このもやもやを

同僚の子が、さっさと今の会社に見切りをつけて辞めることが分かってからというもの、今の仕事を信じてがんばっていることが正しいのか、考えがグラグラして止まらない。
もっと将来性のある仕事をした方がいいのか。しかし仕事内容としては、今の仕事にやりがいや興味深さも感じている。
もっとも、転職したばかりで、またあの労力をかけて転職をするというのが、しんどすぎてとても今は考えられない。

決定打は、昨日のおにぎりとの会話。私が公務員になろうかという話をしたら、思いのほか乗り気で、私が安定した、キャリアアップものぞめるような仕事に就いたら安心だと言う。さらには、私が公務員試験のために勉強するなら、家事を手伝うと言ってきた。なんだその条件は。それっておかしくないか?と、だんだん腹が立ってきた。
自分が家計の主軸になって、家族を養おうという気概はないのか。そんな根性のないやつと結婚を考えて大丈夫なのか。せめて気持ちだけでもいいから、強い意志をもっていてもらわないと困る。
結婚したら、私はどういう風に生きてきたいのか。今まで積み上げてきたものもないのに、子育てしながら仕事をしてさらにキャリアアップしていくなんて、到底無理だ。子育てしながらだと、パートや派遣で仕事するのが精一杯だろう。

男の収入に頼ろうとする自分も良くない。自分で自分の面倒を見られるように、生きていかないといけない。
やっぱり私は今のままではダメなんだろうか。何をやってもダメなような気がしてくる。一生懸命考えて、親のアドバイスにも従って、転職してみて、それなりに苦労して今の仕事を覚えたけど結局そこにも安定した将来が見つからなくて、揺らいでいる。
一人で死ぬまでちゃんと生きていけるような仕事に就く、というのがとにかく最優先の課題なんだろうか。

頭の中がぐるぐるしすぎて、自分の中でも考えがまとまらないから、誰かに話すことも出来ない。
息がつまる。ずっとくるしい。
家族にも話せない。家族の中ではひとり落ちこぼれな私。

将来について考えるってどうしてこうも憂鬱なんだろう。
ただ目の前のことをコツコツやっていけたらいいのに、何も考えずにそうやっていたら、時間だけが過ぎていって取り返しのつかないことになりそうだ。実際のところ、目の前の仕事をさばくだけで精一杯なんですけどね。

じいちゃんが死んだ。

10月25日、金光のじいちゃんが亡くなった。あまりにも急なことだった。
10月頭に軽い脳梗塞で入院してから会いに行けていなかったので、やっと日程を決めて会いに行ったら、翌日の朝亡くなった。
じいちゃんが入院した時点でかなりショックは大きかった。じいちゃんといえば、金光に帰れば「ま〜いちゃん、よう帰ってきたね」と迎えてくれて、帰るときはいつも名残惜しそうにしてくれた。私がずっと一人暮らしで働いていることも、まいはひとりでようがんばっとる、とばあちゃんに話していて、応援してくれていたみたいだ。
私のこと大事に思ってくれて、かわいがってくれて、受け止めてくれる人が一人いなくなったのだと思ったらものすごく悲しい。こんな自分中心の考えで申し訳ないが、真っ先に頭に浮かんだのはそのことだった。

通夜、葬式と、悲しむ間もなく忙しく、親戚への気遣いで神経がすり減らされた。
私がお見舞いに行った日、じいちゃんははっきりと目を開けて、こちらの話すことにも反応していて、入院して以来初めてぐらいの勢いで、意識がしっかりとしていた。私に会うまで待ってくれていたのかもしれない。
じいちゃんの妹が、「ろうそくは消える前に一瞬ものすごい勢いで燃える。それと同じで、死ぬ直前のじいちゃんは生命力が強くなっていたんじゃないかな。」というような話をしていて、まさにそのとおりだと思った。

亡くなったじいちゃんの遺体を見たり、じいちゃんが亡くなったことに対する周りの反応を見て、こうやって人は亡くなっていくんだなということに直面して、死ぬということや人生のゴールについてしみじみと考えてしまった。じいちゃんは死ぬときに、どんなふうに今までの人生を振り返ったんだろう。振り返って、何を思ったんだろうか。悔いはないと思えたのか、生きてきてよかったと思ったのか、じいちゃんの人生を間近で見てきた訳ではないので分からない。

そして自分の人生のゴールについても考えた。ああやって人生の幕を閉じていくなら、今閉じるのと何のちがいがあるのだろうか。しばらく「死」の近くにいすぎたせいか、人生の終わりを見てしまったせいか、なんだか毎日が灰色になってしまった。灰色の毎日。やることなすことすべてに色がなく、意味も感じられない。何かをしたいという、わくわくするような意欲もない。何かに感動できる心の隙間もない。日常に追い立てられて、息をつく間もなく必死で仕事をして、毎日が過ぎていく。
心に潤いを与える余裕もなく、毎日をやりすごすだけで精一杯だ。

