた―


 午後4時30分、指定の場所にて落ち合うこと。


 午後6時30分、カプセルを摂取せよ。効果が出てきたら、銅のマスクにて顔の半分を保護すること。前もって取り決めてある信号を待て。


 二人の男たちは、UFOとの接触を期待していたのか? それとも、より想像力には欠けるが、これは心霊主義者たちの失敗した実験の一部だったのか?


 さらにいっそう、事態を紛糾させる情報がもたらされた。ラウリーノ・デ・マトスという民間のガードマンから、「被害者たちが、はっきりとは見えなかったがほかの二人の男と連れ立って、ジープから降りて徒歩で丘を登っていくところを見た」との報告があったのだ。しかし、事態は行き詰ってしまう。
8月23日に、警察は、再び遺体を掘り起こして、検死するように依頼した。この異例なできごとは新聞によって世界中に報道されたが、三度目の分析も何も進展も生み出さなかった。


 二年後、再び事件についての話が出てきた。ブラジルのメディアが、警察は現在、外国人らしいブロンドの男を追っている、と報じた。この男は、ジープの後部座席に乗り、モロ・ド・ヴィンテム丘の近くでミゲルやマヌエルと話しているところを目撃されていた。また、サンパウロ原子力エネルギー研究所の放射化学の専門家が被害者の毛髪の中性子放射化分析を行ったという話もあった。四つの要素――ヒ素、水銀、バリウムタリウム――について測定が行われ、通常の値が検出された。


これに伴い、殺人事件の担当であるロメン・ジョゼ・ヴィエイラ警部は調査を終了し、法務局に書類送検した。銅のマスク事件の捜査第二段階("詳細な分析”期)はこれで終了した。第一段階の普通の捜査が失敗に終わったのと同様、第二段階の捜査も真相の究明に失敗したのである。


(次回に続く)



△参考画像:死体回収時の現場写真



△参考画像:現場で発見された「青銅のマスク」

青銅のマスク事件あるいはモロ・ド・ヴィンテム事件(1)



今回はまず、ジャック・ヴァレがこの事件について現地調査して執筆した『コンフロンテーション』のプロローグ部分(の拙訳)をご紹介します。


“Confrontations ―A Scientist’s Search for Alien Contact”
(Jacques Vallee, 1990, 2008)より

プロローグ

1980年の4月後半のある美しく晴れた日、気が付くと私はリオ・デ・ジャネイロの中心部と港の間にある険しい丘を登っていた。その丘はブラジルでも最もドラマティックなUFO事件の発生した場所だった。警官たちが決して説明できないような奇妙な状況で、二人の男が死体として発見された事件だ。彼らは空からの信号――UFOからの交信かもしれない――を待っている最中に死んだのだと、広く信じられていた。


 このような事件が本当のことだと実証できれば、私たちはUFOが実在することの証明に近づけるだろう。しかし、同時に、私たちのUFO現象についての考えは劇的に変化せざるを得ないであろう。UFO本を埋め尽くしてきた紳士的な訪問者、科学的な探検家、いたずら好きな異邦人は去り、光り輝く容貌と天使のごときヴィジョンの“新しき時代”がやってくるのだ。少なくとも、私たちの仮説を拡大する必要がある。より複雑で危険な像が浮かび上がってくるだろう。
 不幸にも、私がこの事件について知ることすべてが、怪しげなUFOの噂話や、悪名高き南米の信頼できないメディアからの又聞きだった。この出来事の正確な状況について知ろうとするならば、その方法はただ一つ、リオに飛び、その丘に登ってみるしかなかった。


 同行したのは私の妻ジャニーヌと、少人数での調査者グループだった。Saulo Soares de Souzaはリオ警察本部の刑事で、専門は未解決事件の長期追跡調査だ。Mario Diasは記者。Albert Dirmaは新聞社のカメラマン。地方在住のフランス語の教師は、私の通訳としても十分通用した。そして最後に、1966年8月の事件時に、死体を見つけた子供たちが駆け込んだ家の住人―大人で初めて死体を見た目撃者である。この人は丘のふもとの交番へ少年たちと同行し、当直の警察官Oscar Nunes巡査に、彼らの恐ろしい発見を説明した。


