しねしねいきろいきろ

 身近な人から「しねしね」と罵倒されつつも、なんとか生き残っております。ごぶさたしております。
 むしろ「生きろ生きろ」などと言われるような状況よりはまだましなのでしょうか。どっちも差し迫っているという点であまり変わらないのでしょうか。実際に「生きろ生きろ」と言われたことはないけど、「しねしね」言われ続けるのと気分的には似ているのかな?と、なんとなく想像いたします。

 始終「しねしね」言われるので心が荒みがちな毎日なのですが、それでも心安らぐ時間を見つけては、相変わらず手慰みに電気の絵を描いたり、人様の絵を見物したりしております。
 どうやって始まって、どうやって終わっているのか分らないような絵はすごいなあと感じ入ります。自分が学生の頃もそういうことを考えて描いていた記憶があるのですが(これという成果をあげることなく、それも断念いたしましたが)、今こうしてまた人様の絵をいろいろ観ていて改めて考えさせられるのです。
 始まりと終わりが分らない絵。筆(マウス)をとって始まり、筆を置いたら終わる、とかそういうことではなく、もっと意思とか心境の部分で、どうやって絵が始まって(描くきっかけ)、終わるのか?(これで完成と決める)ということです。たとえば子供の絵などに顕著な、瑞々しさ、実際に描かれているもの以上の期待感や予兆予感のようなもの。絵を描く方法というか、絵のようなものに見える描き方だとかを知らないからこそ、始まり方も終わり方もないのでしょうか。 始まりと終わりがなければそれは絵なのか?なんなのか?とも思いますが、意思を持って描かれた図像なのだから絵と呼ぶしかない気もいたします。
 分別ある大人でもそういうのを狙ってるような絵があって、そういうのも観ていて「うまいなあ(どうやって始まって終わってんのか分らねー)」だとか見ごたえを感じたりします。「自然な歪みは美しい、作為の歪みは嫌味だ」などという陶芸かなんかの言葉を聴いた記憶がありますが、(陶芸の歪みと絵の始まりと終わりは別に関係ありませんが)やはりどちらも、狙ってやってみるのは嫌味と紙一重でおっかねえとも感じております。



 その他、いろいろ備忘。 
 黙ってるとなんか息苦しい(生苦しい)のでなんか吐き出したい。自分の場合はそれが文字でも絵でも、別になんでもいいんだと思う。 →吐き出したものを観てもらいたい(pixivだと自分が妥当だと思うより多くの人に観てもらえる。手ごたえがあると吐き出した感も増幅するのか?)。 →観てもらいたいけどなんか恥ずかしい。 →自分が絵(のようなもの)を描いてるときに、良くしようとか面白くしようと考えたり工夫したりあれこれ弄くってるけど、それらはほんとうは全部「照れ隠し」が目的のように思えてきた。 絵をかく方法や工夫→照れ隠し。そもそも絵を描くこと自体が照れ隠し?
 この前の連休に実家に帰省中、落書きした絵(のようなもの)に手を加えて投稿するとき、裸にパンツを履かせているような気分になった。手で描いた落書きが裸で、デジタルでいじるのがパンツ。だけどそこからあれこれ考えていくと、今度はデジタルの加工(その方法や工夫)の方が裸で、自分の落書きの方がパンツなような気もしてきた。絵(のようなもの)を人様に観てもらっているけど、なにを観てほしくて、なにを隠そうとしているのか分らない。隠そうとしているあり様を観てもらっているのか。そうだとしたら自分ながら気持ち悪い。だけどそんな気もする。