とにかく、この心の状態については何か記録を残して整理しておきたかったので、書いておく。

6月10日

はああ、このふわふわした気持ち、どうしてくれよう。
書いた端から消えてっちゃうような気がして、こうやって文字にするのももったいないほど。
後から読み返したときにおもしろいから書くんだけどね。
今週の始め頃からしたらかなり落ち着いた。
好きな占いたちには、「ギャップが足りない!最初からサービス精神で素を出しすぎたらあかーん!!」とここ数週間ことごとく書いてあるので、少し考えてみるも、わたしの素って一体…???と考えれば考えるほど、どつぼにはまってよけいに分からなく分からなくなりました。。
その上お酒を飲んだりしてると、素とか考える余裕が全くないので、わけも分からず時間が過ぎる上に、あとから思い出そうとするも記憶はおぼろげ…そもそも意識もうろうとするぐらい飲んでる時点でアウトなんだわきっと。
しかし素の私ってなんだろう。人見知りで、遠慮がちで、思ったことを言えず、常に劣等感高めなので基本的に卑屈っぽい。なんと暗いやつでしょう、、、それらをちょっとオブラートに包んだ態度に変えるとしたら、初対面の人にも心を閉ざさずきちんと受け答えし、相手がどんなことを考えてるか、良からぬ方向に想像だけを膨らませないで、私の意見を言うこと、とかか?ポイントはやはり、劣等感を持ちすぎないことかなあ。
それと、これはママ情報ですが、「普通っぽくふるまうこと」。これが私には大切なんだって。変わって見えるけど案外普通なんだね、と思われるかもしくは、変わったキャラを隠すために普通っぽい見た目にするか。以前なら頭ごなしに却下!!といくところだけれど、ママの言うことも最近は受け入れられるようになりました(ずいぶん時間がかかりましたが…)
いい意味でも悪い意味でも、普通っぽさに安心感を覚えるというのは事実なのです。それは私が受け手側でも一緒のこと。私みたいに中途半端に、「変わってることへの憧れ」を抱いてしまう場合は、うまーくバランスをとるしかない。やっとこさ、そんなふうに考えられるようになりました。普通っぽさの中にも、たまに個性をキラッとさせることができて、なおかつそれを魅力として輝いて見せられるようになったら、最強だと思う。
そのバランスをつかむために、今はいろーんなことを試して、失敗してもいい時期なんだろうな。
すてきだなーと思うことを、自分バージョンで活かせるようになりたい。

6月3日

第3回にゅるり。会開催。大好きな先輩方ふたりと。このふたりがいなかったら私の会社人生はどんなにつまらないでしょう!!
久しぶりの飲み会だったので、お酒がだんだんまわってクラクラしてくるのが分かっておもしろかった。後半は何を話してたかあんまり覚えてない…2軒目では先輩方がダーツしている間、カウンターでずっとおしゃべりする。店員さんはすごくしっかりした若者でした。しかし真ん中っ子、、
その後ボンドにふらっと寄って、店長さんとしゃべり、おじさんたちにモテて、上司のお付き合いに疲れた若いサラリーマンとしゃべって、楽しく帰った。隣に座っていたおじさん、損保をメインに扱っている、メットライフ生命(…だったと思う。ライフネット生命かも??)の営業マンだった。ライバルですね!と言ったら、他社に対してあんまりライバル視することないんだよね、もっと情報提供し合って協力するほうがいいと思うんだよ〜と急にまじめな顔で話してた。もうひとりのおじちゃんは謎のお金持ちだし、ゆかいなお客さんたちだったなあ。

文化の匂いぷんぷん

斉藤薫さんのコラムによると、おひとりさまが様になるのは、会話以外に自己表現の方法を持っている人らしい。それを読んで、「かかなきゃ!絵でも文でも!!」と急に思い立ちました。たとえそれが暇がゆえの行動であってもいいじゃない。絵と文のどちらが得意なのかはよくわからないので、とりあえず取りかかりやすい文から書いてみた。絵やアートはやっぱり見る方が好きかもしれない。絵に関しては、ああもうここがまさにツボです!というタッチの絵にたまに出会うんだけど、そういうのをみて、心臓がぎゅーんとなって、かわいいなあ、いいなあといつまでも眺めていたり、好きすぎて衝動的にマネして自分で描いてみたりするぐらいの距離感がちょうどいい。
文は、確実にストレス発散。考えていることで頭がゆだっているときに、ばーっと吐き出して文章にしてみると、頭の中がとてもすっきりする。あとで読み返してみた時もかなりおもしろい。
…ふふ、ここのところばななさんの日記をずっとだらだらと読んでいるので、自分の書く文章が完全にばななさん調で、影響を受けまくっている。