 丘は、リオのニテロイ郊外に位置し、モロ・ド・ヴィンテム(Morro do Vintem)と呼ばれている。名前の意味は、「ペニー硬貨の丘」だ。丘には、低木と長い刃のような葉の茂みが鬱蒼と生い茂っている。私たちが頂上へ続く曲がりくねった道を、岩から岩へと飛び移るようにして登って行くと、風景が変わった――ニテロイの通りの家やバンガロー、車といった眺めから、密集した掘っ建て小屋の群れと、走り回りたがる子供たちという、ブラジルのどこにでも見られる眺めに。頂上の付近はぽっかりとした空間が広がっており、草で覆われたここは恋人たちや密輸業者の出会いの場所、子供たちが小鳥を追いかける場所、そして奇妙な取引の行われた場所であった。


 私たちが話をした警官は、この地区の警邏担当者だった。これは注目すべきことだが、死体が見つかった夜、Nunes巡査は朝日が昇るまで捜査を順延することを決めたのだという。
 中腹からの眺めが混乱と困惑だとすれば、頂きからの景色は全く異なるものだ。リオやニテロイやこの丘、港全体を取り囲んだ大地や海―地球上で最も素晴らしい景色の一つが、何マイルも広がっている。しばしば低い雲や雨に覆われたり、大都市から立ち昇ってくる重工業のスモッグで損なわれたりするが、私たちが登ったその日のモロ・ド・ヴィンテムは、雲一つない晴天だった。心地よい日陰を作り出す高い茂みに区切られたその場所は、殺人現場というよりは観光のポスターにより似つかわしい風景だった。


ようやくたどり着いたその場所は、ほぼ地面がむき出しになっており、短い芝生の中に目の粗い土がのぞいている。幅広の葉の茂みが壁となって私たちを直射日光から守ってくれていた。Soares刑事が話し、フランス語教師が通訳を務めてくれた。


「ここが、彼らの死体が見つかった場所です」
「彼らはなぜこの場所で空を見れると思ったのか、私にはわからないな。どうして、彼らが何らかの信号を待っているなどと人々は考えたのだろう」
と私は言った。
質問はポルトガル語に訳され、Soares刑事と、背の低い、茶色の肌をした、14年前警官を死体のありかへ導いた男へと投げつけられた。
「14年前は、茂みはもっとずっと丈が短かった、と彼は言っています」
フランス語教師が私にそう言った。
「この場所から空が見えた、と」
「何が起こったのか、刑事に訊いてくれないか」
私はフランス語教師に頼んだ。
死体を最初に見つけた少年は、当時18歳で、自分の凧を探していたところだった。彼が見たとき、死体はこぎれいなスーツと真新しいレインコートを着て、あおむけに倒れていた。


 1966年のこの日の夜には、何の捜査も行われなかった。担当の巡査は、慎重に一切の努力を翌朝に順延することに決めたのだった。しかし夜が明けるとすぐに、警察官と消防士の一団が険しい小道を登り、現場に着くと、少年が嘘をついたのではないことを確かめた。ブラジル警察の歴史上、もっとも奇妙な捜査の一つが幕を開けた瞬間だった。捜査は三つの全く異なる段階を経ていくことになる。


 捜査の第一段階は、正攻法の、刑事たちの通常の仕事だった。


 刑事たちは、現場から一切の血痕や、争った痕跡を見つけることができなかった。二体の死体は穏やかに、隣り合って横たわっていた。刑事たちが次に発見したものは、粗いつくりの金属のマスクと、紙の伝票で包まれたノートであった。ノートには初歩の電気の公式がいくつか書かれていた。また、アルミめっきされた青と白の紙の破片や、化学物質に浸されたセロファンがいくつかと、AMSのイニシャルのあるハンカチが見つかった。
 死体の肌はピンク色で、被ばくの可能性を示していたが、腐敗が進んでいたため、この点については重要視されなかった。Astor de Melo検死官はすぐに死因は自然死(心停止)だと結論付け、ファイルを閉じた。検死官は、腸の検査報告では、毒物は検出されなかったとしている。二人の男の推定死亡時期は8月16日(火曜日)から20日(土曜日)の間とされた。


