ふとんに入り眠りに落ちるまで、佐藤さんのことを考えていた。あのころ、自分はなにを好きになって、なにを欲しかったんだろう。
 なにか「ちょうどよいもの」という好きになり方があるだろうか。いったい、どういうふうにちょうどよいのかは分からないけれど、きゅうにそんなことが頭に浮かんで貼りついて離れなくなった。
 自分の気持ちにしっくりくるということ? (黴臭い棚から抜いて小銭と引き換えに持ち帰る)ものとして(消費物と芸術、有形と無形の間で)ちょうどいいということ? 理想とそうでないものの間で、ちょうどよいところにあるということ?
 「ちょうどよいもの」という語感が、さも自分がなにか分かっているみたいな上から目線な感じがして嫌だけれど、他によい言葉が思いつかないし、急に思いついて勝手に頭に貼付いたその「ちょうどよい」を吟味したり引き離してどこかに放り出そうとわさわさするうち、意識がとぎれた。

 つぎの夜はつめたい雨だった。駅前の新装開店のくせに得体の知れない場末感をかもしだす食堂でどんぶり二杯のご飯を食べた。店を出ると傘立てにさしておいたコンビニ傘が微妙に違うコンビニ傘になっていた。それは新品のがっしりとしたヤツだったけど、みょうに重くて手がだるくなるので、なるほどと思った。商店で雑貨を買った袋を置き、雨を観ながら空き地で一服していると猫がきて袋の前に座った。
 よふけ。もうずっと聴取用ソフトも立ててなかったのだけれど、偶然やんご先生の放送にあたった。海外サッカーの映像配信をいくつか平行してハシゴ視聴しつつ、昨夜佐藤さんのことを考えつつ聴いていた曲をPCに取り込めないかとあれこれ(録音編集用ソフト探しから)しつつ、やんご先生の久しぶりの声を聴いた。それは昔と変わらない感じに聴こえた。いくつかの試合のサッカー場の歓声と、知らないおっさんのドイツ語実況、そして佐藤さん編曲のポップスの向こうで、「へび年の年賀状を描くのがたいへん」ということを仰っていた。
 その雰囲気を再現してみた。生で録音していなかったので、PCにデータが残っていた過去の録音を使ってみたのだけれど、そちらでは「辰年の年賀状を描くのがたいへん」ということを仰っていた。さすがはやんご先生だなと思った。