ここのところはいったい何に考えがゆだっているのでしょうか…?きっと、思っているように上手くいかなかったり、やりたいことを金銭的な理由で我慢したりして、自分の世界に閉じこもってばかりいるからでしょう。毎晩そうめんを食べるのも飽きてきた。パスタソースをかけて味を変えたらすっごくおいしかったので、しばらくはいろんな種類を試してみようと思う。
黙って、だれともしゃべらず、毎日同じようなものを食べて、同じような空虚な時間の過ごし方をして、四角い部屋でじっとしているなんて、精神衛生上よくないに決まってる。よく晴れて天気がいいのだけがせめてもの救い。しかしこれって軽い引きこもり生活なんじゃ…ひいい。営業職が引きこもりなんてだめですね。来週になったら締め切りに追われてものすごくひいひい言ってるんだろうなあ。おそろしや、、

そういえばこないだふいに両親のことを考えていて、普通は大学卒業したら就職して社会人になって、ボーナスで親孝行したりするのに、私はほんとにいつまでもすねかじってばっかりで、じいちゃんばあちゃんにも甘えっぱなしだし、本当にだめだめだと思って泣けてきた。こんなこと言ってる暇があるならばりばり仕事しな¥さいよ、と思われるでしょう、、その通りなんですがね、、
とにかく今はまだ両親ともに元気だし、あまり心配させないためにも、ねばり強く仕事を続けよう。両親曰く、私は根性だけはあるらしいので。そして、いざという時に選択を間違えて後悔だけはしないように、家族を大事に思う気持ちを忘れないように。
考えてみれば、母方のおばあちゃんは母が34歳ぐらいのときに亡くなったので、今の私に置き換えると、私が母と一緒にいられるのはあと10年もないという計算になる。そんなこと乗り越えられる気がしない。想像しただけでも涙がでてくる。特に母には、いつか旅行に連れて行ってあげたいとか、きれいなものをたくさん見せてあげたいとか、恩返ししたいことが山ほどあるので、ぜったいに長生きしてほしいのです。
母だけでなく、私は家族にたくさん迷惑をかけて育ってきたこどもなので、こつこつとみんなに恩返ししていこうと思う。
先週末実家に帰り、惜しみなく助けてくれる両親を見てたらそんなことをつらつら考えました。

あーあ

ちょっとうまくいかないとすぐに心折れそう。
ふられたり、断られたり、つらい。
こんなこと書いている時点で、弱いなあ。
うまくいかなくてもじっと耐えないと。そういうシーズンもあるから仕方ない。

クレーム処理の話

昨日は年上の人と話していて、久しぶりに納得というか、なるほどなあと思えることがあった。
話題はクレーム処理について。にじみ出る人の良さが原因なのか、断れないお人好し具合がいけないのか、以前働いていた会社で、お客さんに謝りに行く仕事を全て押し付けられていたらしい。なんで押し付けられていたかって、本人の気弱さ以上に、彼以外の人は、怒っているお客さんの話をきちんと聞いた上で、お客さんが何に対して怒っているのかを明確にしてあげて、そこに対して謝ることが他の人にはできなかったからだそうだ。直接自分が悪くなくても、理不尽な状況でも謝る忍耐も必要だし、ただ謝るだけではお客さんも納得できないから怒りが収まらないし、これって実はすごく頭のいい人にしか出来ないことなんだなと思った。誰しもがやりたがらない仕事だし、そればっかりしてたらほんとうに胃に穴が開いてしまいそうだけど、ただやみくもに謝ればいいものではないということが意外な事実だった。
考えてみれば、人の相談を聞いたりするのも同じようなことなんだろう。その人の引っかかっているポイントを探り出して、つかんであげるのが一番必要なことであり、いちばんむずかしい。こういうことってほんとに神経すり減らすし、ものすごい精力がいると思う。
なんだか普段はプライベートだとぼーっとしていて、なんにも考えてないように見えるのに、仕事の話をこんなに真剣に聞いたのは初めてで、仕事となるとやっぱりしっかりしてるんだなあ。


そして今日はしみじみと魚座の人の説明書を読み返したり、ばななさんの小説を読んだりして、今いろいろと感覚的にやってしまうことはもうしょうがないんだなと改めて思った。でも少しずつ嫌なとこが見えてきたり、昔話を聞いて心が痛んだりし始めたので、今は少し冷静になりつつある。もっと他のことで頭がいっぱいになればいいのになあ。最近はこのことを考えすぎて、パンクしそうです。