 犠牲者たちの身元はすぐに確認できた。彼らはともに電気技術者で、ミゲル・ホセ・ヴィアナ(34歳、妻と何人かの幼い子がいる)と、マヌエル・ペレイラ・デ・クルス(32歳、同じく既婚者)であった。彼らはカンポス在住で、地元ではよく知られている、信望のある市民だ。彼らはともにテレビのトランスミッターと中継器の修理に特化した技術者だった。ミゲルの死体は15万7千クルゼイロを所持していたが、マヌエルの死体は4千クルゼイロしか持っていなかった。


 刑事たちは、二人の男の8月17日(水曜日)の朝から、丘の上へと辿り着くまでの足取りをつかむことに成功した。彼らはカンポスを朝9時に出発しバスでニテロイに向かった。サンパウロで車と電気関係の品物を買うと、周囲には話していた。彼らは3百万クルゼイロ(当時のレートで千ドル相当)を持って行くとも言っていた。
 バスは午後二時にニテロイに着いた。当日の天候は雨だった。彼らは9400クルゼイロで同じレインコートを買った。続いてマルケス・デ・パラナ通りのバーで瓶入りのミネラルウォーターを購入し、受領証(訳注:瓶を返却するとその分返金してもらえるシステムで、そのためのもの)を受け取った。午後3時15分ごろ、彼らはモロ・ド・ヴィンテム丘に登り始め、生前の最後の目撃は午後5時ごろのことであった。


 自然死という、状況に対する不適切な死因の報告から、リオの治安担当者エドアルド・デ・セント・ファイル大佐は、警察の代表ジョゼ・ヴェナンシオ・ベッテンコートと電気技術者に面会し、調査の進展やノートの電気の公式についての説明を受けた。ファイル大佐は翌日検死官研究局のトレド・ピザ理事に連絡を取った。アルバート・フラウ博士に二度目の検死解剖を依頼するためであった。二度目の解剖では、内臓が摘出され、分析が行われた。また病理学者により死体に注射痕がないか確認が行われたが、二度目の検死では新たな収穫は何もなかった。


 これらの事実から当局は、いくつかの仮説を検討し始めた。強盗はこの犯罪の動機として成立するだろうか? ミゲルとマヌエルがカンポスを発つときに所持していた三百万クルゼイロの大半は、死体になって発見された時に消えていた。しかし強盗説では、彼らの死の状況と、争った痕跡がないことへの説明がつかない。


 彼ら二人はスパイだったのだろうか? モロ・ド・ヴィンテム丘は周囲すべてを見回すことのできる、戦略的な場所である。より現実的な話をするならば、この丘は彼らのようなテレビ修理業者が何か電子的な作業を行うにはもってこいの場所なのだ。ただし、ここでも一切の暴力の欠如から、諜報活動や不法行為の線は消える。


 この男たちは密輸業者ではないか? 当時のブラジルでは、通貨制限により外国製の電子機器を入手することは難しかった。だが、このシナリオと死亡の状況とはうまく一致しない。もしもこの事件がニテロイの港のような、他から隔離された国境線上の場所で起こり、彼らの死体の胃の中からナイフが見つかったりしたのならば、話は別だったのだが。殺人者は、なぜ現場に多くの謎めいた手がかりを残していったのだろうか。ノートやマスク、ハンカチのような手がかりを……


 「他の仮説を追ってみたりしたのですか?」
 私はSoares刑事に訊ねた。
 「我々の考えは、同性愛者が自殺の約束をした事件に違いない、というものでした」
 彼は答えた。
 「この丘は、近隣のゲイたちにとって、待ち合わせの場所としてよく知られています。しかしこの考えを裏付ける証拠は、生前の被害者たちの情報や、死んだときの状況からは一切見つかりませんでした。すべての捜査の線は、同じ煉瓦の壁に突き当たってしまったのです。暴力の痕跡が現場にないこと、毒物の反応が消化器官にみられないこと、死亡時の状況になんの手がかりもないこと……」


 これらの事実がブラジル中に知れ渡ると、ニテロイ地区の人々からの情報提供の電話が、洪水となって警察に寄せられ、捜査は第二段階へと突入した。


(次回に続く)

Confrontations: A Scientist's Search for Alien Contact

Confrontations: A Scientist's Search for Alien Contact

イーグルリヴァー事件(1)

 大変申し訳ありませんが、今回はtogetterで作成した「イーグルリヴァー事件に関するブルーブック調査報告まとめ」 http://togetter.com/li/489012 を読んでいただければと思います。



△ハイネック博士らによる結論は「白昼夢による幻覚」