横浜


待ちに待ったパイレーツオブカリビアン2を観にいった。
エンディングでは音楽がカットイン、相変わらず潔い終わりで気持ちいい。

みなとみらいのワールドポーターズを出ると
夜の帳が降りようとしていた。
雲のせいで空は白み、光でなく色で塗られた微妙な明るさがあった。
暗くはない、明るくもない。
曇りは光と闇のシェルターである。

ランドマークタワーの展望台から見える夜景が「ヤバイ」らしい。
大桟橋からのも「ヤバイ」らしい。
とりあえず今日は前者を選んで、目的地まで歩みを進める。


夜の一歩は大きい。

闇に足を吸い込まれないよう脚を漕げば、ここは深海に浮かぶ舟。
まず自分の体ではないような感覚にとらわれ、
次第に浮力=軽いという感覚そのものがどこかへ滑っていく。

何故だろうね? 影の世界は想像力の世界だからだよ。



ランドマークタワーの展望台から見える夜景は、星でできたカーペットだった。
ここでもまた、不思議な感覚にとらわれる。
自分は巨人になって、街をズブッ、ズブッ、と歩いていく。
あっと言う間に視界の及ばない所へ行ってしまうんだ。
ここまで眺めの良い場所でも、
水平線の向こうへ行きたい、行きたい、行きたい。

これは冒険欲というより支配欲。
未開の土地ではなく知っている土地でさえも。

知るという言葉の原義は、自分の力が及ぶことらしいが、
ワタシ達には、それに適わない「知っている」モノがあまりに多い。
その焦燥感が、S的な衝動を起こすものと私は考える。
力不足。苛立ち。破壊的衝動。サディズム
あながち間違いでもなさそうだ。

壮大な妄想をしているとき
時間は驚くほどゆっくり進む。


桜木町から見える景色は、
新宿のそれとは違う趣がある。
ビルはそう多くなく、過と疎、遊と勤のバラエティーに富んでいるのだ。日本大通り、赤レンガ倉庫、etc.、都会的なビルディングと異国情緒溢れるカフェが共存している、そんな感じだ。

横浜スタジアムは煌々と光を放ち、満席の観客は蠢き轟く。
コスモランドの観覧車はその乗客と同様に見る者を魅了する。
鎌倉方面へはまばらな銀河が続いている。




翌朝。午前5時40分。
スピードを以て朝の景色を切り裂いていく

友達の自転車に二人乗りし、私は、湘南の町に居た。

クィィィィ クィィィィ

歩調のリズムで奏でるペダルの音は、
静けさを打ち消す音としてはちょっと間抜けだ。

でも身体を侵食していく「白さ」を紛らわすには丁度良いのかもしれない。
朝は白い。
夜型の私にとって、正しすぎて、まぶしすぎて、貴重すぎるんだ。

今日という物語を描き始めた、白紙の上に、誰よりも早く。


何故か、
何かが終結に向かうような気もした。

今を生きている今。
今しかない、というこの瞬間は、始めでも終わりでもないんだ。

現在は
未来の始めであると同時に、
過去の終わりである。

過去は、昨日の夜景は、もう最新の記憶でなく。
今と言う何でもないものに上書きされていく。
それによって今が過去の支配権を握る。

未来は、今日起こることは、もう遠い未来の話でもなく。
今と言う何もしないものが上積みされていく。
それによって今が未来の土台になる。


過去にも未来にも  楽しいと思えることに保障はない。
過去にも未来にも  今「出来ること」に保障はない。

だからチャンスを掴め、なんて陳腐なことを言っているのではない。


景色を抱きしめて。
終わりと始まりの神秘は誰にもわからない

いつ人が死ぬのか 生きるのか

いつ人を好きになるのか 好きじゃなくなるのか

誰にもわからないから。

state(状態)でも、action(行動)でもなく、
考えて。感じて。「見えないもの」を。

終わりゆく時間と空間を。
始まっていく時間と空間を。

気持ちを煽り立ててでも抱きしめよう。
「今」を探しにいこう。

終わりゆく時間と空間を。
始まっていく時間と空間を。