ほとぼりがさめるまで


 年末。帽子を脱ぎ捨て田舎に帰ってきた。そのまま寒風吹きすさぶひとけのない河川敷にむかい、先の不安のことばかり考えながら歩いた。はたから見たら藪をかきわけけもの道を歩いたり、飛び石を渡ろうとして川に落ちそうになったり、澱みに舫だ朽ちた屋形船やら、腫れぼったい地平線上に浮かぶきれいな雲を眺めてみたり、終始無口で不審な大冒険野郎だったと思う。遠くの土手に座って独り本を読む人がいて、無言さんてたぶんああいう感じの人なんだろうなあなどと思ったりした。


 実家にいる間は人様の日記やらつぶやきやらとは隔絶していた。いつもと変わらぬ勝手で考えてタイプしてツイートボタンを押すところまで行くんだけど、実家のウィンドウズの薄汚いフォントのせいで寸前で躊躇する。あれ?こういう感じでいいんだけ?と。まあワタスみたいなもんのつぶやきにイイもクソもないんだけども。で、それらを律儀にメモしてたりして、また下宿に戻ってから見返して、ぜんぜん「ナウ」でもなんでもないんだけど一応つぶやいてみたりして、やっぱりイイもクソもないんだけども、そういう感じだった。
 年末年始の挨拶みたいなのがアレというか、アタスの気持ち的には大声で挨拶したいんだけどツイッターに向かうスタンスとそういう挨拶的なことの兼ね合いが個人的にどうにもアレなので、ほとぼりがさめるまでアレしていた。「ほとぼり」って何だろうなとしばしアレした末に負けた気分でググってみると古くは「火通り(ほとおり)」で「熱」やら「余熱」とのこと。「余熱が冷める」ことが「ほとぼりがさめる」なのだそうだ。そう言われるとほとぼりが冷めるのを待つのは得意というか、慣れっこな気がしてきた。ほとぼりをさます体質。


 そんで無言さんの日記が爆発的に投稿されていて、それを読むなど。とくに思い出話みたいなやつが面白くて*1、無言さん自体が面白いから思い出もとうぜん面白いのか、無言さんが書くから何でも面白いのか、謎に包まれている人だからそういう話が面白く読めてしまうのか、分からないけれども面白いなーワタスはもうこういうのが読めたら本屋とかなくてぜんぜんいいやーという気分を噛みしめながら読むなど。
 そういえば年末に古墳や埴輪っぽい話の作文があって*2、その時に消ゴムや埴輪が好きな然るおぜうさんのことを思い出してつぶやいたけれど、なんかそれがすごくいやらしかったので削除してしまったのだけれど、万が一ここを読まれていたらおすすめいたしたい気持ちです。そういうことをラヴレターのようにあそこではつぶやこうと決めたのに、なんともままならないのがアレだしもう少しアレしたい。話は変わるが年末に録音したラジオなどもまだ聴けていない。


 やはり尊敬する人やら好きな人を具体的に思い描いてその人に語りかけるように書いてみると、なんつうかまっすぐに書けるというか、自分もこういうこと書けるのかー新鮮!みたいな気分があって、よろしいなあ続けてみんべと思ってみたりします。
 あとツイッターのほうで書くべきなんだけど、それだとどうしてもいやらしくなってしまったりイイ書き方が分からないので、こっちでこそこそ書きますが(やっぱ、どっちに転んでもいやらしい)、たまにピクシブ関連でフォローしてくれてると思しきお方がおりますが、その方々の絵がいちいち素敵つうかよろしい感じなので、それがなんだかとても嬉しいです。よろしくない感じの方に興味を持っていただくのも正直嬉しいですが、やはりよろしい感じのを描く方にアレしていただくのは嬉しいうえに、ついてるなー!と思ってしまいます。こんな意味の分からない作文コーナーは読まれてないと思いますが、ワタスの気分がスッキリしますので書きます。どうもありがとうございます。

 それから思い出したけれど、年末にやんご先生が会社の忘年会のビンゴ大会の賞品を買いに行くという実況ラジオつうか(ツイキャス?という名前のハイカラ加減からして、アタスみたいなもんにはいかにもアレな)紙芝居みたいな絵が出てきたり声が出て、妖術だべタマゲタこらぁという感じの神通力ショーをやっていて(たしか某タさんもどっかの飲食店で料理が出てくるのを待つあいだに配信みたいなことをやっていて観た覚えがあるんだけれど、たしか夕飯だったと思うけど、いかにも「朝飯前」という心構えがナウい感じだった。)、そのときのやんご先生も池袋の街で激しく移動をくり返しながらハァハァ言っていたのでジョギングじゃなくても歩きながら喋るとハァハァするもんなのだな、それを聴いて勝手にモヤモヤするもんじゃねえなと勝手に反省したなど。


 夢にキリンジのことが出てきて(それの半分は実体験なのだけれど)*3、次の晩寝ながら整理してみると。「キリンジみたいなのいいね!」という人格Aと「なにがお前に分かる、お前が本当に聴きたいのはそういうのか?」という人格Bが喧嘩するのでなかなか落ち着いて聴けない、というような暫定的なアレに達した。ものを買う時にはわりとAの言いなりになることが多い、でも実際に家に帰って棚に収めるとAはどこかに消えて、今度はBの言いなりになって聴くものを選んでいたりする。Bが選ぶやつはたとえば「斉藤清六のギンギラギンにさり気なく」的なものが多いし、昨日はスカイキッドといういにしえのファミコンソフトのBGMが延々脳内再生されていたけれど、そういうのもBの仕業な気がしている。備忘用。